厄災の狂気へ行く
「はい。トラニアの偉大なる魔神エティティド様の力を受け継いだ八人の魔王のうちの一人である、魔竜王ベリアです。えっへん〜」
ベリアが胸を張り、得意げに自分を紹介する。
「そうでしたか。しかしですね。魔王というのは普通、魔王城でフフフと邪悪に笑いながら、英雄が討伐しに来るのを待つ存在ではなかったのですか?」
青年は、自分の知っている魔王と英雄の一般的な関係式を思い浮かべながら首をかしげた。
「ぷっ! それ何なの!」
むしろエドのほうが青年の言葉に吹き出した。
「いったいどの時代、どの世界の話でしょうか。ある異世界ではそんな退屈なことをする魔王もいたようですね。しかし魔王も城にばかりいたら息が詰まるんです。もし魔王が引きこもりならそういうこともあるでしょうね。でも魔王は色々と業務が多いので外回りもしなければなりません。私の知る限り、魔王学校の卒業生の中にはまだ引きこもりは一人もいませんよ。」
ベリアは言葉とともに冷淡に笑った。
「えっへん。魔王学校の教育はいつも完璧なんだから!」
エドが誇らしげに言う。
「はい。その通りです。賢明なる魔神エティティド様がいつも守ってくださり、気を配ってくださっているのですから。」
ベリアも尊敬を込めて惜しみなく称賛する。
「そうだとも! その通りだ!」
エドが満足そうに応じた。
「褒められたのは魔神なのに、どうしてエド様のほうがもっと誇らしそうなんですか?」
青年が呆れながら尋ねる。
「さあね。何が理由だろうな〜」
青年の言葉にも、エドはいたずらっぽく笑うだけで説明を避ける。
「まあ。そのうち分かるさ。勘が良すぎるのも、それはそれで困ることだからな。」
ガードがうなずく。
「ベリア様は魔竜族なのですから、本当の姿は竜なんですよね?」
青年が再びベリアのほうを見て尋ねる。
今のベリアは青年の前で完璧な女性の姿になっていた。
実のところ、美貌だけで見ればエドよりも上と言えるほどだった。
「はい。今は人の姿です。ただし竜族であることが分かるように、頭の上の二本の角と背の下側の竜の尾は残しています。これは魔神エティティド様が魔竜族に指示された事項です。」
ベリアが青年に詳しい説明を付け加える。
「それなら元の魔竜の姿になれば、今よりずっと大きな姿なんでしょうね。」
青年はそう言いながら巨大な魔竜の姿を思い浮かべた。
「まあ、一応そうですね。しかし何か誤解なさっているようなので申し上げますが、人の姿も魔竜の姿もどちらも同じ意味です。本来の姿がどちらなのかとお尋ねなら、どちらも本当の私の姿なのです。」
「え? よく分からないんですが。魔竜から人へ変身したのは事実なんですよね?」
「はい。そして魔竜の姿も同じです。魔竜の姿を維持するのに特別な時間的制約はありません。」
「???」
しかし依然として理解が追いつかない青年は首をかしげるだけだった。
「パパン! パン!」
「グオオ!」
その時、突然結界が砕ける音と魔物の唸り声が同時に響いた。
首を回して音のする方を見ると、砕けた結界を通って魔物たちがなだれ込んできていた。
そして結界を越えてきた魔物たちは、まっすぐ冒険者たちが宿として使っている広場の方へ押し寄せた。
「大変だ。たった今、幻惑の森の結界が壊れた。あれはカルニボアだ。」
エドはその場から勢いよく立ち上がり、周囲を警戒しながら状況を把握する。
「カルニボアの目を見ろ。何かおかしい。」
ガードはカルニボアの様子がおかしいことに気付く。
「確かに、おっしゃる通り目が全部黒いです。」
青年がガードの言葉に従ってカルニボアの目を観察している。
青年は幻惑の森を通って来る途中で様々な魔物と遭遇し、それらを倒しながら観察力を高めていた。
「それで、カルニボアがどうしたというのですか?」
ボンヌが尋ねる。
