第11話 残された一枚
昼食は、朝の粥の残りを少し固めに温め直したものと、甚六の大根の味噌汁だった。
千代は「雑炊」と言ったが、灯里は「これは粥の二日目じゃないですか」と言った。千代は「二日目の方がうまい」とだけ返した。確かに、出汁を吸った米は朝より少し丸くなっていて、疲れた胃にゆっくり落ちていった。
相沢を見送った後の湯守荘は、不思議な静けさに包まれていた。
客がいない静けさとは違う。
昨日までの湯守荘は、誰かを待つために静かだった。今は、誰かを見送った後の静けさだった。山吹の部屋には布団の跡があり、湯呑みに茶の跡が残り、浴場には朝の湯の名残があった。
一晩だけでも、人が泊まった。
その事実が、建物の隅々に薄く残っている。
「で、電話するんでしょ」
灯里が雑炊を食べながら言った。
「名刺のこと?」
「うん。落とし物かどうか確認しないと」
「そうだな」
悠真は茶碗の中を見た。
山吹で拾った名刺は、いま帳場の引き出しに入れてある。封筒に入れ、相沢の名前を書いた。失くさないためだ。
たった一枚の紙だった。
けれど、ただの落とし物とは思えなかった。
あの名刺には、会社名と役職と相沢誠一という名前が印刷されていた。昨日、相沢が「この肩書きがあると話しやすかった」と言ったもの。そのうちの一枚が、山吹に残っている。
「もし、わざとだったら?」
悠真は言った。
灯里は箸を止めた。
「それでも聞いた方がいいと思う」
「そうかな」
「うん。こっちが勝手に意味決めちゃうのは、ちょっと違う気がする」
灯里は雑炊を少し冷ましながら続けた。
「置いていったなら、置いていったって本人が言えばいい。落としたなら返せばいい。どっちか分からないまま、これは旅立ちの象徴ですね、みたいにこっちで決めたら、なんか気持ち悪い」
「言い方」
「でも、そうじゃない?」
「まあ……そうだな」
灯里のこういうところは、妙に信用できる。
人の痛みには敏感だが、勝手に物語にしすぎない。泣いている人を見て、すぐに「きっとこういう理由だ」と決めつけない。距離を取るところは、ちゃんと取る。
それは優しさなのだと思う。
本人はたぶん、そんな言い方を嫌がるだろうけれど。
千代が空になった鍋を片づけながら言った。
「聞けばいい」
「千代さんもそう思いますか」
「落とし物は聞く」
「はい」
「聞いたら、飯食べたかも聞く」
「相沢さんにですか?」
「神社へ行くなら、昼を抜くかもしれない」
千代の心配は、やはり食べ物へ向かう。
灯里が笑った。
「千代さん、相沢さんのお母さんみたいになってますよ」
「母親じゃない」
「でも、昼ご飯の心配してる」
「腹が減ると危ない」
「山道ですからね」
千代は真面目な顔で頷いた。
悠真は思わず少し笑った。
笑ってから、相沢がいなくなった食事処を見回した。昨日の夜、彼が名刺入れを座卓に置き、定年後の空白を話した場所。今は茶碗と箸と、灯里が使った湯呑みがあるだけだ。
人の話は、場に少し残る。
目に見えない湯気のように。
*
帳場へ戻ると、黒電話の前でしばらく手が止まった。
電話をかけるのは、まだ苦手だった。
相手が客であっても、会社ではなくても、受話器を持つだけで胃のあたりが緊張する。指先が、番号を回す前から少し冷える。
灯里は帳場の入口に立っていた。
「代わろうか?」
軽い声だった。
だが、その目は真面目だった。
悠真は首を振った。
「自分でかける」
「うん」
「途中で固まったら」
「横で変顔する」
「助ける気ある?」
「あるよ。変顔見たら、会社のこととか一瞬どうでもよくなるでしょ」
「違う意味で怖い」
灯里はにっと笑った。
悠真は番号を回した。
相沢が宿帳に書いた電話番号。ゆっくり確認しながらダイヤルを回す。黒電話のダイヤルは、指を入れて回すたびにじりじりと戻った。その遅さが、かえって呼吸を整える時間になった。
呼び出し音。
一回。
二回。
三回。
相沢は出なかった。
まだ神社か、バスの中かもしれない。留守番電話にもならない。悠真は受話器を置いた。
「出ない?」
「うん」
「じゃあ、あとでまた」
「そうする」
少しほっとした自分がいた。
電話を終えずに済んだ安心と、確認できなかった落ち着かなさが同時にある。
灯里は帳場に入り、宿帳を覗いた。
「昨日の記録、書いた?」
