青年の一番目の小さな世界へ行く
青年の心には、ある時の記憶がある。
青年のパーティーがナドラ大森林で厄災の狂気と向き合った時のことだ。
これは、厄災の狂気に染まった魔物たちを相手にした時、青年の意識に発生した接触と、その記録だ。
ただし、青年がその意識の中で長い時間を過ごしたとしても、トラニアの現実から見れば一瞬に過ぎない。
小さな世界の中へ吸い込まれた青年は、人の姿をした形体と向き合っていだ。
四方はすべて明るい光であり、青年の周囲にはただ人の形体だけがある。
青年が視線を集中させると、人の姿の形体は外側はガラスのように透明であり、その中には赤い血がいっぱいに満たされている。
人であることを理解した青年が右腕を伸ばす。
恐怖がないわけではなかったが、他に選択肢があるわけでもなかったため、青年はそのままその形体の手を握る。
そして青年の意識の中へ、相手が持っていた記憶が流れ込んでくる。
「うわあっ!」
しかし溢れ出す記憶の洪水は波となって青年の意識を押し流し、青年の意識は悲鳴とともに、たちまち果てしない奈落へ落ちていく。
まるで空高い場所からそのまま投げ捨てられたように、青年の身体は重力に引かれて下へ落ち、青年の身体を包んだ熱く焼けた空気の激しい風が青年を焼く。
「あっ!」
青年が恐怖で悲鳴を上げた時、青年の口を塞ぐ何かが激しく流れ込んでくる。
「ドボン!」
水である。
熱く焼けた身体を一瞬で硬直させながら、氷のように冷たい水の中で青年は止まる。
急変する現実に意識が適応できず、自分の心臓の音だけが騒々しく頭の中に反響して鳴る。
息の詰まる死の恐怖が意識的によみがえり、青年が海の中でもがく時、死の感情も毎秒ごとによみがえっている。
海の高い水圧が身体を押し潰しながら、青年は全身で苦痛を感じる。
「青年よ。お前は罪を知るか? 私はアベナの八権神のうち六番目である宰樞。そして罪の重さを量る者だ。」
ぼやけていく青年の意識に、六権神である宰樞が青年の精神へ干渉してくる。
「宰樞は、この場所に我が眷属を召喚する。蜘蛛紡績工。」
青年の意識が途切れ、そして青年は別の声を聞く。
「ケケケ。おい、目を開けてみろ? ケケケ。」
陰険な声が青年の耳に聞こえる。
「え? おかしいな。考えてみればまだ何も悪いことをしていないのに、この陰険な声は何だ?」
青年はなりに自分の状況について計算機を叩いている。
そしていくら考えても、自分が陰険な声を報酬として受け取ることはないと思う。
「いや。認められない。どうせなら女神の胸に抱かれていたい。」
死を目前にしたと思った青年は、本音を叫ぶ。
「ケケケ。お前まだ死んでいない。ケケケ。」
今度はまさに青年の目の前で陰険な声が聞こえる。
そうなると、この辺で状況を把握すべきだと、閉じていた目が勝手に開く。
幸い、目の前にいる存在はある意味では安心できた。
「ケケケ。私は蜘蛛紡績工。お前が不死者の網(蜘蛛の巣)に来たことを歓迎する。ケケケ。」
青年の目の前にいた蜘蛛紡績工が自己紹介をしながら、意図的に青年の視界から少し遠ざかると、青年はその時になって、自分が繭となって巨大な蜘蛛の巣に吊るされていることを知る。
青年が見るすべての空間が蜘蛛の巣でできており、その蜘蛛の巣に陣取った蜘蛛紡績工が青年をじっと見つめている。
「ケケケ。どうだ? ケケケ。」
蜘蛛紡績工は言葉とともにさらに遠くへ下がったが、青年にはまるで依然として蜘蛛紡績工が近くにいるかのように、その言葉が鮮明に聞こえる。
青年が身体に力を入れてもがいてみるが、蜘蛛の糸で固定された身体はまったく動かない。
その中で自由なのは青年の頭だけだった。
青年は動かせる唯一の部分である自分の頭を持ち上げ、周囲を見回す。
蜘蛛の糸の接点ごとに繭が一つずつあり、その繭を起点として再び蜘蛛の糸が絶えず成長している。
「どれほど多くの?」
「ケケケ。どれほど多くの地球人かって? ケケケ。」
青年の問いに、蜘蛛紡績工は気味の悪い笑みをさらに奇怪に歪めながら、青年にささやく。
