第4話 街にいる祖父母
翌朝、千代は来なかった。
その代わり、厨房の流し台の横に小さな紙が置かれていた。
『米は戸棚。味噌汁は昨日の鍋。温めるだけ。卵は二個まで。火を消すこと』
字は角ばっていた。
最後の「火を消すこと」だけ、少し筆圧が強い。
悠真はしばらく紙を眺め、それから戸棚を開けた。米は小さな袋に移されていた。味噌汁の鍋は冷蔵庫に入っている。卵もある。昨日のうちに千代が用意してくれたのだろう。
誰もいない厨房に立つ。
それだけで、少し緊張した。
会社では、失敗すると怒鳴られた。宿の厨房では、火を消し忘れると本当に危ない。比較にならないはずなのに、悠真の身体はどちらにも同じようにこわばる。
米を研ぐのは、思っていたより難しかった。
千代の手つきは簡単そうに見えたのに、自分がやると水の量も、力の入れ方も分からない。米粒が指の間から逃げる。濁った水を捨てる時、うっかり米まで流しそうになった。
「……危な」
誰もいないのに、声が出た。
味噌汁を温め、卵を焼く。
卵焼きにはならなかった。火が強かったのか、端が少し焦げ、真ん中は柔らかすぎる。皿に移す時に半分崩れた。
それでも、白飯と味噌汁と卵らしきものが卓に並んだ。
悠真は手を合わせた。
「いただきます」
昨日の千代の朝食とはまるで違う。
米は少し硬く、味噌汁は煮詰まって濃い。卵は見た目が悪い。
でも、不思議と食べられた。
自分で用意した朝食を、自分で食べる。
それは当たり前のことのはずなのに、ここしばらくの悠真には当たり前ではなかった。東京の部屋で食べていたものは、ただ胃に入れるためのものだった。今朝の下手な飯には、少なくとも朝を始めようとした跡がある。
食べ終わると、流しに食器を運んだ。
洗剤をつけ、茶碗を洗う。
手から滑りそうになって、慌てて持ち直す。
割らなかった。
それだけで、少しほっとした。
火を消したか、二度確認した。三度目も確認した。
千代の紙を見て、もう一度確認した。
「消えてる」
口に出してから、厨房を出た。
帳場の時計は動いている。湯も出ている。水も透明だ。昨日、悠真が宿帳の余白に書いた文字は、そのまま残っていた。
今日は、祖父母のいる街へ行く。
母から昨日の夜に連絡が来ていた。祖父母が会いたがっているというより、悠真が一度顔を出した方がいい、という言い方だった。
宿を譲る予定。
その言葉が、昨日から胸のどこかに引っかかっている。
譲られる。
もらう、ではない。
引き継ぐ、でもまだない。
何かをこちらへ渡される気配だけがあって、それを受け取れる手が自分にあるのか分からない。
玄関の鍵を閉める時、少し手間取った。
古い鍵は癖がある。昨日よりはましだったが、すんなりは回らない。ようやく施錠して、石段を下りる。
朝の山は、冷えていた。
空は薄く晴れている。川の音が近い。鳥がやけに忙しく鳴いていた。道路脇の草は朝露を含み、靴の先が少し濡れる。
停留所まで歩くと、すでに一人、老人が待っていた。
麦わら帽子をかぶった小柄な女性だった。手押し車の上に布の袋を載せている。悠真を見るなり、目を細めた。
「あんた、湯守の」
「あ、はい。神崎です」
「義一さんとこの孫かい」
「はい」
「顔、似てないねえ」
最初にそれを言われるとは思わなかった。
「よく言われます」
「いや、言われないだろ」
「……そうですね」
老人はふふっと笑った。
「義一さんは、まだ街かい」
「はい。通院があるので」
「山は不便だからねえ。あんた、宿やるの」
いきなりだった。
悠真は言葉に詰まった。
「まだ、分かりません」
「そうかい」
老人はそれ以上聞かなかった。
ただ、バスが来るまでの間に、ぽつりと言った。
「あそこの湯はね、うちの爺さんが好きだったよ」
「そうなんですか」
「腰が痛い時、よく行ってた。湯から上がると、背中が少し伸びるって言ってね」
悠真は何と返せばいいのか分からず、ただ頷いた。
