第8話 定年の男
朝から、湯守荘は少しだけよそゆきの顔をしていた。
玄関の土間は、灯里が昨日よりも丁寧に掃いていた。
上がり框には、よねが選んだ座布団が一枚置かれている。
山吹の部屋には、干し直した布団と、欠けのない湯呑みと、熱すぎないお茶を出すための急須が用意されていた。
厨房では、千代が朝からほとんど喋らなかった。
普段から無口ではあるが、今日はいつもよりさらに言葉が少ない。鍋の蓋を開ける音、包丁がまな板を叩く音、出汁の香りだけが厨房を満たしている。玄造は浴場とボイラーの間を何度も往復していた。
悠真は帳場で予約メモを見ていた。
もう、ほとんど暗記している。
相沢誠一様。
一名。
山吹。
午後三時過ぎ。
夕食あり。
胃に優しいもの。
脂控えめ。
徒歩。
湯守荘の湯を覚えている人。
何度見ても、最後の一行で手が止まる。
自分が書き足した言葉だった。宿として必要な情報ではないかもしれない。けれど、消せなかった。相沢は、ただ泊まりに来るのではない。自分の記憶の中にある湯守荘を、もう一度確かめに来る。
それが怖かった。
今の湯守荘は、昔のままではない。
祖父は帳場にいない。祖母は厨房にいない。時計は動き始めたばかりで、障子は少し歪んでいる。風呂も設備を確認しながらで、完璧とは言えない。
それでも、相沢は来る。
悠真が顔を上げると、玄関の外で灯里が提灯を見上げていた。
「灯、入れる?」
「まだ昼だよ」
「気分」
「気分で提灯つけるのか」
「一人目の客だし」
灯里はそう言いながら、提灯の紐を指先で軽く揺らした。
彼女は今日、いつもの派手な服より少し落ち着いた格好をしていた。とはいえ、明るい髪色と耳元のピアスは隠しようがない。山奥の旅館の手伝いには見えない。けれど、その不似合いさは今では湯守荘の風景に入り始めていた。
「緊張してる?」
灯里が聞いた。
「してないように見える?」
「見えない」
「じゃあ聞くなよ」
「確認」
灯里は笑った。
「でも、昨日よりは顔まとも」
「それ、褒めてる?」
「かなり」
「基準が低いな」
「最初の頃が地中だったからね。今は地上に出た」
「虫みたいだ」
「春だし」
くだらない会話をしている間だけ、呼吸が少し楽になる。
灯里は、たぶん分かってやっている。
悠真が沈みすぎる前に、軽い言葉を投げる。けれど軽くしすぎない。逃げ道だけ作って、引っ張り出そうとはしない。その距離感は、今の悠真にはありがたかった。
厨房から千代が顔を出した。
「茶」
「はい」
「急須、温める」
「はい」
「湯呑み、もう一度見て」
「欠けてないかですか」
「茶渋も」
「分かりました」
千代はそれだけ言って戻った。
悠真は慌てて湯呑みを確認しに行く。何度目か分からない。それでも見た。欠けはない。茶渋も、昨日灯里と磨いたので薄くなっている。
湯呑みを布巾で拭きながら、悠真はふと笑いそうになった。
会社で何度も確認をさせられた時は、苦痛だった。誰かに責められないための確認だったからだ。
今も緊張はする。けれど、湯呑みを確認する理由は、相沢が気持ちよく茶を飲めるようにするためだった。
同じ確認でも、少し違う。
少し違うだけで、身体の強張り方が変わる。
*
三時前から、悠真は何度も玄関の外を見た。
相沢は午後三時過ぎに来ると言っていた。バスの時間を考えれば、三時十五分から二十分頃だろうと灯里が言う。
時計の針が三時を過ぎる。
三時五分。
三時十分。
三時十五分。
何も起きない。
山は静かだった。風が木の葉を揺らし、遠くで川が鳴っている。玄関先のつつじは、昨日より少し蕾が開いたように見えた。
三時二十分を過ぎた頃、坂の下から人影が見えた。
小柄な男性だった。
