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湯守荘の宿帳には、言えなかった人生が綴られる 〜ブラック企業で壊れた僕は、茨城の山奥で名湯の宿を継ぎました〜  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第3話 台所に火が戻る

 山の朝は、思っていたより早かった。


 目を開けた時、天井の木目がぼんやり見えた。どこか遠くで鳥が鳴いている。川の音は夜通し続いていたらしく、眠っている間も夢の底でずっと流れていた気がする。


 悠真はしばらく、ここがどこなのか分からなかった。


 東京のワンルームではない。隣室のテレビの音も、早朝のゴミ収集車のブレーキ音も聞こえない。白い天井ではなく、古い木の天井。カーテンではなく障子。布団は少し重く、畳の匂いがした。


 湯守荘。


 そう思い出した瞬間、身体が少しだけこわばった。


 昨日ここへ来た。


 灯里が来た。


 湯を見た。


 祖父に電話した。


 時計の電池を替えた。


 たったそれだけのことをしただけなのに、全身が鉛のように重かった。


 起きなければと思った。


 でも、何のために。


 会社に行くわけではない。朝礼もない。上司からの電話もない。昨日の数字を詰められることもない。


 それなのに、起きなければならないという焦りだけが、癖のように胸の奥を叩いていた。


 悠真は布団の中で深く息を吸った。


 冷たい空気が肺に入る。


 障子の破れた部分から、細い朝日が差し込んでいた。庭のつつじの葉が少し光っている。遠くで何かを叩く音がした。


 こつん。


 こつん。


 最初は、枝がどこかに当たっているのかと思った。


 しかし、音は一定の間を置いて続いている。


 人の音だった。


 悠真は身体を起こした。頭が少しふらつく。昨日、コンビニ弁当を半分だけ食べて眠ったのを思い出した。薬は飲んだ。歯も磨いた。灯里に「ちゃんと寝ろ」と言われ、山吹の部屋に布団を敷いたところまでは覚えている。


 廊下へ出ると、空気が冷えていた。


 帳場の時計は動いていた。


 かち、かち、と規則正しく音を刻んでいる。


 その音があるだけで、昨日より建物が少しだけ生きているように見えた。


 玄関の方から、また音がする。


 悠真が足を進めると、格子戸の向こうに人影があった。


 戸を開ける。


 小柄な女が、玄関先の石段に立っていた。年齢は七十を少し超えたくらいだろうか。白髪を後ろでひとつにまとめ、紺色の割烹着を着ている。背筋はまっすぐで、手には古い風呂敷包みを持っていた。


 その後ろに、背の高い老人が立っている。無地の作業着に、黒い長靴。日に焼けた顔。大きな手。こちらも口を開かず、黙って悠真を見ていた。


 悠真は一瞬、どう挨拶すればいいのか分からなかった。


 女の方が先に口を開いた。


「千代」


 それだけだった。


「あ……神崎悠真です」


「知ってる」


 祖父の妹、神崎千代。


 そして、その夫の玄造。


 昨日、灯里が言っていた二人だ。


 千代は悠真の返事を待たず、玄関に上がった。玄造も黙って後に続く。二人とも、まるで昔からここに出入りしている人間のように迷いがない。


「お、おはようございます」


 悠真が遅れて頭を下げると、千代は振り返らずに言った。


「水、出した?」


「はい。昨日、しばらく」


「湯は」


「ぬるいけど出てます」


「台所」


「え?」


「見る」


 千代はそのまま厨房へ向かった。


 悠真は慌てて後を追う。


 玄造は途中で立ち止まり、廊下の床を足裏で確かめるように踏んだ。ぎし、と床が鳴る。玄造は一度だけ眉を動かし、何も言わずに浴場の方へ歩いていった。


 二人とも、会話の入り口がない。


 悠真は厨房の入口で立ち止まった。


 千代はすでに戸棚を開けていた。


 鍋を見て、蓋を開け、棚の奥を覗き、新聞紙に包まれた包丁を取り出す。刃を確認し、わずかに目を細める。次に流しの蛇口をひねり、水を出す。色が透明なのを見て、すぐ止める。


