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湯守荘の宿帳には、言えなかった人生が綴られる 〜ブラック企業で壊れた僕は、茨城の山奥で名湯の宿を継ぎました〜  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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8/27

第8話 定年の男

 朝から、湯守荘は少しだけよそゆきの顔をしていた。


 玄関の土間は、灯里が昨日よりも丁寧に掃いていた。

 上がり框には、よねが選んだ座布団が一枚置かれている。

 山吹の部屋には、干し直した布団と、欠けのない湯呑みと、熱すぎないお茶を出すための急須が用意されていた。


 厨房では、千代が朝からほとんど喋らなかった。


 普段から無口ではあるが、今日はいつもよりさらに言葉が少ない。鍋の蓋を開ける音、包丁がまな板を叩く音、出汁の香りだけが厨房を満たしている。玄造は浴場とボイラーの間を何度も往復していた。


 悠真は帳場で予約メモを見ていた。


 もう、ほとんど暗記している。


 相沢誠一様。

 一名。

 山吹。

 午後三時過ぎ。

 夕食あり。

 胃に優しいもの。

 脂控えめ。

 徒歩。

 湯守荘の湯を覚えている人。


 何度見ても、最後の一行で手が止まる。


 自分が書き足した言葉だった。宿として必要な情報ではないかもしれない。けれど、消せなかった。相沢は、ただ泊まりに来るのではない。自分の記憶の中にある湯守荘を、もう一度確かめに来る。


 それが怖かった。


 今の湯守荘は、昔のままではない。


 祖父は帳場にいない。祖母は厨房にいない。時計は動き始めたばかりで、障子は少し歪んでいる。風呂も設備を確認しながらで、完璧とは言えない。


 それでも、相沢は来る。


 悠真が顔を上げると、玄関の外で灯里が提灯を見上げていた。


「灯、入れる?」


「まだ昼だよ」


「気分」


「気分で提灯つけるのか」


「一人目の客だし」


 灯里はそう言いながら、提灯の紐を指先で軽く揺らした。


 彼女は今日、いつもの派手な服より少し落ち着いた格好をしていた。とはいえ、明るい髪色と耳元のピアスは隠しようがない。山奥の旅館の手伝いには見えない。けれど、その不似合いさは今では湯守荘の風景に入り始めていた。


「緊張してる?」


 灯里が聞いた。


「してないように見える?」


「見えない」


「じゃあ聞くなよ」


「確認」


 灯里は笑った。


「でも、昨日よりは顔まとも」


「それ、褒めてる?」


「かなり」


「基準が低いな」


「最初の頃が地中だったからね。今は地上に出た」


「虫みたいだ」


「春だし」


 くだらない会話をしている間だけ、呼吸が少し楽になる。


 灯里は、たぶん分かってやっている。


 悠真が沈みすぎる前に、軽い言葉を投げる。けれど軽くしすぎない。逃げ道だけ作って、引っ張り出そうとはしない。その距離感は、今の悠真にはありがたかった。


 厨房から千代が顔を出した。


「茶」


「はい」


「急須、温める」


「はい」


「湯呑み、もう一度見て」


「欠けてないかですか」


「茶渋も」


「分かりました」


 千代はそれだけ言って戻った。


 悠真は慌てて湯呑みを確認しに行く。何度目か分からない。それでも見た。欠けはない。茶渋も、昨日灯里と磨いたので薄くなっている。


 湯呑みを布巾で拭きながら、悠真はふと笑いそうになった。


 会社で何度も確認をさせられた時は、苦痛だった。誰かに責められないための確認だったからだ。

 今も緊張はする。けれど、湯呑みを確認する理由は、相沢が気持ちよく茶を飲めるようにするためだった。


 同じ確認でも、少し違う。


 少し違うだけで、身体の強張り方が変わる。


     *


 三時前から、悠真は何度も玄関の外を見た。


 相沢は午後三時過ぎに来ると言っていた。バスの時間を考えれば、三時十五分から二十分頃だろうと灯里が言う。


 時計の針が三時を過ぎる。


 三時五分。


 三時十分。


 三時十五分。


 何も起きない。


 山は静かだった。風が木の葉を揺らし、遠くで川が鳴っている。玄関先のつつじは、昨日より少し蕾が開いたように見えた。


 三時二十分を過ぎた頃、坂の下から人影が見えた。


 小柄な男性だった。


 背筋は伸びているが、歩幅はゆっくりだ。薄いグレーの帽子をかぶり、片手に小さな旅行鞄を持っている。服装はきちんとしていた。派手さはない。紺色の上着に、白いシャツ。靴は磨かれている。