「厄災の狂気だ。」
エドが淡々と言った。
「緊急事態発生! 幻惑の森の結界が破壊された! 冒険者は全員戦闘準備! 結界の中へ入り込んだ魔物たちを討伐しろ!」
Sランク冒険者であるエドが、周囲にいる全ての冒険者たちに聞こえるよう大声で叫んだ。
魔法で強化されたエドの声が、たちまち空間に反響して響き渡る。
ここに集まっている冒険者たちは皆、幻惑の森を突破できるほどの実力を持つ冒険者たちである。
右往左往したのはほんの一瞬だけで、冒険者たちはすぐに押し寄せてくる魔物の群れへ対抗するため陣形を整え、あちこちで戦闘が始まった。
「頼もしいな。」
ガードが見事な対応に感心する。
「それにしても、結界が崩れた理由は何だ?」
エドは自分に向かって突進してきたカルニボアを簡単に制圧しながら、ガードに尋ねる。
厄災の狂気によって凶暴化したカルニボアではあったが、カルニボア自体が非常に高レベルの魔物ではなかったため、冒険者たちは押されてはいなかった。
もちろんエドの相手にもならなかった。
厄災の狂気によって凶暴化したカルニボアは、本来のレベル20から10レベル上昇したレベル30の状態である。
同様にモルトリデンの場合も、レベル15から凶暴化してレベル25になっている。
「こういうのは結界を作った魔女に聞くのが一番早い。ガード、頼む。」
厄災の狂気で荒れ狂うカルニボアを剣で斬り伏せ、さらに一体倒してからエドが言う。
「仕方ないな。」
ガードは素直にエドの頼みを受け入れた。
そして自分の杖を地面に立てると、魔法の呪文を唱える。
「聖神魔法。時空回廊。真名紋様。」
ガードは召喚呪文とともに、召喚対象の真名紋様を魔法陣の上に置く。
すると魔法陣の四方から光が集まり、一人の女性の姿を形作っていく。
「わあ! ロレラが聖神ガブリド様にお目にかかりま──」
「私は光の司祭ガードだ。」
女性が喜びながら礼を尽くそうとするのを、ガードが淡々と言葉で遮った。
幸い周囲は騒然としていたため、女性がガードに言おうとした言葉を聞いた者はエドだけだった。
「おい、ロレラ。久しぶりだが、今は状況が少し緊急なんだ。」
エドが今しがた到着した古代魔女ロレラに指示する。
「あなたは……魔神エティティド様ではなく……。というか何ですって!? なぜお二人が一緒にいらっしゃるのですか!?」
ガードの言葉に気を遣いながらためらっていた古代魔女ロレラが、おずおずと尋ねる。
「とりあえずエドと呼んでくれ。詳しい事情は後で話す。幻惑の森の結界が崩れた。復旧方法を教えてくれ。」
エドは呼び出した用件を告げた。
「ああ。そういえば結界が崩壊していましたね。しかし、まだ結界の力が弱まっているはずはないのですが。おかしいですね。」
ロレラは不思議そうに再び考え込み始める。
「ロレラ。それもひとまず後で考えるとして、まずは幻惑の森の結界を修復してほしい。」
ガードは考え込み始めたロレラを強引に現実へ引き戻した。
「あっ、そうでしたね。」
ロレラは両手を前に向け、呪文を唱える。
「精霊魔法。管理コンソール。幻惑の森。」
呪文を唱えると、ロレラの両手の前に光の板が現れ、記号や文字が表示された。
ロレラは空中に浮かぶその光る板の上にある記号や文字をあれこれ動かしてみる。
「確認しました。管理コンソールで確認した問題によれば、精霊エネルギータンクと結界との間のエネルギー接続回線が切断されたことが原因のようです。いったい誰がこのような繊細で、しかも高度に複雑な作業を行ったのでしょうか。」
ロレラが再び考え込みそうになると、エドが慌ててロレラの意識を引き戻した。
「誰がやったかは見当がついている。まずは復旧方法を教えてくれ。」
「ああ、そうなんですか。はい。復旧方法ですね。」
ロレラはエドの言葉で再び我に返った。