 それから、こちらを見た。


「食べた?」


「あ、昨日の夜は」


「朝」


「まだです」


 千代は風呂敷包みを調理台に置いた。


 中から出てきたのは、米の入った袋、小さな味噌の容器、葱、卵、梅干しの瓶だった。


「炊く」


「え、今から?」


「朝だから」


 当たり前のように言われて、悠真は何も返せなかった。


 朝だから、米を炊く。


 ただ、それだけ。


 会社を辞めてから、朝は怖い時間だった。起きても何をしていいか分からない時間。身体が動かず、スマホの画面だけを見て過ぎる時間。昨日までは、朝に意味がなかった。


 けれど千代は、朝だから米を炊くと言った。


 千代は米を研ぎ始めた。


 動きに無駄がない。水を入れ、軽くかき混ぜ、濁った水を捨てる。その手つきは静かで、早くも遅くもない。まるで呼吸のようだった。


 悠真は見ているだけではまずいと思い、口を開いた。


「あの、手伝います」


「寝癖」


「え」


「直してから」


 悠真は思わず頭に手をやった。


 髪が片側だけ跳ねていた。


 千代はそれ以上何も言わず、米を研ぎ続けた。


 恥ずかしさと、少しの可笑しさが同時に来た。叱られたのに、不思議と嫌な感じはしない。会社で「身だしなみがなってない」と言われる時とは違った。千代の言葉は、悠真の人格ではなく、ただ寝癖を指していた。