 だが、足取りには少し疲れがあった。


 坂を上がる途中で一度立ち止まり、山の方を見た。それから、また歩き出す。


「あの人?」


 灯里が小さく言った。


「たぶん」


「迎えに出る?」


「うん」


 悠真は玄関の外へ出た。


 心臓が大きく鳴っている。


 相沢が石段の下に辿り着く前に、悠真は一段降りた。


「相沢様でしょうか」


 声は、昨日の練習より少し低く出た。


 相沢は顔を上げた。


 目尻に皺のある、穏やかな顔だった。年齢は七十前後だろうか。けれど、老いよりも先に、長年きちんと生きてきた人の静けさが見えた。


「はい。相沢誠一です」


 相沢は帽子を取り、丁寧に頭を下げた。


 悠真も頭を下げる。


「お待ちしておりました。足元、悪くございませんでしたか」


 練習した言葉だった。


 だが、口にすると少しだけ自分の言葉になっていた。


 相沢は目を細めた。


「懐かしい坂でした」


「荷物、お持ちします」


「いえ、これくらいは」


「石段だけでも」


 悠真は控えめに手を差し出した。


 相沢は一瞬迷ったが、旅行鞄を渡した。


「ありがとうございます」


 鞄は思ったより軽かった。


 たぶん、一泊分の荷物しか入っていない。必要なものだけをきちんと選んで持ってきた人の軽さだった。


 石段を上がると、灯里が玄関で待っていた。


「いらっしゃいませ」


 彼女の声は、いつもより少し落ち着いていた。


 相沢は一瞬、灯里の髪とピアスを見た。


 その表情に驚きはあったが、嫌な感じはなかった。


「お世話になります」


「こちらこそ。坂、きつくなかったですか?」


「昔より、少し長くなった気がしました」


「坂の方が伸びましたね、たぶん」


 灯里が真顔で言うと、相沢は小さく笑った。


「それなら仕方ありません」


 悠真は少し驚いた。


 灯里の軽口が、初対面の相沢にすっと入っていった。押しつけがましくない。失礼にもならない。相手の疲れを少しだけ横へずらすような言葉だった。


 玄関に上がってもらう。


 相沢は靴を脱ぎ、きちんと揃えようとした。悠真は一歩早くかがみ、そっと向きを整えた。


 その瞬間、相沢の動きが止まった。


「義一さんも、よくそうしてくださいました」


 悠真は手を止めたまま、顔を上げた。


「祖父が」


「ええ。何も言わずに、いつの間にか靴が揃っている」


 相沢は玄関の奥を見た。


「変わっていないところもありますね」


 その言葉に、悠真の胸が少しだけ熱くなった。


 祖父はいない。


 でも、祖父がやっていたことの一つを、自分は今している。


 それは真似にすぎないかもしれない。

 けれど、完全な空白ではなかった。


「まず、お部屋へご案内いたします。お茶は後ほどお持ちします」


「ありがとうございます」


 相沢は、帳場の前で一度足を止めた。


 黒電話。

 止まっていたが、今は動いている時計。

 古い宿帳。

 壁に残る礼状。


 相沢の目が、一つひとつを静かに確かめていく。


「この時計、まだありましたか」


「はい。止まっていたので、電池を替えました」


「昔から、よく止まる時計でした」


「祖父が横を叩いて直していたと、灯里が」


「そうです。私も一度見ました」


 相沢は懐かしそうに笑った。


 灯里が横で得意げに言う。


「ほら、私の記憶正しかった」


「疑ってないよ」


「ちょっと疑ってた顔してた」


 相沢は二人のやり取りを、静かに見ていた。

 その目は、若い二人を眩しがるというより、何か昔の音を聞いているようだった。


     *


 山吹の部屋へ案内すると、相沢は入口で少し立ち止まった。


「こちらです」


 悠真は障子の歪みが急に気になった。畳の端。座卓の位置。湯呑み。座布団の角。全部が目に入る。


 相沢は、何も言わず部屋に入った。


 庭の見える窓際へ進み、座卓の横に鞄を置く。


 つつじの蕾が、障子越しの光の向こうに見えていた。


「この部屋でした」


 相沢は、ぽつりと言った。


「お泊まりになったことがあると伺いました」


「ええ。もう、二十年以上前です。あの時も、庭のつつじはまだ蕾でした」


 相沢はゆっくり腰を下ろした。


 長旅の疲れが出たのかもしれない。座る動作に、少し時間がかかった。


 悠真は慌てて座布団を直そうとしたが、相沢が手で制した。


「大丈夫です。自分でできます」


「はい」


「お気遣いはありがたいですが、どうかあまり緊張なさらず」


 悠真は見透かされている気がして、少し息を詰めた。


 相沢はやわらかく笑った。


「私の方が、少し緊張しております」


「相沢様が、ですか」


「はい。思い出の場所に来るのは、なかなか勇気がいります」


 その言葉は意外だった。


 思い出の場所に来ることを、相沢は楽しみにしているだけではなかった。変わってしまっているかもしれない怖さ。変わっていないことに傷つく怖さ。たぶん、そういうものを抱えて来たのだ。


