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湯守荘の宿帳には、言えなかった人生が綴られる 〜ブラック企業で壊れた僕は、茨城の山奥で名湯の宿を継ぎました〜  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第13話 湯に沈む声

 真帆が風呂に入ると言ったのは、食後しばらく経ってからだった。


 山吹の部屋へ食器を下げに行ったあと、悠真は廊下の途中で足を止めた。声をかけるべきか迷っていた。風呂の準備はできている。玄造が湯加減を見て、いつもより少しぬるめにしてくれていた。


 けれど、真帆は疲れている。


 温まった方がいいのかもしれない。

 でも、もう休みたいのかもしれない。


 その判断をこちらで決めてはいけない気がした。


「聞くだけ聞けば?」


 灯里が後ろから小声で言った。


「入れって言わない。入れますよ、って言うだけ」


「うん」


「あと、顔を重くしない」


「重い?」


「悠真、心配すると顔が責任重大になる」


「どんな顔だ」


「今にも旅館の将来背負って死にそうな顔」


「縁起でもない」


「だから、やめな」


 灯里は軽く言って、背中を押すでもなく横に立った。


 悠真は山吹の戸の前で声をかけた。


「佐伯様」


 中から少し遅れて返事があった。


「はい」


「お風呂のご用意ができています。今夜はお疲れだと思いますので、無理にとは申しません。入られるようでしたら、いつでもご案内できます」


 しばらく沈黙があった。


 廊下の木が小さく鳴る。


 中で布が擦れる音がして、戸が少し開いた。真帆は浴衣ではなく、まだ自分の服のままだった。けれど、コートは脱いでいる。髪をほどいたせいか、先ほどより少し幼く見えた。


「……入ってもいいですか」


「もちろんです」


「夜なのに、すみません」


 悠真が言うより先に、灯里が少し前へ出た。


「謝るの、一回超えました」


 真帆は目を瞬かせた。


 灯里は笑っていない。けれど、声はやわらかかった。


「お風呂は沸いてるので、入ってください。湯守荘の湯、入らないともったいないです」


「はい」


 真帆は小さく頷いた。


「では、入ります」


 その言い方は、まるで何かの許可をもらった人のようだった。


     *


 浴場へ案内する途中、真帆はほとんど話さなかった。


 さっき車の中では、あんなに言葉が多かったのに。廊下を歩く足音は静かで、時折、壁にかけられた古い礼状や、木枠の窓に視線を向ける。何かを見ているようで、実際には何も見ていないようにも見えた。


