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湯守荘の宿帳には、言えなかった人生が綴られる 〜ブラック企業で壊れた僕は、茨城の山奥で名湯の宿を継ぎました〜  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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12/27

第12話 神社帰りの女

 灯里の軽自動車は、夜の山道を思ったより静かに走った。


 昼間は何度か通った道だった。バスで揺られ、歩いて、時には灯里の車で下りた道。けれど夜になると、同じ道とは思えない。ヘッドライトの届く範囲だけが白く浮かび上がり、その先は黒い。ガードレールの向こうに川があるはずだが、音だけが聞こえる。


 灯里はハンドルを握りながら、いつものようには喋らなかった。


 スマートフォンはダッシュボードの上に置いてある。佐伯真帆から、追加の連絡はない。神社の下にある売店の軒先で待っている、と言っていた。


「夜の岩杜って、こんな感じなんだな」


 悠真が言うと、灯里は前を見たまま答えた。


「昼と全然違うでしょ」


「うん」


「観光で来る人、たまに時間忘れるんだよね。参道が思ったより長かったり、奥まで行っちゃったり。夕方過ぎると一気に暗くなるから」


「危ないな」


「危ないよ。だから、売店のおばちゃんたちも閉める時は声かけるんだけど」


 灯里はカーブの手前で少し速度を落とした。


「でも、声かけられても帰れない人っているから」


 その言い方が、少し引っかかった。


「帰れない?」


「うん。体力とか時間の話じゃなくて」


 灯里はそれ以上言わなかった。


 悠真も聞かなかった。


 車内には、ワイパーの乾いた音が時々響いた。雨はもう降っていないが、フロントガラスには木々から落ちる水滴が飛んでくる。道端の杉が、ライトを受けて一瞬だけ白く光り、また闇に沈む。


 神社へ近づくにつれて、空気が変わった気がした。


 山が深くなる。


 木の密度が濃くなり、道の両側から枝が迫ってくる。昼間なら苔や石段や大きな杉が神聖に見えるのだろう。夜は、それらが静かすぎて少し怖い。


 やがて、鳥居の形をした小さな看板が見えた。


 その先に、閉まった売店が一軒。軒先の電灯が一つだけついていた。灯りの下に、人影がある。


 薄いベージュのコートを着た女性だった。


 二十代後半から三十歳くらいだろうか。肩より少し長い髪を一つにまとめ、小さな旅行バッグを足元に置いている。スマートフォンを両手で持ち、画面を見つめていた。灯里の車が近づくと、ぱっと顔を上げる。


