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湯守荘の宿帳には、言えなかった人生が綴られる 〜ブラック企業で壊れた僕は、茨城の山奥で名湯の宿を継ぎました〜  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第26話 また雨の日に

 翌朝、佳代子はいつもより早く目を覚ましたらしい。


 悠真が帳場で湯を見に行く支度をしていると、山吹の部屋の方から、ゆっくりと廊下を歩く音が聞こえた。


 杖の音。

 とん、とん、と少し間を置いて響く。


 慌てて向かおうとして、悠真は足を止めた。


 昨日の佳代子の靴下を脱ぐ手つきを思い出した。

 できることは自分でしたい人だ。


 すぐ駆け寄るのは、親切のようでいて、その人の朝を奪うこともある。


 悠真は帳場の前で待った。


 少しして、佳代子が姿を見せた。


 藤色の上着ではなく、昨夜用意した薄い羽織を肩にかけている。髪はまだ完全には整っていない。けれど、表情は昨日の到着時よりずっとやわらかかった。


「おはようございます」


 悠真が声をかけると、佳代子は少し驚いたように顔を上げた。


「あら。早いのね」


「湯を見に行くところでした」


「湯を」


「はい」


 佳代子は、帳場の時計を見た。まだ六時を少し過ぎたところだ。


「義一さんも、朝が早かったわ」


「祖父のことを覚えていらっしゃるんですか」


「顔は、はっきりとは。でも、朝に廊下を歩く音を覚えている気がするの。静かなんだけれど、宿の人の足音だった」


 宿の人の足音。


 悠真は自分の足元を見た。


 自分の足音は、まだ宿の人の足音になっているだろうか。


 佳代子は小さく笑った。


「今の足音も、少し似ていました」


「俺のですか」


「ええ。似ているというより、同じ場所を歩いている音ね」


 それは褒め言葉なのか、よく分からなかった。


 けれど、胸の奥に静かに残る言葉だった。


「お部屋でお休みになっていても大丈夫ですよ」


「少し、玄関の方を見たくなって」


「お一人で大丈夫ですか」


「ここまで来られたもの。大丈夫です」


 そう言ってから、佳代子は少し考えた。


「でも、戻る時は少し手を貸していただけると助かります」


「もちろんです」


 大丈夫、と全部言わない。

 助けが必要なところは、必要と言う。


 佳代子のその言い方は、聞いていて気持ちがよかった。自分の身体と長く付き合ってきた人の、落ち着いた遠慮のなさがあった。


 悠真は、少し離れて佳代子に付き添った。


 玄関まで行くと、佳代子は上がり框のそばに置いた椅子に腰を下ろした。格子戸の向こうには、朝の山がある。曇り空の下、庭のつつじは昨日より少し色が深い。


「雨は、降っていないのね」


「はい。でも、少し降りそうな空です」


「降らなくてもいいわ」


 佳代子は静かに言った。


「昨日、足湯に入って分かったの。私は雨の日を探しに来たつもりだったけれど、雨そのものが欲しかったわけではなかったみたい」


 悠真は隣に立ったまま聞いていた。


「昔、ここで雨の音を聞いた時、私は少し疲れていたの。幸せなのに疲れているなんて、誰にも言えなかった。夫はずっと笑っていて、私はそれに合わせて笑っていた。嫌だったわけじゃないのよ。ただ、疲れていたの」


