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湯守荘の宿帳には、言えなかった人生が綴られる 〜ブラック企業で壊れた僕は、茨城の山奥で名湯の宿を継ぎました〜  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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10/27

第10話 朝の湯と、しまわれた名刺入れ

 翌朝、悠真はいつもより早く目が覚めた。


 外はまだ青かった。夜が完全には明けきっておらず、障子の向こうに薄い光がにじんでいる。川の音は昨夜より近く聞こえた。雨が降ったのかもしれない。畳の匂いに、少し湿った土の匂いが混じっていた。


 布団の中でしばらく耳を澄ませる。


 廊下の向こうで、誰かが静かに歩く音がした。


 相沢だろうか。


 慌てて起き上がりかけて、悠真は一度止まった。


 客が少し歩いただけで飛び出していく宿主は、たぶん落ち着かない。


 そう思い直し、ゆっくり布団を畳んだ。


 顔を洗い、祖父の半纏に袖を通す。まだ少し大きい。けれど、初めて着た日よりは肩の余りが気にならなくなっていた。体が半纏に慣れたのか、半纏が体に馴染んだのかは分からない。


 帳場へ出ると、時計は六時前を指していた。


 かち、かち、と音を立てている。


 止まっていた時計が動いているだけで、朝の宿は少し違って見える。時間がある場所。人が起き、湯を見て、飯を炊く場所。まだ一人しか客はいないのに、湯守荘は確かに宿の朝を迎えていた。


 浴場へ向かうと、玄造がすでにいた。


 湯船の前にしゃがみ込み、手を湯に入れている。半開きの窓から朝の冷たい空気が入ってきて、湯気が薄く流れていた。


「おはようございます」


「おう」


「湯、どうですか」


「入れる」


 短い答えだった。


 悠真も湯に手を入れた。


 昨日の夕方より、少し熱い。朝の冷えた手には、じんわり沁みた。湯の表面が静かに揺れる。


「朝風呂、案内していいですか」


「いい」


「相沢さん、起きてるみたいです」


「聞いた」


「廊下の音ですか」


「足音が軽かった」


「軽いと、起きてるって分かるんですか」


 玄造は少し考えた。


「寝ぼけてる足じゃなかった」


 そういうものなのだろうか。


 悠真には、まだ分からない。


 でも、玄造には分かるらしい。足音、湯の音、床のきしみ。言葉にならないものを、無口な人ほどよく聞いているのかもしれない。


 脱衣所の籠を確認し、タオルを整える。


 千代が昨夜のうちに用意しておいたものだ。畳まれた白いタオルは、少し硬い。ホテルのようなふわふわしたものではない。けれど、きちんと乾いていて、清潔だった。


「呼んできます」


 悠真が言うと、玄造は頷いた。


     *


 山吹の部屋の前に立ち、軽く声をかけた。


「相沢様、おはようございます」


 少し間があって、戸が開いた。


 相沢はすでに身支度を整えていた。浴衣ではなく、昨日の服に近い落ち着いた格好だ。だが、上着はまだ羽織っていない。座卓の上には、小さな旅行鞄と、昨夜の名刺入れが置かれていた。


