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湯守荘の宿帳には、言えなかった人生が綴られる 〜ブラック企業で壊れた僕は、茨城の山奥で名湯の宿を継ぎました〜  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第25話 雨を覚えている人

 三浦佳代子と沙織が来る日は、朝から曇っていた。


 雨は降っていない。

 けれど、山の上には低い雲がかかり、木々の葉は湿った色をしていた。風が吹くたびに、庭のつつじの花が小さく揺れる。季節は少しずつ進み、最初に咲いた一輪はもう盛りを過ぎ、代わりに新しい花がいくつか開いていた。


 悠真は、山吹の部屋の縁側で木桶を見下ろしていた。


 玄造が磨き、底に滑り止めを入れた桶。

 灯里が選んできた膝掛け。

 千代が用意した柔らかいタオル。

 小さな温度計。

 手をつくための低い台。

 椅子の脚には、玄造が調整した跡がある。


 何度も配置を変えた。


 座った時に庭が見えるか。

 足を入れる時に身体が傾かないか。

 窓からの風が強すぎないか。

 娘の沙織が横に座れる余裕はあるか。


 たった一人の客の足湯のために、ここまでやるのかと思わないでもなかった。


 けれど、ここまでやらなければ、足湯はただの湯を張った桶でしかない。


 佳代子が求めているのは、湯そのものだけではない。


 山の音。


 それを迎える支度だった。


「まだ動かす?」


 灯里が背後から声をかけた。


 今日は午後から来る予定だったが、結局朝から手伝いに来ている。髪をゆるく結び、いつもより少し落ち着いた色の服を着ていた。理由を聞くと、「お母さん世代のお客さんだから、ギャル圧を少し下げた」と言った。


 何をどのくらい下げたのかは分からないが、本人なりの気遣いらしい。


「いや、これでいいと思う」


「思う?」


「これでいい」


「よし」


 灯里は縁側に腰を下ろし、膝掛けの位置を整えた。


「緊張してる?」


「してる」


「だよね。私もしてる」


「灯里も?」


「するよ。昔の記憶を持って来る人って、こっちも怖いじゃん」


 さらっと言ったが、その通りだった。


 相沢もそうだった。

 だが佳代子の場合、三十年以上前の記録がある。祖母の献立控えに、雨の日の彼女が残っている。


 湯上がりに縁側で山の音を聞いた人。

 新婚旅行帰りの人。

 夫がよく笑っていた人。

 そして今は、杖を使い、娘に付き添われ、もう一度湯守荘へ来る人。


 昔を覚えている客を迎えるのは、嬉しい。


 でも、怖い。


 昔より古くなった建物。

 祖父母のいない帳場。

 完全には整っていない浴場。

 まだ宿主になりきれない自分。


 その全部を見て、がっかりさせたらどうしようと思う。


 灯里は、悠真の横顔を見て言った。


「また、がっかりさせたらどうしようって顔」


「顔に出すぎだな」


「出てるね」


「三十年前と同じではないから」


「同じだったら怖いよ」


「それはそうだけど」


「佳代子さんだって、同じじゃないんだし」


 祖母と同じことを、灯里も言った。


「昔の佳代子さんじゃなくて、今の佳代子さんを迎えるんでしょ」


「うん」


「なら、今の湯守荘でいいんじゃない。昔のふりしたら、逆に嘘っぽい」


 灯里は膝掛けの端を軽く叩いた。


「これも昔はなかったかもしれない。でも、今は必要。そういうことでしょ」


 悠真は木桶を見た。


 今の湯守荘。


 昔と同じではない。

 でも、昔から続いている。


 その間に置くものとして、足湯は悪くない気がした。


     *


 昼前、千代は蒸し芋を試作していた。


 厨房には、甘い匂いがゆっくり広がっている。さつまいもを蒸しただけのものだ。砂糖もバターも使っていない。だが、湯気の中にある甘さは、変に飾られていなくて湯守荘らしかった。


