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湯守荘の宿帳には、言えなかった人生が綴られる 〜ブラック企業で壊れた僕は、茨城の山奥で名湯の宿を継ぎました〜  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第5話 名湯を知る人

 翌朝、玄関先に白い封筒が挟まっていた。


 郵便受けではない。格子戸の隙間に、落ちないよう丁寧に差し込まれている。悠真は鍵を開ける前にそれに気づき、しばらく見つめた。


 差出人は、知らない名前だった。


 相沢誠一。


 住所は県外。封筒の隅に、きっちりした字で「湯守荘 神崎義一様」と書かれていた。祖父宛てだ。


 休業している宿に、祖父宛ての手紙。


 それだけで、少し息が詰まった。


 帳場へ戻り、黒電話の横に封筒を置く。勝手に開けていいものか迷った。祖父に連絡しようかと思ったが、まだ朝が早い。祖母は起きているかもしれないが、祖父は腰の具合によって朝が遅い日もあると聞いていた。


 封筒の表には、消印が数日前の日付で押されている。


 誰かが郵便受けではなく、わざわざ玄関に挟んだのだろうか。配達員が気を利かせたのか、近所の人が預かったものを届けたのかは分からない。


 悠真は半纏の袖に手を入れた。


 祖父の半纏は、やはり少し大きい。動くと肩がずれる。けれど、朝の帳場に座る時にはちょうどよかった。暖かいだけでなく、自分の輪郭を少しごまかしてくれる気がする。


 朝食は、昨日より少しだけましになった。


 米はまだ硬いが、焦げてはいない。味噌汁は水を足したので濃すぎなかった。卵は諦めて、納豆にした。納豆は混ぜるだけで食べられる。自分の実力に合っている。


 食べ終えてから、祖父母に電話した。


 出たのは祖母だった。


『おはよう、悠真。食べた?』


 いつもの最初の問いだった。


「食べた。納豆」


『いいねえ。納豆は裏切らないから』


「おばあちゃん、納豆に信頼寄せすぎじゃない?」


『茨城の人間ですから』


 祖母は少し笑った。


「宿に手紙が来てた。おじいちゃん宛てで、相沢誠一さんって人から」


 電話の向こうで、祖母の声が一瞬止まった。


『相沢さん?』


「知ってる?」


『ええ。昔から何度も泊まってくださった方よ。温泉がお好きでね。おじいちゃんと、あんまり喋らないのに気が合ってた』


「開けてもいい?」


『いいと思うよ。おじいちゃんに代わる?』


「うん」


 少し待つと、祖父の声がした。


『相沢か』


「知ってるんだ」


『湯を見に来る人だ』


「湯を?」


『宿じゃねえ。湯を見に来る』


 祖父らしい言い方だった。


「手紙、開けていい?」


『読め』


「おじいちゃん宛てだけど」


『読めば分かる』


 それだけ言って、祖父は電話を祖母に戻した。


『読み終わったら、また教えて。相沢さん、律儀な方だから』


「分かった」


 通話を切ったあと、悠真はしばらく封筒を見ていた。


 湯を見に来る人。


 その言い方は、少し変だった。


 温泉に入るのではなく、湯を見る。


 けれど祖父にとっては、たぶん自然な言葉なのだろう。


 悠真は封を切った。


 中には便箋が三枚入っていた。万年筆で書かれたような濃い青の文字。几帳面だが、少し震えがある。


 読み始める。


 前略、から始まる手紙だった。


 湯守荘が休業していると聞いたこと。祖父母が山を下りたことを案じていること。自分も年を取り、以前ほど遠出ができなくなったこと。それでも、湯守荘の湯を時々思い出すこと。


 文章は静かだった。


 感傷的ではない。大げさな褒め言葉もない。ただ、一つひとつ記憶を確かめるように書かれていた。


『初めてそちらに伺ったのは、まだ私が四十代の頃でした。仕事で大きな失敗をし、家に帰るのも気が重く、ただ温泉地の地図を眺めていた時、偶然湯守荘の名を見つけました。』


