第四話 戻ってほしい理由
「婚約解消を撤回するつもりはありません」
私は迷わず答えた。
応接間に通されたルーカスは、まだ外套さえ脱いでいなかった。
三日前までなら、疲れた顔をしている彼を見れば、温かいお茶と食事を用意させただろう。侯爵家からフェルド伯爵邸まで、馬車を急がせても一時間はかかる。
けれど今は、私が気遣うべき客ではない。
父が私とルーカスの間に立っている。
「話す必要がないなら、お帰りいただこう」
低い声で告げる父に、私は首を振った。
「五分だけ、お話しします」
ここで追い返しても、ルーカスは理由を変えてまた来るだろう。
それなら今、彼が何を求めているのか確かめておきたかった。
「座ってください、ルーカス」
以前のように愛称では呼ばなかった。
彼はそれに気づいたらしく、唇を引き結んだ。
「父上は、君の書状を読んだあと、僕を執務室へ呼び出した」
向かいの長椅子へ座るなり、ルーカスは話し始めた。
「君から返された箱も、すべて確認された。領地の契約、王都邸の支出、夜会の招待客――どうして息子の僕ではなく、婚約者の君がこれほど把握しているのかと聞かれた」
「何とお答えになったのですか」
「君が、将来の侯爵夫人として学びたいと言ったからだと」
その言葉に、思わず瞬きをした。
「私が望んで、すべて引き受けたと?」
「違うのか? 君はいつも、自分から必要なものを調べていた」
「最初に頼まれたのは、侯爵夫人からです。療養中だけ、届いた手紙を急ぎのものとそうでないものに分けてほしいと」
それが最初だった。
次は、期限が近いものに印をつけてほしいと言われた。
ルーカスが忙しそうだから、判断に必要な資料も添えるようになった。返事を書き忘れていれば知らせ、彼が決めたことは使用人へ伝えた。
一つずつは、たいした仕事ではない。
ただし、誰かが毎日続けなければ、何一つ終わらない仕事だった。
「それを、君は嫌だと言わなかった」
「あなたと暮らす家のことだと思っていましたから」
ルーカスが黙った。
「誰かに命じられたからではありません。あなたを支えたかったから、していたのです」
「だったら、これからも――」
「もう、あなたと暮らす家ではありません」
彼の言葉を遮った。
「婚約が終われば、私が続ける理由も終わります」
「だから婚約を戻そうと言っているんだ」
ルーカスは身を乗り出した。
「父上は、今の僕には侯爵家を任せられないとおっしゃった。領地の状況も、自分の屋敷で何が行われているかも分かっていない人間に、家督は譲れないと」
そこで初めて、彼がこれほど焦っている理由が分かった。
父侯爵に叱責されたからではない。
婚約がなくなれば、自分が侯爵になるまで遠のくからだ。
「お父上がおっしゃったことは、もっともだと思います」
「君まで父上と同じことを言うのか」
「侯爵家を継ぐのは、私ではなくあなたです」
「だが、夫婦なら得意なほうが補えばいい。僕は対外的な仕事をする。君は今までどおり、家の中を整える。それでうまくいっていた」
うまくいっていた。
私が何を欲しいか尋ねず、何をしているか知ろうともせず、すべてが滞りなく進んでいたから。
ルーカスにとっては、本当にそうだったのだろう。
「ミレーヌ様との関係は、終わらせるのですか」
尋ねると、彼は明らかにためらった。
「今は、その話をしているんじゃない」
「私には同じ話です」
「ミレーヌは関係ない。これは僕と君、そして両家の問題だ」
「では、彼女を愛し続けたまま、私に戻ってほしいのですね」
「それの何がいけないのかは、もう説明しただろう。君との婚約は、僕たちの恋を邪魔しない。僕たちの恋も、君が侯爵夫人になることを邪魔しない」
何も変わっていない。
彼が失いたくないものに、侯爵家の仕事と家督が増えただけだ。
「ミレーヌ様へ、侯爵家の仕事をお願いしてはいかがですか」
「彼女には無理だ」
あまりに即答だった。
