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湯守荘の宿帳には、言えなかった人生が綴られる 〜ブラック企業で壊れた僕は、茨城の山奥で名湯の宿を継ぎました〜  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第1話 退職届と、止まった時計

 退職届の紙は、思っていたより薄かった。


 神崎悠真は、封筒に入れたそれを両手で持ったまま、営業部の入口でしばらく立ち尽くしていた。朝のフロアには、いつものように電話の音が鳴っていた。誰かが早口で謝り、誰かが椅子を乱暴に引き、コピー機が紙を吐き出す音が続いている。


 四年前、この音の中に入っていくことを、社会人になることだと思っていた。


 今は違う。


 ただ、身体のどこかが少しずつ削れていく音に聞こえた。


「神崎、何突っ立ってんだ」


 課長の声が飛んだ。


 悠真の肩が跳ねる。


 反射だった。怒鳴られたわけではない。名前を呼ばれただけだ。それなのに、胸の奥が冷たく縮む。手の中の封筒に力が入り、白い角が少し折れた。


「……お時間、よろしいでしょうか」


 声は、自分でも嫌になるほど小さかった。


 課長は面倒そうに眉を寄せた。


「何。数字の話なら後にしろ。午前中に先方へ連絡入れろって言ったよな」


「その件も、含めて」


「あ?」


 悠真は封筒を差し出した。


 課長は一瞬、意味が分からないという顔をした。次に、口元だけで笑った。


「お前、冗談言う余裕あったんだ」


「申し訳ありません」


 謝る必要があるのか分からなかった。


 それでも言葉は勝手に出た。


 課長は封筒を乱暴に受け取り、中身を少しだけ出して見た。周囲の数人が、見ないふりをしながらこちらを見ている気配がした。


「ふうん。辞めるんだ」


「はい」


「このタイミングで」


「はい」


「引き継ぎは?」


「資料は、昨夜まとめました。共有フォルダに入れてあります」


「昨夜? 何時までやってた」


「……三時くらいです」


 課長は鼻で笑った。


「最後まで要領悪いな」


 その言葉は、もう深く刺さらなかった。


 刺さる場所が残っていないだけかもしれない。


 総務に呼ばれ、会議室へ移った。白い壁と、観葉植物と、誰が選んだのか分からない抽象画。総務の女性は手続きを淡々と説明した。退職日、有給消化、保険、貸与品の返却。言葉は耳に入ってくるのに、意味になる前にぼろぼろとこぼれていった。


「神崎さん」


 呼ばれて顔を上げる。


「大丈夫ですか」


 その一言が、いちばん答えにくかった。


 大丈夫ではない。


 けれど、大丈夫ではないと口に出せる人間なら、ここまで壊れなかった気もする。


「大丈夫です」


 悠真は言った。


 総務の女性は、少しだけ目を伏せた。


「……お疲れさまでした」


 それが心からの言葉だったのか、仕事としての言葉だったのかは分からない。


 ただ、悠真は頭を下げた。


 会社を出る時、空は低く曇っていた。ビルの窓に映る自分は、ひどく薄かった。ネクタイを緩める気力もなく、改札へ向かう人の流れに入る。


 昼過ぎの駅なのに、東京には人が多い。


 誰もがどこかへ向かっている。


 悠真だけが、どこへ向かえばいいのか分からなかった。


 電車に乗ると、ドアの横に立った。空席はあったが、座るともう二度と立てない気がした。スマートフォンがポケットの中で震える。心臓がひとつ、嫌な音を立てた。


 画面を見る。


 母からだった。


『お疲れさま。今日、終わった? 無理して返事しなくていいからね』


 その下に、少し前にもらっていたメッセージが残っている。


『おじいちゃんとおばあちゃんの旅館、しばらく空けたままなの。二人とも街で暮らすのに慣れてきたけど、山の宿のことは気にしてるみたい。一度だけでも見に行ってくれない?』