「柔らかいですね」


 悠真が味見すると、千代は短く言った。


「喉につまらないように」


「なるほど」


「でも、柔らかすぎても駄目」


「どうしてですか」


「芋じゃなくなる」


 そこは譲れないらしい。


 灯里も一切れ食べて、目を細めた。


「これ、めちゃくちゃいいです。甘いのに、押してこない」


「押す芋って何だ」


「スイーツってたまに押してくるじゃん。ほら、私、甘いでしょ、映えるでしょ、かわいいでしょ、みたいな」


「芋は言わない」


 千代が即答した。


「芋にも人格ありますよ」


「ない」


「あります。これは控えめな良い芋です」


 千代は返事をしなかった。


 だが、灯里の皿にもう一切れ置いた。


 たぶん、悪くない評価だったのだろう。


 佳代子と沙織の夕食は、まだ決めきっていなかった。

 沙織からの返信では、佳代子は白飯を少し食べられるが、量は多くない。油の強いものは避けたい。魚は嫌いではないが、骨があると不安。娘の沙織は特に制限なし。ただ、母に合わせるので軽めでよいとのことだった。


 千代は献立控えを見ながら、今の佳代子向けに組み直していた。


 白飯は小さく。

 魚は使わない。

 鶏と野菜の炊き合わせ。

 豆腐。

 味噌汁は薄め。

 漬物は細かく刻む。

 食後に蒸し芋を少し。


「昔は鮎を少し食べたんですよね」


 悠真が言うと、千代は頷いた。


「でも、今は出さない」


「思い出を食べさせすぎない」


「そう」


 千代は鍋を見つめたまま言った。


「昔の飯じゃなくて、今日の飯」


 その一言が、今日の湯守荘の芯だった。


     *


 三浦母娘は、午後二時過ぎに到着した。


 車の音が坂の下から近づいてきた時、悠真は玄関の外に出た。灯里も隣に立つ。千代は厨房、玄造は玄関の段差のそばで待っていた。


 白い小型車が、ゆっくり石段の下に停まる。


 運転席から降りてきたのは、三浦沙織だった。


 四十代半ばくらいだろうか。髪は肩のあたりで切り揃えられ、動きやすそうな服を着ている。顔立ちは穏やかだが、目元に少し疲れがある。メールの文面と同じく、丁寧で、こちらを気遣う人に見えた。


 彼女はすぐに助手席側へ回った。


 ゆっくりドアを開ける。


 中から、細い手が伸びた。


 杖。


 それから、小柄な老女が姿を現した。


 三浦佳代子。


 七十代と聞いていた。白髪が混じった髪をきれいにまとめ、薄い藤色の上着を着ている。足取りは慎重だった。沙織が腕を支え、佳代子は杖をつきながら、車からゆっくり降りる。