「少し」
「見ていい?」
「だめ」
「え、何で」
「恥ずかしい」
「業務記録でしょ」
「業務記録なのか分からないから」
悠真は宿帳を閉じた。
灯里は口を尖らせる。
「けち」
「けちでいい」
「でも、書いてるのはいいと思うよ」
灯里は帳場の椅子に腰を下ろさず、黒電話の横に立ったまま言った。
「何があったかって、すぐ流れるから」
「流れる?」
「うん。今日、相沢さん泊まってよかったねって思っても、明日には次の修理とか買い出しとかで頭いっぱいになるじゃん。でも、書いておけば残る」
灯里は黒電話の受話器を指先で軽くつついた。
「宿帳って、客の名前だけじゃなくて、宿側の記憶も残していいんじゃない」
「そんなことしていいのかな」
「誰に許可取るの」
「おじいちゃん?」
「義一さんなら『書きたきゃ書け』って言いそう」
「言いそうだな」
二人で少し笑った。
悠真は閉じた宿帳に手を置いた。
相沢の名前が書かれている。
休業後、最初の客の名前。
そこに自分の余白の記録が続いている。
宿帳を私物化しているような気もする。だが、今の自分には必要だった。何ができて、何が怖くて、誰が来て、どんな言葉が残ったのか。書いておかないと、全部自分の中で曖昧になってしまう。
曖昧になれば、また「何もできていない」に戻ってしまう。
昨日、自分は客を迎えた。
その事実を、自分で消さないために書いているのかもしれない。
*
午後、祖父母へ電話をかけた。
今度はすぐに祖母が出た。
『はい、神崎です』
「悠真です」
『ああ、悠真。相沢さん、泊まられた?』
「うん。今朝、神社へ行くって出た」
『そう。無事に泊まれたのね』
祖母の声が、少しだけ震えた気がした。
悠真は帳場の椅子に座り、昨日からのことを順番に話した。相沢が坂を歩いてきたこと。山吹に案内したこと。湯に入り、「変わっていたけれど残っていた」と言ったこと。夕食を食べ、名刺入れの話をしたこと。朝に粥を食べたこと。見送りの時、「何も言われなかったのがよかった」と言われたこと。
祖母は途中でほとんど口を挟まなかった。
ただ、時折「そう」「そうなの」とだけ言った。
話し終えると、電話の向こうで深い息が聞こえた。
『花江です』
祖母が誰かに向けて言った。たぶん、近くに祖父がいる。
『相沢さん、泊まってくださったって。湯にも入って、朝に神社へ行かれたそうよ』
少し間があった。
それから、祖父の低い声が遠くに聞こえた。
『湯は』
祖母が電話口に戻る。
『おじいちゃんが、湯はどうだったって』
「入れる温度まで上がった。玄造さんが見てくれた。相沢さんは、残っていたって言ってた」
祖母がそのまま伝える。
また間。
今度は祖父が直接出た。
『相沢は、飯を食ったか』
湯の次が飯だった。
「夕食はだいたい。鶏肉を一つ残したけど、千代さんが悪くない残し方だって。朝は粥を食べた」
『ならいい』
「千代さんの粥を、同じ宿の粥だって言ってた」
祖父は黙った。
電話の向こうで、何かを置く音がした。
『千代に言え』
「何て?」
『よかったな、と』
「直接言えばいいのに」
『お前が言え』
それだけだった。
だが、祖父の声の奥に、何か柔らかいものがあった。千代への照れなのか、花江の粥を思い出したのか、相沢がまた泊まったことへの安堵なのか。悠真には分からない。
「相沢さん、名刺を一枚部屋に残していった」
悠真は言った。
『落としたのか』
「分からない。確認しようと思って電話したけど、まだ出ない」
『聞け』
「うん」
『勝手に捨てるな』
「捨てないよ」
『勝手に飾るな』
「飾らない」
『客の物だ』
「分かってる」
祖父はそれで納得したらしい。
少し黙った後、ぽつりと言った。
『泊めたな』
悠真は受話器を持つ手に力を入れた。
「うん」
『見送ったか』
「見送った」
『なら、宿だ』
それだけだった。
短すぎる言葉だった。
けれど、胸の奥にまっすぐ落ちてきた。
なら、宿だ。
昨日まで、湯守荘は自分にとって休業中の古い建物だった。祖父母から譲られるかもしれない場所。湯が出ているだけの、止まった時間。
だが、客を迎え、湯に入ってもらい、飯を出し、朝に見送った。
それなら宿だ、と祖父は言った。
「でも、まだ一人だけだよ」
『一人泊められねえ宿は、百人泊められねえ』
