第一話 婚約は、恋の邪魔にならない
「エレナ。僕とミレーヌは、愛し合っている」
八年間婚約しているルーカスからそう告げられたとき、私はてっきり、次に婚約解消を申し出られるのだと思った。
ところが、彼が口にしたのは別れの言葉ではなかった。
「だが、君との婚約を解消するつもりはない」
私は返事を忘れて、向かいの長椅子に座る二人を見た。
侯爵家の小客間には、私たち三人しかいない。
ルーカスのすぐ隣には、淡い桃色のドレスを着たミレーヌ・ロシュ子爵令嬢がいる。二人の肩は触れそうなほど近く、膝の上に置かれた彼女の手を、ルーカスが包んでいた。
婚約者が見ている前で取る距離ではない。
私のために用意された紅茶から、細い湯気が上がっている。
呼び出された理由は、秋の借地契約についてだと思っていた。だから膝の上には、更新期限と確認事項をまとめた革張りの帳面がある。
今の話を、どこへ書き込めばよいのだろう。
「確認してもよろしいでしょうか」
ようやく、それだけを口にした。
「もちろんだ。君なら落ち着いて話を聞いてくれると思っていた」
ルーカスは安堵したように微笑む。
それはかつて、私が好きだった笑顔だった。
「お二人は、愛し合っていらっしゃるのですね」
「ああ」
「いつからですか」
ルーカスの視線が、一度だけミレーヌへ向かう。
「彼女が王都へ戻った春からだ。ミレーヌは婚約を失って、ひどく傷ついていた。相談を受けるうちに、互いの気持ちに気づいた」
「三か月前ですね」
「そうなるな」
三か月。
その間にも私は週に二度、この屋敷を訪れていた。
療養中の侯爵夫人に代わって使用人から報告を受け、領地から届いた請願を分類し、ルーカスが判断すべきものには選択肢を添えた。彼が夜会へ出る日は贈答品を選び、返事を忘れている招待状があれば、期限の前に机へ置いた。
ルーカスは忙しいのだと思っていた。
母君の病状と、いずれ継ぐ領地への責任が、彼から余裕を奪っているのだと。
まさか、その余裕をすべて恋に使っていたとは考えもしなかった。
「節度は守ってきた」
私の沈黙をどう受け取ったのか、ルーカスが付け加えた。
「君を裏切るつもりはない。家同士が決めた婚約は守り、予定どおり君と結婚する。ミレーヌへの気持ちとは別の話だ」
「別、ですか」
「婚約は責任だ。恋は心の問題だろう? どちらかを捨てなければならない理由はない」
彼の手の中で、ミレーヌの指が小さく動いた。
「エレナ様、申し訳ございません」
彼女の声は震えていた。
「わたくし、エレナ様から何かを奪いたいわけではないのです。侯爵夫人になれるとも、なりたいとも思っておりません。ただ、ルーカスを愛することだけは諦められなくて……」
つまり、侯爵夫人の責任も、領地も、家同士の付き合いも、跡継ぎを産む役目も私に残してくれるということらしい。
そして、ルーカスの心だけを彼女が受け取る。
ずいぶんと公平に分けたつもりなのだろう。
「エレナ。ミレーヌを責めないでほしい。彼女はずっと、君を傷つけるのではないかと悩んでいたんだ」
「ですから、今日、私にお話しになったのですか」
「隠し続けるほうが不誠実だと思った。それに君は、感情だけで家同士の約束を投げ出すような女性ではない」
褒められているはずなのに、胸の奥がひどく冷えた。
泣かないことを、悲しまないことだと思われている。
責任を果たすことを、どれほど傷つけても離れないという保証にされている。
「結婚後も、お二人の関係は続くのですか」
ルーカスはわずかに眉を寄せた。
「関係という言い方はよしてくれ。僕はミレーヌを支えたいだけだ。もちろん、君に侯爵夫人として不自由はさせない」
「夜会には、どなたを伴われますか」
「公式には君だ」
「休日は?」
「それを今、決める必要があるのか」
「私たちに子どもが生まれたあとも、彼女を愛し続けますか」
答えたのはミレーヌだった。
「愛する気持ちは、命令されて消せるものではありません」
正しい言葉だった。
だからこそ私は、ようやく間違えずに理解できた。
二人が今日求めているのは、報告でも謝罪でもない。
私の許可だ。