「おはようございます」


 相沢は丁寧に頭を下げた。


「よくお休みになれましたか」


「ええ。思っていたより、深く眠れました」


「よかったです」


 その言葉は、本当に口から出た。


 相沢は座卓の名刺入れを見て、少し笑った。


「夜中に一度、目が覚めまして」


「はい」


「名刺入れが胸元にないことに気づきました。少し探してしまいました」


 悠真は何も言わずに聞いた。


「鞄に入れたのは自分なのに、おかしなものです」


 相沢は名刺入れを手に取り、指先で角を撫でた。


「でも、見つけてから、また鞄に戻しました」


 それは、とても小さな出来事だった。


 けれど相沢の声には、昨夜とは違う静けさがあった。胸ポケットに戻さなかった。そのことを、自分で確認しているようだった。


「朝風呂のご用意ができています」


 悠真は言った。


「よろしければ、朝食の前にどうぞ」


「ありがとうございます」


 相沢は名刺入れを鞄の内ポケットへしまった。


 今度は迷いが少なかった。


 浴場へ向かう廊下で、相沢は立ち止まり、窓の外を見た。


「雨が降りましたか」


「夜に少し降ったみたいです」


「道が濡れている」


「神社へ行かれるなら、足元に気をつけてください。灯里があとで地図を持ってきます」


「助かります」


 相沢は廊下の板をゆっくり歩いた。


 昨夜より足取りが安定して見えた。湯に入ったからか、眠れたからか、朝の空気のせいかは分からない。ただ、来た時にあった所在なさが、少しだけ薄れている。


 浴場の前で、悠真は昨日と同じように説明した。


「床が滑りやすいので、お気をつけください。湯は昨日より少し熱めです」


「分かりました」


 相沢は戸に手をかけ、それから振り向いた。


「朝から湯があるのは、贅沢ですね」


「そうですね」


「昔は、当たり前のように思っていました」


 相沢は苦笑した。


「当たり前だったものが当たり前ではないと気づくのは、たいてい後になってからです」


 そう言って、浴場へ入っていった。


 戸が閉まる。


 しばらくして、かけ湯の音がした。


 悠真は廊下に立ったまま、昨夜の相沢の言葉を思い出していた。


 ただの老人になる準備を、してこなかった。


 悠真は、ただの無職になる準備をしていなかった。


 会社員という肩書きが苦しかったのに、それを失った途端に、自分の形が分からなくなった。相沢とは違う。けれど、少し分かる。


 少し分かる、で十分。


 昨日、自分で宿帳に書いた言葉を思い出す。


     *


 朝食は、千代の粥だった。


 土鍋で炊かれた白粥に、梅干しと大根の葉の浅漬け。小さな卵焼き。味噌汁は薄めで、豆腐と葱だけ。派手なものは何もない。


 相沢は膳を見て、少し目を細めた。


「これは、懐かしい」


 千代は何も言わなかった。


 ただ、粥の器を相沢の前へ少しだけ寄せた。


 相沢は手を合わせた。


「いただきます」


 粥をひと口食べる。


 その瞬間、相沢の表情がほんの少し変わった。


 泣きそう、というほどではない。だが、目元に力が入った。何かを飲み込むように、ゆっくり喉が動く。


 千代はそれを見ても、何も言わなかった。


 悠真は食事処の端に立ち、声をかけるべきか迷った。だが、灯里が横から小さく首を振った。


 今は、食べる時間。


 そう言っているようだった。


 相沢は粥をゆっくり食べた。


 卵焼きは半分。味噌汁は全部。漬物は少しだけ。梅干しは最後まで残して、粥の終わりに小さく崩して食べた。


 食べ終えると、静かに箸を置く。


「ごちそうさまでした」


 相沢は千代の方を見た。


「昔、花江さんに出していただいた粥を思い出しました」


 千代は、鍋の蓋を拭いていた手を止めた。


「違う」


「ええ。違います」


 相沢は穏やかに頷いた。


「でも、同じ宿の粥でした」


 千代はしばらく黙っていた。


 それから短く言った。


「なら、いい」


 それだけだった。


 しかし悠真には、千代が少しだけ嬉しそうに見えた。


 灯里も同じように感じたらしく、にやっと笑いかけたが、千代に一瞥されてすぐ真顔になった。


「灯里さん」


 相沢が声をかけた。


「はい」


「神社への道を、教えていただけますか」


「もちろんです」


 灯里は待ってましたとばかりに、折りたたんだ地図を広げた。手描きの地図だった。役場で配る観光マップではなく、灯里が自分で書いたらしい。バス停、坂道、滑りやすい石段、休めるベンチ、湧き水の場所まで描き込まれている。


「ここからバスで二つ目まで行って、そこから歩くのが一番楽です。雨上がりだと、この辺の石が滑るので気をつけてください。あと、杉の根っこが出てるところがあるので、そこも」