「昔と違うところも、多いと思います」


 悠真は言った。


「そうでしょうね」


 相沢は庭を見たまま頷いた。


「私も違いますから」


「え?」


「昔の私ではありません。義一さんも花江さんも、あの頃のままではない。湯守荘だけが同じままでいる方が、不自然です」


 相沢は少し笑った。


「変わっていないものを探しに来たというより、まだ続いているものを見に来たのかもしれません」


 まだ続いているもの。


 悠真はその言葉を胸の中で繰り返した。


「お茶をお持ちします」


「ありがとうございます」


 部屋を出る時、相沢がもう一度庭を見ていた。


 その背中は、どこか会社を退職した人の背中に見えた。


 現役の誰かではなく、役職や肩書きを降ろした後の背中。軽くなったはずなのに、何を背負えばいいか分からず、少し所在なく見える背中だった。


 悠真は、相沢が電話で「一人で」と言った時の声を思い出した。


 定年退職。


 それは、長く働いた人への労いの言葉であるはずなのに、その後の空白に戸惑う人もいるのだと、ようやく想像できた。


     *


 厨房では、千代が茶を淹れる準備をしていた。


 悠真が入ると、千代は急須を指した。


「温めた」


「ありがとうございます」


「茶葉、入れすぎない」


「はい」


「湯は熱すぎない」


「はい」


 灯里が横で見ている。


「悠真、顔が真剣すぎる。お茶で世界を救う人みたい」


「茶葉の量が分からない」


「そこ?」


「大事だろ」


「大事だけど」


 千代が茶筒を開け、無言で分量を示した。悠真はそれを真似て急須に入れる。湯を注ぎ、少し待つ。湯呑みに注ぐと、薄い緑色の茶が静かに広がった。


「濃いですか」


 千代に聞く。


「普通」


 千代にしては、悪くない評価だった。


 灯里が盆を持とうとしたが、悠真は首を振った。


「俺が持っていく」


「お」


「何だよ」


「宿の人っぽい」


「茶を運ぶだけだ」


「それが宿の人でしょ」


 灯里は素直に盆を渡した。


 悠真は山吹の部屋へ向かった。


 廊下を歩く間、盆の上の湯呑みが少し揺れる。こぼさないように、ゆっくり歩いた。山吹の前で一度息を整え、声をかける。


「失礼いたします」


 相沢は窓際に座っていた。


 帽子を座卓の端に置き、庭を見ている。背中は静かだったが、眠っているわけではない。悠真が入ると、ゆっくり振り返った。


「お茶をお持ちしました」


「ありがとうございます」


 湯呑みを置く。


 相沢は両手でそれを受け取った。すぐには飲まず、湯気を見ていた。


「この湯呑み、昔もありましたね」


「祖母が残していたものだと思います」


「山の絵が、少し薄くなりました」


「すみ……」


 言いかけて、悠真は止まった。


 相沢が目元だけで笑った。


「謝るところではありませんね」


「はい。……少し、色が薄くなりました」


「その方が、今の私には落ち着きます」


 相沢はお茶をひと口飲んだ。


 それだけの動作が、丁寧だった。


「おいしいです」


「よかったです」


「義一さんは、お元気ですか」


「腰を悪くしていますが、街で祖母と暮らしています。口は、相変わらず悪いです」


「それは安心しました」


 相沢は小さく笑った。


「花江さんは」


「通院はありますが、元気です。相沢様のお手紙を読んだことを伝えたら、懐かしがっていました」


「そうですか」


 相沢は湯呑みを包むように持った。


「急な手紙で、ご迷惑をおかけしました」


「迷惑ではありません」


 今度は、自然に言えた。


「手紙を読んで、湯守荘が祖父母だけの場所ではなかったのだと知りました」


