第10話 朝の湯と、しまわれた名刺入れ
翌朝、悠真はいつもより早く目が覚めた。
外はまだ青かった。夜が完全には明けきっておらず、障子の向こうに薄い光がにじんでいる。川の音は昨夜より近く聞こえた。雨が降ったのかもしれない。畳の匂いに、少し湿った土の匂いが混じっていた。
布団の中でしばらく耳を澄ませる。
廊下の向こうで、誰かが静かに歩く音がした。
相沢だろうか。
慌てて起き上がりかけて、悠真は一度止まった。
客が少し歩いただけで飛び出していく宿主は、たぶん落ち着かない。
そう思い直し、ゆっくり布団を畳んだ。
顔を洗い、祖父の半纏に袖を通す。まだ少し大きい。けれど、初めて着た日よりは肩の余りが気にならなくなっていた。体が半纏に慣れたのか、半纏が体に馴染んだのかは分からない。
帳場へ出ると、時計は六時前を指していた。
かち、かち、と音を立てている。
止まっていた時計が動いているだけで、朝の宿は少し違って見える。時間がある場所。人が起き、湯を見て、飯を炊く場所。まだ一人しか客はいないのに、湯守荘は確かに宿の朝を迎えていた。
浴場へ向かうと、玄造がすでにいた。
湯船の前にしゃがみ込み、手を湯に入れている。半開きの窓から朝の冷たい空気が入ってきて、湯気が薄く流れていた。
「おはようございます」
「おう」
「湯、どうですか」
「入れる」
短い答えだった。
悠真も湯に手を入れた。
昨日の夕方より、少し熱い。朝の冷えた手には、じんわり沁みた。湯の表面が静かに揺れる。
「朝風呂、案内していいですか」
「いい」
「相沢さん、起きてるみたいです」
「聞いた」
「廊下の音ですか」
「足音が軽かった」
「軽いと、起きてるって分かるんですか」
玄造は少し考えた。
「寝ぼけてる足じゃなかった」
そういうものなのだろうか。
悠真には、まだ分からない。
でも、玄造には分かるらしい。足音、湯の音、床のきしみ。言葉にならないものを、無口な人ほどよく聞いているのかもしれない。
脱衣所の籠を確認し、タオルを整える。
千代が昨夜のうちに用意しておいたものだ。畳まれた白いタオルは、少し硬い。ホテルのようなふわふわしたものではない。けれど、きちんと乾いていて、清潔だった。
「呼んできます」
悠真が言うと、玄造は頷いた。
*
山吹の部屋の前に立ち、軽く声をかけた。
「相沢様、おはようございます」
少し間があって、戸が開いた。
相沢はすでに身支度を整えていた。浴衣ではなく、昨日の服に近い落ち着いた格好だ。だが、上着はまだ羽織っていない。座卓の上には、小さな旅行鞄と、昨夜の名刺入れが置かれていた。
「おはようございます」
相沢は丁寧に頭を下げた。
「よくお休みになれましたか」
「ええ。思っていたより、深く眠れました」
「よかったです」
その言葉は、本当に口から出た。
相沢は座卓の名刺入れを見て、少し笑った。
「夜中に一度、目が覚めまして」
「はい」
「名刺入れが胸元にないことに気づきました。少し探してしまいました」
悠真は何も言わずに聞いた。
「鞄に入れたのは自分なのに、おかしなものです」
相沢は名刺入れを手に取り、指先で角を撫でた。
「でも、見つけてから、また鞄に戻しました」
それは、とても小さな出来事だった。
けれど相沢の声には、昨夜とは違う静けさがあった。胸ポケットに戻さなかった。そのことを、自分で確認しているようだった。
「朝風呂のご用意ができています」
悠真は言った。
「よろしければ、朝食の前にどうぞ」
「ありがとうございます」
相沢は名刺入れを鞄の内ポケットへしまった。
今度は迷いが少なかった。
浴場へ向かう廊下で、相沢は立ち止まり、窓の外を見た。
「雨が降りましたか」
「夜に少し降ったみたいです」
「道が濡れている」
「神社へ行かれるなら、足元に気をつけてください。灯里があとで地図を持ってきます」
「助かります」
相沢は廊下の板をゆっくり歩いた。
昨夜より足取りが安定して見えた。湯に入ったからか、眠れたからか、朝の空気のせいかは分からない。ただ、来た時にあった所在なさが、少しだけ薄れている。
浴場の前で、悠真は昨日と同じように説明した。
「床が滑りやすいので、お気をつけください。湯は昨日より少し熱めです」
「分かりました」
相沢は戸に手をかけ、それから振り向いた。
「朝から湯があるのは、贅沢ですね」
「そうですね」
「昔は、当たり前のように思っていました」
相沢は苦笑した。
「当たり前だったものが当たり前ではないと気づくのは、たいてい後になってからです」
そう言って、浴場へ入っていった。