「はい」


「その時、花江さんがお茶を置いてくださった。何も聞かずに」


 佳代子は、格子戸の外を見た。


「私は、そのことを忘れていたのね。雨の音だけ覚えていて、自分がなぜあの音を好きだったのか忘れていた」


 悠真は、祖母の顔を思い浮かべた。


 何も聞かずに茶を置く祖母。


 若い佳代子は、きっとその沈黙に助けられたのだろう。


「昨日、足湯に入ったら、思い出しました。あの時も、誰かに何かを解決してほしかったわけではなかった。ただ、黙って座っていてもいい場所が欲しかったのだと思います」


 相沢も。

 真帆も。

 高森父子も。


 そして佳代子も。


 湯守荘に来た人たちは、それぞれ違うものを抱えていた。けれど、求めていたものの芯には、似たものがあるのかもしれない。


 黙って座っていてもいい場所。


 悠真は、その言葉を忘れないように胸に置いた。


     *


 沙織が起きてきたのは、それから少し後だった。


 母の姿が部屋にないことに気づいたのだろう。山吹の方から少し慌てた足音がして、廊下の角から顔を出した。


「母さん」


 声には焦りがあった。


 佳代子は椅子に座ったまま、片手を上げる。


「ここよ」


 沙織はほっとしたように息を吐いた。


「びっくりした。起こしてくれればよかったのに」


「一人で来られるか、試してみたかったの」


「試すなら言ってからにして」


「そうね。次からそうします」


 次。


 その言葉に、悠真は少しだけ反応した。


 沙織も気づいたのか、母を見た。


「次?」


「ええ。次」


 佳代子は何でもないことのように言った。


「また来たいもの」


 沙織の顔が、少し揺れた。


「母さん、本当に?」


「本当よ。今度は、雨の日がいいわね」


 佳代子は格子戸の外を見た。


「でも、雨の日に出かけるのは大変だから、降りそうな日で十分かもしれない」


 悠真は思わず笑ってしまった。


「十分、ですか」


「ええ。十分」


 佳代子も笑った。


「湯守荘では、少しで十分なのでしょう?」


 それは、この宿の合言葉のようなものだった。


 少し眠れた。

 少し食べられた。

 少し分かった。

 少し軽くなった。

 少し戻ってこられた。


 全部ではなくても、少しでいい。


「はい」


 悠真は答えた。


「少しで、十分です」


 沙織は母の横にしゃがみ、少し困ったように、けれど嬉しそうに言った。


「じゃあ、また体調を見て考えよう」


「そうね。でも、雨の日は人気がないでしょう?」


 佳代子が悠真を見る。


「雨の日は、確かに問い合わせは少ないかもしれません」


「なら、私向きね」


 灯里が背後から現れた。


 いつの間に来たのか、髪を結びながら廊下に立っている。


「雨の日割、作ります?」


「作らない」


 悠真は即答した。


 灯里は口を尖らせる。


「冗談なのに」


「半分本気だっただろ」


「二割くらい」


「二割本気なら危ない」


 佳代子は、二人のやり取りを見て楽しそうに笑った。


「灯里さんは、朝からにぎやかね」


「今日は控えめです」


「そうなの?」


「はい。朝仕様です」


「では昼はもっと?」


「少し」


「少しなら、いいですね」


 佳代子の返しに、灯里が負けたような顔をした。


「佳代子さん、強い……」


 沙織が笑った。


 その笑いには、昨日よりも力があった。


     *


 朝食は、山吹ではなく食事処で出すことになった。


 佳代子が「食事処まで行ってみたい」と言ったからだ。昨日の夕食は山吹に運んだが、今朝は本人の希望を尊重する。もちろん、無理はしない。途中で休めるよう、廊下の途中に椅子を置いた。


 ゆっくり歩く。


 佳代子は一歩ずつ進み、途中で一度だけ座った。沙織は何度も手を出しかけたが、昨日より少し待てるようになっていた。


 灯里が小声で悠真に言った。


「沙織さんも、昨日より呼吸してるね」


「呼吸?」


「介護って、する側も息を止めちゃう時あるから」


 悠真は沙織を見た。


 確かに、昨日到着した時の沙織は、ずっと母の次の動きを先回りしていた。転ばないか、疲れないか、食べられるか、気を悪くしないか。母を見ているようで、実は危険ばかり見ているようにも見えた。