 相沢は少し驚いた顔をした。


 悠真は続けるか迷ったが、言葉はすでに出ていた。


「私は、まだ宿を継ぐと決めきれていません。でも、相沢様の手紙を読んで、湯は誰かの記憶に残るものなんだと思いました」


 言ったあとで、少し恥ずかしくなった。


 客にこんなことを言うものだろうか。


 けれど相沢は、笑わなかった。


 静かに聞いていた。


「湯は、残りますよ」


 相沢は言った。


「不思議なものです。どんな景色を見たかは忘れても、湯船の深さや、湯上がりの廊下の冷たさや、朝の味噌汁の匂いは覚えている」


 相沢は庭へ視線を戻した。


「私は、湯守荘で二度ほど、人生の節目を越えました」


「節目、ですか」


「一度目は、仕事で失敗した時。二度目は、妻を亡くした後です」


 悠真は言葉を失った。


 相沢の声は穏やかだった。けれど、その穏やかさの奥にある時間の長さが、急に部屋の空気を変えた。


「今日は、三度目かもしれません」


 相沢は自分で少し笑った。


「定年して、何もすることがなくなりましてね。会社に行かない朝が、こんなに長いものだとは思いませんでした」


 悠真は、自分の退職後の朝を思い出した。


 起きても、何をすればいいのか分からない朝。

 怒鳴られないのに、身体だけが怯えている朝。

 時計だけが動き、自分が止まっているような朝。


 相沢は年齢も立場も違う。

 だが、朝の長さは少し似ているのかもしれない。


「すぐに慣れると、皆さん言います」


 相沢は続けた。


「趣味を持て、旅行をしろ、地域活動をしろ。ありがたい言葉です。でも、何十年も会社へ行くことで形を保っていた人間に、急に自由を渡されても、使い方が分からない」


 悠真は黙っていた。


 何か言うべきではないと思った。


 相沢も、答えを求めているわけではなさそうだった。


「だから、まず湯に入りに来ました」


 相沢は湯呑みを置いた。


「義一さんの湯に」


「祖父に伝えます」


「ええ。ただ、今はあなたの湯でもありますね」


 悠真の胸が小さく鳴った。


「俺の、ですか」


「今日、私を迎えてくださったのは、あなたですから」


 相沢は穏やかに言った。


 その言葉は、褒め言葉というより事実の確認だった。


 今日、相沢を迎えたのは悠真。


 靴を揃えたのも、茶を運んだのも、部屋へ案内したのも悠真。


 祖父の湯であり、祖母の宿であり、千代たちが支える場所でありながら、今この瞬間、相沢に向き合っているのは自分だった。


 怖さが、また少し形を変える。


 逃げたい怖さではなく、背筋が伸びる怖さ。


「お風呂は、四時半頃にはご案内できます」


 悠真は言った。


「ありがとうございます。急ぎませんので、ゆっくりで」


「湯加減を見ながらになります。昔より、少し時間がかかるかもしれません」


「待つ時間も、温泉のうちです」


 相沢はそう言って、またお茶を飲んだ。


     *


 浴場へ戻ると、玄造が湯船の前にしゃがんでいた。


 手を湯に入れ、じっとしている。温度計も横にあるが、玄造はまず手で見るらしい。


「どうですか」


「もう少し」


 玄造は短く答えた。


「相沢さん、四時半頃で大丈夫です」


「聞いた」


「え?」


「廊下は声が通る」


 聞かれていたらしい。


 悠真は少し恥ずかしくなった。


「すみません」


 言ってから、しまったと思う。


 玄造は振り返らずに言った。


「謝ると湯がぬるくなるのか」


「なりません」


「なら、いい」


 そういう理屈なのか。


 灯里が脱衣所の籠を拭きながら笑っている。


「玄造さん、それ使えますね。謝ると湯がぬるくなるのか」


