第24話 山の音を迎える支度
翌朝、玄造はいつもより早く物置にいた。
悠真が湯を見に行く前、庭の奥からごとごとと木箱を動かす音が聞こえた。最初は何か壊れたのかと思ったが、縁側から覗くと、玄造が物置の戸を開け放ち、中に上半身を突っ込んでいた。
「おはようございます」
「おう」
「何を探してるんですか」
「桶」
それだけ言って、また奥へ手を伸ばす。
しばらくして、玄造は丸い木桶を一つ引っ張り出した。
古いが、形はしっかりしている。足湯に使うには少し深い。木肌は乾いて白っぽくなっていた。
「これ、使えますか」
「見ないと分からん」
玄造は桶の底を叩き、側面を指でなぞった。職人が道具を見る目だった。宿の人というより、古い建物の声を聞く人の目。
「水を張る」
「漏れるか確認ですね」
「そう」
玄造は外の水道まで桶を運び、水を入れ始めた。水が底に当たり、乾いた木の匂いがふわりと上がる。
「足湯なら、木桶の方が雰囲気ありますね」
悠真が言うと、玄造は即座に言った。
「雰囲気より安定」
「あ、はい」
「ひっくり返らないこと。滑らないこと。熱すぎないこと」
「大事ですね」
「大事」
玄造は桶に水を張り終え、しばらくじっと見ていた。
水面は静かだった。
底から漏れる様子はない。
「使えるかもしれん」
「よかった」
「でも、足を入れる高さを見る」
「三浦さんのお母様は、杖を使うそうです」
「なら椅子」
「縁側の椅子ですか」
「低すぎると立てない。高すぎると足が入らない」
玄造はもう、頭の中で配置を考えているようだった。
山吹の縁側。庭の見える位置。足湯の桶。膝掛け。滑らない板。立つ時に手をつける場所。
足湯ひとつで、こんなに考えることがある。
悠真は、また一つ思い知った。
湯守荘は、ただ優しい宿を目指しているわけではない。
優しさを、床や椅子や湯温に落とし込まなければ、客の身体には届かない。
*
朝食の後、祖母へ電話した。
長谷川佳代子の名前を聞いた時のことを、どうしても確かめたかった。献立控えには記録がある。けれど、祖母自身の記憶にも何か残っているかもしれない。
電話に出たのは祖父だった。
『なんだ』
「おはよう」
『飯は』
「食べた」
『ならいい』
祖父の最初の確認も、だいぶ慣れてきた。
「おばあちゃんいる? 昔のお客さんのことで聞きたい」
『誰だ』
「長谷川佳代子さん。三十年以上前に、ご主人と泊まってる。献立控えには、新婚旅行帰り、雨、湯上がりに縁側で山の音って書いてあった」
電話の向こうで、祖父の息が少し止まった気がした。
『長谷川』
「覚えてる?」
『……花江に聞け』
それだけ言って、祖父は祖母に代わった。
『悠真?』
「うん。長谷川佳代子さんって覚えてる?」
祖母はすぐには答えなかった。
電話の向こうで、少し遠くを見るような沈黙がある。祖母は記憶を手繰る時、急がない。引き出しの奥から古い布を取り出すみたいに、ゆっくり確かめる。
『佳代子さん……長谷川佳代子さん。ああ、覚えてる』
「本当に?」
『ええ。雨の日だったもの』
献立控えと同じ言葉だった。
『新婚旅行の帰りに寄ってくださったの。奥様が少し体調を崩されていてね。予定していた観光をやめて、湯守荘に早めに入られたのよ』
「体調を?」
『大きな病気ではないの。旅疲れと、雨で冷えたのと、たぶん気疲れもあったんじゃないかしら。新婚旅行って、楽しいけれど疲れるでしょう』
「そういうもの?」
『そういうものよ。幸せな時でも、人は疲れるの』
祖母らしい言葉だった。
『佳代子さんは、とてもよく笑う方だったけれど、ずっと笑っている方だったの。今思うと、少し無理をしていたのかもしれない』
悠真は真帆を思い出した。
明るすぎる笑顔。
笑うことで、自分を保とうとする人。
時代が違っても、似た人はいるのかもしれない。
「献立控えには、湯上がりに縁側で山の音を聞くって書いてあった」
『そう。雨が降っていてね。ご主人は先に部屋で休まれていたけれど、佳代子さんは縁側にしばらく座っていらしたの。私がお茶を持っていったら、「山って、雨が降ると喋りますね」って』