「ふむ。」
青年は少し悩んでいた。
青年は最初、ナドラ大森林へ出発し、古代魔女ロレラの話を聞いた時、何となく格好いい人物だろうと思い、古代魔女ロレラを美化し憧れていた。
だが実際に召喚されてきたロレラを見てみると、青年の想像とは少し違い、古代魔女はどこか頼りなかった。
「むしろ想像だけで満足して終わっておくべきだった。まったく。」
そして青年は心の中で舌打ちした。
「あっ! そこのあなた! 今、私について悪いことを考えましたね! 私を馬鹿だと思いましたね! 今まさに馬鹿って呼んだでしょう!」
突然ロレラが右手の人差し指で青年を指差しながら地団駄を踏む。
青年は知らなかったが、ロレラはレベルの低い者の心の声を聞くことができる。
つまり青年の心の中はリアルタイムで丸裸にされていた。
とりわけロレラは、自分について悪口を言ったり、あるいはそのような思いを抱く周囲の人物を見つけ出すことにおいて、鬼をも凌ぐほどの索敵魔法の達人である。
Sランク冒険者であればロレラも覗き見るのは難しいだろうが、青年程度のレベルを覗くなど朝飯前だった。
「しまった。」
青年はまずいと思った。
自分の心を読まれたことに気付かないほど、青年は馬鹿ではない。
「私への侮辱。ええ、そういうことですね。ガード様。たった今必要なものが分かりました。幻惑の森の結界を復旧するには、今私の前にいるこの青年が必要です。ふんっ!」
ロレラは状況に合わせて生け贄を選び、青年を要求する。
「ロレラ。青年に非があるのは事実だとしても、だからといって駄々をこねてはいけない。」
しかしガードは穏やかにロレラをたしなめた。
「そ、その通りです。もちろんです。」
青年はガードが味方してくれると分かると、その機会を逃さない。
「ガード様。まさか私を心の狭い女だと思っておられるのではありませんよね。だとしたら本当に誤解です。結界を修復するには精霊回線を再接続しなければなりませんが、その接続に必要な材料が、一度も魔法を使ったことのない者の純粋な魔力エネルギーなのです。純粋な魔力だけが精霊魔法に容易に同化できます。この場合は神聖魔法や魔導魔法よりも効果が高いのです。」
ロレラは誤解だと言いながら首を振り、再び青年を睨みつける。
「あ、それは……。」
青年は何か言いたいことがあったが、どうしても口に出せなかった。
「ロレラ。青年はすでにボンヌに帰属している。どれほど純粋でなければならないのかは知らないが、すでにボンヌが夜から夜明けまで布団の上に浮かびながら青年を見守っている間柄だ。」
周囲では魔物たちが暴れ回り大騒ぎになっていたが、エドはその最中にも隙を見て青年の秘密めいた私生活をロレラに話していた。
「あらまあ! 最近は進展が早いのですね。でもご安心ください。幸い管理コンソール上では何の問題もありません。」
すでに管理コンソールで青年の適性を確認していたロレラが答える。
「いや、何なんですか。うちのハニーに何をしようというんですか! 老いぼれ魔女ともあろう方が、よくそんなことを言えますね!」
青年の立場が勝手に決められていくと、ボンヌが一足飛びに駆け寄り、ロレラにいきなり文句を言った。
「何ですって! 老いぼれ魔女? 今、老いぼれ魔女って言ったわね! どうせ毎晩一緒にいたところで何なのよ! あなたなんて肉のない魚にすぎないじゃない!」
怒ったロレラも負けじと言い返す。
「本当に失礼な方ですね。初対面でいきなり骨の話をするなんて。古代魔女を名乗る方にしては教養がなさすぎます!」
「うわあ! 私が人魚姫の話を知らないとでも思ったの!」
ボンヌが抗議すると、ロレラが悔しそうに声を上げる。
「あっ!」
するとボンヌが慌ててロレラの口を塞いだ。
「何をするのよ!」
