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湯守荘の宿帳には、言えなかった人生が綴られる 〜ブラック企業で壊れた僕は、茨城の山奥で名湯の宿を継ぎました〜  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第23話 外から届いた声

 紹介ページを公開した翌朝、湯守荘には何も起きなかった。


 黒電話は鳴らない。


 帳場の机に置いたノートパソコンも、静かなままだった。灯里が「問い合わせフォームも一応作っといた」と言っていたが、当然のように空っぽだった。


 悠真は、少し拍子抜けした。


 同時に、ほっとしてもいた。


 公開した瞬間に電話が鳴り続けるわけがない。そんなことは分かっている。観光協会の簡易ページも、まだ確認前の小さな公開だ。検索してすぐ出てくるようなものでもない。


 それでも、昨日の夜から心のどこかで身構えていた。


 誰かが見る。

 誰かが読む。

 誰かが期待する。

 誰かが違うと言う。


 外に出すというのは、思っていたより落ち着かないことだった。


 朝の湯を見に行くと、浴場の窓に薄い光が入っていた。


 湯口からは、いつも通り細く湯が流れている。灯里と玄造が撮った写真の湯口と同じ場所だ。だが、写真の中の湯より、目の前の湯はずっと普通だった。音もする。湿気もある。床の冷たさも、少し古い木の匂いもある。


 写真は、全部は写さない。


 昨日そう思ったばかりだった。


 悠真は湯に手を入れた。


 少しぬるい。


 今日は客がいない。だから慌てなくていい。けれど、湯は見ておく。客のいない日の湯も、宿の湯だ。


「ぬるい?」


 背後から玄造の声がした。


「少し」


「上げる」


「お願いします」


 玄造は浴場を見回し、湯口を見た。


「写真」


「昨日のですか」


「灯里、送ってきた」


「ああ」


「湯は、もっと撮れる」


「まだこだわるんですか」


「こだわってない」


 どう見てもこだわっている顔だった。


 悠真は少し笑った。


「紹介ページ、公開しました」


「見た」


「どうでした?」


「文字が多い」


「灯里に言ってください」


「写真は、まあ」


 玄造にしてはかなりの評価だった。


「湯守荘らしかったですか」


「まだ写真だ」


「まだ?」


「泊まれば宿になる」


 玄造はそれだけ言って、ボイラー室へ向かった。


 泊まれば宿になる。


 確かにそうだと思った。


 ページに載った湯守荘は、まだ写真と文章の中の宿だ。誰かが読んで、問い合わせて、実際に来て、湯に入り、飯を食べ、朝に帰る。その時に初めて、外へ出した湯守荘が本物になる。


 悠真は湯口を見た。


 怖いことだ。


 でも、少しだけ待ち遠しくもあった。


     *


 午前十時になっても、電話は鳴らなかった。


 灯里は役場の仕事で昼過ぎまで来られない。千代は厨房で味噌汁を作り、いつも通り短い言葉だけで動いている。


 悠真は帳場で、紹介ページの確認をした。


 外観写真。山吹の部屋。湯口。普段着の料理。黒電話。つつじ。


 料金表。問い合わせ時間。日帰り入浴不可。一日一組。


 何度見ても、少しそわそわする。


 自分の家の中を外から見ているような感じだった。いや、湯守荘は自分の家ではない。宿だ。人に見られるための場所でもある。けれど、今まで内側から触ってきたものが、画面上で整列しているのを見ると、何だか他人行儀に見えた。


 紹介文の一文が目に入る。


『静かに過ごしたい方のための宿です。』


 自分たちで書いたのに、改めて読むと少し強い。


 本当にそう言っていいのだろうか。


 静かに過ごしたい方のための宿。


 相沢、真帆、高森父子のことを思えば、間違っていない気もする。だが、静かに過ごすとは何だろう。音が少ないことか。話しかけられないことか。泣いても理由を聞かれないことか。予定を変えても責められないことか。