「山が喋る」
『ええ。木の葉に当たる音、川が増える音、雨樋の音、湯の音。街にいると雨はただの雨だけれど、ここではいろんな音がするって』
悠真は、思わず帳場の窓の外を見た。
今日は雨ではない。けれど、山は常に何かしら鳴っている。風、鳥、川、木の葉。意識しなければ聞き流してしまう音。
「三浦沙織さんっていう娘さんから問い合わせが来た。佳代子さんが、紹介ページの湯口の写真を見て、この音を覚えている気がするって」
祖母は少し黙った。
『そう……』
その声が、やわらかく沈んだ。
『覚えていてくださったのね』
「泊まりたいって。足腰が少し弱くなっていて、浴場は難しいかもしれない。だから、山吹の縁側で足湯を用意しようかって話してる」
『いいと思う』
祖母はすぐに言った。
『お風呂に入ることだけが温泉じゃないもの。足だけでも、湯に触れれば身体は思い出すことがあるわ』
「身体が思い出す」
『相沢さんも、そんなことを言っていなかった?』
「言ってた」
身体の方が先に思い出す。
相沢の言葉が戻ってくる。
『佳代子さんは、たぶん湯より音を覚えているのね。でも、湯があるから音が残ったのかもしれない。湯上がりの身体で聞く山の音は、普通の音と違うから』
「足湯でも、そうなるかな」
『なるかもしれない。ならないかもしれない』
祖母は正直だった。
『でも、思い出を再現しようとしすぎないこと。昔と同じ雨は降らないし、同じ若さでは来られない。ご主人も、今いらっしゃるか分からないでしょう』
「うん」
『今の佳代子さんを迎えなさい。昔の佳代子さんではなく』
その言葉で、少し背筋が伸びた。
古い記録を見つけると、どうしても「昔の再現」をしたくなる。
雨の日。新婚旅行帰り。縁側。山の音。
けれど、今来るのは七十代になった三浦佳代子だ。杖を使い、娘に付き添われ、浴場に不安がある人。昔の記憶を持ちながら、今の身体で来る人。
「分かった」
『献立控えに何か書いてあった?』
「夕食、鮎少し。朝、粥ではなく白飯。ご主人よく笑う」
『ああ、ご主人、よく笑う方だったわね。声が大きくてね。でも、佳代子さんのことをよく見ていた。笑いながら、いつも奥様の顔色を見ていたのを覚えてる』
「今は、お父様のことは書かれていない」
『そう』
祖母はそれ以上聞かなかった。
まだ分からないことを、勝手に決めない。
『食事は、今の体調を聞いてからね。昔、白飯を食べたから今も白飯とは限らない。でも、白飯だったことは、佳代子さんに伝えてもいいかもしれない』
「どうして?」
『人は、自分が食べたものを忘れていても、聞くと少し安心することがあるの。ああ、自分はここでご飯を食べたのだって』
湯守荘は、記憶を証明する場所でもあるのかもしれない。
悠真は献立控えのページを見た。
長谷川佳代子の名前。
夕食。朝食。雨。縁側。山の音。
そこに書かれたものが、三十年以上後の誰かに「確かにここに来た」と伝える。
「おばあちゃん、ありがとう」
『こちらこそ、教えてくれてありがとう』
「え?」
『湯守荘の外に出した写真が、佳代子さんに届いたのでしょう。嬉しいわ』
祖母の声は、本当に嬉しそうだった。
『おじいちゃんにも伝えておく。たぶん、何も言わないけれど』
「何も言わないのか」
『何も言わない時ほど、いろいろ思ってるのよ』
祖母は笑った。
『悠真。足湯の湯温は、少しぬるめにね。高齢の方は、熱すぎると驚くから』
「分かった」
『膝に掛けるものも忘れずに』
「千代さんも言ってた」
『千代さんは分かってるから』
「おばあちゃんと千代さん、言うことが似てきた」
『姉妹だからねえ』
祖母は穏やかに言った。
電話を切った後、悠真は少しだけ受話器を見つめた。
今日の電話も、怖くなかった。
むしろ、誰かの記憶を手渡されたような気がした。
*
足湯の準備は、思ったより大ごとになった。
木桶は水漏れしないことが分かったが、そのまま使うには少し不安があった。玄造が内側を丁寧に洗い、ささくれのある部分を削った。底には滑り止めの薄い板を入れることになった。