 明るい顔だった。


 明るすぎる、と悠真は思った。


 夜の山奥で、帰れなくなり、急に宿へ電話をかけた人の顔としては、少し整いすぎていた。


 灯里は売店の前に車を停め、窓を下ろした。


「佐伯さん?」


 女性はすぐに笑った。


「はい。佐伯真帆です。すみません、こんな時間に」


 声も明るい。


 電話口で聞いた掠れは、今はうまく隠れていた。


 灯里は車を降りた。悠真も続く。


「湯守荘の宮沢です。こっちは神崎。宿の人」


「神崎です」


 悠真が頭を下げると、真帆も丁寧に頭を下げた。


「本当に助かりました。もう、うっかりしちゃって。神社って、思ったより広いんですね。写真とか撮ってたら、バスの時間を逃しちゃって」


 早口だった。


 言葉が次々に出てくる。

 それなのに、どこか心が追いついていないように聞こえた。


 灯里は真帆のバッグを見た。


「荷物、それだけですか?」


「はい。一泊するつもりじゃなかったので、本当に少しだけで」


「寒くないですか?」


「大丈夫です」


 即答だった。


 灯里は少しだけ真帆を見た。


「寒そうです」


 そう言って、車の後部座席からブランケットを取り出した。


 真帆は一瞬、困ったように笑った。


「あ、いえ、本当に大丈夫で」


「じゃあ、大丈夫なまま使ってください」


 灯里はブランケットを押しつけない。けれど、真帆の腕にそっとかけた。


 真帆は少し遅れて、それを受け取った。


「ありがとうございます」


「車、乗ってください。ここ、夜になると結構冷えるんで」


 真帆が後部座席に乗る。


 悠真はバッグを受け取り、後ろへ載せた。軽かった。日帰りの荷物に、少しだけ着替えを足した程度の重さだ。


 車が走り出すと、真帆は窓の外を見ながら、また明るく話し始めた。


「本当にすみません。私、方向音痴で。地図アプリ見てたのに、途中で電波が不安定になっちゃって。しかも神社って、どこまで行っていいのか分からないじゃないですか。奥へ行くほど、何かありそうで」


 灯里は「ありますね」とだけ返した。


「やっぱりあるんですか?」


「杉と石と坂があります」


「あ、現実的」


「足元に現実が来る神社なので」


 真帆は少し笑った。


 笑い声はきれいだった。


 舞台の上で響くような声だ、と悠真は思った。そう考えて、すぐに自分の中で引っかかった。相沢の次の客としてプロット上では元舞台女優だと知っているが、今の悠真がそれを知るわけではない。けれど、声から感じることはできる。言葉の置き方、笑い方、間の取り方。普段の人より少しだけ、聞かれることに慣れている声だった。