 分からない。


 でも、全部少しずつ含んでいるのかもしれない。


 千代が厨房から顔を出した。


「見すぎ」


「え?」


「画面」


「ああ」


「見ても変わらない」


「そうですね」


「飯は変わる」


「飯?」


「火を見ないと」


 味噌汁の鍋のことらしい。


 悠真は慌てて厨房へ行った。


 味噌汁は、少しだけ煮立ちかけていた。千代が火を弱める。


「すみません」


「謝るな」


「はい」


「画面は腹を満たさない」


「名言みたいです」


「名言じゃない」


 千代は味噌汁をかき混ぜた。


「公開しても、今日の飯」


 その言葉に、悠真は少し背筋が伸びた。


 ページを公開した。

 外へ出た。

 問い合わせが来るかもしれない。


 それでも、今日の飯を作る。


 客がいてもいなくても、宿の人間は食べる。湯を見る。床を掃く。帳場の埃を払う。


 外へ出したからといって、足元が消えるわけではない。


 悠真は味噌汁の椀を出した。


「いただきます」


 千代は何も言わなかったが、白飯をいつもより少し多めによそった。


     *


 最初の反応は、電話ではなかった。


 昼過ぎ、灯里が来る少し前に、ノートパソコンが小さく通知音を出した。


 黒電話のような大きな音ではない。短く、控えめな音だった。


 それなのに悠真は少し跳ねた。


 画面を見ると、問い合わせフォームに一件の通知が入っていた。


 件名は、宿泊について。


 差出人は、三浦沙織。


 悠真はすぐに開けず、しばらく画面を見た。


 文字の問い合わせ。


 電話ではない。相手の声は聞こえない。急かされることもない。こちらの息が詰まっても、画面の向こうには伝わらない。


 それなのに、妙に緊張した。


 文章には文章の怖さがある。

 残るからだ。


 電話は流れていく。嫌な声も耳に残るが、文字としては残らない。メールやフォームは、何度も読める。何度も読めるということは、何度も不安になれるということでもある。


 悠真は深呼吸をして、問い合わせを開いた。


『はじめまして。観光協会のページで湯守荘さんを拝見しました。母が昔、そちらに泊まったことがあると言っていた宿かもしれないと思い、ご連絡いたしました。』


 最初の一文で、手が止まった。


 観光協会のページで見た。


 誰かが本当に見たのだ。


 昨日撮った写真と、灯里と考えた文章が、知らない人の手元へ届いた。


 それだけのことに、胸が小さく鳴った。


 続きを読む。


『母は現在七十代で、足腰が少し弱っています。大きなホテルや人の多い宿が苦手で、できれば静かに過ごせる場所を探していました。ページに「一日一組」「静かに過ごしたい方のための宿」とあり、母がここなら行ってみたいと言いました。』


 悠真は、画面を見つめた。


 自分たちが書いた言葉が、誰かの母親に届いた。


 静かに過ごしたい方のための宿。


 あの一文を、必要とする人がいた。


『ただ、母は段差や長い廊下が少し不安です。湯守荘さんが古い宿であることは承知しております。宿泊が可能かどうか、無理のない範囲で教えていただけますでしょうか。希望日は来月の平日で、母と私の二名です。食事は普通量でなくても構いません。母は昔から温泉が好きでした。』