 茨城の山奥にある、祖父母の温泉旅館。


 湯守荘。


 最後に泊まったのは、いつだっただろう。


 小学生の頃は、夏休みのたびに行っていた。川の音で目を覚まし、祖母の握ったおにぎりを食べ、祖父に怒られながら風呂掃除の真似をした。夜になると山が真っ暗になり、都会より星が多いのだと知った。


 あの頃の祖父母は、いつまでも山にいるものだと思っていた。


 けれど二人は、もう山を下りている。


 祖父は腰を悪くし、祖母も通院が必要になった。命に関わる病気ではないが、山奥で宿を回すには体がついていかない。今は街の小さなアパートで暮らしている。


 湯守荘は、休業したままだった。


 母は「見に行って」とだけ言った。


 継げとは言わなかった。


 それがかえって重かった。


 電車の窓に、自分の顔が映る。


 青白い頬。伸びた前髪。目の下の影。二十六歳という年齢が、嘘みたいに遠く感じた。大学を出て、就職して、四年で壊れた。世間から見れば、それだけの話だ。


 会社には、自分の代わりなどいくらでもいる。


 そう何度も言われた。


 今なら分かる。


 たぶん、それは本当だった。


 でも、自分の代わりがいくらでもいる場所で、自分だけが削れていくのは、思っていたよりずっと苦しかった。


     *


 部屋に戻ると、カーテンの隙間から鈍い光が入っていた。


 ワンルームの床には、クリーニングに出しそびれたシャツと、コンビニの袋と、未開封の郵便物が散らばっている。冷蔵庫を開けると、飲みかけの水と、期限の切れたヨーグルトしかなかった。


 腹は減っているはずなのに、食べたいものが思いつかない。


 スーツのままベッドに腰を下ろした。


 退職した。


 もう明日、会社へ行かなくていい。


 そう思った瞬間、ほっとするより先に、得体の知れない不安が来た。


 明日、起きて何をすればいいのか。


 誰にも怒られない朝に、自分はどうやって起きればいいのか。


 スマートフォンがまた震えた。


 今度は会社のグループチャットだった。退職手続きが終わったはずなのに、まだ通知が来る。誰かが案件の進捗を尋ねている。別の誰かが、悠真の作った資料の場所を聞いている。


 指先が冷たくなった。


 通知を切ればいい。


 分かっているのに、しばらく画面から目を離せなかった。


 やがて、母から電話が来た。


 悠真は出るか迷った。三回鳴って、四回目が鳴る前に通話ボタンを押した。


「もしもし」


『悠真? 大丈夫?』


 また、その言葉だった。


 大丈夫か。


 誰も悪くない。心配してくれているだけだ。それでも、胸の奥に小さな棘が刺さる。


「うん。終わった」


『そう。……お疲れさま』


「うん」


 沈黙が落ちた。


 母は、すぐに次の言葉を探しているようだった。聞きたいことはたくさんあるのだろう。会社で何があったのか。これからどうするのか。病院には行っているのか。お金は大丈夫なのか。


 けれど母は、そのどれも最初には聞かなかった。


『ご飯、食べた?』


 悠真は部屋の隅のコンビニ袋を見た。


「まだ」


『何か食べなさい』


「うん」


『……湯守荘のことだけど』


 来た、と思った。


 悠真はベッドの端を握った。


『無理にどうこうしろって話じゃないの。ただ、おじいちゃんたちも気にしていてね。山の宿は空けておくと傷むでしょう。お父さんも私も仕事があるし、頻繁には行けないから』


