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湯守荘の宿帳には、言えなかった人生が綴られる 〜ブラック企業で壊れた僕は、茨城の山奥で名湯の宿を継ぎました〜  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第9話 名刺入れ

 相沢誠一は、長い時間、風呂から出てこなかった。


 それは不安になるほどの長さではない。けれど、湯守荘にとって久しぶりの客だったから、悠真は脱衣所に続く廊下を何度も気にしてしまった。


 浴場の戸の向こうからは、時折、湯が動く音がする。


 桶を置く音。

 小さく息を吐く音。

 湯口から流れ続ける細い音。


 それだけだった。


「覗きに行かない」


 灯里が廊下の柱にもたれながら言った。


「行かないよ」


「顔が行きそう」


「どんな顔だ」


「心配と緊張と責任感が煮詰まってる顔」


「嫌な煮物だな」


「千代さんなら食べられる味にしてくれるかも」


「俺の顔を料理にするな」


 灯里は笑ったが、声は控えめだった。


 相沢が湯に入っている間、湯守荘全体が少し息を潜めているようだった。厨房では千代が夕食の仕上げに入っているが、鍋の蓋を置く音もいつもより静かに聞こえる。玄造は浴場の外で湯の配管を確認したあと、黙って薪置き場へ戻っていった。


 誰も騒がない。


 誰も「どうだったか」と急かさない。


 湯に浸かっている時間は、客のものなのだと、みんな知っているようだった。


 やがて、脱衣所の戸が開いた。


 相沢が出てきた。


 浴衣に羽織をかけ、手には畳んだタオルを持っている。顔色が、来た時より少しだけやわらかくなっていた。頬に赤みが差しているというほどではない。ただ、眉間のあたりにあった硬さが、湯気にほどけたように薄くなっている。


「お湯加減、いかがでしたか」


 悠真は声をかけた。


 練習していた言葉ではなかった。自然に出た。


 相沢はすぐには答えなかった。


 少しの間、廊下の窓の外を見た。夕方の山の光が、板張りの廊下に斜めに差している。風呂上がりの足には、その板の冷たさが心地よいのかもしれない。


「変わっていました」


 相沢は言った。


 悠真の胸が一瞬、冷えた。


 だが、相沢は続けた。


「でも、残っていました」


「残っていた」


「ええ。昔のままではありません。温度も、湯の出方も、浴場の匂いも少し違う。ですが、湯に入っているうちに、ああ、ここだったなと思いました」


 相沢は、手に持っていたタオルを少し見つめた。


「不思議ですね。身体の方が先に思い出す」


 悠真は、言葉を返せなかった。


 身体が先に思い出す。


 それは湯の記憶だけではない気がした。


 怒鳴り声に肩が跳ねるのも、電話の音で胃が縮むのも、頭で考えるより先に身体が思い出してしまうからだ。だが、相沢の言うそれは、もう少しやわらかいものだった。湯船の深さ。板張りの冷たさ。山の夕方の匂い。


 身体は、痛みだけを覚えているわけではないのかもしれない。


「夕食まで、少しお時間があります」


 悠真は言った。


「お部屋で休まれますか」


「もしよろしければ、少し縁側に出ても?」


「もちろんです」


 山吹の部屋へ案内すると、相沢は縁側に腰を下ろした。


 庭のつつじは、夕方の光の中で色を深くしている。赤い蕾がいくつか、今にも開きそうだった。山から下りてくる風が、湯上がりの肌には少し冷たいかもしれない。


 悠真は羽織をもう一枚持ってくるべきか迷った。


 迷っていると、相沢がこちらを見ずに言った。


「寒くなったら、戻ります」


「はい」


 先回りしすぎたことを、見透かされた気がした。


 悠真は少し離れたところに立つ。


 相沢は縁側で、何もしなかった。


 本を読むでもない。スマートフォンを見るでもない。茶を飲むでもない。庭と山を見ているだけだった。


 その姿を見ているうちに、悠真は灯里の言葉を思い出した。


 今は、黙っている時間なんじゃない?