 脱衣所の前で、悠真は足を止めた。


「こちらです。床が少し滑りやすいので、お気をつけください。湯は少しぬるめにしています」


「ありがとうございます」


「タオルはこちらにあります。何かありましたら、声をかけてください」


 真帆は軽く頭を下げ、脱衣所へ入った。


 戸が閉まる。


 悠真はすぐにその場を離れようとした。


 客が風呂に入る時間は、客のものだ。相沢の時にそう思ったばかりだった。


 しかし、灯里は廊下の少し先で立ち止まっていた。


「どうした?」


「んー」


 灯里は浴場の方を見ていない。廊下の窓の外を見ている。


「少しだけ近くにいる。何かあったら困るから」


「具合が悪そう?」


「悪そうってほどじゃない。でも、泣くかも」


 悠真は言葉を失った。


「分かるのか」


「分かるっていうか、勘」


 灯里は肩をすくめた。


「泣く人って、お風呂入る前に妙に礼儀正しくなる時ある」


「そういうもの?」


「人による」


 灯里はそう言ってから、少しだけ声を落とした。


「湯に入るまで保たせてる感じ」


 悠真は脱衣所の戸を見た。


 中から衣擦れの音がする。籠に服を入れる音。蛇口をひねる音。かけ湯の音。


 それから、湯船に身体が入る音がした。


 湯がゆっくり動く。


 しばらく何も聞こえなかった。


 灯里は廊下の壁にもたれ、腕を組んだ。


「見張ってるわけじゃないからね」


「うん」


「ただ、近くにいるだけ」


「うん」


「悠真は厨房行ってもいいよ」


「いや、俺も……少し」


 自分でも、なぜそう言ったのか分からなかった。


 心配だった。

 けれど、心配している顔を見せてはいけないような気がした。


 だから、二人で廊下の少し離れた場所に立った。


 浴場の中から、湯が小さく揺れる音が聞こえる。


 山の夜の音も聞こえた。風が窓を撫でる。遠くの川が低く鳴る。厨房の方では、千代が食器を洗っているのか、かすかに水音がする。


 やがて、浴場の中から、短く息を吸うような音がした。


 悠真は反射的に顔を上げた。


 灯里が片手を少しだけ上げる。


 行かない。


 そういう合図だった。


 次に聞こえたのは、湯の音だった。


 泣き声ではない。


 けれど、泣き声を湯の中へ落としたような音だった。


 誰かが口元を押さえているのかもしれない。湯気と水音と換気扇の低い音の奥に、かすかな呼吸が混じる。はっきりとは聞こえない。聞いてはいけない気がした。


 悠真は目を伏せた。


 真帆が何に泣いているのか、分からない。


 神社で何かあったのか。

 東京で何かを置いてきたのか。

 仕事か、家族か、夢か、人間関係か。

 それとも、自分でも分からないまま、湯に入った瞬間に切れてしまったのか。


 分からない。


 だから、決めない。


 そう自分に言い聞かせる。


 灯里は、何も言わなかった。


 その横顔は、いつもの派手な幼なじみではなかった。宿の廊下に立つ、ひどく静かな人だった。誰かが泣く時間を、外側から壊さないように守っている人。


 悠真は思った。


 灯里は、きっと泣いている人のそばにいたことがある。


 それも、一度や二度ではない。


 だから、今どれくらい近くにいて、どれくらい離れればいいかを知っている。


 聞きたくなった。


 けれど、今ではない。


     *


 真帆は、思ったより早く風呂から上がった。


 脱衣所の戸が開く音がして、灯里がすぐに廊下の棚から冷たい麦茶の入ったグラスを取った。いつの間に用意していたのか、悠真は気づかなかった。


 真帆は浴衣に着替えていた。


 髪の先が濡れ、頬に薄く赤みが差している。目元は、少し赤かった。けれど、彼女は笑っていた。さっきよりも少し下手な笑顔だった。


「お湯、すごく気持ちよかったです」


 声は明るかった。


 でも、喉が濡れているように掠れていた。


 悠真は何か言いそうになったが、灯里が先に麦茶を差し出した。


「風呂上がり、喉乾きますよね」


「あ……ありがとうございます」


 真帆はグラスを受け取った。


 灯里は、何も見ていないような顔をしている。


「湯守荘の湯、ぬるめですけど、あとから温まるんですよ。今は大丈夫でも、部屋戻ったら急に眠くなるかも」


「そうなんですね」


「眠くなったら、寝ちゃってください。歯磨きより睡眠を優先しても、今日は神様も怒らないと思います」


 真帆は少し笑った。


 今度は、涙の後の笑いだった。


 きれいではない。


 整ってもいない。


 でも、さっきまでの作った笑顔よりずっと人間らしかった。


「そんなこと言われたの、初めてです」


「歯磨きは明日の朝でもできますから」


「それ、宿の人が言っていいんですか」


 灯里は少し考えるふりをした。


「本当は駄目かも。でも、今日くらいはいいです」


 真帆は麦茶をひと口飲んだ。


 喉が動く。


 グラスを持つ手は、風呂に入る前より少し落ち着いていた。


「お部屋までご案内します」