「詳しいですね」


「転ぶ人、多いんです。パワースポットだからって上ばっかり見てると、足元に現実が来るんで」


 相沢が笑った。


「足元に現実」


「そうです。神様より先に石につまずきます」


「肝に銘じます」


 灯里は少し声を落とした。


「無理に奥まで行かなくていいですよ。参道の途中でも、十分気持ちいいです。今日は空気もきれいだし」


「ありがとうございます」


 相沢は地図を丁寧に畳んで受け取った。


 その手元を見て、悠真は名刺入れが胸ポケットにないことに気づいた。


 上着の内側が、少しだけ軽く見えた。


     *


 相沢は十時過ぎに宿を出た。


 神社へ向かい、そのまま午後のバスで帰る予定だという。湯守荘で昼まで休んでもらってもいいと伝えたが、相沢は「歩けるうちに歩いておきます」と言った。


 玄関で靴を履く時、悠真はまた自然にその靴を揃えた。


 相沢はそれを見て、何も言わずに微笑んだ。


 旅行鞄を渡すと、相沢は軽く持ち上げた。


「昨日より軽い気がします」


「荷物は変わっていないと思います」


「ええ。ですから、気がするだけです」


 相沢は帽子をかぶり、玄関の外へ出た。


 雨上がりの空は明るかった。雲の切れ間から日が差し、石段の端に残った水滴が光っている。山の緑は濡れて濃く、つつじの蕾が一つだけ開いていた。


 灯里がそれに気づいた。


「あ、咲いてる」


 相沢も振り返った。


 赤い花が、小さく開いていた。


「間に合いましたね」


 相沢は言った。


「何にですか」


 悠真が聞くと、相沢は少し考えた。


「今日に、でしょうか」


 その答えは曖昧だった。


 けれど、何となく分かる気がした。


 相沢は宿を振り返り、深く頭を下げた。


「お世話になりました」


「ありがとうございました」


 悠真も頭を下げた。


 その時、何か気の利いたことを言わなければと思った。


 またのお越しをお待ちしております。

 お気をつけて。

 神社、よい時間になりますように。


 いくつかの言葉が浮かび、どれも少し違う気がして消えた。


 相沢は、そんな悠真の迷いを見透かしたように言った。


「何も言われなかったのが、よかったです」


 悠真は顔を上げた。


「え?」


「昨日、湯上がりに縁側で座っていた時も、夕食の時も、余計なことを尋ねられなかった。ありがたかった」


 相沢は静かに続けた。


「人は、話したくて来る時もあります。でも、話さずに済む場所を探して来る時もある」


 悠真は息を止めた。


「湯守荘は、昔からそういう場所でした」


 相沢は庭の方を見た。


「今も、少しそうでした」


 完全にそうだとは言わない。


 少し。


 その言葉が、かえって本当らしかった。


 悠真はゆっくり頭を下げた。


「ありがとうございます」


 今度は、謝罪ではなく礼だった。


 相沢は頷いた。


「義一さんと花江さんに、どうかよろしくお伝えください。千代さんのお粥も、とてもありがたかったと」


「伝えます」


「それから」


 相沢は一度、鞄に手を置いた。


 名刺入れが入っている場所だろう。


「胸が少し軽くなりました」


 そう言って、相沢は小さく笑った。


 灯里がいつもの調子より少し静かに言う。


「坂、伸びてたら休みながら行ってくださいね」


「はい。坂のせいにします」


「それがいいです」


 相沢は石段を下りた。


 一歩ずつ、ゆっくり坂を下っていく。昨日より背筋が伸びているように見えたが、それは悠真の願望かもしれない。


 けれど、鞄を持つ手は軽そうだった。


 坂の途中で、相沢は一度振り返った。


 湯守荘を見た。


 それから、帽子に手を添えて小さく会釈し、再び歩き出した。


 姿が木々の向こうに消えるまで、悠真は玄関先に立っていた。


     *


 相沢が去った後の山吹の部屋は、空っぽだった。


 布団はきちんと畳まれていなかった。


 敷布団の上に掛け布団が軽く寄せられているだけ。枕も少し斜めになっている。座卓の上には、使用済みの湯呑みが一つ。窓際の座布団は、庭の方へ向いたままだった。


 よねの言葉を思い出す。


 元気な客は布団を雑に畳む。疲れてる客は畳まない。気を使いすぎる客は、畳んだ布団を変な場所に置く。


 相沢は、畳まなかった。


 それは悪いことではないのだろう。


 ここでは、気を使いすぎなかったということかもしれない。


 悠真は布団に触れた。


 少しだけ温もりが残っている気がした。


 客が泊まった部屋。


 昨日まで準備していた部屋が、今日は誰かが眠った部屋になった。


 その違いは、思ったより大きかった。


 灯里が入口から顔を出した。


「どう?」


「空っぽだなと思って」


「宿の部屋って、客が帰った後が一番宿っぽいよね」


「そうなの?」


「なんとなく。誰かがいた跡があるから」


 灯里は座卓の湯呑みを手に取った。


「お茶、飲み切ってる」


「うん」


「よかったね」


 悠真は頷いた。


 それから、部屋の隅に小さな紙片が落ちているのに気づいた。


 拾い上げると、名刺だった。


 相沢誠一。

 会社名と、役職が印刷されている。


 昨日見せてくれた名刺入れに入っていたものの一枚だろう。


 落としたのか。

 それとも置いていったのか。


 判断がつかなかった。


 灯里もそれを見て、少し黙った。


「連絡する?」


「うん。落とし物なら」


「そうだね」


 だが、悠真はすぐには動けなかった。


 名刺には、かつての相沢の肩書きが残っている。昨日の夜、彼が話していたもの。胸ポケットから鞄へ移したもの。その中の一枚が、山吹の部屋に残っている。


 忘れ物かもしれない。


 でも、意図的かもしれない。


 どちらにしても、勝手に意味を決めてはいけない。


「電話して、確認する」


 悠真は言った。


 灯里は頷いた。


「それがいい」


 名刺を封筒に入れ、帳場へ持っていく。


 宿帳には、相沢の名前がある。


 悠真はその下の余白に、今日のことを書いた。


『相沢様、朝風呂。粥。岩杜神社へ。名刺入れは鞄の内側へ。見送りの時、何も言われなかったのがよかった、と言われた。山吹に名刺一枚。確認すること。』


 書き終えると、少しだけ手が止まった。


 そして、もう一行足した。


『湯守荘に、最初の客が泊まった。』


 それは事実だった。


 ただの記録だった。


 だが、その一文を書いた瞬間、悠真の胸の奥に、言葉にできないものが静かに広がった。


 うれしい、と言えば軽い。


 安心した、と言えば足りない。


 誇らしい、と言うにはまだ早い。


 それでも、昨日までの自分とは少し違う場所に立っている気がした。


 湯守荘は、一晩だけ宿になった。


 そして、朝に客を見送った。


 玄関の方から、千代の声がした。


「昼、食べる?」


 悠真は顔を上げた。


 灯里が笑っている。


「食べます」


 悠真は答えた。


「お腹、空きました」


 その言葉に、千代は何も返さなかった。


 ただ厨房から、鍋の蓋が開く音がした。

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