「宿がなくなると、湯も寂しがるねえ」
老人は、そう言って前を向いた。
湯が寂しがる。
おかしな表現だった。
でも、妙に残った。
*
バスと電車を乗り継いで、祖父母が暮らす街へ向かった。
湯守荘のある山奥から見ると、街は十分に賑やかだった。駅前にスーパーがあり、病院があり、薬局があり、喫茶店がある。けれど東京と比べれば、空が広い。人の流れも急いでいない。
祖父母のアパートは、駅から歩いて十分ほどの場所にあった。
二階建ての古い建物。玄関先にはプランターが並び、祖母が育てているらしい花がいくつも咲いている。階段の横に、祖父の杖が立てかけてあった。
呼び鈴を押すと、すぐに足音がした。
「はいはい」
扉が開き、祖母の花江が顔を出した。
記憶の中より小さくなっていた。
それが最初に思ったことだった。
丸い顔も、やわらかい目元も、昔のままだ。けれど背が少し曲がり、動きはゆっくりしている。髪は白くなり、手の甲には細かな皺が増えていた。
「悠真」
祖母は名前を呼んで、笑った。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥が苦しくなった。
会社を辞めたことも、何もできないことも、宿をどうするか決められないことも、全部知られているような気がした。知られているのに、責められないことが、かえって苦しい。
「久しぶり」
「本当だねえ。まず上がりなさい。痩せたね」
「みんなそれ言う」
「みんなが言うなら本当に痩せたんだよ」
祖母は当然のように言った。
部屋の中には、煮物の匂いがした。
六畳と台所、小さな居間。湯守荘の広さに比べると、驚くほどこぢんまりとしている。だが、生活の音があった。湯沸かしポット、積まれた新聞、薬の袋、座布団、テレビのリモコン。窓際には祖父の椅子があり、その横に杖がもう一本立てかけてある。
祖父の義一は、その椅子に座っていた。
昔より痩せた。
だが、目つきは変わっていない。
「来たか」
「うん」
「座れ」
挨拶も何も、それだけだった。
悠真は少し笑いそうになった。祖父は祖父のままだった。
座布団に座ると、祖母がお茶を出してくれた。湯呑みは湯守荘で使っていたものと同じ柄だった。薄い緑色に、小さな山の絵。
「宿、見たか」
祖父が聞いた。
「見た」
「湯は」
「出てた」
「台所は」
「千代さんが来てくれた」
「そうか」
「玄造さんも」
「あいつは床ばっかり見る」
「本当に見てた」
祖父が、わずかに口元を動かした。
笑ったのかもしれない。
祖母が盆を置きながら言った。
「千代さん、何か作ってくれた?」
「朝ご飯と夕飯。今日の朝は自分で作った」
「あら、偉い」
「偉くはないよ。卵、崩れたし」
「崩れても卵は卵だよ」
「味噌汁、濃くなった」
「水を足せばいい」
「米、硬かった」
「よく噛めばいい」
祖母は全部、簡単なことみたいに言った。
実際、簡単なのかもしれない。
今の悠真が、簡単なことを難しく考えすぎているだけで。
祖父は湯呑みに手を伸ばした。指の関節が少し太くなっている。湯呑みを持つ手に、昔より力がない。
それを見るのが、悠真には少しつらかった。
祖父は山にいる人だと思っていた。風呂場の湯口を見て、薪を運び、客の靴を揃える人。いつも無口で、背中で宿を動かしている人。
その祖父が、街の小さなアパートで、杖の横に座っている。
老いた、という言葉を使いたくなかった。
けれど、現実だった。
「腰、どう?」
悠真が聞くと、祖父は不機嫌そうな顔をした。
「曲がってる」
「痛い?」
「痛くない日を忘れた」
祖母が横から言った。
「そういう言い方をするから、先生に嫌な顔をされるんですよ」
「本当のことだ」
「本当でも、言い方があるでしょう」
「医者に気を使ってどうする」
「医者にも人情はあるんです」
祖父は黙って茶を飲んだ。
そのやり取りに、悠真は少しだけ肩の力が抜けた。