 悠真は便箋を持つ手を止めた。


 仕事で大きな失敗。


 その言葉だけで、自分の胸の奥が小さく反応した。


『あの時、義一さんは多くを聞きませんでした。ただ、湯が少しぬるいから長く入れと言い、花江さんは夕食に粥を添えてくださいました。私はその夜、久しぶりに眠れました。』


 久しぶりに眠れました。


 たった一文なのに、妙に重い。


 悠真は続けて読む。


『私にとって湯守荘の湯は、熱さで身体を驚かせる湯ではありません。静けさで身体の力を抜いてくれる湯です。湯船に浸かっていると、自分が何者であるかを一度忘れられる。役職も、失敗も、家での顔も、少しの間だけ湯に預けられる。そういう湯でした。』


 悠真は読みながら、昨日の湯口を思い出した。


 ぬるい湯。


 細く流れる音。


 雨に濡れた石のような匂い。


 あれを、誰かがこんなふうに覚えている。


 湯守荘は、祖父母の宿であり、子どもの頃の自分の夏休みの場所だった。だが、それだけではなかった。誰かが仕事で失敗した夜、誰かが眠れなくなった夜、誰かが自分の役割から逃れたい夜に、ここへ来ていた。


 便箋の最後の方に、こう書かれていた。


『もし湯がまだ生きているなら、いつかまた一泊させていただきたいと思っております。宿として無理のない範囲で構いません。豪華な食事も、立派な客室も望みません。ただ、あの湯にもう一度入り、朝に山の音を聞ければ十分です。』