 顔を上げた瞬間、佳代子は湯守荘を見た。


 その目が、少しだけ揺れた。


 驚きとも、懐かしさとも、戸惑いともつかない表情だった。


 彼女はすぐに何かを言わなかった。


 ただ、建物を見ている。


 格子戸。

 石段。

 提灯。

 庭のつつじ。

 山の影。


 沙織が小さく言った。


「母さん?」


 佳代子は、はっとしたように瞬きをした。


「ああ……ごめんなさい」


 それから悠真たちへ向き直り、丁寧に頭を下げようとした。


 悠真は一歩近づいた。


「三浦様ですね。お待ちしておりました。足元、ゆっくりで大丈夫です」


 佳代子は顔を上げた。


「……神崎さん?」


「はい。神崎悠真です」


「花江さんの」


「孫です」


 佳代子は、もう一度湯守荘を見た。


「そう……お孫さん」


 声はか細いが、しっかりしていた。


 沙織が続けて頭を下げる。


「三浦沙織です。今日は母共々お世話になります。いろいろとご配慮いただいて、本当にありがとうございます」


「こちらこそ、お越しいただきありがとうございます」


 灯里が明るすぎない声で言った。


「石段、ゆっくり上がりましょう。手すり側、こちらです」


 佳代子は灯里を見た。


 少し驚いたような顔をしたのは、髪色のせいかもしれない。


 灯里はにこっと笑った。


「宮沢灯里です。今日は足元係です」


「足元係」


 佳代子が小さく繰り返した。


「はい。湯守荘非公式の」


 沙織が少し笑った。


 その笑いで、場の緊張がほんの少しほどけた。


 石段は、思ったより時間がかかった。


 急がないよう、悠真は意識して何も言わなかった。灯里が少し前で段の高さを知らせ、沙織が横で支え、玄造が上がり框の近くで滑らないよう見ている。


 佳代子は一段ずつ上がった。


 二段目で少し息を整え、三段目で庭のつつじを見た。


「つつじ……」


 小さく言った。


「昔も、ありましたか?」


 悠真が聞くと、佳代子は少し首を傾げた。


「どうかしら。覚えているような、いないような。でも、赤いものがあった気はします」


「今は、少しだけ咲いています」


「少しだけが、いいですね」


 その言い方が、どこか湯守荘に合っていた。


     *


 玄関に入ると、佳代子は足を止めた。


 格子戸の内側。

 上がり框。

 帳場。

 黒電話。

 壁の時計。


 彼女の目が、ゆっくりとひとつずつ辿る。


「変わってるわ」


 佳代子は言った。


 悠真の胸が小さく縮む。


 しかし、佳代子はすぐに続けた。


「でも、ここね」


 その声に、少しだけ笑みが混じった。


「ここ、覚えている気がします。靴を脱いだ時に、木の匂いがしたの」


 佳代子は上がり框に腰を下ろしかけた。悠真が用意していた小さな椅子をすぐに出す。玄造が無言で支えた。


「ありがとうございます」


 佳代子は椅子に座り、ゆっくり靴を脱いだ。


 沙織が手伝おうとしたが、佳代子は首を振った。


「ここは、自分で」


 沙織は手を止めた。


 そのやり取りだけで、二人の普段の距離が少し見えた。沙織は母を気遣う。佳代子は助けられることに感謝しながらも、自分でできることは自分でしたい。


 灯里がそっと靴の向きを直そうとして、止まった。


 悠真はその動きに気づいた。


 高森悠斗の時と同じだ。


 自分で置いた靴を、すぐに直さない。


 佳代子は靴を揃えた。少し斜めだったが、それでよかった。


 帳場の黒電話を見て、佳代子が言った。


「昔も、あったかしら」


「同じものかは分かりませんが、祖父母の頃から黒電話はありました」


「電話の音、苦手だったわ」


 佳代子は小さく笑った。


「旅先で電話が鳴ると、何か悪い知らせかと思ってしまって」


 悠真は少し驚いた。


 黒電話が苦手な人が、また一人いた。


「俺も、少し苦手です」


 つい言うと、佳代子は悠真を見た。


「そうなの」


「はい。でも、最近は少し慣れてきました」


「少し?」


「少しです」