「佐伯さんは、神社にお参りで?」


 灯里が聞いた。


「はい。前から来てみたくて。癒やしの力があるって聞いたので」


 真帆はそう言ってから、少しだけ言葉を切った。


「まあ、こういうのって気持ちの問題だと思うんですけどね。でも、せっかく近くまで来たので」


「どちらからですか」


「東京です」


 悠真の胸が、小さく反応した。


「東京から日帰りで?」


「はい。思いつきで来ちゃって。こういうの、たまにあるんです。予定とか立てるの苦手で」


 真帆は軽く笑った。


 その笑い方が、やはり少し作られている気がした。


 予定を立てるのが苦手な人の軽さではなく、予定が崩れてしまった人が、自分でそれを笑いに変えようとしているような。


 灯里は、それ以上東京の話を聞かなかった。


「湯守荘、かなり古い宿です。相沢さんっていうお客さんが昨日泊まった部屋を整え直して使う形になります」


「あ、全然大丈夫です。泊まれるだけで本当にありがたいので」


「夕食は簡単なものなら出せます。しっかり食べられそうですか?」


「食べられます。何でも大丈夫です」


 また即答。


 灯里はバックミラー越しに真帆を見た。


「何でも大丈夫な人ほど、何が大丈夫じゃないか分からないので、あとで聞きます」


 真帆は少し目を丸くした。


 そして、ふっと笑った。


「厳しいですね」


「宿のご飯係がもっと厳しいです」


「怖い方ですか?」


「無口なだけです。あと、食べられない人に無理して食べさせると怒ります」


「それは……優しいですね」


 真帆は小さく言った。


 その声だけ、少し本当のように聞こえた。


     *


 湯守荘へ戻ると、玄関の明かりがついていた。


 提灯にも、灯が入っている。


 悠真は車を降りて、それに気づいた。灯里も一瞬、玄関を見上げた。


「千代さんかな」


「たぶん」


 提灯の柔らかい光が、格子戸と石段を照らしている。昼間よりも宿らしく見えた。古さも、傷みも、夜の中では少しやわらぐ。


 真帆は車から降りると、提灯を見上げた。


「いいですね」


 その言葉は短かった。


 けれど、さっきまでの早口とは違っていた。


「派手じゃないのに、ほっとします」


 悠真はバッグを持って、玄関へ案内した。


「足元、お気をつけください」


「はい」


 石段を上がり、格子戸を開ける。


「いらっしゃいませ」


 言った瞬間、自分でも少し驚いた。


 相沢の時より、声が出た。


 真帆は玄関に入ると、深く頭を下げた。


「急にすみません。本当に助かりました」


「ご無事でよかったです」


 灯里が横から言った。


「謝るのは一回まででいいですよ。あとは寒かったとか、お腹空いたとか、眠いとか、そういうのでお願いします」


 真帆はきょとんとしたあと、少し笑った。


「じゃあ……寒かったです」


「はい、採用」


 灯里はすぐに言った。


「神崎、山吹に案内して。私、千代さんにご飯の相談してくる」


「分かった」


 悠真は真帆の靴を揃えた。


 真帆はそれを見て、少しだけ動きを止めた。


「ありがとうございます」


「お部屋へご案内します」


 山吹の部屋は、相沢が帰った後、布団を片づけ、畳を拭き、湯呑みも替えてあった。急な客を迎えるには十分とは言えないが、少なくとも一晩休むことはできる。


 廊下を歩く間、真帆は壁や柱をよく見ていた。


「本当に、昔からある宿なんですね」


「はい。祖父母が長くやっていました。今は街に下りていて」


「神崎さんが継いだんですか?」


 すぐに答えられなかった。


 継いだ。


 まだ、その言葉は重い。


「まだ、準備中です」


 悠真は言った。


「一部屋だけ、開けているような状態で」


「一部屋だけ」


「はい」


「それ、なんだかいいですね」


「いいですか?」


「はい。全部開いているより、少し安心します」


 真帆は、そう言って笑った。


 その笑顔はまた整っていた。けれど、言葉の奥に本音が少し混じっているようだった。


 山吹の戸を開ける。


「こちらです」


 真帆は部屋へ入り、すぐに庭の方を見た。夜なので、窓の外はほとんど暗い。提灯の光が少しだけ庭に届き、つつじの輪郭を浮かび上がらせている。


「きれい」


 真帆は小さく言った。


「昼間は、つつじが見えます。今、一輪だけ咲いています」


「一輪だけ」


「はい」


「そういうの、好きです」


 真帆はバッグを置き、座布団に座った。


 動作は丁寧だった。けれど、座った瞬間、肩がわずかに落ちた。自分でも気づかないほどの小さな落ち方だった。


 疲れている。


 悠真にも分かった。


「お茶をお持ちします。お風呂は少しお待ちいただく形になりますが、準備できます」


「あ、大丈夫です。何でも大丈夫なので」


 また、その言葉。


