第7話 最初の予約
受話器の向こうで、相沢誠一はしばらく黙っていた。
沈黙は、責めるものではなかった。
けれど悠真の手は、黒電話の受話器を握ったまま、じわじわ汗ばんでいく。
まだ整っていないところも多い。
それでもよろしければ、一部屋だけ、ご用意できます。
言ってしまった。
声に出した瞬間、その言葉はもう帳場の空気に残っていた。取り消せない。湯守荘は、休業中の古い宿から、誰かを迎える宿へ半歩だけ出てしまった。
『……本当に、よろしいのですか』
相沢の声は、遠慮がちだった。
悠真は反射的に「すみません」と言いかけた。
舌の先まで出かかったその言葉を、飲み込む。
謝りながら宿をやるな。
祖父の声が、胸の中で低く響く。
「はい。ただ、正直に申し上げますと、今使える客室は一部屋だけです。浴場も、設備を確認しながらになります。昔の湯守荘と同じようには、まだできないかもしれません」
自分の声は、まだ少し固い。
けれど、嘘ではない。
相沢は、電話の向こうで小さく笑った。
『昔も、そんなに立派な宿ではありませんでしたよ』
悠真は一瞬、返事に詰まった。
『失礼な言い方でしたら、すみません。ただ、私はその立派すぎないところが好きでした』
「……祖父も、たぶん同じことを言うと思います」
『義一さんらしい』
相沢の声が、少しやわらいだ。
悠真は帳場の台に置いてあったメモ帳を引き寄せた。電話対応用に昨日、灯里が大きく「予約メモ」と書いて置いていったものだ。横には、質問することが箇条書きにされている。
名前。
人数。
日付。
到着時間。
食事。
神社へ行くか。
足腰。
苦手な食べ物。
最後の「足腰」の横に、灯里の字で「山道・階段注意」と小さく書かれていた。
悠真は深く息を吸った。
「ご宿泊は、いつ頃をご希望でしょうか」
『急でなければ、来週の水曜はいかがでしょう。平日の方が、ご迷惑にならないかと思いまして』
迷惑。
その言葉を客の方から言われると、胸が少し痛んだ。
「迷惑ではありません」
悠真は、思ったよりはっきり言った。
電話の向こうで、また少し沈黙があった。
『ありがとうございます。では、水曜に一泊で。私一人です』
「お一人様ですね。ご到着は」
『午後三時過ぎには伺えるかと。駅からバスで向かいます』
「あの、バス停から宿まで少し歩きます。坂もありますので」
『存じております。昔、よく歩きました』
「お迎えに行くこともできます」
言ってから、自分で驚いた。
車はない。
運転も得意ではない。
そもそも湯守荘の車が動くのかも分からない。
だが、相沢は穏やかに断った。
『いえ、歩かせてください。あの坂を歩くところから、私にとっては湯守荘ですので』
悠真はメモを取る手を止めた。
あの坂を歩くところから、湯守荘。
自分が重いキャリーケースを引きずりながら歩いた道。息が上がり、何度も立ち止まった山道。相沢にとっては、それも宿へ向かう時間の一部なのだ。
「分かりました。お気をつけてお越しください」
『夕食は、お願いできますか』
「はい。地のものを使った、簡単なお食事になります」
『簡単なものがいいです』
相沢は、そう言った。
『胃も、昔ほど丈夫ではありませんので』
悠真はメモに書いた。
夕食あり。
胃、強くない。
量は控えめ。
「苦手なものはありますか」
『特には。ただ、あまり脂の強いものは』
「分かりました」
『それから』
「はい」
『もし可能であれば、山吹の部屋は空いておりますか』
悠真は顔を上げた。
山吹。
昨日、みんなで掃除した一部屋。張り替えたばかりの障子。干した布団。庭に面した部屋。
「はい。ご用意できます」
『昔、一度だけ泊まったことがあります。庭のつつじが見える部屋でした』
「今も、つつじがあります。蕾がついています」
『そうですか』
