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私の婚約は、恋の邪魔にならないそうです  作者: 九葉(くずは)


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2/10

第二話 婚約者のお仕事は、昨日までです

「婚約を解消したいのです」


 帰宅した私がそう告げると、父は書きかけの手紙からゆっくり顔を上げた。


 時刻はもう、夜の九時を回っている。


 先触れもなく侯爵邸から戻った娘が、外套も脱がないまま書斎へ入ってきたのだ。驚いて当然なのに、父が最初に見たのは私の顔ではなく、指輪の消えた左手だった。


「座りなさい、エレナ」


 理由を問われ、私は小客間であったことを順番に説明した。


 ルーカスがミレーヌを愛していること。


 私とは予定どおり結婚するつもりでいること。


 来週の夜会で、二人の仲を疑う噂を私自身に打ち消させようとしたこと。


 感情を交えず、事実だけを並べたつもりだった。


 けれども話を聞き終えた父は、机の上で両手を組んだまま、しばらく動かなかった。


「つまりヴァレル侯爵令息は、君に妻の責任を負わせたまま、別の女性と恋人でいたいと?」

「はい」

「しかも、その女性を安心させる役目まで君に求めた」

「はい」


 父は目を閉じ、深く息を吐いた。


「私が若い頃より、王都ではずいぶん新しい恋愛が流行しているらしい」


 声が静かすぎて、かえって怒っているのだと分かった。


「お父様。ヴァレル侯爵家への正式な書状に、署名をいただきたいのです」

「それは構わない。だが、その前に一つだけ答えなさい」


 父は正面から私を見た。


「ルーカス殿が明日、泣いて謝罪し、ミレーヌ嬢とは二度と会わないと誓ったら、君は婚約を続けたいか?」


 昨日までの私なら、何と答えただろう。


 彼が疲れているから。


 責任が重いから。


 婚約は家同士の約束だから。


 そうやって理由を拾い集め、もう一度だけ信じようとしたかもしれない。


 けれど今、思い浮かぶのは、私が欲しいものを尋ねられて本当に困惑していたルーカスの顔だった。


 あれは、ミレーヌ一人を遠ざければ消える問題ではない。


「続けたくありません」


 答えると、胸の中に残っていた迷いが、言葉と一緒に外へ出ていった。


「彼がどなたを選ぶかとは、もう関係がないのです。私は、私を愛するつもりのない方の妻にはなりません」


「分かった」


 父はそれ以上、確かめなかった。


 新しい便箋を取り出し、私の前へ置く。


「ならば、君の言葉で書きなさい。私が署名し、明朝一番に届けさせよう」


「私が書いてよろしいのですか」

「君の婚約だ。終わらせる理由も、これからどうしたいかも、君が決めるべきだろう」


 その言葉が、胸に痛かった。


 父にではなく、自分に対してだ。


 八年間、私は家同士が決めた婚約なのだからと、自分の望みを尋ねることさえやめていた。


 椅子に座り、ペンを取る。


 解消を申し入れる理由は、三行で足りた。


 婚約者が別の女性への愛情を明言したこと。結婚後もその関係を続ける意思を示したこと。私にその関係の公認を求めたこと。


 最後に、両家の婚約契約に定められた条項に従い、解消を申し入れると記した。


 ルーカスの悪口も、ミレーヌへの非難も必要なかった。


 起きたことをそのまま書けば、それで十分だった。


 父が署名を終えると、私はようやく外套を脱いだ。


「今夜は休みなさい。侯爵家から預かっているものは、明日以降に整理すればいい」

「いいえ。明日の書状と一緒にお返しします」


 一晩置けば気が変わると思われるのが嫌だった。


 それ以上に、侯爵家の仕事を一つでも手元に残していることが、ひどく不自然に感じられた。


 自室へ戻り、侍女に大きな空箱を用意してもらう。


 机の引き出しを開けると、そこには八年間で増えた侯爵家の書類が、種類ごとに収めてあった。


 領地から届いた請願の写し。


 商会との契約更新一覧。


 使用人の採用記録と、王都邸の修繕予定。


 贈答品を受け取った日と、返礼を済ませた日を記した台帳。


 病床の侯爵夫人に代わって預かっていた、小さな鍵と代理印。


