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私の婚約は、恋の邪魔にならないそうです  作者: 九葉(くずは)


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3/10

第三話 私自身と話したい人

『共同市場について、エレナ・フェルド伯爵令嬢、あなた自身と話がしたい』


 アーヴィン・ノース伯爵令息からの手紙には、そう記されていた。


 私が提案したのは、フェルド領とノース領を隔てる川の近くに、両領の商人が利用できる市場を開く計画だ。


 橋を渡れば半日で行き来できる距離なのに、商人は領境を越えるたび、別々の許可を取らなくてはならない。手続きに時間がかかるため、収穫期には値崩れした作物が一方の領地で余り、もう一方では不足することさえあった。


 それなら、境に共同で管理する市場を作ればいい。


 最初に提案書を送ったのは、一年ほど前だった。


 返事を書いたのがアーヴィンだった。


『通行手続きの簡略化には賛成する。しかし、フェルド領側だけに市場を置く案では、ノース領の商人が不利になる』


 遠慮のない指摘だった。


 私も、必要な道路整備をノース伯爵家だけに負担させるのは不公平だと書き返した。以降、何度か書簡で意見を交わしてきたけれど、直接会ったことはほとんどない。


 夜会で挨拶をしたことが二度。


 踊ったことは、一度もなかった。


「どうする?」


 父に尋ねられ、もう一度手紙へ目を落とす。


 末尾には、都合が悪ければ断ってほしいと添えられていた。


 こちらの予定を勝手に決めず、二つの候補日が挙げてある。


 それだけのことが、ひどく新鮮だった。


「お会いします」


 私は顔を上げた。


「後継者になりたいと申し上げた翌日に、仕事だけ避けるわけにはまいりません」


「では、私の代理として行ってきなさい」


 父はすでに用意していたらしい書類を差し出した。


 共同市場に関する交渉権を、私へ委ねると記されている。


「まだ王家へ継承の申請もしておりません」

「だから、まず代理だ。申請書には、領主となるため君が何をしてきたかを書く欄もある」


 父が浮かべた笑みは、少しだけ意地が悪かった。


「侯爵家の夜会を整えた回数ではなく、フェルド領のために成し遂げたことを書きたいだろう?」


「はい」


 今度は迷わず答えた。


 三日後、私は領境にあるフェルド伯爵家の小さな館を訪れた。


 窓からは、石造りの橋と、その向こうに広がるノース領の森が見える。


 予定より少し早く着いたのに、アーヴィンはすでに会議室で地図を広げていた。


 灰色がかった金髪を短く整えた、背の高い青年だった。華やかな美貌というより、相手の言葉を逃さず聞きそうな、静かな目をしている。


 私が入ると、彼はすぐに立ち上がった。


「お越しいただき、ありがとうございます。フェルド伯爵令嬢」

「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます。ノース伯爵令息」


 礼を交わし、双方の書記が壁際に控える中、向かい合って座る。


 彼の前には、私がこれまで送った提案書が順番に並べられていた。


 どの紙にも、読まれた跡がある。疑問点には細い字で注釈がつき、重要な数字の横には印が引かれていた。


「先に、お尋ねしても?」


 アーヴィンが口を開いた。


「もちろんです」

「フェルド伯爵から、あなたが後継者候補として交渉に来ると伺いました。この計画を続けるのは、あなたご自身の意思ですか」


 婚約がどうなったのかとは、聞かれなかった。


 なぜ突然、後継者になったのかとも。


 彼が確認したのは、今日ここにいる私の意思だけだった。


「はい。父に命じられたからではありません。私が完成させたいと思っています」

「分かりました。では、その前提でお話しします」


 アーヴィンは地図の一点を指した。


「あなたの第三案には反対です」


 ずいぶん率直だった。


「理由を伺っても?」

「市場の管理費を両家で折半するとあります。しかし、フェルド領側の道は石造りで、ノース領側は土の道だ。雨季の補修費まで折半すれば、そちらに余計な負担をかける」


 自領の負担が増えるからではない。


 私たちが損をするから反対している。


「その点でしたら、第四案をご覧ください」


 新しく作った資料を差し出す。


