第二話 婚約者のお仕事は、昨日までです
「婚約を解消したいのです」
帰宅した私がそう告げると、父は書きかけの手紙からゆっくり顔を上げた。
時刻はもう、夜の九時を回っている。
先触れもなく侯爵邸から戻った娘が、外套も脱がないまま書斎へ入ってきたのだ。驚いて当然なのに、父が最初に見たのは私の顔ではなく、指輪の消えた左手だった。
「座りなさい、エレナ」
理由を問われ、私は小客間であったことを順番に説明した。
ルーカスがミレーヌを愛していること。
私とは予定どおり結婚するつもりでいること。
来週の夜会で、二人の仲を疑う噂を私自身に打ち消させようとしたこと。
感情を交えず、事実だけを並べたつもりだった。
けれども話を聞き終えた父は、机の上で両手を組んだまま、しばらく動かなかった。
「つまりヴァレル侯爵令息は、君に妻の責任を負わせたまま、別の女性と恋人でいたいと?」
「はい」
「しかも、その女性を安心させる役目まで君に求めた」
「はい」
父は目を閉じ、深く息を吐いた。
「私が若い頃より、王都ではずいぶん新しい恋愛が流行しているらしい」
声が静かすぎて、かえって怒っているのだと分かった。
「お父様。ヴァレル侯爵家への正式な書状に、署名をいただきたいのです」
「それは構わない。だが、その前に一つだけ答えなさい」
父は正面から私を見た。
「ルーカス殿が明日、泣いて謝罪し、ミレーヌ嬢とは二度と会わないと誓ったら、君は婚約を続けたいか?」
昨日までの私なら、何と答えただろう。
彼が疲れているから。
責任が重いから。
婚約は家同士の約束だから。
そうやって理由を拾い集め、もう一度だけ信じようとしたかもしれない。
けれど今、思い浮かぶのは、私が欲しいものを尋ねられて本当に困惑していたルーカスの顔だった。
あれは、ミレーヌ一人を遠ざければ消える問題ではない。
「続けたくありません」
答えると、胸の中に残っていた迷いが、言葉と一緒に外へ出ていった。
「彼がどなたを選ぶかとは、もう関係がないのです。私は、私を愛するつもりのない方の妻にはなりません」
「分かった」
父はそれ以上、確かめなかった。
新しい便箋を取り出し、私の前へ置く。
「ならば、君の言葉で書きなさい。私が署名し、明朝一番に届けさせよう」
「私が書いてよろしいのですか」
「君の婚約だ。終わらせる理由も、これからどうしたいかも、君が決めるべきだろう」
その言葉が、胸に痛かった。
父にではなく、自分に対してだ。
八年間、私は家同士が決めた婚約なのだからと、自分の望みを尋ねることさえやめていた。
椅子に座り、ペンを取る。
解消を申し入れる理由は、三行で足りた。
婚約者が別の女性への愛情を明言したこと。結婚後もその関係を続ける意思を示したこと。私にその関係の公認を求めたこと。
最後に、両家の婚約契約に定められた条項に従い、解消を申し入れると記した。
ルーカスの悪口も、ミレーヌへの非難も必要なかった。
起きたことをそのまま書けば、それで十分だった。
父が署名を終えると、私はようやく外套を脱いだ。
「今夜は休みなさい。侯爵家から預かっているものは、明日以降に整理すればいい」
「いいえ。明日の書状と一緒にお返しします」
一晩置けば気が変わると思われるのが嫌だった。
それ以上に、侯爵家の仕事を一つでも手元に残していることが、ひどく不自然に感じられた。
自室へ戻り、侍女に大きな空箱を用意してもらう。
机の引き出しを開けると、そこには八年間で増えた侯爵家の書類が、種類ごとに収めてあった。
領地から届いた請願の写し。
商会との契約更新一覧。
使用人の採用記録と、王都邸の修繕予定。
贈答品を受け取った日と、返礼を済ませた日を記した台帳。
病床の侯爵夫人に代わって預かっていた、小さな鍵と代理印。
一つずつ箱へ入れながら、未処理の案件には紙片を挟んだ。
赤は七日以内。黄色は今月中。白は返答待ち。