相沢の声が、ほんの少し震えた気がした。
『では、そこに泊めていただけると嬉しいです』
「承知しました」
承知しました。
会社で何度も使った言葉だった。
けれど今は、別の言葉のように感じた。
命令を受けるためではない。
誰かの希望を、できる範囲で受け止めるための言葉。
予約の最後に、相沢はもう一度礼を言った。
『若い方に、急にこのようなことをお願いして申し訳ありません』
悠真は、受話器を握り直した。
「相沢様」
『はい』
「祖父に、客は謝罪を食べに来るんじゃない、と言われました」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
だが相沢は、ふっと息を漏らした。
『義一さんらしいですね』
「なので、こちらもなるべく謝らずに準備します」
『では、私も謝らずに伺います』
その言い方が、少しおかしかった。
悠真は小さく笑った。
「お待ちしております」
通話が切れた後も、しばらく受話器を戻せなかった。
黒電話は黙っている。
帳場の時計が、かち、かち、と鳴っている。
メモ帳には、自分の字で予約内容が書かれていた。
来週水曜。
一名。
相沢誠一様。
山吹。
夕食あり。
胃に優しいもの。
午後三時過ぎ。
徒歩。
予約。
本当に、予約が入った。
悠真はゆっくり受話器を置いた。
途端に、膝から力が抜けそうになった。帳場の椅子に座り込む。心臓はまだ速い。手も震えている。けれど、電話を取る前の震えとは少し違った。
怖い。
怖いが、逃げ出すほどではない。
自分は今、客を一人迎える約束をした。
その事実が、湯守荘の古い空気の中に、静かに置かれていた。
*
灯里に電話すると、三回目のコールで出た。
『はいはーい。湯守荘非常勤ギャルです』
「何その名乗り」
『今決めた。どうしたの』
「予約が入った」
電話の向こうが一瞬静かになった。
『え』
「相沢さん。来週の水曜。一泊。山吹」
『……え、ほんとに?』
「うん」
『マジか』
「マジ」
『うわ、どうしよ』
「俺が聞きたい」
『いや、そうだよね。え、待って。水曜? 来週? 山吹? ご飯あり?』
「夕食あり。胃に優しいもの。量は控えめ。午後三時過ぎに歩いて来るって」
『メモ取った?』
「取った」
『偉い』
「子ども扱いするな」
『最初は何でも祝う方針って言ったでしょ。予約取れたの偉い。電話出たのも偉い。謝らずに言えた?』
「少しだけ」
『少しだけなら合格』
灯里の声は明るかった。
けれど、浮ついてはいなかった。こちらの緊張が切れすぎないよう、少し離れた場所で声をかけているような明るさだった。
「どうすればいい」
『まず千代さんに連絡。夕食の相談。玄造さんには風呂と床。江幡さんにも一応。よねさんには布団。甚六さんには野菜。私は水曜、午後休めるか調整する』
「そんなに大ごと?」
『大ごとだよ。湯守荘、再開一人目でしょ』
再開一人目。
その言葉で、胃が少し重くなった。
『あ、今重くなったでしょ』
「何で分かる」
『声。大丈夫。大ごとだけど、大騒ぎする必要はないから』
「違いが分からない」
『大ごとは大事にすること。大騒ぎは自分たちが慌てること。今回は前者』
灯里は妙にきっぱり言った。
「灯里、たまに役場の人っぽい」
『普段も役場関係者ですけど』
「忘れてた」
『ひど』
電話の向こうで、誰かが灯里を呼ぶ声がした。役場にいるらしい。
『ごめん、いったん切る。あとで行く。とりあえず、予約メモを写真で送って』
「黒電話で受けたんだけど」
『スマホで紙を撮るの』
「ああ」
『悠真、たまに文明から落ちるよね』
「山奥だから」
『宿のせいにしない』
通話が切れた。
悠真はメモ帳をスマートフォンで撮り、灯里に送った。
すぐに返信が来た。