「うん」


『一度、見てくれるだけでいいの。嫌なら戻ってくればいいし』


 嫌なら戻ってくればいい。


 その戻る場所が、今の自分にあるのか分からなかった。


「……おじいちゃんたちは?」


『街の暮らしには慣れてきたみたい。おじいちゃんは相変わらず口が悪いけど。おばあちゃんは、悠真が来るなら電話しなさいって』


「継げって言われるかな」


 言ってから、子どもみたいな声だと思った。


 母は少し黙った。


『おじいちゃんは、たぶん言わないと思う』


「そうかな」


『言うなら、もっと昔に言ってるわよ。あの人、言いたいことはだいたい言うから』


 少しだけ笑ってしまった。


 祖父の義一は、本当にそういう人だった。短く、硬く、逃げ道のない言葉を言う。けれど、不思議と嫌いにはなれない人だった。


『宿はね、いずれ悠真に譲るつもりだって話はしてる』


 悠真の笑いが止まった。


『でも、それは義務じゃない。おじいちゃんたちも、もう昔みたいには動けないから。誰かに貸すとか、閉めるとか、売るとか、そういう話もいつかはしなくちゃいけない。でも、その前に一度、悠真に見てほしいんだと思う』


「俺に?」


『うん』


「なんで」


『孫だからじゃない?』


 簡単な答えだった。


 それが重かった。


 孫だから。


 会社では代わりがいくらでもいた。けれど祖父母にとって、孫の代わりはいない。そう思うと、嬉しさより先に、怖さが来た。


 自分は、誰かにとって代わりのいない人間でいることに、もう耐えられるのだろうか。


『悠真』


「うん」


『山に行ったら、まずお湯を見てきなさいって。おじいちゃんが言ってた』


「湯?」


『そう。宿の湯。まだ出てるかどうか』


 電話の向こうで、母が少し笑った気配がした。


『あの人らしいでしょう』


「うん」


 悠真は目を閉じた。


 湯守荘の浴場を思い出す。


 古いタイル。木の桶。窓の外の緑。湯気の向こうで、祖父が無言で湯加減を見ていた背中。


 その背中は、子どもの頃の悠真には山みたいに大きかった。


「行ってみる」


 気づけば、そう言っていた。


 母はすぐには返事をしなかった。


『そう』


 それだけだった。


 余計な喜び方をされなかったことに、少し救われた。


     *


 翌朝、悠真は会社へ返すものを段ボールに詰めた。


 社員証、名刺、営業用の携帯電話、貸与されたノートパソコン。ひとつずつ手放していくたびに、体から会社が剥がれていくような気がした。


 けれど、剥がれた下に何が残っているのかは、分からなかった。


 昼前に宅配便を出し、午後から部屋を少し片づけた。片づけるというより、捨てる作業だった。使いもしないビジネス書、貰ったまま開けていない社内表彰の記念品、洗濯する気力もなく畳まれたままのシャツ。