「そういうもの?」
『そういうものだ』
祖父の言葉は、いつも雑に聞こえて、妙に筋が通っている。
電話は祖母に戻った。
『悠真』
「うん」
『今日は、ちゃんと休みなさいね』
「まだ片づけが」
『片づけも大事。でも、最初のお客さまを見送った日は、少し座っておきなさい』
「座る?」
『そう。宿ってね、お客さまが帰った後の空気を覚えていくものだから』
祖母の言葉は、いつも少し不思議だった。
『すぐ次のことを考えなくていいの。山吹の部屋に少し座って、昨日どんな風が入っていたか、どんな音がしたか、覚えておきなさい』
「それが仕事?」
『仕事というより、癖にしておくといいこと』
祖母は笑った。
『おじいちゃんにはできなかったけどね。あの人、すぐ湯を見に行くから』
遠くで祖父が何か言っている声がした。
祖母は「はいはい」と流し、電話口に戻る。
『相沢さんのこと、知らせてくれてありがとう。おじいちゃんも喜んでる』
「喜んでるようには聞こえなかった」
『喜んでる時ほど、言葉が短いんだよ』
「普段から短いよ」
『じゃあ、普段から少し喜んでるのかもしれないね』
祖母はそう言って、穏やかに笑った。
*
電話を切った後、悠真は祖母に言われた通り、山吹の部屋へ行った。
布団はもう片づけてある。湯呑みも下げた。畳には、相沢が座った跡など残っていない。けれど、部屋の空気は昨日までとは少し違っているように思えた。
縁側に腰を下ろす。
庭のつつじは、一輪だけ開いている。
雨上がりの名残で、葉の先に水滴が残っていた。山の向こうから風が下りてきて、障子の紙をかすかに揺らす。張り替えたばかりの紙は、歪んではいるが、光をやわらかく通している。
相沢はここに座っていた。
湯上がりに、何もせず庭を見ていた。
その沈黙を、悠真は邪魔しなかった。
それでよかったのだと、相沢は言った。
何も言われなかったのが、よかった。
その言葉を思い出すたび、胸が少し熱くなる。
何かをしなければならないと思っていた。
気の利いた言葉を探さなければと思っていた。
客の問題を解決しなければ、宿として足りないのではないかと思っていた。
でも、相沢が必要としていたのは、答えではなかった。
湯と、飯と、黙って座れる時間。
それだけで、胸ポケットの名刺入れを鞄へ移せる夜がある。
人生は劇的には変わらない。
相沢は明日からまた、自分の朝の長さと向き合うのだろう。定年後の空白も、亡くなった妻の不在も、名刺入れの重みも、完全に消えるわけではない。
それでも、少しだけ胸が軽くなったと言って帰った。
湯守荘は、それくらいの宿でいいのかもしれない。
少しだけ。
その言葉が、何度も戻ってくる。
少し分かる。
少し軽くなる。
少し眠れる。
少し食べられる。
少し朝が怖くなくなる。
全部ではない。
でも、少しなら。
縁側に座っていると、背後から足音がした。
灯里だった。
「いた」
「うん」
「花江さんに言われた?」
「何で分かる」
「客が帰った後、部屋に座りなさいって?」
「本当に何で分かるんだ」
「私も昔、言われたことあるから」
灯里は縁側の端に腰を下ろした。
悠真は少し驚いた。
「灯里も?」
「うん。小学生の時だけどね。夏休みにここ手伝ったつもりになってた頃。お客さん帰った後の部屋で、勝手に漫画読んでたら、花江さんに『部屋がまだお客さんのこと覚えてるから、少し静かにしておきなさい』って」
「おばあちゃんらしい」
「その時は意味分かんなかったけどね。部屋が覚えるわけないじゃんって思ってた」
「今は?」
灯里は庭を見た。
「今は、ちょっと分かる」
そう言った声が、いつもより静かだった。
「灯里は、昔からここに来てたんだな」
「悠真が来ない時もね」
「俺が知らない湯守荘を知ってる」
「まあ、地元なので」
灯里は少しだけ茶化した。
けれど、悠真にはその言葉の下に何かがあるように感じた。
自分が中学、高校、大学、東京へと離れていく間、灯里はこの土地にいた。湯守荘にも来ていた。祖父母のことも、宿の変化も、きっと自分より近くで見ていた。
この土地に残るということ。
出ていく自分を見送るということ。
そこには、悠真の知らない時間がある。
聞いていいのか迷った。
迷っているうちに、灯里が先に立ち上がった。
「さ、そろそろ片づけよ。千代さんに怒られる」