 あの時は想像でしかなかった。

 今は、目の前にその時間があった。


 人には、誰にも触られたくない沈黙がある。


 それは拒絶ではなく、湯上がりの身体が、自分の輪郭を取り戻すための時間なのかもしれない。


 悠真は一礼して、部屋を出た。


     *


 厨房に戻ると、千代が小鍋の味を見ていた。


 小さな皿に汁を取り、口に含む。何も言わず、味噌を少しだけ足す。次に、鍋の横で下茹でした大根を確認する。箸がすっと入った。千代は満足したのか、蓋を戻した。


「相沢さん、湯から上がりました」


「顔」


「え?」


「どうだった」


 千代に聞かれて、悠真は少し考えた。


「来た時より、少し力が抜けていました」


「なら、食べる」


 千代はそう言った。


 客の食欲を、顔で判断しているらしい。


「全部食べられますかね」


「全部食べなくていい」


「え?」


「食べられる分だけでいい」


 千代は器を並べながら言った。


「残したら悪いと思う人には、最初から少なく盛る」


 悠真は膳を見た。


 たしかに、量は控えめだった。


 小鍋。大根と鶏肉と葱、白菜。

 小鉢にこんにゃくの煮物。

 山菜のおひたし。

 柔らかく炊いた白飯は、小さめの茶碗に。

 汁物は、味噌を薄めにしたもの。

 香の物は少しだけ。


 豪華ではない。


 だが、どれも相沢の体に合わせている。


 食べさせる料理ではなく、食べられるように置かれた料理だった。


 灯里が入口から顔を出した。


「相沢さん、縁側?」


「うん」


「いいね。あそこ、夕方気持ちいいし」


 灯里は膳を覗き込み、声を落とした。


「うわ、これ絶対しみるやつ」


「騒ぐな」


 千代が言う。


「騒いでないです。小声の感動です」


「小声でも五月蠅い」


「ひどい」


 灯里は口を尖らせたが、手はちゃんと動かした。箸を並べ、湯呑みを確認し、食事処の明かりを少し落とす。明るすぎる蛍光灯ではなく、夕方の光が残る程度に調整した。


「何してるの」


 悠真が聞くと、灯里はスイッチの紐を持ったまま言った。


「明るすぎると、病院っぽいじゃん」


「そういうもの?」


「そういうもの。疲れてる人って、光でも疲れる」


 さらっと言う。


 その観察眼が、時々怖いほどだった。


 悠真はふと思った。灯里は、いつどこでそれを覚えたのだろう。人が光で疲れること。声で傷つくこと。明るさの押しつけが負担になること。


 聞きかけて、やめた。


 今は相沢の夕食の時間だった。


     *


 夕食は、広間ではなく小さな食事処に用意した。


 相沢が席につくと、千代は何も言わずに膳を置いた。


 灯里なら「お口に合えばいいんですけど」とか「熱いので気をつけてください」と言いそうな場面だったが、千代は「熱いです」とだけ言った。


 それで十分だった。


 相沢は膳を見下ろした。


 少しの間、箸を取らなかった。


「懐かしいですね」


 相沢が静かに言った。


 千代は答えない。


 悠真が代わりに言うべきか迷ったが、相沢は自分で続けた。


「豪華ではないのに、ちゃんと宿の夕食です」


 千代の眉が、ほんのわずかに動いた。


 褒められたのだと思う。


 灯里が横でにやにやしていたので、悠真は肘で軽く止めた。


 相沢は手を合わせた。


「いただきます」


 その声が、食事処の畳に静かに落ちた。


 最初に味噌汁を飲む。


 次に、大根に箸を入れる。


 大根は柔らかく煮えていた。湯気が立ち、箸で割ると中まで出汁が染みているのが分かる。相沢はそれを口に運び、ゆっくり噛んだ。


 目を閉じるほどではない。


 涙ぐむわけでもない。


 ただ、少し肩が下がった。


 千代はそれを見て、厨房へ戻った。


 それ以上、確認しない。


 食事は順調に進んだ。


 相沢は量こそ多く食べなかったが、一つひとつを丁寧に口に運んだ。こんにゃくの煮物を食べ、山菜を少し取り、白飯を半分ほど食べる。鶏肉は一切れだけ残した。


 悠真は、それを見て胸がざわついた。