 ゴミ袋が三つになったところで、動けなくなった。


 床に座ったまま、壁の時計を見る。


 針は午後三時十二分を指していた。


 電池が切れて止まっている。


 いつから止まっていたのか、思い出せない。


 止まった時計のある部屋で、時間だけが過ぎていたのだと思うと、胸の奥が妙にざわついた。


 悠真は時計を外し、電池を抜いた。


 新しい電池を入れようとして、手が止まる。


 今、この時計を動かしても、自分が動き出せるわけではない。


 馬鹿な考えだと思った。


 それでも、動かない時計をそのまま壁へ戻す気にはなれなかった。


 結局、時計は段ボールの上に置いた。


 夕方、祖母の花江から電話が来た。


『悠真かい』


「うん」


『声、細いねえ』


 最初からそれだった。


 悠真は苦笑した。


「そんなに?」


『糸みたいだよ。切れそうな糸』


「……ごめん」


『謝らなくていいよ。切れそうなら、結び直せばいいんだから』


 祖母の声は、昔とあまり変わらなかった。少し掠れているが、やわらかい。台所で煮物の鍋を見ながら話していた頃と同じ声だ。


『山へ行くんだって?』


「うん。一度だけ」


『一度だけでいいよ。何でも一度目があるからね』


「宿、ひどい状態かな」


『ひどいところもあるだろうね。いいところも残ってるだろうし』


「俺、旅館なんて何も分からないよ」


『分かってたら、つまらないよ』


「そうかな」


『分からない人の方が、ちゃんと見ることもあるから』


 悠真は返事に困った。


 祖母は昔から、簡単な言葉で逃げ道を作る人だった。励ましているようで、押してこない。慰めているようで、甘やかしすぎない。


『おじいちゃんがね、湯を見ろって言ってたでしょう』


「うん」


『あれは、宿を見ろって意味だよ。壁とか畳とか売上とか、そういうのも大事だけどね。湯が出てるかどうか。湯が生きてるかどうか。あの人には、それが一番なんだよ』


「湯が生きてる」


『そう。山の下で湧いて、管を通って、湯船まで来る。誰も入らなくてもね。あれは働き者だよ』


 祖母は少し笑った。


『悠真』


「うん」


『無理に元気にならなくていいから、山に着いたら何か温かいものを食べなさい』


「分かった」


『あと、灯里ちゃんに連絡したから』


「え」


『様子を見に行ってくれるって』


「いや、いいよ。迷惑だし」


『迷惑って言う人ほど、迷惑かけ方が下手なんだよ』


 悠真は黙った。


『あの子は昔から騒がしいけど、悪い子じゃないからね』


「知ってる」


『ならいいじゃない』


 祖母はそれ以上、会社のことを聞かなかった。


 その代わり、最後にこう言った。


『湯守荘は、帰る場所じゃなくてもいいよ』


「え?」


『帰るって言葉が重いなら、ただ戻ってしまった場所でいい。戻ってしまってから、考えればいいんだから』


 通話が切れたあと、悠真はしばらくスマートフォンを握っていた。


 帰る場所ではなく、戻ってしまった場所。


 その言い方なら、自分にも許される気がした。


     *


 翌々日の朝、悠真は小さなキャリーケースを持って部屋を出た。


 荷物は少なかった。


 着替えと、薬と、通帳と、古いノートパソコン。あとは母に持たされた保険証や診察券。会社員だった頃の名刺入れは、机の引き出しに置いてきた。捨てることはできなかったが、持っていく気にもなれなかった。


 東京の駅は、朝から騒がしかった。


 改札を通る人々の足音。ホームのアナウンス。電車が入ってくる風。スーツ姿の人たちの表情は、みな少し硬い。


 悠真はその中に、もう自分の場所がないことを感じた。


 寂しさではなかった。


 安心でもなかった。


 ただ、切り離されたような感覚だった。


 電車に乗り、窓側の席に座る。都内のビル群が少しずつ低くなり、住宅地になり、やがて田畑が混じり始める。空が広くなるにつれて、胸の奥に溜まっていたものが少し動いた。


 水戸を過ぎ、さらに乗り換える。


 駅のホームには、東京とは違う風が吹いていた。冷たいのに、どこか湿っている。山が近い匂いなのかもしれない。


 売店で買ったお茶を飲むと、胃が驚いたように動いた。


 食べなければいけない。


 そう思い、駅弁を買った。


 蓋を開けると、米と鮭と煮物が入っていた。ひと口食べる。味はした。ちゃんと味がしたことに、少し驚く。


 全部は食べられなかったが、半分は食べた。


 それだけで、ひと仕事終えたような気になった。


 最後のバスは、古かった。


 乗客は悠真のほかに三人。買い物袋を抱えた高齢の女性と、作業着姿の男性と、観光客らしい若い女性二人だった。女性たちはガイドブックを見ながら、小さな声で神社の話をしている。


「ここ、最近有名なんだって。なんか、癒やしのパワースポットって」


「山全体がすごいらしいよ」


 癒やし。


 その言葉が、少しだけ引っかかった。


 癒やされに行く人がいる。


 癒やされたいと、自分で言える人がいる。


 悠真は窓の外を見た。


 バスは町を抜け、田畑の間を走り、やがて山道へ入った。道路脇の側溝には澄んだ水が流れている。竹林があり、古い民家があり、ところどころに梅や桜の木が見える。春の終わりの山は、淡い緑と濃い緑が重なっていた。