 今朝は、少し違う。


 心配していることは変わらない。

 でも、母の動きを待っている。


 そのわずかな違いが、二人の間に少しだけ風を通していた。


 食事処には、千代が用意した朝食が並んでいた。


 小さな白飯。

 豆腐と葱の味噌汁。

 卵焼き。

 柔らかく煮た大根。

 細かく刻んだ漬物。

 沙織の膳には、少し多めの白飯と、もう一品、里芋の煮物がついている。


 沙織がそれを見て、少し目を丸くした。


「私の方が多いですね」


 千代が短く言った。


「娘さんは食べる」


「私も、ですか」


「母親を見てる人も腹は減る」


 沙織は、返す言葉を失った。


 それから、少しだけ目を潤ませた。


「……ありがとうございます」


 千代は答えず、味噌汁の椀を少し寄せた。


「冷める」


 それだけだった。


 佳代子が味噌汁を一口飲む。


「昨日より、少し濃いかしら」


「朝ですので」


 悠真が言うと、千代が厨房から言った。


「歩いたから」


 佳代子は小さく笑った。


「そう。私は歩いたから、少し濃いお味噌汁なのね」


「はい」


 千代は顔を出さずに答えた。


 佳代子はゆっくり白飯を食べた。


 量は少ない。けれど、昨日より箸が進んでいる。沙織も、自分の膳をきちんと食べた。母が食べている間、沙織は時々手を止めて様子を見ていたが、千代が「娘さんも食べる」ともう一度言うと、素直に箸を動かした。


 食事の途中、佳代子がふと言った。


「正明さんは、ここでよく笑っていたのよね」


 悠真は少しだけ姿勢を正した。


「祖母の記録には、そう書いてありました」


「どんなふうに笑っていたのかしら」


 沙織が答えた。


「お父さん、だいたいいつも声大きかったよ」


「そうね。あなたが小さい頃も、笑い声だけでどこにいるか分かったもの」


「スーパーでも分かった」


「恥ずかしかったわねえ」


「うん、ちょっと」


 二人は顔を見合わせ、少し笑った。


 それは、昨日の足湯の時の涙に近い笑いではなかった。


 もっと日常に近い、亡くなった人の困ったところを少し笑えるような声だった。


 悠真は、その会話を邪魔しないよう、一歩下がった。


 亡くなった人の記憶には、悲しみだけではなく、照れや迷惑や笑いも含まれている。湯守荘が覚えていた「ご主人よく笑う」という一行が、母娘の中に残っていた正明の輪郭を少し明るくしたのかもしれない。