『字、思ったよりきれい。声は細いのに』
余計な一言がついていた。
悠真は少し笑ってから、千代に電話をかけた。
電話番号は、灯里が昨日メモしてくれていた。緊張しながらかけると、かなり長く呼び出し音が鳴った。諦めかけた頃、低い声が出た。
『はい』
千代だった。
「あ、悠真です。湯守荘の」
『知ってる』
「相沢さんから予約が入りました。来週水曜、一泊で。夕食ありです」
電話の向こうで、音が止まった。
『相沢さん』
「はい。胃があまり強くないので、脂の強いものは控えたいと」
『粥?』
「夕食なので、粥だけだと」
『粥を添える』
「あ、はい」
『魚はやめる』
「そうなんですか」
『骨が面倒』
「胃とは別の理由ですね」
『食べるのに気を使う』
千代の中では、もう献立が動き始めているようだった。
『小鍋。鶏は少し。野菜多め。味噌は薄く。朝は粥でもいい』
「分かりました」
『分かってない』
「はい」
『メモ』
「あ、書きます」
悠真は慌てて書いた。
小鍋。鶏少し。野菜多め。味噌薄め。朝は粥可。魚なし。
『玄造に言う』
「風呂ですか」
『風呂と薪』
「お願いします」
『あんたは部屋』
「山吹ですね」
『布団』
「はい」
『湯呑み』
「湯呑み?」
『欠けてないもの』
「あ、はい」
『座布団も干す』
「はい」
『慌てるな』
不意に、千代が言った。
悠真は言葉を失った。
千代は続けた。
『慌てると、味噌汁が濃くなる』
「……それは困ります」
『困る』
通話はそこで切れた。
慌てるな、とは言われなかったのに、言われた気がした。
悠真はメモを見直した。
やることが増えていく。
しかし不思議と、昨日のような圧迫感だけではなかった。やることが具体的だからかもしれない。相沢という一人の人の顔はまだ知らない。だが、手紙の字や電話の声がある。山吹を希望した理由もある。胃に優しいものがいいという情報もある。
誰か分からない客ではない。
相沢誠一という人を迎える準備だ。
*
その日の午後、湯守荘はまた少し人の気配で満ちた。
灯里は役場の仕事帰りに立ち寄り、予約メモを見ながら必要なものを整理した。玄造は浴場裏を確認し、江幡へ電話をした。千代は厨房の棚を開け、使える器を黙々と選んだ。
よねは夕方近くに来た。
誰が知らせたのかと思ったら、灯里だった。
「一人目の客が来るってのに、布団を見ないわけにいかないでしょう」
よねはそう言って、山吹の押し入れを開けた。
布団を一枚一枚触り、匂いを嗅ぎ、厳しい顔をする。
「これはだめ。こっちは干せばいける。枕は替えな。年寄りに高い枕はよくない」
「相沢さん、年配の方です」
「なら余計に。夜中に首が痛くなったら、湯が良くても台無しだよ」
よねは容赦がない。
けれど、その容赦のなさは客のためだった。
灯里は座布団を抱えて縁側へ運びながら言った。
「よねさん、宿屋モードになると厳しい」
「宿屋は厳しくなきゃやってられないよ。客に優しくするために、準備にはうるさくするの」
悠真はその言葉をメモしたくなった。
客に優しくするために、準備にはうるさくする。
仕事というものは、誰かに怒られないためにするものだと思っていた。
けれど、ここでは違う。
誰かが眠りやすいように。
誰かが食べやすいように。
誰かがつまずかないように。
そのために、うるさく確認する。
同じ確認でも、向いている先が違う。
甚六は夕方、大根と白菜を置いていった。
「相沢さんが来るんだって?」
「はい」
「胃が悪いなら、大根だ」
それだけ言って、荷台から立派な大根を一本下ろした。
「こんなに大きいの、いいんですか」
「悪いやつを客に出せるか」
「でも」
「支払いは宿が回ってからでいい」
「いや、それは」
「うるさい。まだ回ってないだろ」
甚六はそう言って、軽トラックに戻ろうとした。