背筋は伸びているが、歩幅はゆっくりだ。薄いグレーの帽子をかぶり、片手に小さな旅行鞄を持っている。服装はきちんとしていた。派手さはない。紺色の上着に、白いシャツ。靴は磨かれている。
だが、足取りには少し疲れがあった。
坂を上がる途中で一度立ち止まり、山の方を見た。それから、また歩き出す。
「あの人?」
灯里が小さく言った。
「たぶん」
「迎えに出る?」
「うん」
悠真は玄関の外へ出た。
心臓が大きく鳴っている。
相沢が石段の下に辿り着く前に、悠真は一段降りた。
「相沢様でしょうか」
声は、昨日の練習より少し低く出た。
相沢は顔を上げた。
目尻に皺のある、穏やかな顔だった。年齢は七十前後だろうか。けれど、老いよりも先に、長年きちんと生きてきた人の静けさが見えた。
「はい。相沢誠一です」
相沢は帽子を取り、丁寧に頭を下げた。
悠真も頭を下げる。
「お待ちしておりました。足元、悪くございませんでしたか」
練習した言葉だった。
だが、口にすると少しだけ自分の言葉になっていた。
相沢は目を細めた。
「懐かしい坂でした」
「荷物、お持ちします」
「いえ、これくらいは」
「石段だけでも」
悠真は控えめに手を差し出した。
相沢は一瞬迷ったが、旅行鞄を渡した。
「ありがとうございます」
鞄は思ったより軽かった。
たぶん、一泊分の荷物しか入っていない。必要なものだけをきちんと選んで持ってきた人の軽さだった。
石段を上がると、灯里が玄関で待っていた。
「いらっしゃいませ」
彼女の声は、いつもより少し落ち着いていた。
相沢は一瞬、灯里の髪とピアスを見た。
その表情に驚きはあったが、嫌な感じはなかった。
「お世話になります」
「こちらこそ。坂、きつくなかったですか?」
「昔より、少し長くなった気がしました」
「坂の方が伸びましたね、たぶん」
灯里が真顔で言うと、相沢は小さく笑った。
「それなら仕方ありません」
悠真は少し驚いた。
灯里の軽口が、初対面の相沢にすっと入っていった。押しつけがましくない。失礼にもならない。相手の疲れを少しだけ横へずらすような言葉だった。
玄関に上がってもらう。
相沢は靴を脱ぎ、きちんと揃えようとした。悠真は一歩早くかがみ、そっと向きを整えた。
その瞬間、相沢の動きが止まった。
「義一さんも、よくそうしてくださいました」
悠真は手を止めたまま、顔を上げた。
「祖父が」
「ええ。何も言わずに、いつの間にか靴が揃っている」
相沢は玄関の奥を見た。
「変わっていないところもありますね」
その言葉に、悠真の胸が少しだけ熱くなった。
祖父はいない。
でも、祖父がやっていたことの一つを、自分は今している。
それは真似にすぎないかもしれない。
けれど、完全な空白ではなかった。
「まず、お部屋へご案内いたします。お茶は後ほどお持ちします」
「ありがとうございます」
相沢は、帳場の前で一度足を止めた。
黒電話。
止まっていたが、今は動いている時計。
古い宿帳。
壁に残る礼状。
相沢の目が、一つひとつを静かに確かめていく。
「この時計、まだありましたか」
「はい。止まっていたので、電池を替えました」
「昔から、よく止まる時計でした」
「祖父が横を叩いて直していたと、灯里が」
「そうです。私も一度見ました」
相沢は懐かしそうに笑った。
灯里が横で得意げに言う。
「ほら、私の記憶正しかった」
「疑ってないよ」
「ちょっと疑ってた顔してた」
相沢は二人のやり取りを、静かに見ていた。
その目は、若い二人を眩しがるというより、何か昔の音を聞いているようだった。
*
山吹の部屋へ案内すると、相沢は入口で少し立ち止まった。
「こちらです」
悠真は障子の歪みが急に気になった。畳の端。座卓の位置。湯呑み。座布団の角。全部が目に入る。
相沢は、何も言わず部屋に入った。