戸が閉まる。
しばらくして、かけ湯の音がした。
悠真は廊下に立ったまま、昨夜の相沢の言葉を思い出していた。
ただの老人になる準備を、してこなかった。
悠真は、ただの無職になる準備をしていなかった。
会社員という肩書きが苦しかったのに、それを失った途端に、自分の形が分からなくなった。相沢とは違う。けれど、少し分かる。
少し分かる、で十分。
昨日、自分で宿帳に書いた言葉を思い出す。
*
朝食は、千代の粥だった。
土鍋で炊かれた白粥に、梅干しと大根の葉の浅漬け。小さな卵焼き。味噌汁は薄めで、豆腐と葱だけ。派手なものは何もない。
相沢は膳を見て、少し目を細めた。
「これは、懐かしい」
千代は何も言わなかった。
ただ、粥の器を相沢の前へ少しだけ寄せた。
相沢は手を合わせた。
「いただきます」
粥をひと口食べる。
その瞬間、相沢の表情がほんの少し変わった。
泣きそう、というほどではない。だが、目元に力が入った。何かを飲み込むように、ゆっくり喉が動く。
千代はそれを見ても、何も言わなかった。
悠真は食事処の端に立ち、声をかけるべきか迷った。だが、灯里が横から小さく首を振った。
今は、食べる時間。
そう言っているようだった。
相沢は粥をゆっくり食べた。
卵焼きは半分。味噌汁は全部。漬物は少しだけ。梅干しは最後まで残して、粥の終わりに小さく崩して食べた。
食べ終えると、静かに箸を置く。
「ごちそうさまでした」
相沢は千代の方を見た。
「昔、花江さんに出していただいた粥を思い出しました」
千代は、鍋の蓋を拭いていた手を止めた。
「違う」
「ええ。違います」
相沢は穏やかに頷いた。
「でも、同じ宿の粥でした」
千代はしばらく黙っていた。
それから短く言った。
「なら、いい」
それだけだった。
しかし悠真には、千代が少しだけ嬉しそうに見えた。
灯里も同じように感じたらしく、にやっと笑いかけたが、千代に一瞥されてすぐ真顔になった。
「灯里さん」
相沢が声をかけた。
「はい」
「神社への道を、教えていただけますか」
「もちろんです」
灯里は待ってましたとばかりに、折りたたんだ地図を広げた。手描きの地図だった。役場で配る観光マップではなく、灯里が自分で書いたらしい。バス停、坂道、滑りやすい石段、休めるベンチ、湧き水の場所まで描き込まれている。
「ここからバスで二つ目まで行って、そこから歩くのが一番楽です。雨上がりだと、この辺の石が滑るので気をつけてください。あと、杉の根っこが出てるところがあるので、そこも」
「詳しいですね」
「転ぶ人、多いんです。パワースポットだからって上ばっかり見てると、足元に現実が来るんで」
相沢が笑った。
「足元に現実」
「そうです。神様より先に石につまずきます」
「肝に銘じます」
灯里は少し声を落とした。
「無理に奥まで行かなくていいですよ。参道の途中でも、十分気持ちいいです。今日は空気もきれいだし」
「ありがとうございます」
相沢は地図を丁寧に畳んで受け取った。
その手元を見て、悠真は名刺入れが胸ポケットにないことに気づいた。
上着の内側が、少しだけ軽く見えた。
*
相沢は十時過ぎに宿を出た。
神社へ向かい、そのまま午後のバスで帰る予定だという。湯守荘で昼まで休んでもらってもいいと伝えたが、相沢は「歩けるうちに歩いておきます」と言った。
玄関で靴を履く時、悠真はまた自然にその靴を揃えた。
相沢はそれを見て、何も言わずに微笑んだ。
旅行鞄を渡すと、相沢は軽く持ち上げた。
「昨日より軽い気がします」
「荷物は変わっていないと思います」
「ええ。ですから、気がするだけです」
相沢は帽子をかぶり、玄関の外へ出た。
雨上がりの空は明るかった。雲の切れ間から日が差し、石段の端に残った水滴が光っている。山の緑は濡れて濃く、つつじの蕾が一つだけ開いていた。
灯里がそれに気づいた。
「あ、咲いてる」
相沢も振り返った。
赤い花が、小さく開いていた。
「間に合いましたね」
相沢は言った。
「何にですか」
悠真が聞くと、相沢は少し考えた。
「今日に、でしょうか」
その答えは曖昧だった。
けれど、何となく分かる気がした。
相沢は宿を振り返り、深く頭を下げた。
「お世話になりました」
「ありがとうございました」
悠真も頭を下げた。
その時、何か気の利いたことを言わなければと思った。
またのお越しをお待ちしております。
お気をつけて。
神社、よい時間になりますように。
いくつかの言葉が浮かび、どれも少し違う気がして消えた。
相沢は、そんな悠真の迷いを見透かしたように言った。