悠真は慌てて声をかけた。
「あの」
「何だ」
「ありがとうございます」
甚六は振り返らない。
「礼は、米をまずく炊かなくなってから言え」
エンジン音を残して、軽トラックは下っていった。
灯里が横で笑っている。
「照れてるね」
「あれで?」
「うん。甚六さんの照れはエンジン音が大きくなる」
「難しすぎる」
「慣れるよ」
悠真は大根を両手で抱えた。
重い。
土の匂いがする。
相沢のための大根。
そう思うと、その重さが少し具体的になった。
*
夜、山吹の部屋に一人で入った。
畳には、よねが選んだ布団が一組、仮に敷かれている。枕は低めのものに替えた。座卓の上には、欠けていない湯呑みを置いた。灯里が「これ、いいじゃん」と選んだ、山の絵が小さく入った湯呑みだ。
障子は、よく見るとやはり少し歪んでいる。
悠真はそれが気になった。
気になり始めると、止まらない。端の処理も、糊の跡も、昨日は見えなかった粗が見えてくる。
こんな部屋でいいのか。
そう思った瞬間、また胸が重くなった。
もっとちゃんとしなければ。
もっと整えなければ。
もっと完璧に近づけなければ。
会社員時代の癖が、すぐ顔を出す。
少しの粗が、大きな失敗になる。
誰かに見つかり、責められ、謝らなければならなくなる。
悠真は畳に座り込んだ。
障子の歪みを見つめる。
そこへ、廊下から千代の声がした。
「何してる」
「障子が」
「破れた?」
「いえ、歪んでます」
千代は部屋に入り、障子を見た。
「歪んでる」
「やっぱり」
「でも、閉まる」
「はい」
「光も入る」
「はい」
「なら、今日はそれでいい」
あまりにも簡単に言われて、悠真は顔を上げた。
「気になりませんか」
「なる」
「じゃあ」
「次に直す」
千代は座卓の湯呑みを見た。
「湯呑み、いい」
「灯里が選びました」
「欠けてない」
評価基準がまずそこなのが、千代らしかった。
「相沢さん、気づくでしょうか。障子」
「気づく」
「え」
「温泉好きは、部屋も見る」
悠真の胃が沈んだ。
千代は続けた。
「でも、怒らない」
「どうして分かるんですか」
「昔、姉さんが障子を破いたまま通した」
「おばあちゃんが?」
「大雪の日。張り替えが間に合わなかった」
「相沢さんは?」
「笑ってた」
千代は、ほんの少しだけ目を細めた。
「『風が入らなければ十分です』って」
悠真は障子を見た。
風は入らない。
光は入る。
今日は、それでいい。
完璧ではないが、泊まれる部屋。
その言葉を、自分の中に少しずつ置く。
千代は部屋を出る前に言った。
「明日、もう一度干す」
「布団ですか」
「座布団も」
「はい」
「あと、寝ろ」
「え?」
「顔が悪い」
「それ、みんな言いますね」
「みんな見えてる」
反論できなかった。
*
相沢が来る前日、湯守荘は静かに慌ただしかった。
大騒ぎはしない。
しかし、誰も手を抜かない。
江幡は午前中に来て、浴場の応急確認をした。湯はいつもより少し時間をかければ、入れる温度まで上がるらしい。玄造は湯加減を何度も見て、薪とボイラーの調子を確認した。
千代は朝から出汁を取っていた。
厨房には、昆布と干し椎茸の匂いが静かに漂っている。甚六の大根は厚めに切られ、下茹でされていた。鶏肉は小さめに。白菜、葱、人参。派手なものはない。
灯里は午後休を取ったらしく、昼過ぎにやって来た。
「いよいよ明日だね」
「言わないでくれ」
「言わなくても明日だよ」
「それも言わないでくれ」
「無理難題」
灯里は笑いながら、玄関の掃除を始めた。
悠真は予約メモを何度も確認した。
相沢誠一様。
明日、水曜。
午後三時過ぎ。
山吹。
夕食あり。
胃に優しいもの。
徒歩。
湯守荘の湯を覚えている人。
最後の一行は、後から自分で書き足したものだ。