 佳代子は、ふっと笑った。


「少しは、大事ね」


 その言葉が、湯守荘の空気に静かに馴染んだ。


     *


 山吹の部屋へ向かう廊下を、佳代子はゆっくり歩いた。


 沙織が横につき、灯里が少し先で段差を知らせる。悠真は後ろから荷物を持って歩いた。玄造は廊下の端で、足元を見ている。


 山吹の前で、佳代子が立ち止まった。


「この部屋でしたか?」


 沙織が小さく聞く。


 佳代子はすぐには答えなかった。


 部屋の戸を開ける。


 庭が見える。

 縁側。

 つつじ。

 障子越しの光。

 座卓と座布団。

 そして、奥に用意された足湯の木桶。


 佳代子は部屋へ入る前に、しばらく見ていた。


「……たぶん、違う部屋」


 静かに言った。


 悠真は、胸が少し落ちた。


 だが、佳代子は続けた。


「でも、似ています。庭があって、縁側があって、雨の音が近かった」


「昔の献立控えには、部屋名までは残っていませんでした」


 悠真が言うと、佳代子は頷いた。


「いいんです。違っていても」


 彼女は一歩、部屋へ入った。


「今、ここに座れるなら」


 その言葉に、悠真は救われた気がした。


 沙織が母を椅子へ案内する。椅子は、足湯用に調整したものではなく、まず部屋で休むための椅子だ。玄造が高さを見て、前日にもう一つ用意してくれていた。


 佳代子は腰を下ろすと、庭を見た。


「山の匂いがする」


 それから少し笑った。


「当たり前ね。山なんだから」


「当たり前のことが、場所によって違いますから」


 悠真が言うと、佳代子は目を細めた。


「あなた、花江さんに似たことを言うのね」


「祖母にですか」


「ええ。言葉の置き方が」


 悠真は少し照れくさくなった。


「祖母ほど上手くは言えません」


「上手く言わなくていいのよ。旅館の言葉は、あまり上手すぎると落ち着かないもの」


 沙織が横で小さく笑った。


「母は、褒めています」


「分かりにくい褒め方ですね」


「昔からです」


 母娘の会話は静かだった。


 親しさはある。

 けれど、どこか遠慮もある。


 長く親子をやってきた人たちの距離なのだろう。高森父子とは違う。だが、近い人同士にしかない難しさが、ここにも少しあるように見えた。


     *


 茶は、薄めにした。


 千代が淹れ、悠真が運んだ。湯呑みは、少し軽いものを選んだ。佳代子が持ちやすいように。沙織には普通の湯呑みを出す。


 小皿には、蒸し芋を二切れ。


「お茶をお持ちしました」


 悠真が置くと、佳代子は両手で湯呑みを包んだ。


「軽い」


「持ちやすいものを選びました」


「ありがとう。こういうの、助かるの」


 その一言で、朝から何度も湯呑みを選び直したことが報われた気がした。


 沙織が蒸し芋を見て、少し驚いた。


「母さん、これなら食べられそう」


「芋は好きよ」


「最近、あまり食べないから」


「最近の芋は甘すぎるの」


 佳代子はそう言って、蒸し芋を一口食べた。


 少し時間をかけて噛む。


「これは、芋ね」


 千代が聞いたら喜ぶのか怒るのか分からない感想だった。


「千代さんに伝えます」


 悠真が言うと、佳代子は笑った。


「褒め言葉よ」


「はい。たぶん伝わります」


 沙織も芋を食べ、ほっとしたように息を吐いた。


「おいしい」


 その声には、母が食べられるものを一つ見つけた安堵が滲んでいた。


 佳代子はお茶を飲み、しばらく庭を見ていた。


 やがて、ぽつりと言った。


「雨じゃないのね」


 悠真は返事に迷った。


 今日は曇りだ。雨を望んでいたのだろうか。


 佳代子は自分で少し笑った。


「変ね。雨の日に来たことを思い出したから、雨が降っている気がしていたの」


「今日は、曇りです」


「ええ。でも、山は少し湿っていますね」


「昨夜、少し降りました」


「じゃあ、半分くらい雨ね」


 灯里が横で小さく笑った。


「半分雨、いい言葉ですね」


「そう?」