庭の見える窓際へ進み、座卓の横に鞄を置く。
つつじの蕾が、障子越しの光の向こうに見えていた。
「この部屋でした」
相沢は、ぽつりと言った。
「お泊まりになったことがあると伺いました」
「ええ。もう、二十年以上前です。あの時も、庭のつつじはまだ蕾でした」
相沢はゆっくり腰を下ろした。
長旅の疲れが出たのかもしれない。座る動作に、少し時間がかかった。
悠真は慌てて座布団を直そうとしたが、相沢が手で制した。
「大丈夫です。自分でできます」
「はい」
「お気遣いはありがたいですが、どうかあまり緊張なさらず」
悠真は見透かされている気がして、少し息を詰めた。
相沢はやわらかく笑った。
「私の方が、少し緊張しております」
「相沢様が、ですか」
「はい。思い出の場所に来るのは、なかなか勇気がいります」
その言葉は意外だった。
思い出の場所に来ることを、相沢は楽しみにしているだけではなかった。変わってしまっているかもしれない怖さ。変わっていないことに傷つく怖さ。たぶん、そういうものを抱えて来たのだ。
「昔と違うところも、多いと思います」
悠真は言った。
「そうでしょうね」
相沢は庭を見たまま頷いた。
「私も違いますから」
「え?」
「昔の私ではありません。義一さんも花江さんも、あの頃のままではない。湯守荘だけが同じままでいる方が、不自然です」
相沢は少し笑った。
「変わっていないものを探しに来たというより、まだ続いているものを見に来たのかもしれません」
まだ続いているもの。
悠真はその言葉を胸の中で繰り返した。
「お茶をお持ちします」
「ありがとうございます」
部屋を出る時、相沢がもう一度庭を見ていた。
その背中は、どこか会社を退職した人の背中に見えた。
現役の誰かではなく、役職や肩書きを降ろした後の背中。軽くなったはずなのに、何を背負えばいいか分からず、少し所在なく見える背中だった。
悠真は、相沢が電話で「一人で」と言った時の声を思い出した。
定年退職。
それは、長く働いた人への労いの言葉であるはずなのに、その後の空白に戸惑う人もいるのだと、ようやく想像できた。
*
厨房では、千代が茶を淹れる準備をしていた。
悠真が入ると、千代は急須を指した。
「温めた」
「ありがとうございます」
「茶葉、入れすぎない」
「はい」
「湯は熱すぎない」
「はい」
灯里が横で見ている。
「悠真、顔が真剣すぎる。お茶で世界を救う人みたい」
「茶葉の量が分からない」
「そこ?」
「大事だろ」
「大事だけど」
千代が茶筒を開け、無言で分量を示した。悠真はそれを真似て急須に入れる。湯を注ぎ、少し待つ。湯呑みに注ぐと、薄い緑色の茶が静かに広がった。
「濃いですか」
千代に聞く。
「普通」
千代にしては、悪くない評価だった。
灯里が盆を持とうとしたが、悠真は首を振った。
「俺が持っていく」
「お」
「何だよ」
「宿の人っぽい」
「茶を運ぶだけだ」
「それが宿の人でしょ」
灯里は素直に盆を渡した。
悠真は山吹の部屋へ向かった。
廊下を歩く間、盆の上の湯呑みが少し揺れる。こぼさないように、ゆっくり歩いた。山吹の前で一度息を整え、声をかける。
「失礼いたします」
相沢は窓際に座っていた。
帽子を座卓の端に置き、庭を見ている。背中は静かだったが、眠っているわけではない。悠真が入ると、ゆっくり振り返った。
「お茶をお持ちしました」
「ありがとうございます」
湯呑みを置く。
相沢は両手でそれを受け取った。すぐには飲まず、湯気を見ていた。
「この湯呑み、昔もありましたね」
「祖母が残していたものだと思います」
「山の絵が、少し薄くなりました」
「すみ……」
言いかけて、悠真は止まった。
相沢が目元だけで笑った。
「謝るところではありませんね」