灯里は膝掛けを探しに行った。
役場の近くにある商店で、軽くて洗いやすいものを買ってくるという。ついでに、足を拭くための柔らかいタオルも見てくるらしい。
千代は、足湯の前後に出す飲み物を考えていた。
「茶は濃すぎない」
「はい」
「白湯もいる」
「白湯?」
「湯の後、喉が渇く」
「麦茶は?」
「冷たいと驚くかもしれない」
「なるほど」
「甘いものは少し」
「干し芋?」
「硬い」
「柔らかいもの?」
「蒸し芋」
千代の頭の中では、もう佳代子の足湯後の時間まで組み立てられているらしい。
「昔は鮎を少し食べたと祖母が言っていました」
「今は出さない」
「骨が」
「骨も。あと、思い出を食べさせすぎると重い」
その言葉に、悠真は少し驚いた。
「思い出を食べさせすぎる」
「今の飯を出す」
千代は鍋を見ながら言った。
「昔の味を真似しすぎると、違った時につらい」
祖母が言ったことと同じだった。
昔を再現しようとしすぎない。
今の佳代子を迎える。
「では、夕食はどうしますか」
「体調を聞く」
「はい」
「でも、白飯は炊く」
「朝ですか」
「夕も」
「昔、朝は白飯だったから?」
「それもある」
千代は少しだけ口元を緩めた。
「白飯は、覚えていなくても食べられる人が多い」
米の力。
千代はきっと、そういうものを信じている。
悠真も、少し分かるようになってきた。
*
灯里が戻ってきたのは、午後三時過ぎだった。
手には大きな紙袋が二つ。中には膝掛け、柔らかいタオル、足湯用の小さな温度計、滑り止めマット、それからなぜか小さな花柄の手ぬぐいが入っていた。
「これは?」
悠真が手ぬぐいを持ち上げると、灯里は少し得意げに言った。
「かわいかったから」
「足湯と関係ある?」
「気分」
「千代さんに怒られそう」
「でも、佳代子さん世代に合いそうじゃない? 派手すぎない花柄」
たしかに、落ち着いた小花柄だった。
千代がそれを見る。
「悪くない」
「ほら!」
灯里が勝った顔をした。
「勝ちました」
「何に?」
「分かりません」
灯里は紙袋を置くと、すぐに山吹へ向かった。
「配置、見よう」
山吹の縁側に椅子を置く。
最初に置いた椅子は低すぎた。立ち上がる時に負担がかかりそうだった。次に持ってきた椅子は高すぎて、足を桶に入れにくい。結局、物置にあった古い丸椅子に、座布団を二枚重ねて高さを調整することになった。
玄造が不満そうに言う。
「ぐらつく」
「じゃあだめですね」
悠真が言うと、玄造は丸椅子を裏返し、脚の下を確認した。
「直す」
「今から?」
「今」
玄造は道具を持ってきて、脚を調整し始めた。
灯里は膝掛けを広げ、縁側の風の入り方を確かめる。
「夕方だと冷えるね。足湯してても上半身が冷えたら意味ない」
「窓、少し閉めますか」
「閉めすぎると山の音が減る」
「難しいな」
「少しだけ開ける。風が直接当たらない角度で」
山の音を聞くために、窓の開け方まで考える。
湯守荘がやろうとしていることは、もしかするととても小さい。
七十代の女性が、山吹の縁側で足湯をする。
それだけだ。
けれど、その小さな時間のために、椅子の高さ、桶の安定、湯温、膝掛け、窓の角度、飲み物、食事、段差、記録、全部を見ていく。
手間がかかる。
だから、料金をいただく。
祖母の言葉が、今になって実感として届いた。
「悠真」
灯里が言った。
「何?」
「顔、宿の人っぽい」
「どういう顔?」
「面倒くさいことを、面倒くさがりながらちゃんと考えてる顔」
「褒めてる?」
「かなり」
灯里は笑った。
「前は、面倒くさいことが来ると、全部自分のせいみたいな顔してた」
「今もするだろ」
「するけど、少し減った」
「少し」
「少しで十分」
その言葉は、湯守荘のあちこちにある。
少し食べる。
少し眠る。
少し分かる。
少し軽くなる。
少し減る。
全部ではない。
だから続く。
*
夕方、三浦沙織から返信が来た。
佳代子は、献立控えの記録を読んでしばらく黙っていたという。