二人は変わった。
でも、変わっていない。
その両方が、同じ部屋にあった。
*
昼食は、祖母が作ったうどんだった。
柔らかく煮た葱と、卵が入っている。汁は薄味で、胃に優しい。祖父は黙って食べ、祖母は悠真の器に葱を少し多く入れた。
「そんなに入れなくても」
「風邪予防」
「風邪じゃない」
「じゃあ、風邪にならない予防」
「同じじゃない?」
「違うよ」
祖母は笑った。
食事の後、祖母は薬を飲み、祖父は腰に湿布を貼り直した。悠真は手伝おうとしたが、祖父に「いい」と断られた。祖母は「手伝ってもらえばいいのに」と言ったが、祖父は聞かなかった。
頑固さも、老いと一緒に薄くなるわけではないらしい。
食卓が片づくと、祖母が古い紙袋を持ってきた。
「これ、持っていきなさい」
「何?」
「宿のもの。いくつか」
中には、古いノートが数冊、鍵束、封筒、そして紺色の半纏が入っていた。
半纏には、湯守荘の文字が縫われている。
「これは」
「おじいちゃんが着てたやつ。まだ少し早いかもしれないけど」
「いや、俺には」
「似合わなくても、そのうち似合うよ」
祖母は電話で言ったのと同じように、さらりと言った。
祖父は窓の外を見ている。
悠真は半纏に触れた。
布は少し擦り切れている。袖口に色落ちがある。けれど、きちんと畳まれていた。湯の匂いがする気がした。実際には、洗濯された布の匂いしかないのかもしれない。それでも悠真には、浴場の湯気や、朝の冷えた廊下の匂いが染み込んでいるように思えた。
「これ、俺が持っていっていいの」
祖父が、ようやくこちらを見た。
「着るならな」
「着なかったら?」
「箪笥の肥やしだ」
「じゃあ、持っていく」
「そうしろ」
短いやり取りだった。
けれど、何かを渡された気がした。
半纏だけではない。
祖父が何十年も湯を見てきた時間の端。祖母が何度も客を迎えた朝の続き。そういうものが、古い布の重みとして膝の上にある。
急に怖くなった。
「俺、できるか分からない」
悠真は言った。
祖母がこちらを見た。
祖父は顔を動かさない。
「昨日も言ったけど、旅館のことなんて何も知らない。経営も、接客も、料理も。千代さんたちに頼ってばかりだし、灯里にも迷惑かけてるし」
言葉が止まらなくなった。
「会社だって、駄目だった。四年で辞めた。みんな普通に働いてるのに、俺だけ駄目になって。朝起きるのも、電話に出るのも、今でも怖い。そんな人間が宿なんて」
「悠真」
祖母が静かに名前を呼んだ。
悠真は口を閉じた。
祖母は怒っていなかった。悲しそうでもなかった。ただ、少し困ったように微笑んでいる。
「うどん、食べられたね」
「え?」
「昨日は宿で朝ご飯を食べた。今日はここでうどんを食べた。食べられるなら、まだ戻ってこられるよ」
戻ってこられる。
どこへ、とは聞けなかった。
祖父が湯呑みを置いた。
「宿をやるかどうかは、お前が決めろ」
低い声だった。
「俺たちが頼むからやるんじゃない。会社を辞めたからやるんでもない。逃げ場がないからやるんでもない」
悠真は膝の上の半纏を見た。
「閉めるなら閉めろ」
祖父は続けた。
「売るなら売れ。貸すなら貸せ。宿なんぞ、守る人間がいなけりゃただの古い建物だ」
祖母は黙っている。
「だが、決める前に湯を見ろ。朝の湯、雨の日の湯、客が入った後の湯。台所の火も見ろ。飯を炊く音も聞け。それから決めろ」
「……うん」
「謝りながらやるな」
祖父の目が鋭くなった。
「できないことは覚えろ。壊れたところは直せ。金がないなら考えろ。怖いなら怖いままやれ。でも、客に向かって、こんな宿ですみませんとは言うな」
悠真の喉が詰まった。
「客は、お前の謝罪を食いに来るんじゃねえ」
祖父の声は荒くない。
けれど、まっすぐだった。
「湯に入りに来る。飯を食いに来る。眠りに来る。それだけだ」
悠真は何も言えなかった。