 悠真が言うと、真帆は小さく頷いた。


 廊下を戻る間、真帆はあまり話さなかった。


 ただ一度だけ、窓の外を見て言った。


「夜の山って、怖いのに、静かですね」


「はい」


「東京って、明るいのに、静かじゃないんです」


 それは独り言のようだった。


 悠真は何も返さなかった。


 自分にも、少し分かる気がした。


 明るいのに、静かではない場所。


 人がいるのに、ひとりでいる場所。


 真帆は山吹の部屋の前で立ち止まった。


「神崎さん」


「はい」


「さっき、何でも大丈夫じゃなくても大丈夫って、言ってくれましたよね」


「……はい」


「あれ、変な言い方でした」


「すみません」


 言ってしまった。


 真帆が少し笑った。


「でも、助かりました」


 悠真は口を閉じた。


 謝るところではなかった。


「変だったけど、助かりました」


 真帆はもう一度言った。


「今日は、変な言葉くらいがちょうどよかったです」


 それだけ言って、部屋へ入った。


 戸が静かに閉まる。


 廊下には、湯上がりの湿った空気だけが残った。


     *


 厨房へ戻ると、千代が鍋を片づけていた。


 灯里は麦茶の空いたグラスを流しへ置く。真帆がほとんど飲み切ったのを見て、千代は何も言わずに頷いた。


「泣いた?」


 千代が聞いた。


 直接的な言葉に、悠真は少し驚く。


 灯里は淡々と答えた。


「たぶん」


「なら、明日の朝は味噌汁薄め」


「はい」


 それだけだった。


 なぜ泣いたのか。

 何があったのか。

 そういうことを千代は聞かない。


 ただ、明日の味噌汁を薄めにする。


 その判断が、湯守荘らしかった。


「泣いた後って、味噌汁薄めなんですか」


 悠真が聞くと、千代は鍋を拭きながら言った。


「喉が痛い」


「ああ」


「濃いとつらい」


「そういう理由なんですね」


「そういう理由」


 灯里が横で笑った。


「千代さん、優しさを全部実用にするよね」


「実用でいい」


「確かに」


 千代は食器棚を閉めた。


「神崎」


「はい」


「あの人、朝は白飯より味噌汁」


「佐伯さんですか」


「食べられたら粥。食べられなければ味噌汁」


「分かりました」


「無理に聞くな」


 千代は短く言った。


 何を聞くな、とは言わなかった。


 けれど意味は分かった。


 泣いた理由を、無理に聞くな。


「はい」


 悠真は頷いた。


 灯里は濡れた布巾を干しながら、少しだけ伸びをした。


「私、もう少しだけいる。佐伯さん、夜中に何かあったら困るし」


「役場、明日大丈夫?」


「午前だけ休む。さっき連絡した」


「いつの間に」


「悠真がうどん運んでる間」


「早いな」


「地元のギャルは判断が早い」


「また肩書き増えた」


 灯里は笑った。


 だが、その目には少し疲れが見えた。


 真帆の泣きそうな空気を受け取って、灯里自身も何かを削られたのかもしれない。人の痛みに敏感というのは、便利な能力ではない。気づきたくないものまで気づいてしまうことなのだろう。


「灯里も、無理するなよ」


 悠真が言うと、灯里は少し驚いた顔をした。


「何それ」


「いや、なんとなく」


「悠真に心配される日が来るとは」


「そんなに珍しいか」


「珍しい。記念日」


「また歴史にする気か」


「湯守荘史に書いといて」


「書かない」


 灯里は笑った。


 さっきより少し軽い笑いだった。


     *


 夜が深くなってから、湯守荘は静かになった。


 千代と玄造は帰り、灯里は帳場の奥の小部屋で仮眠を取ると言った。昔、従業員用に使っていた狭い部屋だ。灯里は「こういうとこ、落ち着く」と言って、持ってきた上着を丸めて枕にした。


「本当にそこで寝るのか」


「うん。山吹の近くで寝る方が佐伯さんも気にするでしょ。ここなら何かあった時に電話も聞こえるし」


「毛布、持ってくる」


「ありがと」


 素直に礼を言われると、逆に少し落ち着かなかった。


 灯里に毛布を渡したあと、悠真は帳場の椅子に座った。


 黒電話は黙っている。


 宿帳を開く。


 相沢の名前の次の行に、佐伯真帆の名前がある。夕方、到着してすぐに書いてもらったものだ。字はきれいだった。きれいすぎるほど整っている。住所の欄には東京の住所。宿泊日は今日。一名。


 その字を見て、悠真は少し考えた。


 きれいな字。


 明るい声。


 整った笑顔。


 泣いた後の赤い目。


 どれが本当なのか、という考えが浮かんだ。


 すぐに消す。


 全部、本当なのだろう。


 人は一つではない。明るいふりも、整えた声も、泣いた後の顔も、その人の一部だ。勝手に「本当の彼女」を探すのは違う。


 悠真は鉛筆を持った。


『佐伯真帆様。夜、岩杜神社近くから電話。当日宿泊。寒かった、と言えた。お茶は温かいもの。夕食は少なめのうどん。半分。風呂上がりに麦茶。目が赤かったが、誰も理由は聞かない。』