「昨日、少し手伝ってほしいと頼んだ。だが、難しい書類を見て具合を悪くしてしまったんだ。婚約を失ったばかりの彼女に、これ以上負担をかけられない」
「そうですか」
私はミレーヌを責める気にはなれなかった。
彼女は最初から、侯爵夫人になるつもりも、仕事を引き受けるつもりもないと言っていた。
それを承知で恋人に選んだのはルーカスだ。
「ならば、あなたがなさればよろしいでしょう」
「簡単に言うな。今まで君が管理していたものを、急にすべて渡されても分かるはずがない」
「引き継ぎ書をお読みになりましたか」
ルーカスの視線が、わずかに逸れた。
「量が多すぎる。まず君と話すほうが先だと思った」
返却してから三日。
彼は、三頁目さえ読んでいないらしい。
「来週の夜会だけでも手伝ってくれ」
ルーカスは声を落とした。
「あれは母上が療養を始めてから、初めて主催する大きな夜会だ。失敗すれば、母上の体調だけでなく、侯爵家の内情まで疑われる。君だって、そんなことは望まないだろう」
「望んではいません」
「なら――」
「ですが、私が防ぐべき失敗でもありません」
扉が慌ただしく叩かれたのは、そのときだった。
我が家の執事が、申し訳なさそうに顔を出す。
「お話し中、失礼いたします。ヴァレル侯爵家から、ルーカス様を追って使者がお見えです。至急お耳に入れたいことがあると」
父が入室を許すと、侯爵家の若い使用人が青ざめた顔で入ってきた。
「ルーカス様。料理長からの伝言でございます。予定していた食材の確保ができなくなりました」
「どういうことだ」
「招待客の最終人数をご指定いただけなかったため、昨日、商会の予約期限が切れました。肉と果物は、別のお屋敷へ回されたそうです」
ルーカスが私を見る。
「エレナ。どうすればいい」
「引き継ぎ書の三頁に、未返答の招待客と、返答期限を記載しました」
「期限が過ぎたあとのことだ」
「四頁に、第一候補の商会と契約できなかった場合の代替案があります」
使者が、さらに困った顔をした。
「そちらの二商会にも、今朝問い合わせました。しかし、どちらも同じ日に別の夜会があり、百人分を超える注文には応じられないと」
それは私が引き継ぎ書に記した期限を過ぎたのだから、当然だった。
「なぜ、もっと早く言わなかった」
ルーカスの声が荒くなる。
使者が肩を震わせた。
「皆、ルーカス様がエレナ様をお連れ戻しになるので、その後に決めると伺っておりました」
ルーカス自身が、決定を止めていたのだ。
「エレナ、今からでも商会へ手紙を書いてくれ。君から頼めば、何とかなるかもしれない」
「私が頼めば、ではありません。以前応じていただけたのは、期限を守り、相手にも無理のない条件を示していたからです」
「では、その条件を考えてくれ」
「お断りします」
「君は侯爵家が失敗してもいいと言うのか?」
「いいえ。侯爵家の責任者が、責任を果たすべきだと申し上げています」
ルーカスは立ち上がった。
「君はこんなに冷たい女性ではなかった」
「婚約者であった私の好意を、婚約を終わらせたあなたがまだ受け取れると思わないでください」
返事はなかった。
父が扉を示すと、ルーカスは使者を伴って応接間を出ていく。
けれど廊下へ出る直前、彼は使者へ言い放った。
「夜会は予定どおり開く。百二十六人全員を招待したままだ。食材がなければ、ほかの商会を探せばいい」
「ですが、今からでは――」
「中止にすれば、僕が何もできないと認めることになる。必ず開催するんだ」
使者は何も言えず、頭を下げた。
私には、まだ止めることができたかもしれない。
付き合いのある商人へ一軒ずつ頭を下げ、料理長と一晩かけて献立を組み直せば、形だけは整えられただろう。
以前の私なら、そうしていた。
でも、もうしない。
私が助け続ける限り、ルーカスは自分が決めた結果を、決して知ることができないからだ。