「はい。今日の湯守荘に合ってます」


 佳代子は少し嬉しそうにした。


     *


 足湯は、到着してすぐではなく、少し休んでからにした。


 佳代子の体力を見ながら、沙織とも相談する。無理に予定通りに進めない。それは事前に決めていたことだった。


 三十分ほど休んだ後、沙織が母に聞いた。


「足湯、どうする?」


 佳代子は庭を見たまま答えた。


「入ってみたいわ」


 その声は、静かだったがはっきりしていた。


 準備が始まる。


 玄造が湯を運ぶ。

 悠真が湯温を確認する。

 千代が白湯と蒸し芋を用意する。

 灯里が膝掛けを広げる。

 沙織が母の靴下を脱がせるかどうか尋ねる。


 佳代子は、靴下は自分で脱いだ。


 少し時間がかかった。


 誰も急がせなかった。


 足を木桶へ入れる時、悠真は少し離れて見守った。沙織が横で支え、灯里が膝掛けを持ち、玄造が桶が動かないよう片側を押さえている。


 佳代子の足が、湯に触れた。


 その瞬間、彼女は小さく息を吸った。


「熱いですか」


 悠真が聞くと、佳代子は首を横に振った。


「いいえ」


 少し間を置いて、言った。


「ああ……お湯だわ」


 当たり前の言葉だった。


 でも、その声には、長い時間を越えてようやく何かに触れた人の響きがあった。


 佳代子は椅子に深く座り直し、膝掛けをかけてもらった。


 窓は、少しだけ開けてある。


 山の音が入ってくる。


 風。

 葉の擦れる音。

 遠い川。

 どこかで鳥が鳴いた。

 そして、木桶の中で湯がかすかに揺れる音。


 佳代子は目を閉じた。


 沙織も黙っている。


 灯里も、珍しく何も言わない。


 悠真は、部屋の入口近くに立っていた。


 この時間に、言葉はいらない。


 そう思った。


 しばらくして、佳代子が目を閉じたまま言った。


「雨じゃなくても、山は喋るのね」


 悠真の胸の奥が、静かに震えた。


 祖母から聞いた言葉。


 山って、雨が降ると喋りますね。


 三十年以上前の佳代子が言った言葉。


 今の佳代子は、雨ではない山の音を聞いて、同じように言った。


 沙織が小さく母の方を見る。


「母さん」


「お父さんがね」


 佳代子は、目を閉じたまま続けた。


「あの時、ずっと笑っていたの。何がおかしいのか分からないくらい、よく笑って」


 沙織は黙って聞いている。


「私、少し疲れていてね。楽しいのに、疲れてしまって。新婚旅行なのに、そんなこと言えないでしょう。だから笑っていたの」


 佳代子の声は穏やかだった。


「そうしたら、花江さんがお茶を持ってきてくださって。何も聞かずに、ただ置いてくれたの」


 悠真は、祖母の姿を思い浮かべた。


 若い頃の祖母。

 雨の日の湯守荘。

 縁側に座る若い佳代子。

 隣の部屋で笑う正明。


「お父さんは、笑いながら私のことを気にしていたのね」


 佳代子は、少しだけ笑った。


「あなたに言われるまで、忘れていたわ」


 沙織の目が潤んでいた。


「お父さん、いつも笑ってたね」


「そうね。うるさいくらい」


「うん」


「でも、私が疲れている時ほど、余計に笑っていたのかもしれない」


 佳代子は湯の中で足を少し動かした。


 湯が、ちゃぷんと鳴る。


「不器用な人だったから」


 その言葉は、責めるものではなかった。


 むしろ、長い時間を経てようやく言えるようになった優しさに聞こえた。


 悠真は、何も言わなかった。


 灯里も、沙織も、玄造も、千代も。


 誰も、その記憶に余計な言葉を足さなかった。


     *


 足湯は十五分ほどで終えた。


 長くしすぎない方がいいと、玄造が事前に言っていたからだ。佳代子は名残惜しそうだったが、無理はしなかった。


 足を拭くタオルは、灯里が選んだ柔らかいものだった。


「気持ちいいタオルね」


 佳代子が言うと、灯里は嬉しそうに笑った。


「選んできました」


「あなた、派手だけれど、選ぶものは優しいのね」


 灯里が一瞬、言葉に詰まった。