 寝癖は直せる。


 それだけのことだった。


     *


 顔を洗い、髪を手櫛でどうにか整えて戻ると、厨房には米の匂いが立ち始めていた。


 ガスが点く音。湯が沸く音。包丁がまな板に当たる音。


 昨日まで止まっていた台所に、音が戻っている。


 悠真は入口に立ち、しばらくその光景を見ていた。


 千代は葱を刻んでいる。玄造はいつの間にか戻ってきて、流しの横で何かを洗っていた。山菜だろうか。小さな笊に、緑の葉が入っている。


「どこにあったんですか、それ」


 悠真が尋ねると、玄造は顔を上げずに答えた。


「裏」


「裏?」


「出てた」


 会話はそこで終わった。


 千代が味噌汁の鍋に火をかける。湯気が上がる。味噌の香りが、古い厨房の空気に少しずつ混ざっていった。


 その匂いを嗅いだ瞬間、悠真の腹が鳴った。


 思ったより大きな音だった。


 千代も玄造も、何も言わない。


 それが余計に恥ずかしかった。


「すみません」


「腹は鳴る」


 千代が言った。


「はい」


「鳴らない方が悪い」


 そういうものだろうか。


 悠真は曖昧に頷いた。


 そこへ、玄関の戸が開く音がした。


「おはよーございまーす。生きてるー?」


 灯里の声だった。


 千代がちらりと時計を見る。


「遅い」


「え、何時集合とかありました?」


 灯里は厨房に顔を出し、千代を見て笑った。


「千代さん、朝から顔が怖い」


「顔は変わらない」


「変わらない怖さってありますよね」


 千代は無視した。


 灯里はまったく気にせず、悠真の方を見る。


「お、昨日より顔色まし」


「そう?」


「うん。昨日は本当に山の未練だったから」


「例えが悪い」


「幽霊より文学的じゃない?」


「そういう問題じゃない」


 灯里は玄造にも挨拶した。


「玄造さん、おはようございます」


「おう」


「裏、見ました?」


「湯の管、一部怪しい」


「あー、やっぱり」


「あと床」


「ですよね。廊下の真ん中あたり?」


「西側」


「あとで江幡さん呼びます?」


「呼べ」


 灯里と玄造の会話は、意外なほど滑らかだった。


 言葉数は少ないのに、必要なことだけが通じている。灯里はこういう地域の人間関係の中で、ちゃんと居場所を持っているのだと悠真は思った。


 自分だけが、知らない場所へ戻ってきたような気がした。


 その気配を察したのか、灯里がこちらを見る。


「何?」


「いや。灯里、地元の人なんだなと思って」


「地元の人だよ。何だと思ってたの」


「昔、川で蟹を黒焦げにしてた人」


「まだ言う?」


「忘れられない」


「じゃあ今日は悠真で実験する?」


「何を」


「千代さんの朝ご飯で人は生き返るか」


 灯里が真面目な顔で言うと、千代が低く言った。


「食べ物で遊ぶな」


「ごめんなさい」


 灯里は素直に謝った。


 玄造が少しだけ笑ったように見えた。


 気のせいかもしれない。


     *


 朝食は、厨房に隣接した小さな食事処で食べることになった。


 客用の広間ではなく、従業員が使っていた四人掛けの卓。窓の外には、昨日見た庭とつつじが見える。朝の光が畳に伸びていた。


 白飯。


 味噌汁。


 卵焼き。


 山菜のおひたし。


 梅干し。


 それだけだった。


 旅館の朝食としては、驚くほど質素だ。焼き魚も、小鉢がいくつも並ぶわけでもない。けれど、膳を前にした瞬間、悠真は何も言えなくなった。


 白飯から湯気が立っている。


 味噌汁には葱と豆腐が浮かんでいた。卵焼きは少し厚めで、端がほんのり色づいている。山菜のおひたしは小鉢に少しだけ。梅干しは赤すぎず、しわが深い。


 豪華ではない。


 でも、今の自分には多すぎるほどだった。


「食べな」


 灯里が隣に座りながら言った。


「うん」


 悠真は手を合わせた。


「いただきます」


 口に出したのは、久しぶりだった。


 会社員時代、食事は飲み込むものだった。コンビニの袋から出して、パソコンの横で食べる。移動の合間に食べる。眠るために、薬を飲むために、胃に何かを入れる。


 いただきますと言う相手も、時間もなかった。


 白飯を口に入れる。


 米の甘さがした。


 驚くほど、ちゃんと甘かった。


 次に味噌汁を飲む。熱すぎない。塩気も強くない。舌より先に、喉と胃が受け取るような味だった。


 悠真は箸を止めた。


 何かが込み上げてきた。


 涙ではない。


 それより手前の、まだ形にならないものだった。


 灯里は何も言わなかった。


 千代は厨房の方で鍋を洗っている。玄造は卓の端に座り、黙って飯を食べている。誰も悠真の顔を覗き込まない。感想を求めない。大丈夫かとも言わない。


 その距離がありがたかった。


「おいしいです」


 少し遅れて、悠真は言った。


 千代は振り返らずに答えた。


「米がいい」


「味噌汁も」


「味噌がいい」


「卵焼きも」


「卵がいい」


 灯里が吹き出した。


「千代さん、絶対自分の腕認めないですよね」


「材料が悪ければ、どうにもならない」


「材料よくても、私が作るとどうにもならないですけど」


「練習」


「はい」


 灯里が妙に素直に頷く。


 悠真は卵焼きを食べた。


 甘すぎず、しょっぱすぎない。口の中でほどける。卵焼きを食べているだけなのに、なぜか祖母の背中を思い出した。厨房に立つ祖母。子どもの自分が椅子に座り、まだかまだかと足を揺らしていた記憶。


 千代の料理は祖母の料理とは違う。


 祖母の料理は、もう少し人に寄ってくる味だった気がする。千代の料理は、黙って隣に置かれる味だ。食べるかどうかは、こちらに任されている。


 悠真は味噌汁をもう一口飲んだ。


 任されている。


 そのことが、今は少し楽だった。


     *


 食後、千代はすぐに膳を下げ始めた。


 悠真も立ち上がる。


「洗います」


「置いて」


「でも」


「割る」


「割りません」


 千代はちらりと悠真の手を見た。


「震えてる」


 悠真は自分の手を見た。


 本当に少し震えていた。


 昨日よりはましだと思っていた。だが、疲れと緊張はまだ身体の中に残っているらしい。箸を持つ分には分からなかったが、茶碗を持って立つと指先が頼りない。


 悠真は膳を置いた。


「すみません」


「また謝った」


 千代の声は淡々としていた。


「すみ……」


 言いかけて、悠真は口を閉じた。


 灯里が横でにやっと笑う。


「一日何回謝るか数える?」


「やめて」


「百回超えたら罰ゲーム」


「やめて」


「じゃあ五十回」


「減らせばいいって話じゃない」


 灯里が笑うと、千代は表情を変えずに言った。


「謝るより、座る」


 悠真は従った。


 自分が役に立たないことへの焦りが、じわじわと胸に広がる。ここにいるのに、飯を作ることも、片づけることも、修繕することもできない。昨日から、灯里や千代たちに世話をされてばかりだ。