 一つずつ箱へ入れながら、未処理の案件には紙片を挟んだ。


 赤は七日以内。黄色は今月中。白は返答待ち。


 誰が見ても分かるように、担当者と次に行うべきことも書き添える。


 橋の修繕は、二つの商会から見積もりが届いている。費用だけなら南商会、工期を優先するなら北商会。


 秋の借地契約は七件。うち二件は洪水被害を理由に減免を求めているため、数字だけで決めず、現地を確認したほうがよい。


 来週の夜会については、招待客百二十六名のうち、返事がない者が十一名。料理人へ最終人数を伝える期限は明後日だった。


 書き出してみると、朝までかかった。


 最後に、すべての所在をまとめた引き継ぎ書を一番上へ載せる。


 これで、私にできることは終わりだ。


 空が白み始めた頃、封蝋を施した書状と三つの箱が玄関広間へ運ばれた。


 父は箱の数を見て、珍しく言葉を失っていた。


「これは、すべてヴァレル侯爵家のものか」

「はい。細かなものまで含めれば、もう少しありますが、原本は侯爵邸にございます」

「君は侯爵家へ、花嫁修業に通っていたのではなかったのか」


 私も、そのつもりだった。


 けれど、将来の女主人として学ばせてもらううち、侯爵夫人が倒れ、ルーカスが忙しいと言い、気づけば私が判断の前段階をすべて整えるようになっていた。


「必要だと言われたことをしてきただけです」

「これだけのことをしても、あの男は君が地位を欲しがっていると思ったのか」


 返事はできなかった。


 侯爵家の使者が到着したのは、私たちが朝食の席に着いた直後だった。


 正式な書状を届けるために用意させた馬車と、門前ですれ違ったらしい。


 使者が差し出したのは、ルーカス直筆の短い手紙だった。


『昨夜の君は冷静ではなかった。話し合う時間が必要だ。婚約解消の件を両家の父上へ伝える前に、今日の午後、侯爵邸へ来てほしい』


 そこまでは予想の範囲だった。


 その下に、追伸がある。


『夜会の料理と席次について、料理長と執事が君の確認を待っている。話し合いの前に、そちらを済ませてくれ』


 思わず、二度読んだ。


 父にも渡すと、彼は追伸の部分で眉間を押さえた。


「見事なものだな。ここまで何も分かっていないとは」


「お返事を書きます」


 私は新しい便箋を一枚だけ取り寄せた。


『婚約解消の正式な書状は、本朝すでに発送いたしました。侯爵家よりお預かりした書類、鍵、代理印も同便で返却いたします。夜会の準備につきましては、引き継ぎ書の三頁をご確認ください』


 最後に、もう一行を加えた。


『婚約者としてのお役目は、昨日をもって終了しております』


 署名し、使者へ渡す。


 使者は困り切った顔をしたが、私にはどうすることもできない。


 その人を困らせているのは、私ではなく、主人の認識なのだから。


 三つの箱を載せた馬車が門を出ていく。


 それを見送ると、肩から目に見えない重りが下りたようだった。


「さて」


 隣に立った父が言う。


「婚約者でなくなった君は、これからどうしたい?」


 休みたいとは思わなかった。


 誰かの妻になる準備しかしてこなかったように見えても、その中で学んだことまで消えるわけではない。


 十五歳で侯爵家へ嫁ぐことが決まり、私はフェルド伯爵家の継承候補から外れた。父に男子はいないため、現在の継承予定者は遠縁の従兄だ。


 けれど、この国では娘も王家の承認を得れば爵位を継げる。


 婚約を失った穴を、別の婚約で急いで埋めるつもりはなかった。


 今度こそ、自分が望むものを先に決めたい。


「お父様。私を、この家の後継者にしてください」


 父は驚かなかった。


 ほんの少し目を細め、書斎へ来るよう私を促した。


「ちょうど君に見せたい手紙がある」


 父が机から取り出した封筒には、ノース伯爵家の紋章が押されていた。


 隣領との共同市場について、これまで何度か意見を交わしてきた家だ。


 宛名は父ではない。


 私の名が書かれている。


「差出人は、アーヴィン・ノース伯爵令息だ」


 父から封筒を受け取る。


「君が考案した共同市場について、君自身と話がしたいそうだ」


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