第三話 私自身と話したい人
『共同市場について、エレナ・フェルド伯爵令嬢、あなた自身と話がしたい』
アーヴィン・ノース伯爵令息からの手紙には、そう記されていた。
私が提案したのは、フェルド領とノース領を隔てる川の近くに、両領の商人が利用できる市場を開く計画だ。
橋を渡れば半日で行き来できる距離なのに、商人は領境を越えるたび、別々の許可を取らなくてはならない。手続きに時間がかかるため、収穫期には値崩れした作物が一方の領地で余り、もう一方では不足することさえあった。
それなら、境に共同で管理する市場を作ればいい。
最初に提案書を送ったのは、一年ほど前だった。
返事を書いたのがアーヴィンだった。
『通行手続きの簡略化には賛成する。しかし、フェルド領側だけに市場を置く案では、ノース領の商人が不利になる』
遠慮のない指摘だった。
私も、必要な道路整備をノース伯爵家だけに負担させるのは不公平だと書き返した。以降、何度か書簡で意見を交わしてきたけれど、直接会ったことはほとんどない。
夜会で挨拶をしたことが二度。
踊ったことは、一度もなかった。
「どうする?」
父に尋ねられ、もう一度手紙へ目を落とす。
末尾には、都合が悪ければ断ってほしいと添えられていた。
こちらの予定を勝手に決めず、二つの候補日が挙げてある。
それだけのことが、ひどく新鮮だった。
「お会いします」
私は顔を上げた。
「後継者になりたいと申し上げた翌日に、仕事だけ避けるわけにはまいりません」
「では、私の代理として行ってきなさい」
父はすでに用意していたらしい書類を差し出した。
共同市場に関する交渉権を、私へ委ねると記されている。
「まだ王家へ継承の申請もしておりません」
「だから、まず代理だ。申請書には、領主となるため君が何をしてきたかを書く欄もある」
父が浮かべた笑みは、少しだけ意地が悪かった。
「侯爵家の夜会を整えた回数ではなく、フェルド領のために成し遂げたことを書きたいだろう?」
「はい」
今度は迷わず答えた。
三日後、私は領境にあるフェルド伯爵家の小さな館を訪れた。
窓からは、石造りの橋と、その向こうに広がるノース領の森が見える。
予定より少し早く着いたのに、アーヴィンはすでに会議室で地図を広げていた。
灰色がかった金髪を短く整えた、背の高い青年だった。華やかな美貌というより、相手の言葉を逃さず聞きそうな、静かな目をしている。
私が入ると、彼はすぐに立ち上がった。
「お越しいただき、ありがとうございます。フェルド伯爵令嬢」
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます。ノース伯爵令息」
礼を交わし、双方の書記が壁際に控える中、向かい合って座る。
彼の前には、私がこれまで送った提案書が順番に並べられていた。
どの紙にも、読まれた跡がある。疑問点には細い字で注釈がつき、重要な数字の横には印が引かれていた。
「先に、お尋ねしても?」
アーヴィンが口を開いた。
「もちろんです」
「フェルド伯爵から、あなたが後継者候補として交渉に来ると伺いました。この計画を続けるのは、あなたご自身の意思ですか」
婚約がどうなったのかとは、聞かれなかった。
なぜ突然、後継者になったのかとも。
彼が確認したのは、今日ここにいる私の意思だけだった。
「はい。父に命じられたからではありません。私が完成させたいと思っています」
「分かりました。では、その前提でお話しします」
アーヴィンは地図の一点を指した。
「あなたの第三案には反対です」
ずいぶん率直だった。
「理由を伺っても?」
「市場の管理費を両家で折半するとあります。しかし、フェルド領側の道は石造りで、ノース領側は土の道だ。雨季の補修費まで折半すれば、そちらに余計な負担をかける」
自領の負担が増えるからではない。
私たちが損をするから反対している。
「その点でしたら、第四案をご覧ください」
新しく作った資料を差し出す。
「市場の使用料を、まず両側の道路補修へ充てます。どちらの道にいくら使うかは、通った荷馬車の台数に応じて決める。残額だけを両家で折半する案です」