「ケケケ。地球人いい。罪を編むのがいい。貪欲な者。欲情に満ちた者。欲求を我慢できない者。みんな好き。どれほど多くの地球人かって? 地球人とても好き。だから今みんなここにいる。ケケケ。」
蜘蛛紡績工の言葉が青年の耳に聞こえる。
「嘘だ!」
青年は大声で叫んだが、その声は青年の意図とは違って小さく響く。
「ケケケ。あ? また来たな。お前しばらく待つ。ケケケ。」
蜘蛛紡績工は青年を無視し、蜘蛛の糸に掛かる信号を追って青年から遠ざかっていく。
「ちっ。諦めることはできない!」
蜘蛛紡績工が遠ざかると、直感的に好機だと感じた青年が、もがきながら身体を動かそうと努める。
だが、まったく動くことができない。
青年の身体はすでに足先まで蜘蛛の糸に巻き付かれ、繭になっていたからである。
しかし、まもなく蜘蛛紡績工が戻ってくるため、青年に与えられた時間は多くない。
その時、突然青年の頭にボンヌの顔が浮かぶ。
「ああ、ボンヌ。でもこの状況でよりによってボンヌが浮かぶとは。」
切迫した状況で最初に浮かんだのがボンヌであるため、青年自身もあきれたのか笑みが広がる。
そして次の瞬間、何かを思い出す。
まさにボンヌが笑う時の姿である。
歯をカチカチと打ち合わせながら笑うボンヌの顔だった。
「歯をカチカチと打ち合わせる。ああ、そうだ!」
そうだ。青年に武器がまったくないわけではなかった。
ボンヌのおかげで思い出したその武器を、青年はすぐに使い始める。
青年はそうして、まず目の前に見える蜘蛛の糸から歯で噛み始める。
「うっ。これは何の味だ。」
何とも表現できない気味の悪い味が口いっぱいに広がる。
しかし青年は味を選り好みしている場合ではないことを知っている。
天使がよくやったと抱きしめてくれる前に、蜘蛛の一食として生を終える羽目になりそうだった。
そのため青年が必死に繭を噛み、ようやく身体を半分ほど繭から抜き出した時、遠くの方から蜘蛛紡績工が戻ってくる姿が見えた。
「ケケケ。おい、お前何をしている? 駄目だ。待て。ケケケ。」
蜘蛛紡績工の脚が恐ろしいほど素早く動きながら、青年へ向かって近づいてくる。
それに従って青年の歯もものすごい速さで動き、繭から自分の足を抜き出そうと必死になる。
「カタカタ! カタカタ! カタタタタッ! カタカタ! カタカタ! カタタタタッ!」
しばらくの間、蜘蛛紡績工の脚が動く音と青年の歯がぶつかる音だけが空間に続く。
そして二人だけの競走に終わりが見えてくる。
「ケケケ。駄目だ。戻れ。お前は私のものだ。ケケケ。」
蜘蛛紡績工が腕を伸ばして青年を捕まえようとする。
「うわあっ!」
しかし紙一重の差で青年の方が少しだけ早く動き、青年はかろうじて繭から身体をすべて抜き出すと、死に物狂いで蜘蛛の巣の下の空間へ飛び降りた。
暗い空間へ青年の身体が遠ざかっていく。
「ケケケ。しかしお前は私のものだ。永遠に。ケケケ。」
そして蜘蛛紡績工の声が青年の耳についてくる。
蜘蛛紡績工は中身の空になった繭を自分の蜘蛛の巣から切り離すと、青年が飛び降りた空間へ投げ込む。
「ケケケ。あ? また来たな。ケケケ。」
そして気味の悪い笑い声とともに、蜘蛛の糸を伝って消えていく。
再び押しつけてくる水の重圧に、青年は指一本動かすことができない。
「二十二番目に始まった地球文明に属する者よ。その重さは地球人が犯した罪の重さと同じである。」
自らを宰樞と名乗った存在の声が再び耳に聞こえる。
「世界は始まり、発展し、また消滅する。」
宰樞の言葉が再び聞こえ、青年の周囲に海の中を動き回る他の人々の姿が見える。
魔法を使用する人々は潜水服を着ておらず、普段着の姿である。
しかし魔法を使用して快適に海の中を行き来している。
また、水の中でも呼吸が可能であるため、別途の呼吸装置も装着していない。
「ここが地球だって?」
地球には魔法が存在しないということが地球人の常識であるため、青年は魔法を使う地球人たちを見て、地球と非常によく似た別の世界だと思う。