『母は「そうだった、雨だった」と言いました。父の名前も覚えていてくださったことに驚いています。父は十年前に亡くなりました。湯守荘さんで父がよく笑っていたと教えていただき、母は少し泣いていました。』
悠真は画面の前で息を止めた。
父は十年前に亡くなっていた。
祖母の記録にあった「ご主人よく笑う」は、ただの古いメモではなかった。今の佳代子にとって、亡き夫の笑い声を湯守荘が覚えていたということになる。
『母は、浴場に入れなくてもかまわないそうです。もし本当に足湯ができるなら、それで十分だと言っています。山の音を聞けたら、それだけでいいと。』
相沢も、似たことを言っていた。
ただ湯に入り、朝に山の音を聞ければ十分です。
佳代子は、足湯と山の音だけでいいと言った。
十分。
その言葉は、湯守荘にとっていつも重い。
『ご迷惑でなければ、来月の平日に一泊お願いできますでしょうか。母の体調を見ながら、無理のない範囲で伺います。』
悠真は、すぐには返事を書かなかった。
帳場から山吹へ行く。
縁側には、仮に置いた椅子と木桶がある。膝掛けも畳んで置かれている。窓を少し開けると、夕方の山の音が入ってきた。
風。
遠い川。
鳥の声。
木の葉の擦れる音。
雨の日ではない。
新婚旅行帰りでもない。
けれど、今の湯守荘の山の音がある。
悠真はしばらく目を閉じた。
佳代子がここに座る姿を想像する。
杖を横に置き、娘がそばにいて、足を湯に浸し、膝掛けをかける。昔の夫の笑い声を思い出すのかもしれない。思い出さないかもしれない。ただ黙って山を聞くのかもしれない。
どちらでもいい。
宿は、思い出させる場所ではなく、思い出しても思い出さなくてもいられる場所でありたい。
帳場に戻り、返信を書いた。
『三浦沙織様
ご連絡ありがとうございます。お母様が雨の日のことを覚えていらしたと伺い、こちらも胸が温かくなりました。長谷川正明様がよく笑っていらしたことは、祖母の献立控えに残されていた大切な記録です。』
少し手が止まる。
大切な記録。
その言葉は重すぎるかもしれない。けれど、他の言い方が見つからなかった。
『浴場への入浴については、当日の体調と足元の状況を見ながら、無理のない範囲でご相談させてください。山吹の縁側での足湯については、湯温・椅子・膝掛け等を整え、準備を進めております。山の音を聞いていただけるよう、できる限り静かな時間をご用意いたします。』
最後に、宿泊を承れることを書く。
『ご希望の平日一泊、承れます。お母様の体調を第一に、どうぞ無理なくお越しください。』
送信。
それだけで、肩の力が少し抜けた。
予約が入った。
三浦佳代子と沙織。
山の音を迎える予約。
*
夜、悠真は宿帳を開いた。
今日の余白は、書くことが多かった。
『祖母に長谷川佳代子様のことを聞く。雨の日、新婚旅行帰り。佳代子様は「山って、雨が降ると喋りますね」と言ったらしい。今の佳代子様を迎えること。昔を再現しすぎないこと。足湯の準備。木桶、椅子、膝掛け、湯温、窓の角度。三浦沙織様より返信。正明様は十年前に亡くなられている。佳代子様は足湯と山の音で十分とのこと。宿泊を承る。』
そこまで書くと、少し手が止まった。
十分。
また、その言葉。
十分とは、何も足さなくていいという意味ではない。むしろ、その人にとって本当に必要なものを見極めることなのだと、最近少し思うようになった。
佳代子には、豪華な料理でも、完璧な浴場でも、過剰なもてなしでもなく、足湯と山の音が必要なのかもしれない。
悠真は最後に書いた。
『思い出を再現するのではなく、今の人を迎える。昔の雨ではなく、今の山の音を用意する。』
帳場の外で、木桶を洗い終えた玄造が水を捨てる音がした。
厨房からは、千代が蒸し芋を試作している甘い匂いが流れてくる。
灯里は縁側で膝掛けを畳み直しながら、「これ、かわいいけど湯守荘にかわいすぎるかな」と一人で悩んでいた。
湯守荘は、次の客を迎える支度をしている。
それは派手ではない。
でも、確かに宿の時間だった。