「何も言われなかったのが、よかったです」
悠真は顔を上げた。
「え?」
「昨日、湯上がりに縁側で座っていた時も、夕食の時も、余計なことを尋ねられなかった。ありがたかった」
相沢は静かに続けた。
「人は、話したくて来る時もあります。でも、話さずに済む場所を探して来る時もある」
悠真は息を止めた。
「湯守荘は、昔からそういう場所でした」
相沢は庭の方を見た。
「今も、少しそうでした」
完全にそうだとは言わない。
少し。
その言葉が、かえって本当らしかった。
悠真はゆっくり頭を下げた。
「ありがとうございます」
今度は、謝罪ではなく礼だった。
相沢は頷いた。
「義一さんと花江さんに、どうかよろしくお伝えください。千代さんのお粥も、とてもありがたかったと」
「伝えます」
「それから」
相沢は一度、鞄に手を置いた。
名刺入れが入っている場所だろう。
「胸が少し軽くなりました」
そう言って、相沢は小さく笑った。
灯里がいつもの調子より少し静かに言う。
「坂、伸びてたら休みながら行ってくださいね」
「はい。坂のせいにします」
「それがいいです」
相沢は石段を下りた。
一歩ずつ、ゆっくり坂を下っていく。昨日より背筋が伸びているように見えたが、それは悠真の願望かもしれない。
けれど、鞄を持つ手は軽そうだった。
坂の途中で、相沢は一度振り返った。
湯守荘を見た。
それから、帽子に手を添えて小さく会釈し、再び歩き出した。
姿が木々の向こうに消えるまで、悠真は玄関先に立っていた。
*
相沢が去った後の山吹の部屋は、空っぽだった。
布団はきちんと畳まれていなかった。
敷布団の上に掛け布団が軽く寄せられているだけ。枕も少し斜めになっている。座卓の上には、使用済みの湯呑みが一つ。窓際の座布団は、庭の方へ向いたままだった。
よねの言葉を思い出す。
元気な客は布団を雑に畳む。疲れてる客は畳まない。気を使いすぎる客は、畳んだ布団を変な場所に置く。
相沢は、畳まなかった。
それは悪いことではないのだろう。
ここでは、気を使いすぎなかったということかもしれない。
悠真は布団に触れた。
少しだけ温もりが残っている気がした。
客が泊まった部屋。
昨日まで準備していた部屋が、今日は誰かが眠った部屋になった。
その違いは、思ったより大きかった。
灯里が入口から顔を出した。
「どう?」
「空っぽだなと思って」
「宿の部屋って、客が帰った後が一番宿っぽいよね」
「そうなの?」
「なんとなく。誰かがいた跡があるから」
灯里は座卓の湯呑みを手に取った。
「お茶、飲み切ってる」
「うん」
「よかったね」
悠真は頷いた。
それから、部屋の隅に小さな紙片が落ちているのに気づいた。
拾い上げると、名刺だった。
相沢誠一。
会社名と、役職が印刷されている。
昨日見せてくれた名刺入れに入っていたものの一枚だろう。
落としたのか。
それとも置いていったのか。
判断がつかなかった。
灯里もそれを見て、少し黙った。
「連絡する?」
「うん。落とし物なら」
「そうだね」
だが、悠真はすぐには動けなかった。
名刺には、かつての相沢の肩書きが残っている。昨日の夜、彼が話していたもの。胸ポケットから鞄へ移したもの。その中の一枚が、山吹の部屋に残っている。
忘れ物かもしれない。
でも、意図的かもしれない。
どちらにしても、勝手に意味を決めてはいけない。
「電話して、確認する」
悠真は言った。
灯里は頷いた。
「それがいい」
名刺を封筒に入れ、帳場へ持っていく。
宿帳には、相沢の名前がある。
悠真はその下の余白に、今日のことを書いた。
『相沢様、朝風呂。粥。岩杜神社へ。名刺入れは鞄の内側へ。見送りの時、何も言われなかったのがよかった、と言われた。山吹に名刺一枚。確認すること。』
書き終えると、少しだけ手が止まった。
そして、もう一行足した。
『湯守荘に、最初の客が泊まった。』
それは事実だった。
ただの記録だった。
だが、その一文を書いた瞬間、悠真の胸の奥に、言葉にできないものが静かに広がった。
うれしい、と言えば軽い。
安心した、と言えば足りない。
誇らしい、と言うにはまだ早い。
それでも、昨日までの自分とは少し違う場所に立っている気がした。
湯守荘は、一晩だけ宿になった。
そして、朝に客を見送った。
玄関の方から、千代の声がした。
「昼、食べる?」
悠真は顔を上げた。
灯里が笑っている。
「食べます」
悠真は答えた。
「お腹、空きました」
その言葉に、千代は何も返さなかった。
ただ厨房から、鍋の蓋が開く音がした。