     *


 チェックアウトは、急がなかった。


 佳代子は食後に少し休み、山吹の部屋でもう一度庭を見た。足湯はしなかった。昨日で十分だと言った。代わりに、縁側に座り、膝掛けだけかけてしばらく山の音を聞いた。


 沙織は、母の横でスマートフォンを出した。


「写真、撮ってもいいですか」


 悠真は頷いた。


「もちろんです」


「母の写真じゃなくて、庭と縁側を」


「はい」


 沙織は数枚だけ撮った。


 つつじ。

 木桶。

 膝掛け。

 障子の端。

 庭へ向かう母の手。


 最後の写真だけ、佳代子の手が写っていた。


 沙織は画面を見つめ、少し笑った。


「母さん、手だけでも母さんって分かるね」


「どういう意味?」


「うーん。手が母さん」


「説明になっていないわ」


 佳代子はそう言いながら、自分の手を見た。


「昔は、もっとふっくらしていたのにね」


「今の手も、母さんだよ」


 沙織が言った。


 さらっとした言葉だった。


 けれど、佳代子は少し黙った。


「そうね」


 小さく答える。


 今の人を迎える。


 祖母の言葉を、悠真はまた思い出した。


 昔の若い佳代子ではなく、今の手を持つ佳代子。今の母を写真に残そうとする沙織。


 湯守荘は、その時間の横にいるだけでいい。


     *


 玄関で靴を履く時、佳代子は昨日より少し時間をかけた。


 疲れているのだろう。足湯や食事処への移動で、思った以上に体力を使ったのかもしれない。


 沙織が支え、灯里が椅子を押さえ、玄造が石段の下を確認している。千代は厨房から出てこないと思っていたが、最後に小さな包みを持って現れた。


「帰り道」


 短く言って、沙織に渡す。


 中には、蒸し芋が入っていた。


 沙織が驚く。


「ありがとうございます。母、喜びます」


 佳代子が包みを見る。


「あの芋?」


「芋です」


 千代が言った。


「とても芋の」


「そう」


 佳代子は嬉しそうに笑った。


「帰ってからいただきます」


「早めに」


「はい」


 千代はそれだけで厨房へ戻ろうとした。


 佳代子が声をかける。


「千代さん」


 千代が足を止めた。


「昨日も今日も、おいしかったです。昔の味ではなかったけれど、今の私には、今の味がちょうどよかった」


 千代はしばらく黙っていた。


 それから、ほんの少しだけ頭を下げた。


「なら、いい」


 そう言って、戻っていった。


 灯里が小声で「照れてる」と言い、悠真が小声で「言わない」と返した。


 佳代子は笑っていた。


 石段を下りる時、皆でゆっくり見守った。


 一段ずつ。

 焦らず。

 佳代子は途中で振り返り、湯守荘を見上げた。


「昔より、古くなりましたね」


 その言葉に、悠真は何も言えなかった。


 佳代子は続けた。


「でも、宿は古くなるのが自然です。人も古くなるもの」


 沙織が少し困ったように言う。


「母さん、人に古いは」


「いいのよ。私は古いの。でも、悪くないでしょう?」


 佳代子は杖をつき直した。


「古くなったから、また来られたのかもしれないもの」


 悠真は胸の奥が静かになるのを感じた。


 古いことは、悪いことばかりではない。


 湯守荘が古いから、三十年前の記憶が残っていた。

 佳代子が歳を重ねたから、あの日の雨を今の言葉で話せた。

 沙織が大人になったから、母をここへ連れて来られた。


 古さは、ただの傷みではない。


 ただし、危ない古さは直す。


 その線は、忘れてはいけない。


「また、雨の日に」


 佳代子が言った。


 悠真は頭を下げた。


「お待ちしております。雨の日でも、降りそうな日でも」


「ええ。半分雨の日に」


「はい。半分雨の日に」


 沙織が笑った。


「また母の体調を見て、連絡します」


「無理のない範囲で」


「はい」


 灯里が手を振る。


「次は、蒸し芋多めにしておきます」


「それは嬉しいわ」


 佳代子は車に乗る前に、最後に湯守荘をもう一度見た。


 そして、小さく会釈した。


 車が坂を下りていく。


 窓の向こうで、沙織が運転席から軽く頭を下げた。佳代子は助手席で、膝の上に蒸し芋の包みを置いている。車が木々の間へ消えるまで、悠真は石段の上に立っていた。


     *


 見送った後、山吹の部屋に戻った。


 椅子はそのまま。

 木桶は空になっている。

 膝掛けは丁寧に畳まれていた。

 座卓には、使った湯呑みが二つ残っている。


 部屋には、雨ではない山の音が残っていた。


 いや、今日も半分雨だったのかもしれない。低い雲と湿った空気と、佳代子の記憶の中の雨が混じっていた。


 悠真は縁側に座った。


 佳代子が座った椅子ではなく、少し離れた畳の上に。


 宿は、客が帰った後の空気を覚える。


 祖母の言葉通り、しばらく何もせずにいた。


 湯守荘は、また一つ記憶を取り戻した。


 相沢の名刺。

 真帆の本名。

 高森父子の魚の骨。

 三浦佳代子の雨と山の音。


 それぞれ違う。


 けれど、どれも湯守荘が預かったものだ。


 帳場へ戻り、宿帳を開いた。


『三浦佳代子様・沙織様、出発。佳代子様、朝に玄関まで歩く。湯守荘は昔より古くなったが、人も古くなる、悪くない、と言われる。朝食は白飯と味噌汁。沙織様にも多めに出す。足湯は昨日で十分。縁側で山の音を聞く。千代さんの蒸し芋を「今の私には今の味がちょうどよかった」と。次は雨の日、または半分雨の日に来たいとのこと。』


 そこまで書いて、少し手を止めた。


 最後の一行は、ゆっくり書いた。


『古くなることは、終わることだけではない。残るものを、もう一度誰かが見つけられるようになることでもある。』


 鉛筆を置く。


 黒電話は鳴らない。


 けれど、外へ出した紹介ページは、誰かの記憶に届いた。


 湯守荘は、少しずつ戻ってきている。

 昔に戻るのではない。

 今の湯守荘として。


 厨房から、千代の声がした。


「昼」


「食べます」


 悠真はすぐに答えた。


 腹が減っている。


 そのことを、今日も確かめる。


 客が帰った後、宿の人間は飯を食べる。湯を見る。帳面を書く。危ない床を直す。次の客を待つ。


 それが、続けるということなのだろう。

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