 また会社の時と同じだ。


 自分は使えない。


 そんな考えが頭をかすめた時、玄造が低く言った。


「床、見ろ」


 悠真は顔を上げた。


「床、ですか」


「洗い物は千代がする。お前は床を見ろ」


「俺に分かりますか」


「分からんでも見ろ」


 玄造は立ち上がり、廊下へ出た。


 悠真は慌ててついていく。


 玄造は西側の廊下で立ち止まった。昨日、灯里と歩いた時に大きくきしんだ場所より少し奥だ。玄造は足で床板を踏む。


 ぎし。


 それから少し位置を変えて踏む。


 みし。


「音が違う」


 玄造が言った。


 悠真は耳を澄ませた。


 確かに違う気がする。片方は乾いたきしみ。もう片方は、下に空洞があるような鈍い音。


「分かるか」


「少し」


「湿ってる」


「床が?」


「下」


 玄造は腰を屈め、床板の隙間を覗いた。


「風通しが悪い。ここは直す」


「俺にできますか」


「できない」


 即答だった。


 悠真は少し傷ついたが、玄造は続けた。


「今は」


 その二文字で、何かが少し変わった。


 できない。


 今は。


 会社では、できないことは価値がないことだった。できない理由は言い訳で、教わる時間もない。できない人間は、できる人間の足を引っ張る存在だった。


 でも玄造の「今は」は、違った。


 今はできない。だから見る。覚える。いつか、少しはできるかもしれない。


「工具、持ってきますか」


「場所、知ってるか」


「知りません」


「探せ」


 玄造はそれだけ言って、廊下の奥へ歩き出した。


 悠真はしばらく立ち尽くし、それから帳場の奥にある物置へ向かった。


 探せ。


 短い命令だった。


 けれど、不思議と嫌ではなかった。


 物置を開けると、古い工具箱、掃除道具、障子紙、壊れた扇風機、季節外れのこたつ布団などが詰め込まれていた。埃が舞い、思わず咳き込む。


 工具箱は重かった。


 両手で持ち上げると、腕にずしりと来る。廊下へ戻る途中、灯里が厨房から顔を出した。


「何してんの」


「工具探してる」


「お、働いてる感ある」


「感だけだけど」


「最初は感でいいんじゃない」


 灯里はそう言って、親指を立てた。


 その雑な応援が、少しだけ力になった。


     *


 午前中は、宿のあちこちを見るだけで終わった。


 玄造は床下、浴場の裏、ボイラー室、薪置き場を確認した。悠真は工具を持ったり、懐中電灯を照らしたり、玄造の言葉をメモしたりした。


 千代は厨房の整理を続けた。古い調味料を捨て、使える鍋を洗い、棚を拭く。灯里は電話で設備屋の江幡に連絡し、午後に見に来てもらう段取りをつけた。


 誰も、悠真に大きな役割を与えなかった。


 それが悔しくもあり、ありがたくもあった。


 昼過ぎ、千代がまかないを出した。


 朝の残り飯で作った焼きおにぎりと、味噌汁。焼きおにぎりには味噌が塗られ、表面が少し焦げている。香ばしい匂いがした。


 悠真は縁側に座って食べた。


 隣には灯里が座っている。千代と玄造は厨房で食べていた。二人とも、わざわざ一緒に食べようとはしない。その距離感も、この宿らしいのかもしれない。


「どう?」


 灯里が聞いた。


「何が」


「湯守荘、一日目と半分」


「疲れた」


「うん」


「何もしてないのに」


「何もしてなくはないでしょ。工具持ってたじゃん」


「小学生の手伝いみたいだ」


「小学生の手伝い、大事だよ。いないと意外と困る」


 悠真は焼きおにぎりをかじった。


 味噌の焦げた部分が、少し苦くて、うまかった。


「俺、宿をやるなんて言ってないんだけどな」


「知ってる」


「でも、なんか周りが動き始めてる」


「うん」


「怖い」


 灯里は焼きおにぎりを持ったまま、少しだけ黙った。


 いつものように茶化してもよさそうなところだった。だが、彼女はそうしなかった。