客の情報として正しいのか分からない。
でも、いちばん忘れてはいけないことのような気がした。
夕方、灯里が玄関で突然言った。
「練習しよう」
「また?」
「本番前だから」
「逆に緊張する」
「練習してもしなくても緊張するでしょ」
「それはそう」
灯里は玄関の外へ出て、客のふりをした。
少し腰を曲げ、落ち着いた声で言う。
「こんにちは、相沢と申します」
「相沢さんはそんなにふざけない」
「ふざけてない。年配男性のつもり」
「灯里がやると変だ」
「文句言わない。はい、宿の人」
悠真は深く息を吸った。
玄関の戸を開けるところからやる。
「相沢様ですね。お待ちしておりました。足元、悪くございませんでしたか」
灯里は少し目を丸くした。
「いいじゃん。声、前より出てる」
「本当?」
「うん。まだ細いけど、糸じゃなくて紐くらい」
「褒め方」
「強度上がってる」
灯里は靴を脱ぐふりをする。
「荷物、こちらでお持ちします」
「お、いいね」
「お部屋は山吹です。先にお茶をお持ちしますか。それとも、お風呂の時間をご案内しましょうか」
「急に旅館っぽい」
「言い方、変?」
「ううん。ちょっと硬いけど、悠真っぽい」
「俺っぽい旅館対応って何だ」
「真面目で、少し不器用で、でもちゃんと見てる感じ」
灯里はさらっと言った。
悠真は返事に困った。
そういう言葉を、真正面から受け取るのはまだ慣れない。
灯里もそれ以上言わず、玄関の上がり框に腰掛けた。
「大丈夫だよ」
「何が」
「相沢さん、たぶん完璧な宿に来るんじゃないから」
「でも、がっかりさせたら」
「がっかりすることもあるかもよ」
あっさり言われた。
悠真は眉を寄せる。
「そこは否定してくれないのか」
「うん。だって、昔と違うところは絶対あるじゃん。義一さんはいないし、花江さんもいない。建物も古くなってる。全部が思い出通りってことはないよ」
灯里は玄関の外を見た。
「でもさ、思い出通りじゃないから駄目ってわけでもないと思う」
「そうかな」
「そうだよ。今の湯守荘には、今の湯守荘の顔があるでしょ。障子ちょっと歪んでるけど」
「やっぱり分かる?」
「分かる」
「言わないでくれ」
「でも、閉まる」
千代と同じことを言った。
悠真は少し笑った。
灯里も笑った。
玄関の外では、夕方の山が少しずつ暗くなっている。提灯はまだ灯していない。だが、明日は灯すことになるかもしれない。
客を迎えるために。
*
その夜、悠真はなかなか眠れなかった。
山吹の隣の部屋で布団に入ったが、目が冴えていた。会社員時代とは違う眠れなさだった。あの頃は、明日の怒鳴り声を思って眠れなかった。今日は、明日の客を思って眠れない。
不安はある。
でも、その中にほんの少しだけ待つ気持ちも混じっていた。
相沢はどんな人だろう。
祖父とあまり喋らないのに気が合っていた人。
祖母の粥を残さなかった人。
湯守荘の湯を「静けさで身体の力を抜いてくれる湯」と書いた人。
その人が、明日ここへ来る。
悠真は布団の中で、何度も挨拶を練習した。
相沢様ですね。
お待ちしておりました。
足元、悪くございませんでしたか。
言葉がだんだん変に聞こえてきて、やめた。
障子の向こうで、山の夜が深い。
川の音がする。
遠くで獣か何かが枝を踏む音がした。
帳場の時計の音はここまでは聞こえない。だが、動いているはずだった。
明日、湯守荘に客が泊まる。
そのことを考えると、胸が重くなる。
けれど、少しだけ温かくもなる。
逃げてきた場所で、誰かを迎える。
そんなことが、本当にできるのだろうか。
答えは出なかった。
出ないまま、悠真はいつの間にか眠っていた。
プロットはまだ使い切っていません。次は「定年の男」――相沢誠一が実際に湯守荘へ到着し、最初の客として迎える場面に進められます。