「おばあちゃんには座れって言われた」
「もう座ったでしょ。次は働く」
「厳しい」
「宿は余韻だけじゃ回りません」
「急に現実」
「足元に現実が来るからね」
灯里は自分で言って笑った。
悠真も立ち上がった。
山吹の部屋を出る前に、もう一度庭を見る。
つつじの花が一つ、雨上がりの光の中で開いていた。
*
夕方近く、相沢から電話があった。
黒電話が鳴った時、悠真の身体はやはり少し跳ねた。
だが、今度はすぐに受話器を取れた。
「はい、湯守荘です」
『相沢です。本日はありがとうございました』
「こちらこそ、ありがとうございました。神社は無事に行けましたか」
『はい。灯里さんの地図のおかげで、転ばずに済みました』
「それはよかったです」
『杉の根に一度つまずきかけましたが、足元に現実が来ると伺っておりましたので』
悠真は思わず笑った。
「灯里に伝えます。喜ぶと思います」
『ええ、ぜひ』
相沢の声は、午前中より少し明るかった。神社へ行ったからなのか、無事にバスに乗れたからなのかは分からない。
「相沢様、一つ確認がありまして」
『はい』
「山吹のお部屋に、名刺が一枚残っていました。お忘れ物かと思い、ご連絡しようとしていたところでした」
電話の向こうが、少し静かになった。
悠真は受話器を握り直した。
勝手に意味を決めない。
灯里の言葉を思い出す。
しばらくして、相沢が言った。
『ありましたか』
「はい。封筒に入れて保管しています。郵送いたしましょうか」
『……もしご迷惑でなければ』
「はい」
『次に伺う時まで、預かっていただけますか』
悠真は少し息を止めた。
「次に」
『ええ。いつになるかは分かりません。ですが、もう一度伺いたいと思いました』
相沢の声は穏やかだった。
『その時に、受け取ります』
「承知しました。大切にお預かりします」
『ありがとうございます』
相沢は少し間を置いた。
『置いていったつもりは、なかったのです』
「はい」
『でも、落としたとも言い切れない気がします』
不思議な言い方だった。
だが、相沢自身にもまだ分からないのだろう。
『胸ポケットには、戻しませんでした。鞄に入れたつもりでした。ですが、一枚だけ部屋に残っていたのなら、それはそれで、今はよい気がします』
「分かりました」
『神崎さん』
「はい」
『勝手なお願いですが、その名刺を宿のどこかに飾ったりはしないでください』
「もちろんです。封筒に入れて、帳場で保管します」
『ありがとうございます』
電話の向こうで、相沢が小さく息をついた。
『あれは、まだ私のものです。ただ、少しの間、湯守荘に預かっていただきたい』
「はい」
悠真は、ゆっくり答えた。
「お預かりします」
預かる。
その言葉は、今の湯守荘にとても合っている気がした。
客の荷物を預かる。靴を預かる。湯に入っている間の沈黙を預かる。誰にも言えなかった言葉を、全部ではなく、少しだけ預かる。
相沢の名刺も、その一つなのだろう。
通話の最後に、相沢はもう一度礼を言った。
『義一さんと花江さんにも、よろしくお伝えください。それから、千代さんに、お粥がおいしかったと』
「伝えます」
『灯里さんにも、坂は伸びていなかったと』
「それも伝えます」
『神崎さんにも』
「はい」
『湯守荘に戻ってきてくださって、ありがとうございました』
悠真は、すぐに返事ができなかった。
戻ってきた。
逃げてきただけかもしれない場所に、相沢は礼を言った。
悠真は受話器を握りながら、帳場の時計の音を聞いた。
「……こちらこそ、泊まってくださってありがとうございました」
ようやく、それだけ言えた。
電話を切る。
帳場に静けさが戻る。
悠真は引き出しから、相沢の名刺を入れた封筒を取り出した。表には「相沢誠一様 お預かり」と書いた。
飾らない。
捨てない。
返す日まで、預かる。
封筒を宿帳の横の引き出しにしまい、鍵をかけた。
*
夜、千代に相沢の言葉を伝えた。
「お粥がおいしかったそうです」
千代は味噌汁の鍋を見ていた。
「そう」
それだけだった。
「祖父が、千代さんに『よかったな』って伝えろと」
千代の手が止まった。
一瞬だけ、本当に一瞬だけ。
それから鍋の蓋を閉める。
「余計なことを」
声は少し低かった。