「はい。……少し、色が薄くなりました」
「その方が、今の私には落ち着きます」
相沢はお茶をひと口飲んだ。
それだけの動作が、丁寧だった。
「おいしいです」
「よかったです」
「義一さんは、お元気ですか」
「腰を悪くしていますが、街で祖母と暮らしています。口は、相変わらず悪いです」
「それは安心しました」
相沢は小さく笑った。
「花江さんは」
「通院はありますが、元気です。相沢様のお手紙を読んだことを伝えたら、懐かしがっていました」
「そうですか」
相沢は湯呑みを包むように持った。
「急な手紙で、ご迷惑をおかけしました」
「迷惑ではありません」
今度は、自然に言えた。
「手紙を読んで、湯守荘が祖父母だけの場所ではなかったのだと知りました」
相沢は少し驚いた顔をした。
悠真は続けるか迷ったが、言葉はすでに出ていた。
「私は、まだ宿を継ぐと決めきれていません。でも、相沢様の手紙を読んで、湯は誰かの記憶に残るものなんだと思いました」
言ったあとで、少し恥ずかしくなった。
客にこんなことを言うものだろうか。
けれど相沢は、笑わなかった。
静かに聞いていた。
「湯は、残りますよ」
相沢は言った。
「不思議なものです。どんな景色を見たかは忘れても、湯船の深さや、湯上がりの廊下の冷たさや、朝の味噌汁の匂いは覚えている」
相沢は庭へ視線を戻した。
「私は、湯守荘で二度ほど、人生の節目を越えました」
「節目、ですか」
「一度目は、仕事で失敗した時。二度目は、妻を亡くした後です」
悠真は言葉を失った。
相沢の声は穏やかだった。けれど、その穏やかさの奥にある時間の長さが、急に部屋の空気を変えた。
「今日は、三度目かもしれません」
相沢は自分で少し笑った。
「定年して、何もすることがなくなりましてね。会社に行かない朝が、こんなに長いものだとは思いませんでした」
悠真は、自分の退職後の朝を思い出した。
起きても、何をすればいいのか分からない朝。
怒鳴られないのに、身体だけが怯えている朝。
時計だけが動き、自分が止まっているような朝。
相沢は年齢も立場も違う。
だが、朝の長さは少し似ているのかもしれない。
「すぐに慣れると、皆さん言います」
相沢は続けた。
「趣味を持て、旅行をしろ、地域活動をしろ。ありがたい言葉です。でも、何十年も会社へ行くことで形を保っていた人間に、急に自由を渡されても、使い方が分からない」
悠真は黙っていた。
何か言うべきではないと思った。
相沢も、答えを求めているわけではなさそうだった。
「だから、まず湯に入りに来ました」
相沢は湯呑みを置いた。
「義一さんの湯に」
「祖父に伝えます」
「ええ。ただ、今はあなたの湯でもありますね」
悠真の胸が小さく鳴った。
「俺の、ですか」
「今日、私を迎えてくださったのは、あなたですから」
相沢は穏やかに言った。
その言葉は、褒め言葉というより事実の確認だった。
今日、相沢を迎えたのは悠真。
靴を揃えたのも、茶を運んだのも、部屋へ案内したのも悠真。
祖父の湯であり、祖母の宿であり、千代たちが支える場所でありながら、今この瞬間、相沢に向き合っているのは自分だった。
怖さが、また少し形を変える。
逃げたい怖さではなく、背筋が伸びる怖さ。
「お風呂は、四時半頃にはご案内できます」
悠真は言った。
「ありがとうございます。急ぎませんので、ゆっくりで」
「湯加減を見ながらになります。昔より、少し時間がかかるかもしれません」
「待つ時間も、温泉のうちです」
相沢はそう言って、またお茶を飲んだ。
*
浴場へ戻ると、玄造が湯船の前にしゃがんでいた。
手を湯に入れ、じっとしている。温度計も横にあるが、玄造はまず手で見るらしい。
「どうですか」
「もう少し」
玄造は短く答えた。