 観光客の女性二人は、途中の停留所で降りた。神社へ向かうらしい。小さな鳥居の絵が描かれた看板の前で、運転手が「足元気をつけて」と声をかけていた。


 バスが再び走り出す。


 運転手がバックミラー越しに悠真を見た。


「兄ちゃん、湯守で降りるんだっけ」


「あ、はい」


「湯守荘の人かい」


「孫です」


「義一さんとこの?」


「はい」


 運転手は少し黙った。


「そうか。あそこの湯はいい湯だ」


 それだけ言って、前を向いた。


 悠真は驚いた。


 ただの古い旅館だと思っていた。祖父母が営んでいた、自分の思い出の中の宿。けれど、湯守荘は自分だけの記憶ではないらしい。


 誰かが、湯を覚えている。


 そのことが、少し怖かった。


 やがてバスは、古い停留所で止まった。


「湯守口」


 運転手が言った。


「宿までは歩いて十分ちょっとだ。荷物、気をつけな」


「ありがとうございます」


 悠真は頭を下げ、キャリーケースを持って降りた。


 バスが去ると、急に静かになった。


 山の音だけが残った。


 川の音。鳥の声。風が木の葉をこする音。


 都会では、静かになると自分の不安が大きく聞こえた。けれどここでは、静けさの中に別の音が多すぎて、自分の不安だけが主役にならなかった。


 道はゆるく上っていた。


 キャリーケースの車輪が小石に引っかかるたび、手首に響く。途中で何度か立ち止まりながら歩いた。息が上がる。こんなに体力が落ちていたのかと思う。


 十分ほど歩くと、木々の間に古い看板が見えた。


 湯守荘。


 墨で書かれた文字は、風雨にさらされて少し薄くなっていた。看板の下には、苔のついた石灯籠がある。春草が勝手に伸び、石段の端に小さな花が咲いていた。


 悠真は足を止めた。


 記憶の中の湯守荘より、ずっと小さい。


 けれど、確かにそこにあった。


 木造二階建ての古い旅館。

 薄く色褪せた格子戸。

 軒先に下がった提灯。

 玄関脇の石鉢に溜まった雨水。

 庭の向こうには、湯気のようなものがかすかに上がっている。


 悠真は鍵を取り出した。


 祖母から送られてきた古い鍵だった。


 鍵穴に差し込むと、少し引っかかった。ゆっくり回す。かちり、と音がした。


 戸を開けた瞬間、閉じ込められていた匂いが流れ出した。


 湿った木の匂い。

 畳の匂い。

 山の冷えた空気。

 そして、ほんの少しだけ、湯の匂い。


 硫黄の強い匂いではない。


 雨に濡れた石のような、やわらかな匂いだった。


 悠真は玄関に立ったまま、動けなかった。


 帳場の上には、古い黒電話がある。壁には振り子時計がかかっている。針は三時十二分で止まっていた。


 東京の部屋にあった時計と、同じ時刻だった。


 偶然だろう。


 そう思ったのに、背中の奥が冷えた。


 時間が止まっている。


 ここも、自分も。


 靴を脱ぎ、上がり框に足を乗せる。床板が小さく鳴った。その音が、誰もいない館内に広がる。


「……ただいま」


 口にしてから、違うと思った。


 ここは、帰る場所ではない。


 少なくとも今の自分には、そんな立派な言葉は似合わない。


 悠真はもう一度、低く言い直した。


「戻りました」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 帳場の奥へ進み、荷物を置く。


 古い宿帳が引き出しに残っていた。表紙の角が擦り切れ、紙は少し黄ばんでいる。開くと、最後の宿泊記録は半年前だった。祖父の字で、几帳面に名前と住所と人数が書かれている。