 沙織が思わず笑う。


 悠真も少し笑ってしまった。


「最高の褒め言葉じゃないか」


 悠真が言うと、灯里は頬を赤くした。


「派手だけれど、はいらなくない?」


「でも、正確です」


 沙織が言うと、灯里は両手で顔を覆った。


「年上女性の正直さ、強い……」


 佳代子は楽しそうに笑った。


 その笑い声は細いが、部屋にちゃんと届いた。


 足湯の後、佳代子は白湯を飲み、蒸し芋をもう一切れ食べた。


「これ、芋ですね」


 また同じ感想を言った。


 悠真は頷いた。


「千代さんへの褒め言葉として、正確に伝えます」


「ええ。とても芋です」


 厨房の方で、千代が小さく何か言った気がした。


 聞こえなかったが、たぶん悪い反応ではない。


     *


 夕食までの間、佳代子は山吹の部屋で休むことになった。


 沙織が荷物を整理し、母の薬や上着を確認する。悠真は茶を下げ、灯里と一緒に廊下へ出た。


 廊下に出た瞬間、灯里が小さく息を吐いた。


「すごかったね」


「うん」


「足湯だけなのに」


「足湯だけじゃなかったんだと思う」


「山の音もあったしね」


 灯里は縁側の方を振り返った。


「佳代子さん、ちゃんと今の湯守荘に座ってた」


「うん」


「昔に戻ったんじゃなくて、今のここで思い出してた」


 悠真は頷いた。


 それこそ、祖母が言っていたことだった。


 昔の再現ではなく、今の人を迎える。


 佳代子は、昔に戻ったわけではない。

 若い新婚旅行の女性に戻ったわけではない。

 十年前に亡くなった夫が隣に戻ってきたわけでもない。


 でも、今の自分の足を湯に入れ、今の山の音を聞きながら、昔の夫の笑い声に少し触れた。


 それで十分なのかもしれない。


 厨房へ戻ると、千代が夕食の準備をしていた。


「どうだった」


 短く聞く。


「足湯、できました」


「顔」


 誰の顔だろう。


 たぶん、佳代子の顔だ。


「穏やかでした。少し、昔のことを話していました」


「泣いた?」


「沙織さんが少し」


「味噌汁、薄め」


「はい」


 千代はすでに鍋の火を弱めていた。


「蒸し芋、とても芋だそうです」


 悠真が言うと、千代の手が一瞬止まった。


「何」


「佳代子さんが、とても芋だと。褒め言葉です」


 灯里が横で笑いをこらえる。


 千代は無表情で言った。


「芋だから」


「はい」


「ならいい」


 やはり、悪い評価ではなかったらしい。


     *


 夜、三浦母娘は早めに休んだ。


 佳代子は夕食を少しだけ食べた。白飯を小さく一膳、豆腐、鶏と野菜の炊き合わせを少し、味噌汁を半分。沙織は母に合わせてゆっくり食べていたが、千代が「娘さんはもっと食べる」と言って、白飯を少し足した。


 沙織は驚いていたが、結局それを食べた。


 母親の付き添いとして来た人も、客なのだ。


 それを千代は忘れない。


 帳場に戻った悠真は、宿帳を開いた。


 三浦沙織と佳代子の名前がある。


 その下の余白に、今日のことを書き始めた。


『三浦佳代子様・沙織様、到着。佳代子様、玄関で木の匂いを覚えている気がすると。山吹は昔の部屋とは違うが、今ここに座れるなら、と言われる。足湯。木桶、膝掛け、白湯、蒸し芋。雨ではなかったが、山は喋るのね、と。正明様の笑い声を思い出す。灯里、派手だけれど選ぶものは優しいと言われる。』


 書きながら、少し笑ってしまった。


 灯里に見せたら怒るだろうか。


 いや、宿帳は見せない。


 悠真はさらに書く。


『昔を再現したのではなく、今の佳代子様が今の湯守荘で思い出した。足湯だけでも、湯守荘の湯になった。』


 最後に、少し迷ってから書いた。


『山の音は、客が来るたびに違う。宿は、その日の音を用意する。』


 帳場の窓の外では、夜の山が鳴っていた。


 雨ではない。


 風と、川と、木の葉の音。


 今夜の山の音だった。

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