会社では、謝ることが仕事のようになっていた。先に謝る。何か言われる前に謝る。自分が悪いかどうかより、場を収めるために謝る。
でも宿では、それをしてはいけないのかもしれない。
少なくとも祖父は、そう言っている。
祖母がそっとお茶を注ぎ足した。
「おじいちゃんの言い方は怖いけどね」
「怖くない」
祖父が言った。
「怖いですよ」
祖母がすぐ返した。
悠真は思わず笑った。
笑うと、目の奥が熱くなった。泣きたいのではない。けれど、泣きそうだった。
祖母は見て見ぬふりをした。
「ノートは、昔の献立帳と、宿の控え。全部読まなくていいよ。分からなくなった時に見ればいい」
「うん」
「鍵は予備。封筒には、取引先の連絡先。米屋さんとか、味噌屋さんとか。今も全部使えるかは分からないけど」
「ありがとう」
「あとね」
祖母は少し声を落とした。
「湯守荘に来る人は、元気な人ばかりじゃないよ」
悠真は祖母を見た。
「温泉が好きな人もいる。神社へ行きたい人もいる。山が見たい人もいる。でも、中には、何も言えなくなって来る人もいる。昔からそうだった」
祖母の目は、遠くを見ているようだった。
「そういう人に、何か言ってあげようとしなくていい。言葉が邪魔になることもあるから」
「何もしなくていいってこと?」
「違うよ」
祖母は首を振った。
「お茶を出す。湯を冷まさない。ご飯を炊く。雨なら傘を出す。寒そうなら火鉢を寄せる。話したそうなら聞く。話したくなさそうなら、聞かない」
ひとつずつ、指で数えるように言う。
「それが宿の仕事」
悠真は黙って聞いていた。
「救わなくていいの」
祖母は最後にそう言った。
「人は、簡単に救われないからね。でも、一晩眠れる場所があるだけで、次の日の朝までは行けることがある」
その言葉は、部屋の中に静かに残った。
悠真は半纏を膝に置いたまま、長く黙っていた。
*
帰る前に、祖父が「少し歩く」と言い出した。
祖母は心配そうな顔をしたが、祖父は杖をついて立ち上がった。
「駅まで送る」
「無理しなくていいよ」
「無理はしてる」
「じゃあ、やめて」
「嫌だ」
子どものような返事だった。
結局、三人でアパートを出た。
祖母は途中まで。祖父は駅の手前の小さな公園まで歩いた。ゆっくりだった。昔なら何でもない距離のはずなのに、祖父は何度か立ち止まった。
悠真は隣を歩きながら、手を貸すべきか迷った。
祖父は、その迷いを見透かしたように言った。
「転ぶ時は言う」
「言ってから転べる?」
「転ぶ前に言う」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんか」
祖父は少しだけ鼻で笑った。
公園には、藤棚とベンチがあった。平日の昼過ぎで、人は少ない。祖父はベンチに腰を下ろし、杖を膝に立てかけた。
「ここから駅は見える」
「送るって、ここまで?」
「十分だ」
悠真も隣に座った。
しばらく、二人で黙っていた。
車の音。遠くの踏切の音。公園の隅で鳩が歩く音。
山とは違う静けさだった。
「山に戻りたい?」
悠真が聞いた。
祖父はすぐには答えなかった。
「戻りたい日もある」
「戻らない日も?」
「戻ったら、また全部やろうとする」
祖父は自分の膝を見た。
「体がついてこねえ」
その言葉は、祖父の口から聞くには寂しすぎた。
悠真は何も言えない。
「悔しいですか」
「悔しい」
短い答えだった。
取り繕わない分だけ、重かった。
「でも、山を下りた」
「うん」
「花江を巻き込んでまで意地張るほど、若くねえ」
祖父は杖の先で地面を軽く叩いた。
「宿は好きだ。湯も好きだ。だが、宿にしがみついて花江を倒したら、それは宿じゃねえ」
悠真は祖父の横顔を見た。
頑固で、無口で、何も譲らない人だと思っていた。けれど祖父は、何かを諦めてここにいる。負けたからではなく、誰かを守るために。
「お前も同じだ」
「え?」