「仕方ありませんね。とりあえずうちのハニーをお貸ししますから、人魚姫の話はご遠慮ください。」
ボンヌは慌てて青年をロレラの方へ押しやり、争いを収めようとする。
「でも私たちはもう目を合わせて、一緒に夜を過ごした仲なのですよ。青年の魔力は、魔女が望むほど純粋ではないかもしれませんよ。」
ボンヌは恥ずかしそうに少し身をよじる。
「大丈夫。体に帰属した愛情なんて私は関知しないわ。魔力さえ純粋ならいいのよ。」
ボンヌとロレラは互いに妥協すると、二人は少し含みのある笑みを浮かべた。
「ええ、その点はご心配なく。青年の夜を見守っていましたが、一度たりとも脇道に逸れることはできませんでしたから。」
ボンヌはロレラの耳元に口を寄せて囁く。
しかし二人の声はかなり大きかったため、青年は聞きたくもない会話を無理やり聞かされていた。
「それじゃ、早く始めろ。」
エドが急ぐよう促す。
エドたちは容易に魔物を制圧しているが、レベルの低い冒険者たちはそうではなかった。
損傷した結界を通じて魔物が次々と入り込み続けているため、時間が経てば経つほど冒険者たちは不利になる。
「はい、分かりました。あ、そういえば何とお呼びすれば……。」
ボンヌの名前を知らないロレラが言葉に詰まる。
「ボンヌです。これからよろしくお願いしますね。」
「ああ、ボンヌ。私はロレラよ。会えて嬉しいわ。」
こうしてようやくボンヌとロレラは互いに名乗り合った。
「さあ、それではひとまず青年をこちらへ。」
ロレラが言うと、ボンヌは青年を捕まえてロレラの前へ差し出した。
「はい。お探しの青年はこちらです。何をすればいいんでしょうか?」
青年の代わりにボンヌがロレラへ尋ねる。
「ここに見える二つの光の輪の中へ右手と左手をそれぞれ入れて、手を伸ばす感覚でまっすぐ前へ伸ばしてちょうだい。」
青年は魔物たちが暴れる空間の中で、ロレラの管理コンソールの光の輪へ両手を入れた。
青年のいる場所はエドとガードが魔物を食い止めているため安全だったが、他の場所では冒険者たちが負傷し、倒れていくことが続いていた。
早急に解決しなければならないことは明らかだった。
青年はロレラに言われた通り、急いで手を伸ばしてみる。
しかし水の中へ手を入れたように、何かに触れる感触もなく、漠然とした感覚しかなかった。
「いつまで続ければいいんですか?」
「右手と左手が互いに出会ったら、離さずに握り合えばいいの。そうすれば接続が回復するわ。」
青年の問いに、ロレラはコンソールを見ながら答える。
輪の中へ伸ばした両手は、まるで異なる空間にあるかのように遠く離れている感覚だったが、青年は懸命に両手を振り回し、光の輪の中で両手を握り合うため一生懸命動かした。
「あっ! 見つけました!」
ついに青年が自分の両手を握り合った感覚を覚えると、すぐに叫んだ。
実際にはそれほど時間はかからなかったが、青年にはかなり長く待ったように感じられた。
「うん。確認したわ。結界を再起動する。」
ロレラはそう言うと、管理コンソール上で記号や文字列を動かし、赤く点滅している円をクリックした。
すると直ちに幻惑の森の結界が再稼働し、ナドラギルドを含む周辺空間に結界が復旧して再び形成された。
ロレラが手を離すと、光の板は自動的に消えた。
「結界は復旧した。魔物はもう増えない。残った魔物の討伐に集中する。」
エドは結界が作動したのを確認すると、周囲の冒険者たちへ大声で知らせる。
「よくやった。」
「もったいないお言葉です。当然やるべきことをしただけですから。」
ガードに褒められると、ロレラはとても嬉しそうに恐縮する。
「これで始まりだな。」
エドが結界の向こう側を見る。
「そうだ。第一の厄災の狂気があの向こうにいる。宰樞の選定者が到着したのだ。」
ガードもそう言いながら、少し緊張した表情になった。