アーヴィンは資料を受け取り、黙って数字を追った。
「荷馬車の台数は、誰が数えますか」
「橋の両端に一人ずつ置き、毎夕、記録を照合します」
「数字が食い違った場合は?」
「少ないほうを採用します。水増ししても、自領へ入る費用は増えません」
彼の目が、わずかに細くなった。
「こちらが指摘する前に、直していたのですね」
「お手紙で何度も、不公平な契約は長続きしないと教えていただきましたから」
「教えたつもりはありません。あなたが指摘を採用し、私が思いつかなかった形にしただけです」
その言い方に、お世辞は感じなかった。
だからこそ、素直にうれしかった。
それから一時間、私たちは管理人の選び方、商人に認める権利、問題が起きたときの責任について話し合った。
私の案が採用された箇所もあれば、アーヴィンの意見で書き直すと決めた箇所もある。
彼は意見が違っても、不機嫌にはならなかった。
声を大きくして押し切ることも、私の考えを自分のものとして語ることもない。
「では、最初の半年を試行期間としましょう」
話し合いの終わりに、私が提案した。
「商人から苦情が多ければ、正式な開設前に規則を見直します」
「賛成です。ただし、試行期間中の責任者を決める必要がある」
「両家から一人ずつ選びますか」
「それでは、意見が割れたときに決まりません」
アーヴィンはそこで言葉を切り、私を見た。
「この案を一番理解しているのは、あなたです。責任者を引き受ける意思はありますか」
これまで何度も、侯爵家の仕事を頼まれてきた。
けれど、それはほとんど、ルーカスや侯爵夫人が決める前の準備だった。私の名が表に出ることはなく、成功すれば侯爵家の成果になった。
今、アーヴィンが差し出しているのは、誰かの代わりに整える仕事ではない。
決める権限と、失敗したときの責任が一緒にある。
「あります」
私は答えた。
「フェルド伯爵の代理として、私が引き受けます」
「では、契約書にもあなたの名を記しましょう」
あまりに当然のことのように言われ、返事が一瞬遅れた。
「私の名前を?」
「責任を負う人間とは、そういうものでしょう。あなたの案を、別の誰かの功績にする理由もありません」
胸の奥が、温かくなる。
褒め言葉ではなかった。
私を特別扱いしたわけでもない。
ただ、私がしたことを、私のものとして扱ってくれた。
「ありがとうございます」
「礼を言われることではありません」
アーヴィンは少し困ったように笑った。
「私は、この計画が必要だと思ったから来ました。それを書いたあなたと話したかった。それだけです」
帰り際、次の会合までに互いが準備するものを確認した。
アーヴィンは私の馬車まで見送りに来たが、婚約解消について尋ねることはなかった。
「次の資料も、あなた宛てに送ってよろしいですか」
「はい。今後はフェルド伯爵家のエレナとして、お返事いたします」
「楽しみにしています、エレナ嬢」
初めて名を呼ばれただけなのに、なぜかその声は、帰りの馬車へ乗ったあとも耳に残った。
屋敷へ戻った頃には、日はすっかり傾いていた。
玄関広間で父が待っていた。
その手には、ヴァレル侯爵家の封蝋が押された書状がある。
「先ほど届いた。侯爵は、婚約解消の申し入れを受諾した」
息を吸う。
分かっていたはずなのに、八年という時間が本当に終わったのだと思うと、胸がわずかに痛んだ。
それでも、後悔はなかった。
「これで、正式に婚約解消ですね」
「ああ。ヴァレル侯爵が息子本人に確認したところ、書状の内容を認めたそうだ。先方も、こちらに落ち度はないとしている」
父が何かを続けようとしたとき、応接間の扉が開いた。
立っていたのは、ルーカスだった。
髪は乱れ、三日前とは別人のように顔色が悪い。
「エレナ」
彼は私へ歩み寄ろうとして、父に遮られた。
「父上が、婚約解消を受け入れてしまった」
ルーカスの声には、怒りより焦りがにじんでいた。
「君から言ってくれ。あれは一時の感情だったと。今すぐ、婚約解消を撤回してくれ」