「使わなくていい」


 悠真は言った。


 千代は脱衣所の入口に立ち、タオルを確認していた。


「相沢さん、変わってた?」


 唐突に聞いた。


「え?」


「昔と」


「俺は昔を知らないので」


「そう」


 千代はタオルを畳み直した。


「でも、静かな方でした」


「昔も」


「そうなんですか」


「飯を残さない」


 千代の記憶は、やはりそこに行くらしい。


「今日は、食べられますかね」


「食べるように作る」


 千代はそう言った。


 それは料理人の強さだった。


 豪華なものを出す、ではない。

 珍しいものを出す、でもない。

 食べられるように作る。


 その一言に、湯守荘の料理の芯がある気がした。


 四時半前、湯はようやく人が入れる温度になった。


 熱すぎず、ぬるすぎない。玄造は納得したのか、湯口を見て一度頷いた。


「呼べ」


 悠真は山吹へ向かった。


 相沢は窓際で本を開いていたが、あまり読んでいる様子ではなかった。庭を見ている時間の方が長かったのかもしれない。


「お風呂のご用意ができました」


「ありがとうございます」


 相沢は本を閉じた。


 立ち上がる時、少し膝に手を置いた。悠真は手を貸そうか迷ったが、相沢は自分で立った。先ほど「自分でできます」と言われたことを思い出し、悠真は一歩だけ下がって待った。


 廊下を歩きながら、相沢は壁に掛けられた礼状を見た。


「これは、まだ残っているのですね」


「はい。昨日、掃除の時に見ました」


「花江さんが、嬉しそうに飾っていました」


「祖母が」


「ええ。『うちの宿に、こういうものをくださる方がいるのはありがたいことです』と」


 祖母らしい言葉だった。


 脱衣所の前で、悠真は足を止めた。


「こちらです。浴場は少し古いですが、床は滑りやすいのでお気をつけください。何かありましたら、声をかけてください」


「はい」


 相沢は浴場の戸に手をかけた。


 その前に、少しだけこちらを見た。


「神崎さん」


「はい」


「湯を、残してくださってありがとうございます」


 悠真はすぐに返せなかった。


 自分はまだ、湯を残したと言えるほど何もしていない。

 祖父母が残した。玄造が見た。江幡が応急で整えた。千代がタオルを用意した。灯里が脱衣所を拭いた。


 それでも、相沢は今、悠真に礼を言った。


「……まだ、残せているかは分かりません」


 悠真は正直に言った。


「でも、今日は入っていただけます」


「それで十分です」


 相沢は静かに頭を下げ、浴場へ入っていった。


 戸が閉まる。


 しばらくして、湯桶を使う音が聞こえた。


 そして、湯船に身体を沈める音。


 長い息が、浴場の中からかすかに漏れた。


 悠真は脱衣所の外で、しばらく動けなかった。


 誰かが湯に入った。


 湯守荘の湯に。


 半年ぶりか、一年ぶりか、正確には分からない。

 だが、休業していた宿の湯船に、また客が入った。


 それだけのことが、胸の奥にゆっくり沈んでいく。


 灯里が少し離れた場所に立っていた。


 彼女はいつものように茶化さなかった。


 ただ、小さな声で言った。


「始まったね」


 悠真は浴場の戸を見た。


 湯の音がする。


 相沢は何も語らない。


 ただ、湯に浸かっている。


 その沈黙を、今は邪魔してはいけないのだと思った。


「うん」


 悠真は答えた。


「始まった」


 その言葉は、声に出すと少し怖かった。


 けれど、山の湯気に混じって、湯守荘の中へ静かに溶けていった。

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