 残された。


 そう思った瞬間、会社員時代の癖が出そうになる。


 料理が合わなかったのではないか。

 量が多すぎたのではないか。

 こちらが何か間違えたのではないか。


 灯里が横から小さく囁いた。


「顔」


「え?」


「残しても大丈夫」


 その声で、悠真は我に返った。


 千代も言っていた。


 全部食べなくていい。食べられる分だけでいい。


 残すことは、必ずしも否定ではない。


 相沢は箸を置き、静かに息を吐いた。


「ごちそうさまでした」


「お口に合いましたか」


 悠真が聞くと、相沢は頷いた。


「食べ終えて、急に眠くなる食事でした」


 褒め言葉なのか迷った。


 相沢は笑った。


「よい意味です。身体が、もう休んでもいいと思ったのでしょう」


 灯里が嬉しそうに笑った。


「千代さんの料理、眠くなりますよね」


 厨房から千代の声がした。


「眠らせるために作ってない」


「でも眠くなるんです」


「食べ過ぎ」


「今日はそんなに食べてないです」


「いつも食べ過ぎ」


 相沢が小さく笑った。


 その笑い方は、湯上がりの時よりさらに柔らかかった。


 食後の茶を出すと、相沢は湯呑みを持ったまま、しばらく食事処に座っていた。


 灯里は片づけを手伝うふりをしながら、客の邪魔にならない距離にいる。千代は厨房。玄造は外。食事処には、悠真と相沢だけが残る形になった。


 相沢は、胸ポケットから小さな革の名刺入れを取り出した。


 黒い革の、使い込まれたものだった。角が少し擦れている。相沢はそれを座卓の上に置いた。


「変なものを、まだ持ち歩いておりまして」


 自嘲するような声だった。


 悠真は名刺入れを見た。


「お仕事のものですか」


「ええ。もう使うことはありません」


 相沢は指先で名刺入れの角を撫でた。


「定年退職の日に、机の中を片づけました。会社のものはほとんど置いてきたのですが、これだけ鞄に入れたままで」


「捨てられないもの、ありますよね」


 言ってから、悠真は自分の机の引き出しに置いてきた名刺入れを思い出した。


 捨てることはできなかった。

 でも持ってくることもできなかった。


 相沢とは逆だ。


 相沢は持ってきた。

 悠真は置いてきた。


 どちらが前へ進んでいるのかは分からない。


「名刺など、もう誰にも渡さないのに」


 相沢は言った。


「癖で、入れてしまうのです。上着の内ポケットに。持っていないと落ち着かない。持っていても、落ち着かない」


 その言い方が、胸に残った。


 持っていないと落ち着かない。

 持っていても落ち着かない。


 役割を降ろした後、人はそういうものを抱えるのかもしれない。


「会社では、何をされていたんですか」


 聞いてから、踏み込みすぎたかと思った。


 相沢は嫌な顔をしなかった。


「機械部品の商社におりました。若い頃は営業で、最後の十年は管理職です」


「営業」


 悠真の声に、少しだけ何かが混じったのかもしれない。


 相沢がこちらを見た。


「神崎さんも?」


「……はい。少しだけ」


「少しだけ」


「四年です」


 言った瞬間、また胸が縮んだ。


 四年。


 自分には短く、世間にも短い年数。


 相沢は、名刺入れを見たまま言った。


「四年は、少しだけではありませんよ」


 悠真は顔を上げた。


「働いている時は、十年も二十年も続けている人が大きく見えます。ですが、一年目も四年目も、その時の本人には毎日です」


 相沢は湯呑みを置いた。


「私は四十年近く会社にいましたが、今でも一年目の失敗は覚えています。四年目の苦しさも覚えています。年数が長いから偉いわけではありません」


 悠真は、何も言えなかった。


 会社にいた頃、四年で辞めることは負けのように感じていた。耐えられなかった自分が悪いのだと、何度も思った。人はもっと大変な仕事をしている。もっと長く働いている。自分より苦しい人はいくらでもいる。そうやって、自分の苦しさを小さくしようとした。