「会社にしがみついて倒れたら、仕事じゃねえ」
悠真の胸に、静かに刺さった。
祖父は前を見たまま続ける。
「辞めたなら、辞めたでいい」
「……でも」
「でも、何だ」
「逃げたみたいで」
「逃げたんだろ」
容赦がなかった。
悠真は言葉を失う。
祖父はようやくこちらを見た。
「逃げちゃ悪いのか」
「え」
「火事なら逃げる。崖なら下がる。熊なら逃げる。会社だけ逃げちゃいかん理由は何だ」
悠真は答えられなかった。
そんな言い方をされたのは、初めてだった。
「逃げて、生きてるならいい」
祖父は言った。
「生きてりゃ、次を考えられる」
風が吹いた。
公園の木の葉が揺れる。
悠真は膝の上で手を握った。
逃げた。
その言葉はずっと、自分を責めるためのものだった。
でも祖父は、それをただの行動として言った。
火事から逃げるように。崖から下がるように。熊から逃げるように。
逃げて、生きている。
それだけで、次がある。
涙が出そうになった。
けれど、祖父の前で泣くのは少し悔しかった。だから悠真は、遠くの踏切を見た。
「湯守荘に戻ったのも、逃げたのかな」
「そうかもしれん」
「いいのかな」
「戻ってから考えろ」
祖父は立ち上がった。
「行け。電車、逃すぞ」
「うん」
悠真も立ち上がる。
祖父は少し歩き出してから、振り返らずに言った。
「半纏」
「うん」
「寒い朝に着ろ」
「分かった」
「似合わなくても着ろ」
「おばあちゃんと同じこと言う」
「俺が先に言った」
それだけ言って、祖父はアパートの方へ戻っていった。
背中は昔より小さい。
けれど、まだ真っ直ぐだった。
*
湯守荘へ戻ったのは、夕方だった。
山の空気は街より冷えていた。バス停から歩く道の途中、手に持った紙袋が何度も足に当たった。中には半纏、ノート、鍵、封筒が入っている。
玄関の鍵を開ける。
昨日よりは少しだけ、手が慣れていた。
帳場に入ると、時計の音が聞こえた。
かち、かち。
悠真は紙袋を帳場の台に置いた。
まず、半纏を取り出した。広げる。紺色の布に、白い糸で湯守荘と縫われている。袖を通してみた。
少し大きい。
肩が余る。袖も長い。鏡を見ると、似合っているとは言い難かった。祖父の背中にあった時のような重みはなく、服に着られている感じがする。
それでも、暖かかった。
布の内側に残っていた空気が、体に触れる。
悠真はそのまま浴場へ向かった。
湯口からは、今日も細く湯が流れている。
ぬるい。
けれど、止まっていない。
湯船の縁に手を置き、湯に指を浸す。
「ただいま」
今度は、小さくそう言った。
帰ってきた、とはまだ思えない。
でも、戻ってきた。
逃げてきた場所で、次を考える。
それくらいなら、今の自分にも許される気がした。
厨房へ行くと、千代の紙がまだ置かれていた。
『火を消すこと』
悠真はそれを見て、少し笑った。
冷蔵庫に残っていた味噌汁を温め、昼にもらった祖母の煮物を小皿に移した。米は炊かなかった。朝の残りを温めるだけにした。
夕食は簡単だった。
それでも、膳に並べると食事になった。
手を合わせる。
「いただきます」
声は、昨日より少しだけ部屋に馴染んだ。
食後、悠真は宿帳を開いた。
昨日書いた余白の下に、鉛筆で今日のことを書く。
『祖父母の家へ行った。半纏を預かった。宿は謝りながらやるなと言われた。逃げても、生きていれば次を考えられると言われた。』
少し長くなった。
書いてから、最後に一行足した。
『湯は今日も出ていた。』
それがいちばん大事なことのように思えた。
夜になると、山はまた深く沈んだ。
川の音がする。古い時計が動いている。厨房には味噌汁の匂いがかすかに残っている。帳場の台には、祖母の献立帳と祖父の鍵が置かれている。
悠真は半纏を着たまま、しばらく帳場に座っていた。
宿をやるとは、まだ言えない。
でも、閉めるとも言えない。
その間にいる自分を、今夜だけは少し許せた。