「その通りだ。ここはお前が属している世界。すなわち以前の地球だ。」
宰樞は青年の考えを読み取り、答えを過去形で話してくれる。
そして次の瞬間、人々の姿に変化が生じる。
人の肉体は魔法呪文を唱えると、たちまちその身体がガラスのように固まり、結晶化した人の姿となる。
肉体を持った人々の姿が一人また一人と、青年の周囲で結晶化した人の姿となって増えていく。
「何かがおかしい。」
青年は不吉な予感を覚える。
「魔力爆発。」
そして青年の耳に宰樞の声が聞こえる。
その言葉の通り、周囲の結晶化した人々がその場で爆発し始める。
爆発は止まらなかった。
そうして青年の周囲から地球は消え、何も残らなくなった。
「悔しい。このまま終わらせることはできない。もがき、抵抗する。」
突然、魔力で満たされた空間から人々の叫び声が聞こえる。
「諦めるな。もがき、抵抗しろ。」
人々の声が魔力エネルギーとなり、あちこちで反響しながら響いている。
そして再び魔力エネルギーで満たされた世界で、何かが形を持ってうごめき始める。
魔力で満たされた空間で、またどれほど長い時間が流れたのかは分からない。
何もない空間の中でも、長い時間をただ一つの希望で耐えた人々の意識は、ついにその永遠の待機に疲れ、一人また一人と消えていく。
その絶対的な孤独と寂しさ、そして絶望と挫折が満たした長い時間が流れた。
青年がうごめく何かを再び見る時には、すでに希望を叫んだ人々の声は完全に沈黙した後だった。
だが、それでも青年はその待機の終わりへ到達しつつあった。
だから安堵し、希望を感じる。
「二十二番目の地球文明に属する者よ。お前はどうだ?」
宰樞が再び尋ねる。
「どうだとは?」
意図を理解できず、青年が尋ねた。
「世界は始まり、発展し、また消滅する。」
青年の意識に浮かんだ文章である。
「魔力爆発。」
しかし文章を完成させたのは宰樞ではなく、青年である。
「お前はどうだ?」
「私は……。」
宰樞が尋ねるが、青年は言葉を失った。
地球人が魔力爆発を発生させ、一つの世界が滅亡した出来事である。
「もし地球人である私の努力が世界を滅亡させるなら? いっそ魔力エネルギーで満たされた世界で意識だけが残っていた時の方が良かったのではないか。私は何なのだろう。私は世界で歓迎される存在なのだろうか。真実を知っても他の世界の人々は地球人を受け入れてくれるだろうか。私は。私はトラニアで生きる価値があるのだろうか。」
青年の意識はますます複雑になる。
疑いが次々と疑いを生み続ける。
「魔力爆発。」
宰樞が青年の頭の中へ厄災の種を植え付けようとする。
「もう一度言うけど、私はお前を差別するつもりはない。」
エドが言う。
「今、お前とお前たちは私の管理下にある。」
ガドが言った。
「そういうことだ。」
エドが頷く。
「トラニアへようこそ。」
ガドとエドが笑いながら言う。
青年が初めてトラニアへ来た時、プラムスへ向かって下っていた道で、エドとガドはこのように言ってくれた。
「私はもがき、抵抗します。そして方法を探します。たとえ私は弱く、能力も不足していますが、私が頼ることのできる方々が側にいます。」
青年が自分の頭の中へ入り込もうとする厄災の種を真っ直ぐに見据える。
すると青年の意識へ入り込んでいた厄災の種は、その場で止まった。
「……。」
宰樞が沈黙する。
青年の言葉を聞いたにもかかわらず、宰樞は青年に何も答えない。
すると冷たかった感覚が次第に温かくなり、海で満たされていた周囲の風景はゆっくりと霧の中へ溶け込んでいく。
青年の意識が戻り、再び青年の目の前には皆がいる。
皆を見る青年の心に、懐かしさが押し寄せる。
「魔物の群れを防ぐのだ。」
ガドが言う。
「ガド様のために、この戦い、一歩たりとも退きません。」
レアがガドの隣に立つ。
「エド様の目的を果たすために、譲りません。」
ベリアもレアに負けじとエドの隣に立った。
そして、厄災の狂気に染まった魔物たちに対する青年一行の攻撃が始まる。