「怖いよね」


 ただ、そう言った。


 悠真は庭を見た。


「働くのが怖い」


「うん」


「客が来るのも怖い」


「うん」


「誰かに必要とされるのも、たぶん怖い」


 口に出して、胸が痛んだ。


 会社で必要とされていたわけではない。数字を出す部品として求められていただけだ。それでも、応えられないたびに自分が欠けていった。


 誰かに期待されることが、今は怖い。


 灯里は足元の小石をつま先で転がした。


「じゃあさ」


「うん」


「今は宿をやるんじゃなくて、宿を腐らせないだけでいいんじゃない」


「腐らせない」


「そう。湯を止めない。水を出す。時計動かす。床が抜けないようにする。ご飯食べる。寝る。そういうの」


「それ、宿なのかな」


「さあ。でも、いきなり宿主になるよりは楽でしょ」


 悠真は返事をしなかった。


 宿主。


 その言葉はまだ遠い。


 けれど、宿を腐らせない人。


 それくらいなら、少しだけ近い気がした。


「灯里は、なんで手伝ってくれるの」


 悠真が聞くと、灯里は一瞬だけ動きを止めた。


 それから、わざとらしく明るい顔をした。


「暇だから」


「忙しい女じゃなかったのか」


「暇と忙しいは両立する」


「しないだろ」


「するよ。心が暇だと、予定が詰まってても暇」


 変な理屈だった。


 でも、灯里の声には少しだけ本音が混じっていた。


 悠真はそれ以上聞かなかった。


 聞かない方がいいこともある。


 昨日、灯里が自分にそうしてくれたように。


     *


 午後、設備屋の江幡修司が来た。


 無精髭に作業着、軽トラック。見た目はだらしないが、玄造とは顔見知りらしく、挨拶もそこそこに浴場裏へ向かった。


「おー、若旦那」


 江幡は悠真を見るなり言った。


「若旦那ではないです」


「じゃあ仮若旦那」


「もっと嫌です」


「仮がついてるだけ優しいだろ」


 灯里が横から笑った。


「江幡さん、あんまりいじると逃げますよ」


「逃げんの?」


 江幡が悠真を見る。


 悠真は少し迷ってから言った。


「逃げるかもしれません」


 江幡は一瞬きょとんとし、それから笑った。


「正直でいいな」


 そう言って、工具を肩に担いだ。


「ま、壊れたもん見るだけなら任せろ。人間は無理だけど、管ならだいたい分かる」


 浴場裏を見た江幡は、いくつか問題点を挙げた。


 配管の一部が古い。ポンプは動いているが、点検が必要。湯量は今すぐ止まるほどではないが、安定させるには手を入れた方がいい。脱衣所の床も早めに直すべき。


 悠真はメモを取りながら、金額のことを考えて胃が重くなった。


 修理。


 費用。


 見積もり。


 数字。


 その単語だけで、身体が少し固くなる。


 江幡はそれに気づいたのか、浴場の壁にもたれて言った。


「一気に直そうとすんなよ」


「でも、直さないと泊められませんよね」


「全部はな。けど、一部屋だけ開けるなら、一部屋分の動線だけ生かせばいい。風呂も最初は時間決めて入ってもらえばいい。いきなり満室にする気か?」


「ないです」


「なら、全部の壊れ方に怯えるな」


 江幡は工具箱を閉めた。


「壊れたもんは、壊れた理由を責めても直らねえよ。まず水漏れ止めるんだ」


 その言葉に、悠真は顔を上げた。


 江幡は何も特別なことを言ったつもりはないようだった。玄造と、どの部品を先に替えるか話している。


 壊れた理由を責めても直らない。


 まず水漏れを止める。


 それは配管の話だった。


 でも、悠真には別のものにも聞こえた。


 自分がなぜ壊れたのか。


 どこで間違えたのか。


 どうして耐えられなかったのか。


 そんなことばかり考えていた。


 けれど、今することはそこではないのかもしれない。


 まず眠る。食べる。電話の音から離れる。時計を動かす。湯を見る。