怒っているのかと思ったが、灯里が横で肩を震わせていた。
「千代さん、照れてる」
「照れてない」
「照れてますね」
「灯里、葱切って」
「話そらした」
「太く切ったら怒る」
「はい」
灯里は笑いをこらえながら葱を切り始めた。
悠真はその光景を見て、少しだけ救われる気がした。
客が帰った後も、宿には日常がある。
鍋があり、葱があり、灯里の余計な一言があり、千代の短い返事がある。相沢の一泊は特別だった。だが、その特別を支えるのは、こういう何でもない作業なのだろう。
夕食後、悠真は宿帳を開いた。
今日の余白に書く。
『相沢様より電話。名刺は次に来る時まで預かることに。飾らない。捨てない。返す。湯守荘に戻ってきてくださってありがとうございました、と言われた。返事に少し詰まった。』
少し考えて、最後にこう書いた。
『宿は、客のものを少し預かる場所なのかもしれない。』
書き終えると、黒電話がまた鳴った。
悠真は驚いて顔を上げた。
今日はもう相沢からの電話は終わったはずだ。祖父母でも、灯里でもないだろう。灯里は厨房にいる。
じりりりりん。
二度目が鳴る。
今度は、身体は跳ねたが、足はすぐ動いた。
受話器を取る。
「はい、湯守荘です」
電話の向こうで、少しだけ風の音がした。
屋外からかけているのだろうか。
『あの、今日、そちら……泊まれますか』
若い女性の声だった。
明るくしようとしているのに、喉の奥が少し掠れている声。
悠真は帳場の時計を見た。
午後七時を少し過ぎている。
当日予約。
しかも、この時間。
「本日、ですか」
『はい。急ですみません。近くの神社に来ていて……帰るつもりだったんですけど、少し、疲れてしまって』
声は丁寧だった。
けれど、言葉の端が不自然に整いすぎている。
無理をしている人の声だと、悠真にも分かった。
灯里が厨房から顔を出した。
悠真の様子を見て、すぐに近づいてくる。
悠真は受話器を持ったまま、メモ帳を引き寄せた。
「お一人様でしょうか」
『はい。一人です』
「お名前を伺ってもよろしいですか」
電話の向こうで、一瞬の沈黙があった。
『佐伯です。佐伯真帆と申します』
真帆。
その名前を、悠真はメモに書いた。
灯里が横から紙に大きく書いた。
『ゆっくり』
悠真は頷いた。
「佐伯様。現在、使えるお部屋は一部屋だけです。古い宿ですので、十分に整っていないところもあります。それでもよろしければ、ご用意できます」
『……いいんですか』
相沢と同じような言葉だった。
ただ、声の奥にあるものは違う。
相沢は遠慮だった。
佐伯真帆の声には、行き場を失った人の細い焦りがあった。
悠真は、ゆっくり答えた。
「はい。大丈夫です」
灯里が横で小さく頷いた。
電話の向こうで、真帆が息を吐く音がした。
『ありがとうございます。今、神社の駐車場近くにいて……』
灯里がすぐに手を出した。
悠真は受話器を少し押さえ、灯里を見る。
灯里は小声で言った。
「迎えに行く。夜道、危ない」
悠真は頷いた。
「お迎えに伺います。場所を灯里……いえ、こちらの者が確認しますので、少しお待ちください」
灯里が受話器を受け取った。
声が、いつもの灯里より少し低くなる。
「お電話代わりました。宮沢です。今どの駐車場にいます? 鳥居の下の方? それともバス停近く? うん、大丈夫。そこ動かないでください。車で行きます。寒い? あ、じゃあ売店の軒下にいてください。五分、いや十分くらいかな。スマホの充電あります? うん。切らずに待てそう? よし、じゃあ一回切って大丈夫。私たちが行きます」
灯里は電話を切った。
その顔から、いつもの軽さが少し消えていた。
「行く」
「俺も」
「うん。宿、千代さんに頼んで」
厨房の入口に千代が立っていた。
全部聞いていたらしい。
「行け」
短い一言。
玄造も奥から出てきた。
「車、気をつけろ」
「はい」
悠真は半纏を脱ぎ、上着を手に取った。
相沢を見送った日の夜に、次の客が来る。
湯守荘は、もう止まっていなかった。
だが、胸の中に浮かんだのは高揚ではない。
夜の神社近くで、一人、帰れなくなっている女性の声。
疲れてしまって、と言った声。
悠真は玄関の鍵を取り、灯里の後を追った。
外へ出ると、山の夜は濃かった。
車へ向かう灯里の背中が、いつもより少し頼もしく見えた。




