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湯守荘の宿帳には、言えなかった人生が綴られる 〜ブラック企業で壊れた僕は、茨城の山奥で名湯の宿を継ぎました〜  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第2話 湯を見たか

 厨房の水は、しばらく茶色かった。


 灯里は蛇口を全開にしたまま、流しの前で腕を組んでいた。水音だけが、久しぶりに人の気配を取り戻した建物の中に響いている。


「これ、飲めるのかな」


 悠真が言うと、灯里は顔だけこちらに向けた。


「最初から飲む気だったの?」


「いや、飲まないけど」


「じゃあ大丈夫。飲まなきゃ死なない」


「基準が雑だな」


「山の宿なんて、最初はだいたい雑だよ」


 灯里はそう言って、流しの端に置かれていた古いスポンジをつまみ上げた。干からびたそれを見て、眉をひそめる。


「これは死んでる」


「スポンジに生死を判定するな」


「だって死んでるもん」


 そう言いながら、灯里は持ってきた紙袋とは別に、肩から下げていた大きめのトートバッグを開いた。中から新品のスポンジ、ゴム手袋、布巾、ペットボトルのお茶、インスタント味噌汁まで出てくる。


「準備いいね」


「おばあちゃんが言ってた。『あの子はたぶん何も用意してないから』って」


「当たってる」


「でしょ」


 灯里は得意げに笑ったが、その笑い方はからかい半分、心配半分だった。


 悠真は流しに寄りかかり、厨房を見回した。


 祖母がいた頃の厨房は、もっと生きていた気がする。鍋の蓋が鳴り、湯気が立ち、葱を刻む音がしていた。味噌汁と煮物と焼き魚の匂いが混ざって、夕方になると腹が勝手に鳴った。


 今は違う。


 鍋は棚に伏せられ、包丁は新聞紙に包まれ、調味料の瓶には薄く埃が積もっている。冷蔵庫の中は空に近く、電源だけがかろうじて入っていた。誰もいない時間が、物の表面に静かに降り積もっている。