 悠真はそこで読むのをやめた。


 十分。


 その言葉が、胸に残った。


 豪華な食事も、立派な客室も望まない。


 ただ、湯に入り、朝に山の音を聞く。


 それで十分だと言う人がいる。


 悠真は便箋を畳めず、帳場の台に置いた。


 しばらく、時計の音だけが聞こえた。


     *


 昼前に灯里が来た。


 相変わらず玄関先から声が大きい。


「生きてるー? 死んでたら返事しなくていいよー」


「返事できるわけないだろ」


「お、生きてた」


 灯里は勝手に上がり、紙袋を掲げた。


「よねさんから差し入れ。漬物。あと、甚六さんから小松菜。『あの若造、青いもん食ってんのか』って」


「若造って」


「たぶん愛情表現」


「分かりにくい」


「田舎の愛情表現は、だいたい分かりにくいよ」


 灯里は帳場に置かれた便箋に気づいた。


「何それ」


「古い常連さんからの手紙。おじいちゃん宛て」


「読んでいいやつ?」


「おじいちゃんには読めって言われた」


「じゃあ読んでいいやつだ」


 悠真は便箋を差し出した。


 灯里は最初、いつもの調子で読み始めたが、途中から口を閉じた。目が、少しだけ真面目になる。


 読み終えると、便箋を丁寧に畳んだ。


「こういう人、いたんだね」


「うん」


「湯守荘、ちゃんと誰かの場所だったんだ」


 灯里の言葉は、悠真が感じていたことに近かった。


 誰かの場所。


 自分が知らない間に、この宿は誰かの記憶の中に残っていた。


「返事、書く?」


 灯里が聞いた。


「俺が?」


「うん」


「でも、俺は会ったことないし」


「だからじゃない? 義一さんたちは街にいて、今宿にいるのは悠真でしょ」


 その言い方に、悠真は少し身構えた。


 今宿にいるのは悠真。


 事実だ。


 でも、その事実が重い。


「何て書けばいいか分からない」


「湯は出てます、でいいんじゃない」


「それだけ?」


「相沢さんって人、たぶんそれが一番知りたいんでしょ」


 灯里は便箋の端を指で軽く叩いた。


「豪華な食事も立派な客室も望まない。ただ湯に入りたいって書いてる」


「でも、泊められる状態じゃない」


「今はね」


「客室、一部屋しか使えない。風呂もぬるい。床も危ない。料理も千代さん頼みだし」


「うん」


「そんな宿に、来てくださいなんて言えない」


「じゃあ、まだ準備中ですって書けばいい」


 灯里はあっさり言った。


「嘘つかなくていいよ。今は準備中。湯は出ている。いつか泊まれるようになったら連絡します。それでいいんじゃない」


 簡単に言う。


 でも、確かにそれなら書けるかもしれない。


 できないことをできると言わなくていい。


 できていないことを謝り続けなくていい。


 今の状態を、そのまま伝える。


 悠真は帳場の引き出しを開けた。便箋が入っていた。祖母が昔使っていたものだろう。端に小さな山の絵が印刷されている。


 ペンを持つ。


 そこで手が止まった。


 字を書くのが怖い。


 おかしな話だと思う。メールでもなく、報告書でもなく、ただ手紙を書く。それなのに、最初の一文字が出ない。会社のメールでは、相手の機嫌を損ねないよう何度も書き直した。言葉の端を削り、謝罪を足し、結論をぼかし、自分の責任を先に並べた。


 手紙にも、その癖が出そうになる。


「悠真」


 灯里が横から言った。


「最初に謝るの禁止」


「何で分かった」


「顔」


「顔で分かるのか」


「分かる。『この度は休業しており誠に申し訳ございません』って書こうとしてた顔」


 図星だった。


 悠真はペンを置いた。


「でも、休業してるし」


「それは事実。でも謝罪から入ると、たぶん相沢さんが気を使う」


「気を使う?」


「うん。あの手紙読む限り、そういう人でしょ。こっちが謝ったら、もう一回『お気になさらず』って返してくるタイプ」


 灯里は椅子に腰を下ろし、足を組んだ。


「湯守荘ってさ、謝られる宿じゃない方がいいと思う」


 祖父と同じことを、少し違う言い方で言った。


 悠真は深く息を吐いた。


 便箋に向かう。


 少し迷ってから、書き始めた。


『相沢誠一様』


 そこまで書いて、また止まる。


「硬い?」


「手紙だからいいんじゃない」


 灯里は、今度は茶化さなかった。


 悠真は続きを書いた。


『お手紙をいただき、ありがとうございました。祖父母に代わり、孫の神崎悠真が読ませていただきました。祖父母は現在、通院の都合で山を下りておりますが、二人とも元気にしております。』


 ここまでは書けた。


 次が難しい。


 悠真は湯守荘の湯について、どう書けばいいのか考えた。名湯です、と自分で書くのは違う気がした。素晴らしい湯です、と飾るのも違う。


 湯口から、細く流れていた。


 指を入れると、ぬるかった。


 でも止まっていなかった。


 悠真はそのまま書いた。


『湯守荘の湯は、今も出ています。まだ人に入っていただくには整えなければならないことが多いのですが、湯口から細く、静かに流れています。』


 灯里が横から覗き込んだ。


「いいじゃん」


「覗くな」


「見守り」


「監視だろ」


「見守りと監視は紙一重」


 悠真は少し笑い、続きを書いた。


『私自身、旅館のことはまだ何も分からず、宿として再開できるかも決めきれておりません。ただ、相沢様のお手紙を読み、湯守荘が私の知らないところで誰かの記憶に残っていたことを知りました。ありがとうございます。』