私が笑って受け入れれば、二人は誰も裏切っていない恋人になれる。私は侯爵夫人の席を得るのだから、何も失ってはいないということになる。
「来週、この屋敷で夜会があるだろう」
ルーカスは、話がまとまりかけていると思ったらしい。
「君には女主人役を頼んでいる。その場でミレーヌを、僕たち二人の大切な友人として迎えてほしい。最近、根も葉もない噂を口にする者がいるんだ。君が親しく接すれば、ミレーヌも安心できる」
なるほど。
恋人を愛することだけでなく、その評判を守ることまで、妻になる私の役目に含まれているらしい。
「ルーカス」
「何だい」
「私を愛していますか」
初めて彼の顔から、余裕が消えた。
八年も婚約していて、私は一度も彼にそう尋ねたことがなかった。
十五歳で婚約した日の帰り道、緊張していた私に、彼は『急いで夫婦にならなくていい。まずは一番信頼できる友人になろう』と言ってくれた。
雨の日に自分の外套を貸してくれたことも、私の意見を父侯爵の前で取り上げてくれたこともある。
私は、時間をかけて育てた信頼の先には、同じ種類の愛情があるのだと思っていた。
「君を大切に思っている」
長い沈黙のあと、ルーカスは言った。
「それは、愛しているという意味ですか」
「愛にもいろいろあるだろう。君は僕にとって、誰より信頼できる女性だ。侯爵夫人としても、君以上の人はいない」
「では、私が欲しいものは何でしょう」
「何?」
「ミレーヌ様はあなたの愛を得る。あなたは愛する方と、家を支える妻の両方を得る。では私は、この結婚で何を得るのですか」
ルーカスは本当に分からないという顔をした。
「侯爵夫人の地位と、将来の安定だ。君もそのために、これまで努力してきたんじゃないか」
膝の上の帳面に目を落とした。
今月中に返答が必要な借地契約は七件。橋の修繕費については、二つの商会から見積もりを取った。侯爵夫人の体調を考え、今年の夜会は客を例年より三十人減らしている。
どれも、侯爵夫人になりたくてしたことではない。
この人と家族になるのだと思っていたからだ。
私が差し出した愛情を、彼はずっと、地位を得るための働きだと受け取っていた。
「君は強いから、一人でも大丈夫だろう」
ルーカスは慰めるように続けた。
「だが、ミレーヌには僕が必要なんだ。君なら分かってくれると思った」
胸の奥で、最後まで残っていた何かが、音もなくほどけた。
悲しいはずなのに、不思議なくらい呼吸がしやすくなる。
「よく分かりました」
私が答えると、ルーカスの肩から力が抜けた。
ミレーヌも、涙のにじんだ目で私を見る。
「エレナ様……お許しいただけるのですか」
「いいえ」
二人の表情が同時に止まった。
「私は、お二人の恋を許す立場にはありません。ルーカスの心はルーカスのものです。どなたを愛するかは、ご自分でお決めになればよろしいでしょう」
「それなら――」
「私も、自分の人生を決めます」
左手の手袋を外す。
八年前にルーカスから贈られた婚約指輪を抜き、二人の前の卓上へ置いた。
小さな硬い音が、小客間に響いた。
「待て、エレナ。僕は婚約を解消したいとは言っていない」
「ええ。ですから、私が申し上げます」
革張りの帳面を抱え、立ち上がる。
「明日、フェルド伯爵家から正式な書状をお届けします。侯爵家からお預かりしている書類と権限についても、一覧を作って返却いたします」
「そんな勝手が許されると思っているのか。両家の約束だぞ」
「婚約者以外の女性へ愛を告げ、その交際を公認するよう求められた側には、解消を申し入れる権利があります。ご存じでしょう」
ルーカスの顔から血の気が引いた。
彼は知っていたのだ。
ただ、私がその権利を使うとは、少しも考えていなかった。
「感情的になるな。君との婚約は、僕たちの恋の邪魔にはならないんだ。何も変える必要はない」
最後まで、彼は私に言い聞かせる口調だった。
私はミレーヌへ向き直る。
「どうぞ、ご安心ください。私の婚約が、お二人の恋の邪魔になることはありません」
ミレーヌが、かすかに息を吐いた。
「今日で、なくなりますから」
「エレナ!」
立ち上がったルーカスに、私は一礼した。
「これはご相談ではありません。私の決定です」




