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私の婚約は、恋の邪魔にならないそうです  作者: 九葉(くずは)


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4/10

第四話 戻ってほしい理由

「婚約解消を撤回するつもりはありません」


 私は迷わず答えた。


 応接間に通されたルーカスは、まだ外套さえ脱いでいなかった。


 三日前までなら、疲れた顔をしている彼を見れば、温かいお茶と食事を用意させただろう。侯爵家からフェルド伯爵邸まで、馬車を急がせても一時間はかかる。


 けれど今は、私が気遣うべき客ではない。


 父が私とルーカスの間に立っている。


「話す必要がないなら、お帰りいただこう」


 低い声で告げる父に、私は首を振った。


「五分だけ、お話しします」


 ここで追い返しても、ルーカスは理由を変えてまた来るだろう。


 それなら今、彼が何を求めているのか確かめておきたかった。


「座ってください、ルーカス」


 以前のように愛称では呼ばなかった。


 彼はそれに気づいたらしく、唇を引き結んだ。


「父上は、君の書状を読んだあと、僕を執務室へ呼び出した」


 向かいの長椅子へ座るなり、ルーカスは話し始めた。


「君から返された箱も、すべて確認された。領地の契約、王都邸の支出、夜会の招待客――どうして息子の僕ではなく、婚約者の君がこれほど把握しているのかと聞かれた」

「何とお答えになったのですか」

「君が、将来の侯爵夫人として学びたいと言ったからだと」


 その言葉に、思わず瞬きをした。


「私が望んで、すべて引き受けたと?」

「違うのか? 君はいつも、自分から必要なものを調べていた」

「最初に頼まれたのは、侯爵夫人からです。療養中だけ、届いた手紙を急ぎのものとそうでないものに分けてほしいと」


 それが最初だった。


 次は、期限が近いものに印をつけてほしいと言われた。


 ルーカスが忙しそうだから、判断に必要な資料も添えるようになった。返事を書き忘れていれば知らせ、彼が決めたことは使用人へ伝えた。


 一つずつは、たいした仕事ではない。


 ただし、誰かが毎日続けなければ、何一つ終わらない仕事だった。


「それを、君は嫌だと言わなかった」

「あなたと暮らす家のことだと思っていましたから」


 ルーカスが黙った。


「誰かに命じられたからではありません。あなたを支えたかったから、していたのです」

「だったら、これからも――」

「もう、あなたと暮らす家ではありません」


 彼の言葉を遮った。


「婚約が終われば、私が続ける理由も終わります」


「だから婚約を戻そうと言っているんだ」


 ルーカスは身を乗り出した。


「父上は、今の僕には侯爵家を任せられないとおっしゃった。領地の状況も、自分の屋敷で何が行われているかも分かっていない人間に、家督は譲れないと」


 そこで初めて、彼がこれほど焦っている理由が分かった。


 父侯爵に叱責されたからではない。


 婚約がなくなれば、自分が侯爵になるまで遠のくからだ。


「お父上がおっしゃったことは、もっともだと思います」

「君まで父上と同じことを言うのか」

「侯爵家を継ぐのは、私ではなくあなたです」

「だが、夫婦なら得意なほうが補えばいい。僕は対外的な仕事をする。君は今までどおり、家の中を整える。それでうまくいっていた」


 うまくいっていた。


 私が何を欲しいか尋ねず、何をしているか知ろうともせず、すべてが滞りなく進んでいたから。


 ルーカスにとっては、本当にそうだったのだろう。


「ミレーヌ様との関係は、終わらせるのですか」


 尋ねると、彼は明らかにためらった。


「今は、その話をしているんじゃない」

「私には同じ話です」

「ミレーヌは関係ない。これは僕と君、そして両家の問題だ」

「では、彼女を愛し続けたまま、私に戻ってほしいのですね」

「それの何がいけないのかは、もう説明しただろう。君との婚約は、僕たちの恋を邪魔しない。僕たちの恋も、君が侯爵夫人になることを邪魔しない」


 何も変わっていない。


 彼が失いたくないものに、侯爵家の仕事と家督が増えただけだ。