 灯里は水が透明になったのを確認すると、手際よく布巾を濡らし、調理台を拭き始めた。


「座ってていいよ」


「いや、手伝う」


「本当に?」


「本当にって何」


「今の悠真、布巾一枚で倒れそうだから」


「そこまで弱ってない」


 そう言って布巾を取ろうとした瞬間、足元がふらついた。


 灯里は何も言わず、片手で悠真の肘を支えた。


 その手つきが、妙に自然だった。驚くほど力が強いわけでも、心配を前面に出すわけでもない。ただ、倒れない場所にそっと戻すような触れ方だった。


「……ごめん」


「うん」


「いや、そこは『謝らなくていい』とか言うところじゃないの」


「言われ慣れてるでしょ、それ」


 悠真は返事に詰まった。


 灯里は布巾を絞り直しながら、淡々と言った。


「言われ慣れてる言葉って、あんまり効かないじゃん」


 それだけ言って、また調理台を拭き始める。


 悠真はしばらく、その横顔を見ていた。


 外見は昔とまるで違う。明るい髪、ピアス、爪、ラフな服装。声も大きいし、言葉も遠慮がない。けれど灯里は、こちらの傷に触れる時だけ、妙に静かになる。


 それがいつからなのか、悠真には分からなかった。


「灯里は今、何してるの」


「役場の観光関係。正職員じゃなくて会計年度だけどね。あとイベント手伝ったり、神社の参拝客の案内したり、地元の店のインスタ更新したり、便利屋みたいなことしてる」


「忙しそうだな」


「忙しいふりするのは得意」


「ふり?」


「田舎で暇そうにしてると、おばあちゃんたちに全部頼まれるから」


 灯里は真顔で言った。


「草刈り、回覧板、祭りの手伝い、スマホの設定、冷蔵庫が鳴るんだけど見て、猫が帰ってこない、孫に送るLINEが既読にならない、全部来る」


「それは忙しいな」


「でしょ。だから私は常に忙しい女なの」


 灯里はそう言って、胸を張った。


 少しだけ、空気が軽くなった。


 その軽さがありがたかった。重い話をしなくても、沈黙を無理に埋めなくても、くだらない会話があるだけで、部屋の冷え方が変わる。


 お茶を飲み、おにぎりを食べた。


 鮭と昆布。海苔は少ししんなりしている。米はしっかり握られていた。特別な味ではないはずなのに、ひと口ごとに胃が思い出したように動いた。


 灯里は向かいに座らず、流しの横で立ったままペットボトルのお茶を飲んでいる。


「座れば」


「座ると本格的に長居しちゃう」


「もう長居してる」


「じゃあ座る」


 灯里は遠慮なく古い丸椅子を引き寄せ、腰を下ろした。椅子がぎしりと鳴る。


「あ、これ危ない」


「昔からある椅子だよ」


「昔からあるものが安全とは限らない」


 確かにそうだった。


 旅館も、人も。


 長くそこにあったからといって、壊れないわけではない。


 悠真はおにぎりを持ったまま、ふと黙った。


 灯里は気づいていたかもしれないが、何も聞かなかった。代わりに、台所の窓の外を見た。


「お風呂、見た?」


「まだちゃんとは」


「じゃあ見に行こうよ。おじいちゃん、絶対言うでしょ。湯を見たかって」


「言いそう」


「言うね。むしろそれ以外あんまり言わない」


 灯里は立ち上がった。


 悠真もおにぎりを食べ終え、茶を飲んでから後に続いた。


     *


 湯守荘の廊下は、午後の光の中で少し眠たげだった。


 窓ガラスの端には細かな埃が溜まり、欄間の木彫りには蜘蛛の巣がかかっている。壁に掛けられた古い風景写真は色褪せ、かつて宿泊客が寄せた礼状が額に入れられていた。


 灯里はそれを見て足を止めた。


「これ、まだあるんだ」


 悠真も隣に立つ。


 礼状には、達筆な字で礼が書かれていた。日付は二十年以上前。家族で泊まったこと、湯がよかったこと、女将の心遣いがありがたかったこと。


 最後に小さく、こうあった。


『母が久しぶりに笑いました』


 悠真はその一文を見た。


 記憶の中の祖母は、誰かを救う人ではなかった。ただ、茶を出し、話を聞き、布団を敷き、朝に味噌汁をよそう人だった。けれど、それだけのことが誰かを笑わせることもあったのだろう。