 悠真は少し迷ってから言った。


「湯守荘では、何でも大丈夫じゃなくても大丈夫です」


 真帆が顔を上げた。


 悠真自身も、言ってから驚いた。


 灯里なら、もっと上手く言えただろう。祖母なら、もっと柔らかく言えただろう。千代なら、何も言わず温かいものを置いただろう。


 でも、今の悠真にはそれが精一杯だった。


「寒いとか、少しだけ食べたいとか、今は寝たいとか、言っていただければ。できる範囲で対応します」


 真帆は、しばらく悠真を見ていた。


 それから視線を落とし、膝の上で指を組んだ。


「……じゃあ」


「はい」


「お茶を、いただきたいです。温かいもの」


 さっきまでの「何でも大丈夫」とは違う声だった。


 少しかすれていた。


「すぐにお持ちします」


 悠真は頭を下げ、部屋を出た。


 廊下に出た瞬間、息を吐く。


 胸が少し速く動いていた。


 客に言葉を渡すのは、まだ怖い。


 余計なことを言ったのではないか。踏み込みすぎたのではないか。真帆を傷つけたのではないか。


 そんな不安が浮かぶ。


 けれど、彼女は「温かいもの」と言った。


 なら、まずそれでいい。


     *


 厨房では、千代がすでに湯を沸かしていた。


 灯里が横で事情を話している。


「神社から帰れなくなった感じ。たぶん日帰り予定。東京から。ご飯は何でも大丈夫って言ってるけど、たぶんあんまり大丈夫じゃない」


「顔」


 千代が聞いた。


「笑いすぎ」


 灯里は短く答えた。


 千代はそれで分かったようだった。


「粥?」


「さっき相沢さんで粥だったから、夜は違う方がいいかも」


「うどん」


「いいですね。温かいの」


 千代は鍋を出した。


 悠真が入ると、灯里が振り返る。


「どう?」


「温かいお茶がほしいって」


「言えたんだ」


「うん」


「よし」


 灯里はそれだけ言った。


 千代は茶筒を出し、急須を温める。


「お茶、俺が持っていきます」


「薄め」


「はい」


「熱すぎない」


「はい」


「手、震えてる?」


 千代に聞かれ、悠真は自分の手を見た。


「少し」


「盆、両手」


「はい」


 それだけで、手伝い方を決めてくれる。


 ありがたかった。


 お茶を淹れ、盆に湯呑みと小さな干し芋を添えた。灯里がそれを見て、小さく笑った。


「干し芋つけるんだ」


「何か甘いものがあった方がいいかと思って」


「いいと思う。茨城感あるし」


「茨城感で出すわけじゃない」


「分かってる」


 灯里はそう言いながら、少しだけ目を細めた。


「でも、甘いものはいいよ。泣きそうな人にも、怒りそうな人にも、疲れた人にも」


「万能だな」


「万能じゃないけど、少し助かる」


 少し。


 また、その言葉だった。


 悠真は盆を持ち、山吹へ向かった。


     *


 真帆は部屋でスマートフォンを見ていた。


 画面を見ているというより、画面を消すタイミングを失っているように見えた。悠真が声をかけると、慌てて伏せる。


「失礼いたします。お茶をお持ちしました」


「ありがとうございます」


 湯呑みを置くと、真帆は両手で包むように持った。


 すぐには飲まない。


 湯気を見ている。


 それは相沢もしていた動作だったが、二人の空気は違った。相沢は記憶を確かめるように湯気を見ていた。真帆は、自分の表情を湯気で隠すように見ている。


「あ、干し芋」


 真帆が小皿を見て、少しだけ笑った。


「地元のものです。甘いもの、大丈夫ですか」


「はい。好きです」


「よかったです」


 真帆は小さく一切れつまみ、ゆっくり噛んだ。


「おいしい」


 その声は、少しだけ力が抜けていた。


「派手じゃないのに、甘いですね」


「うちの料理は、だいたい派手ではないです」


「でも、そういう方が今は助かります」


 真帆はお茶をひと口飲んだ。


「お茶も、おいしいです」


「ありがとうございます」


「神崎さんが淹れたんですか?」


「はい。千代さんに教わりながら」


「千代さんって、さっきのご飯係の方ですか」


「はい。祖父の妹です。かなり無口です」


「怖いですか?」


「最初は怖かったです」


 悠真は正直に答えた。


「今は?」


「火を消し忘れたら怖いと思います」


 真帆が少し笑った。


 今度の笑いは、作ったものではなかった。


 ほんの一瞬だったが、表情の端が柔らかく崩れた。


「それは、怖い方がいいですね」


「はい」


 悠真は、これ以上長居しない方がいいと思った。


「お食事は、温かいうどんをご用意できます。量は少なめにもできます」


 真帆は「何でも」と言いかけたようだった。


 けれど、口を閉じた。


 少し考えてから、言った。


「少なめでお願いします。残したら、申し訳ないので」