 ありがとうございます、と書いた時、胸のつかえが少し下りた。


 謝るのではなく、礼を言う。


 その違いは小さくない。


 最後に、


『いつかまた泊まっていただけるようになりましたら、改めてご連絡いたします。どうかお体にお気をつけてお過ごしください。』


 と結んだ。


 読み返す。


 完璧ではない。硬い。どこかぎこちない。でも、嘘は書いていない。


 灯里は頷いた。


「送ろう」


「これでいいかな」


「いいよ。相沢さん、たぶん喜ぶ」


「何で分かるの」


「湯が出てるって書いてあるから」


 灯里は立ち上がった。


「じゃ、郵便出しに行くついでに買い物行こ。米、減ってるでしょ」


「何で分かるの」


「昨日から悠真が三回ご飯食べたから」


「数えられてる」


「食べた回数は大事」


 そう言いながら、灯里は持ってきた漬物と小松菜を厨房へ運んでいった。


     *


 午後、千代と玄造が来た。


 千代は手紙のことを聞くと、短く「相沢さん」と言った。


「知ってるんですか」


「粥」


「え?」


「昔、粥を出した」


 それだけで説明が終わった。


 悠真が困っていると、玄造が横から言った。


「胃を悪くしてた」


「ああ」


「湯には入る。飯は食えない。姉さんが粥にした」


 姉さん、というのは祖母の花江のことだろう。


 千代は鍋を出しながら、淡々と言った。


「あの人、粥を残さなかった」


 それは、千代にとって大事な記憶なのかもしれない。


 料理を作る人にとって、誰が何を食べ、何を残さなかったかは、宿帳とは別の記録なのだろう。祖母の献立帳にも、きっとそういう記憶が詰まっている。


 悠真は思いきって聞いた。


「相沢さんが泊まりたいって言ったら、泊められますか」


 千代は手を止めなかった。


「いつ」


「いや、今すぐじゃなくて。いつか」


「一部屋なら」


 玄造が答えた。


「風呂は?」


「直す」


「料理は?」


 千代がこちらを見た。


「作る」


 簡単に言う。


 だが、その簡単さの奥に、何十年分の手がある。


「俺は、何をすればいいですか」


 悠真が尋ねると、千代は少し考えた。


 長い沈黙だった。


 やがて、彼女は言った。


「障子」


「障子?」


「山吹の障子。破れてる」


「あ、はい」


「張る」


「俺が?」


「練習」


 玄造が廊下の方を見た。


「床より先にできる」


 灯里が横で笑う。


「よかったじゃん。できそうな仕事きたよ」


「障子、張ったことない」


「私もない」


「手伝う気ある?」


「口で」


「一番不安なやつ」


 千代は戸棚から障子紙を出した。昨日、物置で見つけたものだ。少し古いが、使えないほどではないらしい。


「破れてる部屋に、客は入れない」


 千代はそれだけ言った。


 客。


 その言葉に、まだ胸が少し反応する。


 けれど昨日ほどではなかった。


 相沢からの手紙を読んだからかもしれない。客という言葉の向こうに、顔の見えない要求ではなく、湯を覚えている一人の人間がいると知ったから。


 悠真は障子紙を受け取った。


「やってみます」


 口にした後で、少し驚いた。


 できるかどうか分からない、ではなく。


 やってみます。


 それだけの言葉が、自然に出た。


     *


 障子張りは、思っていたよりずっと難しかった。


 まず古い紙を剥がすところから苦戦した。水を含ませ、少し待ち、ゆっくり剥がす。灯里は横で「そこ雑」「あ、破った」「職人の道は遠い」と好き勝手に言った。


「手伝う気、本当にないな」


「見守ってる」


「だから監視だろ」


「違うよ。応援してる。がんばれー」


「棒読み」


 灯里は縁側に座り、ペットボトルのお茶を飲んでいる。手伝うつもりはないらしい。だが、悠真が少し苛立った時や、手が止まった時には、妙なタイミングでどうでもいい話を振ってきた。