「市場の使用料を、まず両側の道路補修へ充てます。どちらの道にいくら使うかは、通った荷馬車の台数に応じて決める。残額だけを両家で折半する案です」


 アーヴィンは資料を受け取り、黙って数字を追った。


「荷馬車の台数は、誰が数えますか」

「橋の両端に一人ずつ置き、毎夕、記録を照合します」

「数字が食い違った場合は?」

「少ないほうを採用します。水増ししても、自領へ入る費用は増えません」


 彼の目が、わずかに細くなった。


「こちらが指摘する前に、直していたのですね」

「お手紙で何度も、不公平な契約は長続きしないと教えていただきましたから」

「教えたつもりはありません。あなたが指摘を採用し、私が思いつかなかった形にしただけです」


 その言い方に、お世辞は感じなかった。


 だからこそ、素直にうれしかった。


 それから一時間、私たちは管理人の選び方、商人に認める権利、問題が起きたときの責任について話し合った。


 私の案が採用された箇所もあれば、アーヴィンの意見で書き直すと決めた箇所もある。


 彼は意見が違っても、不機嫌にはならなかった。


 声を大きくして押し切ることも、私の考えを自分のものとして語ることもない。


「では、最初の半年を試行期間としましょう」


 話し合いの終わりに、私が提案した。


「商人から苦情が多ければ、正式な開設前に規則を見直します」

「賛成です。ただし、試行期間中の責任者を決める必要がある」

「両家から一人ずつ選びますか」

「それでは、意見が割れたときに決まりません」


 アーヴィンはそこで言葉を切り、私を見た。


「この案を一番理解しているのは、あなたです。責任者を引き受ける意思はありますか」


 これまで何度も、侯爵家の仕事を頼まれてきた。


 けれど、それはほとんど、ルーカスや侯爵夫人が決める前の準備だった。私の名が表に出ることはなく、成功すれば侯爵家の成果になった。


 今、アーヴィンが差し出しているのは、誰かの代わりに整える仕事ではない。


 決める権限と、失敗したときの責任が一緒にある。


「あります」


 私は答えた。


「フェルド伯爵の代理として、私が引き受けます」

「では、契約書にもあなたの名を記しましょう」


 あまりに当然のことのように言われ、返事が一瞬遅れた。


「私の名前を?」

「責任を負う人間とは、そういうものでしょう。あなたの案を、別の誰かの功績にする理由もありません」


 胸の奥が、温かくなる。


 褒め言葉ではなかった。


 私を特別扱いしたわけでもない。


 ただ、私がしたことを、私のものとして扱ってくれた。


「ありがとうございます」


「礼を言われることではありません」


 アーヴィンは少し困ったように笑った。


「私は、この計画が必要だと思ったから来ました。それを書いたあなたと話したかった。それだけです」


 帰り際、次の会合までに互いが準備するものを確認した。


 アーヴィンは私の馬車まで見送りに来たが、婚約解消について尋ねることはなかった。


「次の資料も、あなた宛てに送ってよろしいですか」

「はい。今後はフェルド伯爵家のエレナとして、お返事いたします」

「楽しみにしています、エレナ嬢」


 初めて名を呼ばれただけなのに、なぜかその声は、帰りの馬車へ乗ったあとも耳に残った。


 屋敷へ戻った頃には、日はすっかり傾いていた。


 玄関広間で父が待っていた。


 その手には、ヴァレル侯爵家の封蝋が押された書状がある。


「先ほど届いた。侯爵は、婚約解消の申し入れを受諾した」


 息を吸う。


 分かっていたはずなのに、八年という時間が本当に終わったのだと思うと、胸がわずかに痛んだ。


 それでも、後悔はなかった。


「これで、正式に婚約解消ですね」

「ああ。ヴァレル侯爵が息子本人に確認したところ、書状の内容を認めたそうだ。先方も、こちらに落ち度はないとしている」


 父が何かを続けようとしたとき、応接間の扉が開いた。


 立っていたのは、ルーカスだった。


 髪は乱れ、三日前とは別人のように顔色が悪い。


「エレナ」


 彼は私へ歩み寄ろうとして、父に遮られた。


「父上が、婚約解消を受け入れてしまった」


 ルーカスの声には、怒りより焦りがにじんでいた。


「君から言ってくれ。あれは一時の感情だったと。今すぐ、婚約解消を撤回してくれ」

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