「相沢さん、四時半頃で大丈夫です」
「聞いた」
「え?」
「廊下は声が通る」
聞かれていたらしい。
悠真は少し恥ずかしくなった。
「すみません」
言ってから、しまったと思う。
玄造は振り返らずに言った。
「謝ると湯がぬるくなるのか」
「なりません」
「なら、いい」
そういう理屈なのか。
灯里が脱衣所の籠を拭きながら笑っている。
「玄造さん、それ使えますね。謝ると湯がぬるくなるのか」
「使わなくていい」
悠真は言った。
千代は脱衣所の入口に立ち、タオルを確認していた。
「相沢さん、変わってた?」
唐突に聞いた。
「え?」
「昔と」
「俺は昔を知らないので」
「そう」
千代はタオルを畳み直した。
「でも、静かな方でした」
「昔も」
「そうなんですか」
「飯を残さない」
千代の記憶は、やはりそこに行くらしい。
「今日は、食べられますかね」
「食べるように作る」
千代はそう言った。
それは料理人の強さだった。
豪華なものを出す、ではない。
珍しいものを出す、でもない。
食べられるように作る。
その一言に、湯守荘の料理の芯がある気がした。
四時半前、湯はようやく人が入れる温度になった。
熱すぎず、ぬるすぎない。玄造は納得したのか、湯口を見て一度頷いた。
「呼べ」
悠真は山吹へ向かった。
相沢は窓際で本を開いていたが、あまり読んでいる様子ではなかった。庭を見ている時間の方が長かったのかもしれない。
「お風呂のご用意ができました」
「ありがとうございます」
相沢は本を閉じた。
立ち上がる時、少し膝に手を置いた。悠真は手を貸そうか迷ったが、相沢は自分で立った。先ほど「自分でできます」と言われたことを思い出し、悠真は一歩だけ下がって待った。
廊下を歩きながら、相沢は壁に掛けられた礼状を見た。
「これは、まだ残っているのですね」
「はい。昨日、掃除の時に見ました」
「花江さんが、嬉しそうに飾っていました」
「祖母が」
「ええ。『うちの宿に、こういうものをくださる方がいるのはありがたいことです』と」
祖母らしい言葉だった。
脱衣所の前で、悠真は足を止めた。
「こちらです。浴場は少し古いですが、床は滑りやすいのでお気をつけください。何かありましたら、声をかけてください」
「はい」
相沢は浴場の戸に手をかけた。
その前に、少しだけこちらを見た。
「神崎さん」
「はい」
「湯を、残してくださってありがとうございます」
悠真はすぐに返せなかった。
自分はまだ、湯を残したと言えるほど何もしていない。
祖父母が残した。玄造が見た。江幡が応急で整えた。千代がタオルを用意した。灯里が脱衣所を拭いた。
それでも、相沢は今、悠真に礼を言った。
「……まだ、残せているかは分かりません」
悠真は正直に言った。
「でも、今日は入っていただけます」
「それで十分です」
相沢は静かに頭を下げ、浴場へ入っていった。
戸が閉まる。
しばらくして、湯桶を使う音が聞こえた。
そして、湯船に身体を沈める音。
長い息が、浴場の中からかすかに漏れた。
悠真は脱衣所の外で、しばらく動けなかった。
誰かが湯に入った。
湯守荘の湯に。
半年ぶりか、一年ぶりか、正確には分からない。
だが、休業していた宿の湯船に、また客が入った。
それだけのことが、胸の奥にゆっくり沈んでいく。
灯里が少し離れた場所に立っていた。
彼女はいつものように茶化さなかった。
ただ、小さな声で言った。
「始まったね」
悠真は浴場の戸を見た。
湯の音がする。
相沢は何も語らない。
ただ、湯に浸かっている。
その沈黙を、今は邪魔してはいけないのだと思った。
「うん」
悠真は答えた。
「始まった」
その言葉は、声に出すと少し怖かった。
けれど、山の湯気に混じって、湯守荘の中へ静かに溶けていった。