「残しても大丈夫です」


 真帆がまた顔を上げた。


「湯守荘では、食べられる分だけでいいと、千代さんが言っています」


「そうなんですね」


「はい。俺も最近、教わりました」


 真帆は湯呑みを見つめた。


「じゃあ、少なめで」


「分かりました」


 悠真は頭を下げ、部屋を出た。


 戸を閉める直前、真帆が小さく言った。


「ありがとうございます」


 その声は、玄関で何度も言った「すみません」とは違っていた。


 悠真は廊下に出て、静かに息を吐いた。


     *


 厨房に戻ると、千代はすでにうどんの準備をしていた。


 鍋には出汁が温まり、葱と大根の葉が刻まれている。卵も一つ用意されていた。灯里は器を選び、少し小ぶりのものを棚から出した。


「少なめ希望」


 悠真が言うと、灯里は頷いた。


「言えたんだ」


「うん」


「よかった」


 千代は何も言わなかったが、うどんの量を少し減らした。


 その代わり、出汁はしっかり温かそうだった。卵もふんわり落とすつもりらしい。食べ切れなくても、汁だけでも体が温まるように。


 悠真は厨房の隅で、真帆の言葉を思い出していた。


 派手じゃないのに、甘い。

 そういう方が今は助かる。

 少なめでお願いします。


 少しずつ、本当の声が出てきている。


 だが、まだ彼女の中に何があるのかは分からない。


 分からなくていい。


 そう思おうとした。


 相沢の時に学んだばかりだった。客の人生を勝手に決めない。話さない時間を邪魔しない。少し分かる、で十分。


 それでも気になる。


 夜の神社の駐車場で、帰れなくなった女性。

 明るすぎる笑顔。

 スマートフォンを伏せる手。

 温かいものが欲しい、とかすれた声。


 何があったのか。


 聞くべきではない。


 聞かない方がいい。


 それでも、湯守荘の宿帳に、また新しい名前が増えるのだと思うと、胸の奥が静かに重くなった。


 灯里が隣に来た。


「悠真」


「うん」


「考えすぎてる顔」


「分かる?」


「分かる」


「何も聞かない方がいいよな」


「うん。今は」


 灯里は厨房の湯気を見た。


「でも、寒いって言えた。お茶ほしいって言えた。少なめって言えた。今日はそこまでで十分じゃない」


 十分。


 また、同じ言葉。


 悠真は頷いた。


「そうだな」


「あと、宿の人は顔に出やすいので注意」


「努力する」


「努力しすぎると変な顔になるから、ほどほどに」


「難しいな」


「人間だからね」


 灯里はそう言って、器を千代の横へ置いた。


 千代がうどんをよそう。


 湯気が上がる。


 夜の山奥で、帰れなくなった人のための、少なめのうどん。


 豪華ではない。


 けれど、今必要なものだった。


     *


 真帆はうどんを半分ほど食べた。


 食事処ではなく、山吹の部屋へ運んだ。灯里が「今日は部屋でいいと思う」と言い、千代も反対しなかったからだ。


 真帆は湯気の立つ器を見て、小さく「きれい」と言った。


 うどんに対して使う言葉としては少し珍しかった。


 卵の黄色、葱の緑、薄い出汁の湯気。暗い山吹の部屋の中で、それはたしかに静かな明るさを持っていた。


 最初の数口は、真帆は丁寧に食べていた。


 だが、途中で箸が止まった。


 悠真は部屋の入口近くに控えていたが、すぐには声をかけなかった。


 真帆は残ったうどんを見て、申し訳なさそうに眉を下げた。


「すみません」


 出た。


 その言葉に、悠真は少し迷い、それから言った。


「残して大丈夫です」


「でも」


「温まりましたか」


 真帆は、少しだけ驚いた顔をした。


 それから、自分の手元を見た。


 湯呑みを持つ指先は、最初より色が戻っている。


「はい」


「なら、十分です」


 真帆は唇を結んだ。


 何かを堪えるような表情だった。


 けれど、泣かなかった。


 器を下げるとき、真帆はまた整った笑顔を作った。


「ごちそうさまでした。とてもおいしかったです」


「千代さんに伝えます」


「はい。お願いします」


 悠真は膳を持って部屋を出た。


 廊下に出ると、灯里がいた。


「半分?」


「うん」


「上出来」


 灯里は小さく言った。


「お風呂、どうする?」


「聞いた方がいいかな」


「聞く。でも、入るかどうかは本人に任せる」


 悠真は頷いた。


 山吹の部屋の中から、物音はしない。


 真帆は一人で座っている。


 泣かない。


 泣きそうなのに、泣かない。


 そういう人なのだと、悠真は思った。


 夜の湯守荘は、また一人、言えなかったものを抱えた客を受け入れた。

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