「そういえばさ、昔ここで悠真、障子に指で穴開けて怒られたよね」


「覚えてない」


「嘘。絶対覚えてる顔」


「……誰でも一回はやるだろ」


「一回じゃなかったよ。覗き穴とか言って三つ作った」


「最低だな、昔の俺」


「今より元気だったね」


 灯里はさらっと言った。


 悠真は手を止めた。


 今より元気だった。


 たしかにそうだ。


 昔の自分は、障子に穴を開け、川で転び、祖父に怒られ、祖母のおにぎりを何個も食べた。失敗しても、怒られても、自分そのものが減る感じはしなかった。


 いつから失敗が、存在を削るものになったのだろう。


「悠真」


 灯里が少し声を変えた。


「糊、乾くよ」


「あ、うん」


 深く沈みかけた思考を、灯里の声が引き戻した。


 ありがたかった。


 障子紙は一枚目から少し歪んだ。


 悠真は思わず「すみません」と言いかけ、飲み込んだ。


 灯里がにやっと笑う。


「今、言いかけた」


「言ってない」


「偉い」


「子ども扱い」


「最初は何でも祝う方針だから」


 二枚目は少しましだった。


 三枚目で、ようやく手順が分かってきた。


 紙を伸ばし、余分を切る。糊の量を多くしすぎない。力を入れすぎると破れる。丁寧にやればいいわけでもない。迷って触りすぎると、かえって汚れる。


 何だか、人との距離みたいだと思った。


 そう言うと、灯里に笑われそうなので黙っていた。


 夕方近く、山吹の部屋の障子はどうにか張り替え終わった。


 上手ではない。


 近くで見ると少し歪んでいる。端の処理も甘い。けれど、穴は塞がった。部屋に入る光が、昨日より柔らかくなった。


 千代が見に来た。


 しばらく黙って障子を見ていたので、悠真は緊張した。


「下手」


「はい」


「でも、破れてない」


「はい」


「次はまし」


 それは褒め言葉なのだろうか。


 たぶん、千代にしてはかなり褒めている。


 玄造も廊下から覗き、短く言った。


「客は寝られる」


 それだけで十分だった。


 灯里が小さく拍手した。


「一部屋、ちょっと宿っぽくなった」


 宿っぽく。


 悠真は山吹の部屋を見回した。


 畳。縁側。庭。張り替えた障子。押し入れにはまだ干す前の布団。電球は古い。壁にも少し染みがある。


 完璧にはほど遠い。


 それでも、昨日より少しだけ、人を迎えられる部屋に近づいていた。


     *


 夜、相沢への手紙を封筒に入れた。


 灯里が帰る時、郵便ポストまで出してくれると言ったが、悠真は首を振った。


「自分で出す」


「お」


「何だよ」


「いや、いいと思う」


 灯里はそれ以上からかわなかった。


 夕食後、悠真は一人で山道を少し下り、集落の入口にある古いポストへ向かった。夜の山道は暗い。懐中電灯の光が足元だけを照らす。虫の声がして、川の音が遠く聞こえる。


 少し怖かった。


 けれど、歩けないほどではない。


 ポストは街灯の下に立っていた。赤い色はところどころ褪せている。悠真は封筒を両手で持ち、投入口へ入れた。


 ことん、と中で音がした。


 それだけのことだった。


 でも、胸の中が少し静かになった。


 湯守荘へ戻ると、玄関の提灯が揺れていた。灯りはついていない。ただ、風に揺れている。いつか、あれにも灯を入れる日が来るのだろうか。


 帳場に戻り、宿帳を開く。


 余白に、今日のことを書く。


『相沢誠一様から手紙。湯守荘の湯を覚えている人がいた。返事を書いた。山吹の障子を張った。下手だが、破れていない。』


 少し迷って、もう一行足した。


『湯は、誰かの記憶に残っていた。』


 書き終えると、悠真はペンを置いた。


 時計の音がする。


 台所からは、千代が残していった煮物の匂いが少しだけ漂っている。山吹の部屋の障子は、きっと夜の暗さの中で静かに乾いている。


 宿を再開するとは、まだ言えない。


 でも、再開しないとも言い切れなくなっていた。


 相沢の手紙が、その間に小さな杭を打った。


 湯守荘は、古い建物ではない。


 誰かがもう一度入りたいと思っている湯のある場所だ。


 そのことを、悠真はようやく知った。



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