誰が見ても分かるように、担当者と次に行うべきことも書き添える。
橋の修繕は、二つの商会から見積もりが届いている。費用だけなら南商会、工期を優先するなら北商会。
秋の借地契約は七件。うち二件は洪水被害を理由に減免を求めているため、数字だけで決めず、現地を確認したほうがよい。
来週の夜会については、招待客百二十六名のうち、返事がない者が十一名。料理人へ最終人数を伝える期限は明後日だった。
書き出してみると、朝までかかった。
最後に、すべての所在をまとめた引き継ぎ書を一番上へ載せる。
これで、私にできることは終わりだ。
空が白み始めた頃、封蝋を施した書状と三つの箱が玄関広間へ運ばれた。
父は箱の数を見て、珍しく言葉を失っていた。
「これは、すべてヴァレル侯爵家のものか」
「はい。細かなものまで含めれば、もう少しありますが、原本は侯爵邸にございます」
「君は侯爵家へ、花嫁修業に通っていたのではなかったのか」
私も、そのつもりだった。
けれど、将来の女主人として学ばせてもらううち、侯爵夫人が倒れ、ルーカスが忙しいと言い、気づけば私が判断の前段階をすべて整えるようになっていた。
「必要だと言われたことをしてきただけです」
「これだけのことをしても、あの男は君が地位を欲しがっていると思ったのか」
返事はできなかった。
侯爵家の使者が到着したのは、私たちが朝食の席に着いた直後だった。
正式な書状を届けるために用意させた馬車と、門前ですれ違ったらしい。
使者が差し出したのは、ルーカス直筆の短い手紙だった。
『昨夜の君は冷静ではなかった。話し合う時間が必要だ。婚約解消の件を両家の父上へ伝える前に、今日の午後、侯爵邸へ来てほしい』
そこまでは予想の範囲だった。
その下に、追伸がある。
『夜会の料理と席次について、料理長と執事が君の確認を待っている。話し合いの前に、そちらを済ませてくれ』
思わず、二度読んだ。
父にも渡すと、彼は追伸の部分で眉間を押さえた。
「見事なものだな。ここまで何も分かっていないとは」
「お返事を書きます」
私は新しい便箋を一枚だけ取り寄せた。
『婚約解消の正式な書状は、本朝すでに発送いたしました。侯爵家よりお預かりした書類、鍵、代理印も同便で返却いたします。夜会の準備につきましては、引き継ぎ書の三頁をご確認ください』
最後に、もう一行を加えた。
『婚約者としてのお役目は、昨日をもって終了しております』
署名し、使者へ渡す。
使者は困り切った顔をしたが、私にはどうすることもできない。
その人を困らせているのは、私ではなく、主人の認識なのだから。
三つの箱を載せた馬車が門を出ていく。
それを見送ると、肩から目に見えない重りが下りたようだった。
「さて」
隣に立った父が言う。
「婚約者でなくなった君は、これからどうしたい?」
休みたいとは思わなかった。
誰かの妻になる準備しかしてこなかったように見えても、その中で学んだことまで消えるわけではない。
十五歳で侯爵家へ嫁ぐことが決まり、私はフェルド伯爵家の継承候補から外れた。父に男子はいないため、現在の継承予定者は遠縁の従兄だ。
けれど、この国では娘も王家の承認を得れば爵位を継げる。
婚約を失った穴を、別の婚約で急いで埋めるつもりはなかった。
今度こそ、自分が望むものを先に決めたい。
「お父様。私を、この家の後継者にしてください」
父は驚かなかった。
ほんの少し目を細め、書斎へ来るよう私を促した。
「ちょうど君に見せたい手紙がある」
父が机から取り出した封筒には、ノース伯爵家の紋章が押されていた。
隣領との共同市場について、これまで何度か意見を交わしてきた家だ。
宛名は父ではない。
私の名が書かれている。
「差出人は、アーヴィン・ノース伯爵令息だ」
父から封筒を受け取る。
「君が考案した共同市場について、君自身と話がしたいそうだ」