「ミレーヌ様へ、侯爵家の仕事をお願いしてはいかがですか」

「彼女には無理だ」


 あまりに即答だった。


「昨日、少し手伝ってほしいと頼んだ。だが、難しい書類を見て具合を悪くしてしまったんだ。婚約を失ったばかりの彼女に、これ以上負担をかけられない」


「そうですか」


 私はミレーヌを責める気にはなれなかった。


 彼女は最初から、侯爵夫人になるつもりも、仕事を引き受けるつもりもないと言っていた。


 それを承知で恋人に選んだのはルーカスだ。


「ならば、あなたがなさればよろしいでしょう」

「簡単に言うな。今まで君が管理していたものを、急にすべて渡されても分かるはずがない」

「引き継ぎ書をお読みになりましたか」


 ルーカスの視線が、わずかに逸れた。


「量が多すぎる。まず君と話すほうが先だと思った」


 返却してから三日。


 彼は、三頁目さえ読んでいないらしい。


「来週の夜会だけでも手伝ってくれ」


 ルーカスは声を落とした。


「あれは母上が療養を始めてから、初めて主催する大きな夜会だ。失敗すれば、母上の体調だけでなく、侯爵家の内情まで疑われる。君だって、そんなことは望まないだろう」


「望んではいません」

「なら――」

「ですが、私が防ぐべき失敗でもありません」


 扉が慌ただしく叩かれたのは、そのときだった。


 我が家の執事が、申し訳なさそうに顔を出す。


「お話し中、失礼いたします。ヴァレル侯爵家から、ルーカス様を追って使者がお見えです。至急お耳に入れたいことがあると」


 父が入室を許すと、侯爵家の若い使用人が青ざめた顔で入ってきた。


「ルーカス様。料理長からの伝言でございます。予定していた食材の確保ができなくなりました」

「どういうことだ」

「招待客の最終人数をご指定いただけなかったため、昨日、商会の予約期限が切れました。肉と果物は、別のお屋敷へ回されたそうです」


 ルーカスが私を見る。


「エレナ。どうすればいい」

「引き継ぎ書の三頁に、未返答の招待客と、返答期限を記載しました」

「期限が過ぎたあとのことだ」

「四頁に、第一候補の商会と契約できなかった場合の代替案があります」


 使者が、さらに困った顔をした。


「そちらの二商会にも、今朝問い合わせました。しかし、どちらも同じ日に別の夜会があり、百人分を超える注文には応じられないと」


 それは私が引き継ぎ書に記した期限を過ぎたのだから、当然だった。


「なぜ、もっと早く言わなかった」


 ルーカスの声が荒くなる。


 使者が肩を震わせた。


「皆、ルーカス様がエレナ様をお連れ戻しになるので、その後に決めると伺っておりました」


 ルーカス自身が、決定を止めていたのだ。


「エレナ、今からでも商会へ手紙を書いてくれ。君から頼めば、何とかなるかもしれない」

「私が頼めば、ではありません。以前応じていただけたのは、期限を守り、相手にも無理のない条件を示していたからです」

「では、その条件を考えてくれ」

「お断りします」


「君は侯爵家が失敗してもいいと言うのか?」


「いいえ。侯爵家の責任者が、責任を果たすべきだと申し上げています」


 ルーカスは立ち上がった。


「君はこんなに冷たい女性ではなかった」

「婚約者であった私の好意を、婚約を終わらせたあなたがまだ受け取れると思わないでください」


 返事はなかった。


 父が扉を示すと、ルーカスは使者を伴って応接間を出ていく。


 けれど廊下へ出る直前、彼は使者へ言い放った。


「夜会は予定どおり開く。百二十六人全員を招待したままだ。食材がなければ、ほかの商会を探せばいい」


「ですが、今からでは――」


「中止にすれば、僕が何もできないと認めることになる。必ず開催するんだ」


 使者は何も言えず、頭を下げた。


 私には、まだ止めることができたかもしれない。


 付き合いのある商人へ一軒ずつ頭を下げ、料理長と一晩かけて献立を組み直せば、形だけは整えられただろう。


 以前の私なら、そうしていた。


 でも、もうしない。


 私が助け続ける限り、ルーカスは自分が決めた結果を、決して知ることができないからだ。


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