「おばあちゃん、すごかったよね」


 灯里がぽつりと言った。


「俺には、普通のおばあちゃんだった」


「それがすごいんだよ」


 悠真は答えられなかった。


 浴場へ向かう途中、廊下の床が一箇所大きくきしんだ。灯里が「あ、ここ踏まない方がいい」と言って、飛び越える。悠真はその後ろで慎重に足を運んだ。


 脱衣所の戸を開けると、冷えた木の匂いがした。


 籠はきれいに積まれていたが、ところどころ埃が白く乗っている。壁の鏡は曇り、体重計は針が少しずれていた。古い扇風機が隅に置かれている。


「ここ、昔アイス置いてたよね」


 灯里が言った。


「あった。風呂上がりに食べるやつ」


「私、悠真のおばあちゃんに一本おまけしてもらったことある」


「ずるい」


「かわいかったから」


「自分で言うな」


「昔の私はかわいかった」


「今は?」


「今は強い」


 灯里はそう言って、浴場の戸を開けた。


 白い湯気はなかった。


 浴室は薄暗く、タイルにはところどころ水垢が残っている。窓の外には山の緑が見えた。湯船は空に近かったが、奥の湯口から細く湯が流れていた。


 ちょろちょろと。


 頼りない音だった。


 けれど、確かに流れている。


 悠真は湯船の縁に膝をつき、手を伸ばした。


 湯はぬるかった。


 人が入るには足りない温度だ。けれど水ではない。指先を包むぬくもりが、ゆっくり皮膚に移ってくる。


 柔らかい湯だった。


 子どもの頃は分からなかった。熱いとか、ぬるいとか、それくらいしか感じていなかった。今、指先に触れている湯は、尖っていない。掌の中でほどけるような感触がある。


「出てるね」


 灯里が言った。


「うん」


「生きてる」


 その言葉に、悠真は祖母の声を思い出した。


 湯が生きている。


 山の底で湧いて、管を通って、ここまで来る。誰も入らなくても、客がいなくても、旅館が閉まっていても。


 悠真は指先を湯から出した。


 湯の粒が手首を伝って落ちる。


「俺より働き者だな」


 思わず言うと、灯里が振り向いた。


「湯と張り合うの、やめなよ」


「張り合ってない」


「湯はブラック企業に勤めてないからね」


 冗談のはずだった。


 けれど、その言葉に胸の奥が少し痛んだ。


 灯里も、それに気づいたようだった。すぐに「あ」と小さく言いかけて、口を閉じる。


 謝らなかった。


 その代わり、湯船の端にしゃがみ込み、自分も指先を浸した。


「ぬるいね」


「うん」


「でも、いい湯の匂いする」


「分かるの?」


「分かるよ。私、このへんの女だから」


「どういう理屈だ」


「山の女は湯の匂いが分かる」


「初めて聞いた」


「今作った」


 灯里は真顔で言った。


 悠真は少し笑った。


 浴場の窓の外で、風が枝を揺らした。葉と葉が擦れ、かすかな音がする。その向こうに、遠く川音が聞こえた。


 ここには、会社の電話の音がない。


 誰かに責められる声もない。


 その代わりに、水と風と湯の音がある。


 それだけで治るわけではない。分かっている。分かっているのに、身体のどこかが、ここでは少しだけ緊張を解いてもいいのではないかと迷い始めていた。


「おじいちゃんに電話しなよ」


 灯里が言った。


「今?」


「今。湯を見たって言わないと」


「報告義務なの?」


「義一さんにとっては、たぶん」


 悠真はスマートフォンを取り出した。


 祖父母の番号は、母から送られてきていた。指先が少し迷う。電話をかけるという行為に、まだ身体が反応する。会社を辞めたのに、呼び出し音を聞くだけで胃が縮む。


 灯里は何も言わず、浴場の入口の方へ少し下がった。


 聞かない距離。


 でも、完全には離れない距離。


 悠真は通話ボタンを押した。


 三回目の呼び出し音で、祖母が出た。


『はい、神崎です』


「あ、おばあちゃん。悠真です」


『着いた?』


「うん。今、宿」


『寒くない?』


「大丈夫」


『食べた?』


「灯里が持ってきてくれたおにぎり食べた」


『あら、よかった。灯里ちゃん、ちゃんと行ってくれたのね』


 祖母の声の向こうで、何か物音がした。たぶん祖父だ。


『おじいちゃんが代われって』


 少し間があって、電話口の空気が変わった。


『悠真か』


 祖父の声だった。


 低く、短い。


 昔より少し掠れていたが、やはり祖父の声だった。


「うん」


『着いたか』


「着いた」


『湯を見たか』


 灯里がこちらを見て、ほらね、という顔をした。


 悠真は苦笑しそうになりながら、湯口を見た。


「見た。出てた」


『温度は』


「ぬるい。人が入るにはまだ無理だと思う」


『湯量は』


「細いけど、止まってはいない」


『色は』


「透明。少し匂いがある。前と同じ……だと思う」


 電話の向こうで、祖父が黙った。


 その沈黙が妙に長く感じた。


 やがて、祖父は言った。


『なら、まだ死んでねえ』


 それだけだった。


 悠真は浴槽の縁に手を置いた。


「宿は、だいぶ傷んでる」


『建物は傷む』


「床もきしむし、水も茶色かった」


『水は出せ』


「時計も止まってる」


『電池を替えろ』


「簡単に言うな」


『簡単なことからやれ』


 言い返せなかった。


 祖父の言葉は、昔からそうだった。短すぎて、逃げ場がない。けれど、不思議と責められている感じはしない。ただ、物事を余計な感情から切り離して、目の前に置かれる。


 水が茶色いなら、出す。

 時計が止まっているなら、電池を替える。

 湯がぬるいなら、温度を見る。


 会社で言われ続けた「何とかしろ」とは違う。


 祖父の言葉には、順番があった。


「俺にできるかな」


 言うつもりはなかった。


 けれど、声が勝手に出た。


 祖父はまた黙った。