 水漏れを止めるように、自分からこぼれていくものを少しずつ塞ぐ。


 それで十分な日もある。


     *


 夕方、千代が夕食を作った。


 地元の野菜と鶏肉の小鍋、こんにゃくの炒め煮、山菜のおひたし、白飯、味噌汁。


 豪華ではない。


 客に出すには地味すぎるのではないかと思ったが、食べてみると、そんな考えは消えた。


 小鍋の湯気が顔に当たる。鶏肉の旨みが野菜に染みている。こんにゃくは歯ごたえがよく、味噌汁は朝より少し濃かった。疲れている身体に合わせたような味だった。


「これ、客に出すんですか」


 悠真が尋ねると、千代は短く答えた。


「出す」


「もっと、旅館らしい料理じゃなくていいんですか」


「旅館らしいって何」


「刺身とか、天ぷらとか、小鉢がたくさんとか」


「ここは海じゃない」


 千代はきっぱり言った。


「山の宿は、山のものを出す」


 玄造が黙って頷く。


 灯里が箸を持ったまま言った。


「私、こっちの方が好きですけどね。気取ってなくて」


「でも、お客さんは豪華な方が喜ぶんじゃ」


 悠真が言うと、千代は初めて少しだけ眉を寄せた。


「豪華がいい人は、豪華な宿へ行く」


 昼間、灯里が言ったことと似ていた。


 静かにしたい人は、静かな宿へ来る。


 豪華なものが食べたい人は、豪華な宿へ行く。


 では、湯守荘に来る人は何を求めるのか。


 悠真にはまだ分からない。


 けれど千代と玄造は、たぶん分かっている。少なくとも、祖父母が何を守ってきたのかを知っている。


 食後、千代は厨房の灯りを落とす前に、調理台を丁寧に拭いた。


 玄造は外へ出て、薪置き場を確認している。


 灯里は帰る支度をしながら言った。


「明日、私午前中だけ来る。午後は役場」


「毎日来なくていいよ」


「毎日来るとは言ってない」


「でも」


「悠真」


 灯里は靴を履きながら、少しだけ声を落とした。


「人の手、借りていいんだよ」


 悠真は何も言えなかった。


 灯里は、すぐにいつもの調子に戻った。


「その代わり、いつか温泉入り放題にして」


「今はぬるいけど」


「じゃあ直して」


「俺が?」


「宿を腐らせない人が」


 そう言って笑い、灯里は帰っていった。


 千代と玄造も、夜になる前に山を下りた。二人は近くの集落に家があるらしい。明日も来る、と千代は言った。玄造は「床、踏むな」とだけ言って帰った。


 湯守荘に、また一人になった。


 けれど、昨日とは少し違った。


 厨房には、火を使った後の匂いが残っている。食事処の畳には、人が座った跡がある。廊下には工具箱が置かれ、浴場裏には江幡が貼った仮のテープがある。


 誰かがここで動いた跡。


 それが、建物の中に残っている。


 悠真は帳場へ戻った。


 時計は動いている。


 宿帳を開くと、空白の行が並んでいた。


 まだ客の名前はない。


 それでも、昨日より怖くなかった。


 悠真は古い鉛筆を取り、宿帳の端の余白に小さく書いた。


『水を出した。時計を直した。湯は出ている。台所に火が戻った。』


 日記でも業務記録でもない。


 ただ、今日あったことを書いておきたかった。


 書き終えてから、少し迷い、その下にもう一行足した。


『朝飯を食べた。』


 その文字を見て、悠真はしばらく黙っていた。


 たったそれだけの一日。


 でも、今日の自分には、それで十分だった。


 山の夜が深くなる。


 湯守荘のどこかで、古い木材が小さく鳴った。川の音が遠くから聞こえる。厨房に残った味噌の匂いが、まだかすかに廊下へ漂っていた。


 悠真は帳場の明かりを落とした。


 明日も、朝が来る。


 そのことを、久しぶりにそれほど怖いと思わなかった。

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