 その下には、空白の行が続いていた。


 悠真は指先で、その空白をなぞった。


 空白。


 会社では、空白は責められるものだった。

 予定表の空白。売上の空白。報告書の空白。

 何もない時間は、怠けている証拠のように扱われた。


 けれど、この宿帳の空白は、少し違う気がした。


 まだ誰かが来るかもしれない余地。


 あるいは、もう誰も来ないかもしれない静けさ。


 どちらなのかは、まだ分からない。


 その時、外で砂利を踏む音がした。


 悠真は顔を上げる。


「おーい、生きてる?」


 玄関の向こうから、明るすぎる声がした。


 返事をする前に、格子戸が少し開く。


 そこに立っていたのは、明るい髪を雑にまとめ、薄いピンクの上着を羽織った女だった。耳元には大きめのピアス。爪はきれいに塗られている。山奥の古い旅館には、少し不釣り合いなほど派手だった。


 けれど、目元に見覚えがあった。


「灯里」


「お、覚えてた。偉いじゃん」


 宮沢灯里は、紙袋を片手に笑った。


 昔、川で転んだ悠真を笑いながら引っ張り上げた幼なじみは、二十六歳になっても、どこか同じ目をしていた。


「顔、やば」


 再会の第一声がそれだった。


 悠真は返す言葉を失った。


「いや、ほんとに。山の幽霊でももう少し血色いいよ」


「久しぶりに会って、それ?」


「久しぶりだから言ってんの。はい、これ」


 灯里は紙袋を差し出した。


「おにぎり。あと煮物。おばちゃんに持たされた」


「ありがとう」


「食べてる?」


「……さっき駅弁を半分」


「半分食べたなら上出来」


 灯里は勝手に靴を脱ぎ、上がり込んだ。


「入っていい?」


「もう入ってる」


「細かい男はモテないよ」


「昔からそんな感じだったっけ」


「昔よりだいぶ丸くなったけど?」


「どこが」


 灯里は笑いながら帳場を見回した。


 その笑い声は大きかった。


 けれど、不思議とうるさくはなかった。会社で聞いていた笑い声とは違う。人を追い立てる音ではなく、冷えた部屋に火を入れるような声だった。


 灯里は止まった振り子時計を見上げた。


「あー、止まってる」


「うん」


「この時計、昔からすぐ止まるんだよね。おじいちゃん、叩いて直してた」


「そうだった?」


「そう。叩く場所も決まってた。横っ腹」


 灯里は背伸びして、時計の側面を軽く叩いた。


 こつん。


 振り子は動かなかった。


「だめか」


「電池切れじゃない?」


「現実的なこと言わないでよ。情緒が死ぬ」


 悠真は、ほんの少し笑った。


 その瞬間、自分の顔の筋肉がぎこちなく動いたことに気づいた。笑い方を忘れていたわけではない。ただ、ずいぶん長い間、ちゃんと使っていなかった。


 灯里はその顔を見て、一瞬だけ目を細めた。


 何か言いかけたように見えたが、言わなかった。


「とりあえず台所借りるね。お茶くらい淹れられるでしょ」


「分からない」


「そこからか」


「水、出るかな」


「出なかったら笑うしかないね」


「笑えるかな」


「私が笑うから大丈夫」


 灯里はそう言って、厨房へ向かった。


 悠真はその後ろ姿を見ながら、やっと息を吐いた。


 ここに来たところで、何かが変わるわけではない。


 壊れた心が、山の空気で急に治るわけではない。湯に浸かれば人生が好転するほど、世の中は単純ではない。宿は古く、祖父母は山を下り、自分は何の役にも立たない二十六歳の無職だった。


 それでも。


 黒電話の置かれた帳場。

 止まった時計。

 湯の匂い。

 幼なじみの大きな声。

 紙袋の中のおにぎり。


 そのひとつひとつが、ばらばらになった悠真の中に、静かに置かれていく。


 厨房から灯里の声がした。


「悠真、水出た! ちょっと茶色いけど!」


「それ、大丈夫なの?」


「出しっぱにすれば平気! たぶん!」


「たぶんで飲ませる気?」


「都会の水より強いって!」


 悠真は立ち上がった。


 足元の床板が、また小さく鳴った。


 湯守荘は、まだ何も始まっていない。


 ただ、止まっていた場所に、誰かの声が戻ってきた。


 それだけのことが、今の悠真には、少し眩しかった。

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