 灯里が、少しだけ目を伏せた。


 電話の向こうで、祖父が息を吐く音がした。


『知らん』


 悠真は一瞬、言葉を失った。


『できるかどうかは、やらなきゃ分からん』


「……うん」


『ただ、謝りながら宿をやるな』


 胸の奥を突かれた気がした。


『客は、謝られに来るんじゃねえ。湯に入りに来る』


 それだけ言うと、祖父は祖母に電話を戻したらしい。慌ただしい音がして、祖母の声が戻ってきた。


『ごめんねえ。相変わらず言い方がねえ』


「ううん」


『でも、あの人なりに心配してるのよ』


「分かってる」


『無理しないでね。でも、何もしないでいると、余計しんどい日もあるから』


 祖母はゆっくり言った。


『今日は、時計の電池を替えて、水を出して、寝る場所を一つ決めなさい。それで十分』


「それだけでいいの」


『それだけでいい日もあるよ』


 悠真は浴場の窓を見た。


 山の緑が揺れている。


「分かった」


『灯里ちゃんにも、ありがとうって言っておいて』


「うん」


『それから、台所の戸棚の右下に梅干しがあるかもしれない。古かったら捨てなさい』


「分かった」


『食べちゃだめよ』


「分かってる」


 電話を切ると、浴場はまた静かになった。


 灯里が近づいてくる。


「言ったでしょ」


「何が」


「湯を見たかって」


「本当に言った」


「義一さん、ぶれないね」


 灯里は湯口を見つめた。


「で、何て?」


「まだ死んでねえって」


「宿?」


「湯」


「そっか」


 灯里は少し笑った。


「じゃあ、まだ始められるかもね」


「始めるって決めたわけじゃない」


「うん。決めてないね」


「継ぐって言ったわけでもない」


「言ってないね」


「俺はただ、見に来ただけで」


「うん」


 灯里は全部否定せずに聞いていた。


 悠真はそれ以上言えなくなった。


 自分が何から逃げてきたのかは分かっている。けれど、ここで何をするのかはまだ分からない。分からないまま、湯の前に立っている。


 それだけだった。


     *


 夕方まで、二人で一階を見て回った。


 使えそうな客室は、庭に面した「山吹」だけだった。障子は二枚破れている。畳には少し日焼けがあるが、大きな染みはない。押し入れの布団は湿気を吸っていて、そのままでは使えない。


 灯里は窓を開けた。


 山の空気が入ってくる。


「ここ、昔よく昼寝したよね」


「そうだっけ」


「したよ。悠真、漫画読んだまま寝てた。私が顔にティッシュ乗せたら本気で泣いた」


「最低だな」


「息できるか実験しただけ」


「昔から実験台にされてる」


「幼なじみの特権」


 灯里は障子の破れを指でつついた。


「ここ張り替えれば、部屋としては使えそう」


「使う予定ないけど」


「予定はなくても、使える部屋が一つあると気分が違うじゃん」


 その言い方は、妙に現実的だった。


 悠真は部屋の真ん中に立った。


 庭には、祖父が植えたつつじがあった。まだ花は少ないが、赤い蕾がいくつもついている。縁側の板は少し傷んでいる。けれど、座れないほどではない。


 ここに客が泊まる。


 そう想像しようとして、すぐにやめた。


 客。


 その言葉だけで、会社の顧客対応が頭をよぎる。電話。謝罪。クレーム。数字。目標。報告。上司の声。


 息が浅くなった。


 灯里はそれを見逃さなかった。


「悠真」


「……大丈夫」


「その返事、あんまり信用してない」


「じゃあ聞くなよ」


「聞くよ。返事が嘘かどうか見るために」


 悠真は苦笑した。


 灯里は縁側に腰を下ろし、足をぶらぶらさせた。


「客って言葉が嫌なら、泊まる人でいいんじゃない」


「何が違うの」


「全然違うよ。客って言うと、なんか完璧に対応しなきゃいけない感じするじゃん。でも泊まる人って言うと、布団出して、ご飯出して、お風呂入ってもらって、朝帰る人って感じ」


「それも接客だろ」


「そうだけど、ちょっと軽くなる」


 悠真は黙った。


 灯里は庭を見ながら続けた。


「ここに来る人、たぶん完璧な旅館サービス求めてないよ」


「分からないだろ」


「分かんないけどさ。大きいホテルがいい人は、そっち行くでしょ。ここに来る人は、たぶん、静かにしたい人だよ」


 静かにしたい人。


 その言葉は、胸に残った。


 自分も、今はそうだった。


 何かを説明したくない。励まされたくない。責められたくない。ただ、黙っていられる場所がほしい。


 もしここが、そういう場所になれるなら。


 そこまで考えて、悠真は首を振った。


 早すぎる。


 まだ何も決めていない。時計の電池すら替えていない。水も安定しているか分からない。風呂もぬるい。布団も湿っている。


 できることからやれ。


 祖父の声が頭の中で響いた。


「時計の電池、買わないと」


 悠真が言うと、灯里はぱっと振り向いた。


「いいね。最初の仕事っぽい」


「そんな大げさな」


「大事だよ。止まってる時計って、なんか気になるし」


「灯里、車?」


「うん。下に停めてる」


「店、まだ開いてるかな」


「コンビニまでなら行ける。電池と、掃除道具と、今日の晩ご飯買おう」


「晩ご飯」


「何、霞でも食べる気だった?」


「いや」


「食べな。宿を継ぐかどうかは知らないけど、腹減ってる宿主は縁起悪い」


「宿主じゃない」


「じゃあ、宿にいる人」


「雑だな」


「軽くなるでしょ」


 悠真は少しだけ笑った。


 その笑いは、さっきより自然だった。


     *


 山を下り、灯里の軽自動車でコンビニへ向かった。


 車内には、甘い芳香剤の匂いがした。ダッシュボードには小さなぬいぐるみが乗っていて、カーブのたびに揺れる。灯里は運転がうまかった。口はよく動くのに、ハンドル操作は穏やかだった。