 でも、小さくしたところで、消えはしなかった。


「私は逆に、長くいすぎたのかもしれません」


 相沢は続けた。


「会社を離れたら、自分が何を話せばいいのか分からなくなりました。家内が生きていた頃は、まだよかった。怒られましたからね。『会社の話以外はできないの』と」


 相沢は、少し笑った。


「亡くなってからは、怒ってくれる人もいなくなりました」


 食事処の空気が、ゆっくり静かになった。


 悠真は湯呑みを見つめた。


 何か言うべきではない。


 慰める言葉は、きっと違う。


 かわいそうだと言うのも違う。

 大変でしたね、も薄い。

 奥様もきっと、などと言える立場ではない。


 だから、黙っていた。


 相沢も、それを求めていたのかもしれない。


 しばらくして、相沢は名刺入れを開いた。


 中には、数枚の名刺がまだ入っていた。白い紙に、会社名と役職と名前。


 相沢はその一枚を取り出し、見つめた。


「この肩書きがあると、話しやすかったのです」


 彼は言った。


「どこの誰かを説明しなくて済む。何をしてきたか、何を任されているか、それだけで相手が接し方を決めてくれる」


 悠真には、少し分かる気がした。


 会社員であることは苦しかった。

 でも、会社員である限り、少なくとも自分を説明する言葉はあった。


 今の自分は何者なのか。


 無職。

 元営業。

 湯守荘に戻った孫。

 宿を継ぐかどうか決められない人間。


 どれも、自分の輪郭としては頼りなかった。


「定年後、名刺がなくなって、私は急にただの老人になりました」


 相沢は名刺を戻した。


「ただの老人になる準備を、してこなかった」


 静かな言葉だった。


 灯里が食器を拭く音が、遠くに聞こえる。千代が鍋を洗う水音もする。それらの生活音が、相沢の言葉を受け止めているようだった。


 悠真は、ようやく口を開いた。


「俺は、会社を辞めてから、名刺入れを持ってくることも捨てることもできませんでした」


 相沢がこちらを見る。


「東京の部屋に、置いたままです。いらないはずなのに、捨てられなくて。でも、持ってくるのも嫌で」


 言葉が少しずつ出てくる。


「相沢さんとは、たぶん違います。俺は長く勤めたわけでもないし、役職もなかった。でも……会社の名刺がないと、自分が何者なのか分からない感じは、少しだけ」


 話しながら、怖くなった。


 客に自分の話をしてどうするのか。


 宿の人間として、余計なことを言っているのではないか。


 しかし相沢は、静かに聞いていた。


「少しだけ、分かります」


 悠真は最後にそう言った。


 相沢は名刺入れを閉じた。


「少し分かる、で十分です」


 その言葉に、よねの声を思い出した。


 客のことなんて、分からない方が多い。

 少し分かれば十分。


 相沢は名刺入れを胸ポケットに戻さなかった。


 座卓の上に置いたまま、湯呑みを持った。


「明日、神社へ行こうと思っています」


「岩杜神社ですか」


「はい。昔、妻と一度だけ行きました。あの時は、まだ今ほど有名ではありませんでした」


「お送りしましょうか」


「いえ、バスで近くまで行きます。歩けるうちは歩きたいので」


 相沢は少し笑った。


「ただ、道だけ教えていただけると」


「分かりました。灯里が詳しいです。地図も用意します」


「ありがとうございます」


 そこで会話は一度切れた。


 相沢は茶を飲み終え、名刺入れを手に取った。胸ポケットに戻すのかと思ったが、少し迷ったあと、鞄の中へ入れた。


 それだけだった。


 捨てたわけではない。


 手放したわけでもない。


 ただ、胸から鞄へ移しただけ。


 それでも、相沢の表情は少し違って見えた。


     *


 片づけが終わる頃、外はすっかり暗くなっていた。


 相沢は山吹の部屋へ戻り、早めに休むと言った。


 灯里は食器を拭きながら、小さな声で言った。


「食べてくれてよかったね」


「鶏肉、一つ残してた」


「そこ気にする?」


「気になるだろ」


「千代さん、気にしてないよ」


 厨房の奥から千代の声がした。


「気にしてる」


 灯里が「あ」と口を開ける。


 千代は皿を拭きながら続けた。


「でも、悪くない残し方」


「残し方に良し悪しがあるんですか」


 悠真が聞くと、千代は頷いた。


「嫌で残すのと、足りて残すのは違う」


「足りて残す」


「今日は、足りた」


 千代は、残された鶏肉の皿を見てそう判断したらしい。


 灯里が感心したように言う。


「千代さん、やっぱり料理で人のこと見すぎ」


「食べれば分かる」


「私は?」


「食べ過ぎ」


「それしか言われない」


 悠真は少し笑った。


 厨房の笑い声が、山吹の部屋まで届かないよう自然と小さくなる。みんな、そのくらいの距離は分かっていた。


 相沢はきっと、今頃部屋で静かにしている。


 名刺入れを鞄に入れた後、何を考えているのだろう。


 悠真には分からない。


 分かるのは、ほんの少しだけだ。


 それで十分なのかもしれない。


 夜、帳場に戻ると、宿帳が開かれていた。


 相沢は到着時に、丁寧な字で名前を書いていた。相沢誠一。住所。宿泊日。一名。


 休業後、初めての客の名前。


 悠真はその下の余白に、鉛筆で小さく書いた。


『相沢様、入浴。湯は変わっていたが、残っていた、と言われた。夕食は大根と小鍋。鶏肉を一つ残した。悪くない残し方。名刺入れを胸から鞄へ移した。』


 書いてから、少し考える。


 これは宿の記録なのか、自分の記録なのか分からない。


 けれど、残しておきたかった。


 最後に、もう一行足した。


『少し分かる、で十分。』


 帳場の時計が動いている。


 厨房の火は落ちている。


 浴場の湯は、明日の朝のために玄造が調整してくれた。


 山吹の部屋には、客が一人眠っている。


 湯守荘が、宿になっている。


 その事実を思うと、怖さより先に、静かな重みが胸に満ちた。


 悠真は帳場の灯りを少し落とした。


 外では、山の夜が深く濃い。

 川の音が、今日も絶えず流れている。

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