 書いてから、手を止めた。


 少し露骨すぎる気がした。


 だが、自分の記録としては残しておきたかった。客の秘密を暴くためではない。明日の朝、どう接するかを忘れないために。


 最後に、もう一行書く。


『泣いた後の味噌汁は薄め。』


 それは千代から教わった、宿の知恵だった。


 書き終えた時、二階ではなく一階の奥から、かすかな音がした。


 山吹の方ではない。


 帳場の奥、小部屋の方だ。


 灯里が起きたのかと思ったが、音はすぐ消えた。気のせいかもしれない。


 悠真は宿帳を閉じ、灯りを少し落とした。


 その時、山吹の部屋の方から、障子の開く音がした。


 小さな音だった。


 悠真は椅子から立ち上がる。


 廊下に出ると、山吹の戸が少し開いていた。真帆が立っている。浴衣の上に羽織をかけ、髪はまだ少し湿っていた。


「あの」


 真帆は小さな声で言った。


「すみません……あ」


 自分で言って、止まった。


 灯里の「謝るの一回まで」を思い出したのかもしれない。


 悠真は声を低くした。


「どうされましたか」


「お水を、いただけますか」


「すぐに」


「あの、冷たいのじゃなくて」


「常温のものですね」


「はい」


「お持ちします」


 厨房へ行き、常温の水をコップに注いだ。戻ると、真帆は廊下の窓辺に立っていた。外の暗さを見ている。


 コップを渡す。


 真帆は両手で受け取った。


「ありがとうございます」


「眠れませんか」


 聞いてから、少し踏み込みすぎたかと思った。


 だが真帆は、首を横に振らなかった。


「眠れそうなのに、眠るのが少し怖くて」


 正直な声だった。


 悠真は黙って聞いた。


「変ですよね。疲れてるのに」


「変ではないと思います」


 そう言うと、真帆は少しだけこちらを見た。


「神崎さんも、眠れない人ですか」


 悠真はすぐに答えられなかった。


 宿の人間として、どこまで話していいのか分からない。だが嘘をつく気にもなれなかった。


「少し前まで、そうでした」


「今は?」


「ここへ来てからは、前より少し眠れます」


「湯守荘だから?」


「たぶん。あと、疲れるので」


 真帆は小さく笑った。


「正直ですね」


「働いているというより、まだ動かされている感じです」


「でも、いいですね。動ける場所があるのは」


 真帆は水を少し飲んだ。


 廊下は静かだった。


 帳場の時計の音が、かすかに届く。山の夜は濃い。窓の外には何も見えないが、川の音だけがしている。


「明日」


 真帆が言った。


「朝ご飯、食べられなかったら、ごめんなさい」


 また謝りそうになって、言い直したようだった。


 悠真は答えた。


「食べられなかったら、食べられない朝だったということで」


「そういう朝も、ありますか」


「あると思います」


 自分にも、あった。


 何かを口に入れることすら重い朝。

 起きているだけで精一杯の朝。

 食べなければと思うほど、喉が閉じる朝。


 真帆はコップを持ったまま、少し目を伏せた。


「そう言ってもらえると、少し楽です」


「千代さんには、伝えておきます」


「あの方、怒りませんか」


「たぶん、味噌汁を薄くします」


 真帆は不意に笑った。


 声を抑えた笑いだった。


「それ、優しいですね」


「はい」


 悠真は頷いた。


「かなり」


 真帆は水を飲み終えた。


「戻ります。ありがとうございました」


「何かあれば、帳場にいます」


「はい」


 真帆は山吹の部屋へ戻っていった。


 戸が閉まる。


 廊下に一人残った悠真は、しばらくその場に立っていた。


 眠るのが怖い。


 その言葉が、胸に残る。


 分かる気がした。


 眠ってしまうと、明日が来る。

 明日が来ると、また向き合わなければならないものがある。

 だから疲れているのに、眠れない。


 そういう夜がある。


 悠真は帳場へ戻り、宿帳を開きかけた。


 けれど、書かなかった。


 今の言葉は、すぐに記録するものではない気がした。


 ただ、明日の朝まで覚えておけばいい。


 水を飲めた。

 眠れないと言えた。

 朝ご飯が怖いと、少しだけ言えた。


 今日は、そこまでで十分。


 悠真は帳場の灯りを消しすぎないよう、少しだけ残した。


 山吹の部屋まで、廊下が暗くなりすぎないように。

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