「近くの神社、最近そんなに有名なの?」


 悠真が聞くと、灯里は前を見たまま頷いた。


「うん。岩杜神社ね。昔から地元では大事にされてたけど、ここ数年で急に増えた。SNSとか、パワースポット特集とかで」


「癒やしの力があるって」


「そう言う人もいる。私は、力があるかどうかは知らないけど、あそこ行くと静かになる感じはする」


「静かに?」


「うん。頭の中が」


 灯里は少しだけ声を落とした。


「あそこ、参道長いでしょ。杉がでかくて、苔があって、水の音がして。歩いてるうちに、喋る気なくなるんだよね」


「それが癒やし?」


「かもね。黙らせてくれる場所って、あんまりないし」


 黙らせてくれる場所。


 悠真は窓の外の山を見た。


 都会では、黙っていると置いていかれる気がした。何かを言わなければ、何かを示さなければ、価値がないような気がしていた。


 けれど、この山では、黙ることにも居場所があるのかもしれない。


 コンビニで電池、ゴミ袋、雑巾、歯ブラシ、カップ麺、弁当、ペットボトルの水を買った。灯里はついでにアイスを二本買った。


「風呂上がり用」


「まだ風呂入れないけど」


「気分」


 湯守荘へ戻る頃には、空が藍色に沈みかけていた。


 玄関の中は暗く、昼間よりさらに古びて見えた。灯里がスマートフォンのライトをつける。悠真は廊下の照明を探し、スイッチを押した。


 蛍光灯が二度、三度、瞬いてから点いた。


 薄い明かりが帳場を照らす。


 悠真は買ってきた電池を持ち、壁の時計を外した。裏蓋を開け、古い電池を抜く。新しい電池を入れる。時計を壁に戻す。


 振り子にそっと触れた。


 かち。


 かち。


 音が戻った。


 大きな音ではない。けれど、止まっていた建物の中で、その音ははっきりと聞こえた。


 灯里が黙って時計を見ている。


「動いた」


 悠真が言うと、灯里は頷いた。


「うん」


 たったそれだけのことだった。


 時計の電池を替えただけ。


 それなのに、胸の奥で何かがほんの少し動いた。


 時間が進み始めたわけではない。


 もともと時間は進んでいた。止まっていたのは時計だけで、自分だけだ。


 それでも、かち、かち、と刻まれる音を聞いていると、今日という日が、ただ過ぎていくだけではなく、どこかへ繋がっている気がした。


 灯里が紙袋からアイスを一本取り出し、悠真に渡した。


「はい。初仕事記念」


「時計の電池替えただけで?」


「最初は何でも祝っとくの。そうしないと続かない」


 悠真はアイスを受け取った。


 冷たさが指先に伝わる。


 玄関の外では、山の夜がゆっくり降りてきていた。遠くで蛙が鳴いている。川の音が昼より濃く聞こえる。


 灯里はアイスの袋を破りながら、何気ない調子で言った。


「明日、千代さんたち来るって」


「千代さん?」


「義一さんの妹さん。調理場見に来るって。玄造さんも一緒」


「聞いてない」


「今言った」


「そういう大事なことは先に言って」


「言ったら逃げそうだったし」


「逃げないよ」


 言ってから、少し迷った。


 逃げないと言い切れる自分ではない。


 灯里もそれを分かっているように、笑わずにアイスをかじった。


「まあ、逃げてもいいけどね」


「いいのか」


「戻ってくれば」


 その言葉に、悠真はアイスを持ったまま黙った。


 帰る場所ではなく、戻ってしまった場所。


 祖母の言葉が、また胸に浮かぶ。


 逃げてもいい。


 戻ってくれば。


 そんなふうに言われたことは、会社では一度もなかった。


 悠真はアイスをひと口食べた。


 甘さと冷たさが、舌の上でゆっくり溶けた。


 帳場の時計は、かち、かち、と動いている。


 湯は、ぬるいが出ている。


 水は、茶色かったが透明になった。


 寝る場所は、山吹の部屋に決めた。


 祖母が言った今日やることは、だいたい終わった。


 それ以上のことは、まだ考えなくていい。


 今夜は、この宿で眠る。


 ただそれだけを決めると、悠真の身体はようやく、長い移動と緊張の重さを思い出したように沈み始めた。山の夜が、古い旅館を包んでいく。


 湯守荘の一日目が、静かに終わろうとしていた。

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