 最後に、丁寧な署名と連絡先があった。


 文面は落ち着いていた。


 急かしていない。

 無理を言っていない。

 むしろ、こちらを気遣いながら問い合わせている。


 けれど、その文章の奥には、母親を連れて行ける場所を慎重に探している人の疲れがあった。


 悠真はすぐに返事を書こうとして、手を止めた。


 確認が必要だ。


 段差。廊下。風呂。山吹の部屋。食事処。トイレ。足腰が弱い人を迎えられるか。


 できると言いたい。


 だが、安易に言ってはいけない。


 祖父が言っていた。


 金を見ろ。客の顔も見ろ。湯も見ろ。


 今は、建物を見なければならない。


 悠真はメールを閉じず、千代を呼んだ。


「問い合わせが来ました」


 厨房から、千代が出てきた。


「電話?」


「フォームです。観光協会のページを見たそうです」


 その言葉に、千代の眉が少し動いた。


「もう?」


「はい」


 千代は画面を読んだ。


 読むのが遅いわけではない。ただ、一文ずつ確かめるように読んでいる。読み終えると、しばらく黙った。


「足腰」


「はい」


「山吹まで、廊下」


「段差は少ないですけど、玄関と浴場が」


「浴場は危ない」


「ですよね」


「でも、椅子があれば」


「浴室用の椅子?」


「必要」


 千代はすぐに現実へ降りる。


「手すり」


「今は足りません」


「玄造」


「呼びます」


「江幡も」


「はい」


 千代はもう一度画面を見た。


「昔泊まった」


「お母様がそう言っているようです」


「名前」


「三浦沙織さん。お母様のお名前は書いていません」


「聞く」


「返信で?」


「電話より、文章」


「文章の方がいいですか」


「相手も考えられる」


 確かにそうだった。


 母親の足腰のこと、宿の段差のこと、無理のない範囲。そういう話は、電話で急いで決めるより文章の方がいい。


 千代は短く言った。


「すぐ受けるな」


「はい」


「でも、断るな」


「え?」


「確認する、と返す」


 千代らしい答えだった。


 できるかどうか分からない時、すぐ受けない。すぐ断らない。確認する。


 湯守荘が続けるために覚えるべき言葉が、また一つ増えた気がした。


     *


 灯里が来ると、悠真と千代は画面を見せた。


 彼女は最初、いつもの調子で「お、初フォーム?」と言いかけたが、文面を読み進めるうちに声を落とした。


「これは……ちゃんと確認した方がいいね」


「うん」


「でも、いい問い合わせだと思う」


「いい?」


「うん。無理に泊めろじゃなくて、無理のない範囲で教えてくださいって書いてる。ちゃんとこっちを人間扱いしてくれてる」


 その言い方が少しおかしくて、でも分かった。


 問い合わせの中には、宿をただのサービス装置のように扱うものもある。五人の電話がそうだった。布団敷けばいけるでしょ。温泉入れて寝られればいいだけ。


 三浦沙織の文章は違った。


 宿にも事情があると分かったうえで、尋ねている。


「お母さんの名前、聞こう」


 灯里は言った。


「昔泊まったかもしれないなら、献立控えに残ってる可能性ある」


「あ」


 悠真は祖母の献立控えを見た。


 確かにそうだ。


 祖母は客の名前と食事を書き残していた。三浦沙織の母が昔泊まっていれば、名前があるかもしれない。


「でも、何十年も前だと探すの大変じゃない?」


「大変だけど、探す価値はある」


 灯里は椅子に座り、腕をまくった。


「こういうの、燃える」


「仕事っぽい」


「探しものは好き」


「役場でもそういうことしてるの?」


「たまに。昔の名簿とか、古い地図とか。紙の山から目的の一枚を見つけると、ちょっと勝った気になる」


「勝ち負けが好きだな」


「人生には小さな勝ちが必要です」


 灯里は真面目な顔で言った。


 千代が横から言う。


「まず返信」


「はい」


 灯里はノートパソコンを少し悠真の方へ向けた。


「悠真が書く?」


「俺が?」


「宿の人だから」


 その言葉に、悠真は少しだけ背筋を伸ばした。


 宿の人。


 まだ宿主ではなくても、問い合わせに返事をするのは自分の仕事だ。


 悠真はキーボードに手を置いた。


 文章を書くのは、電話とは違う緊張がある。だが、考えながら書ける。消せる。直せる。相手を待たせずに即答しなくていい。


 まず、礼を書く。


『三浦沙織様

 このたびは湯守荘へお問い合わせいただき、ありがとうございます。』


 会社のメールのようになりすぎないように、少し手を止める。


 相手は母親を連れて行ける宿を探している。


 形式だけでは足りない。

 けれど、踏み込みすぎてもいけない。


 灯里が横から言った。


「最初に、見てくれたことへのお礼でいいと思う」


「うん」


 悠真は続けた。


『紹介ページをご覧いただき、お母様が湯守荘のことを思い出してくださったかもしれないとのこと、とてもありがたく拝見しました。』


 少し硬い。


 でも嘘ではない。


『当館は古い小さな宿で、現在は一日一組・一部屋のみでの再開となっております。段差や浴場まわりなど、ご不便や確認が必要な箇所がございます。お母様に安心してお過ごしいただけるか、館内の状況を確認したうえで、改めてご連絡させてください。』


 千代が画面を見て、頷いた。


「いい」


 悠真は少しほっとした。


『差し支えなければ、お母様のお名前と、足腰で特にご不安な点を教えていただけますでしょうか。椅子のご用意やお食事の量、入浴時のご不安など、できる範囲で準備を考えます。』


 灯里が言った。


「いいけど、『できる範囲』は残そう」


「入れてる」


「大事」


 最後に、すぐ受けられないことを謝りすぎずに書く。


『すぐに可否をお返事できず恐縮ですが、無理にお受けしてご不便をおかけするより、事前にきちんと確認したいと考えております。どうぞよろしくお願いいたします。』


 書き終えた。


 読み返す。


 硬い。


 でも、湯守荘として今できる返事だった。


「送る?」


 灯里が聞く。


 悠真は一度、千代を見る。


 千代は短く言った。


「送る」


 クリックする。


 送信済み。


 それだけの表示が出た。


 また、湯守荘から外へ言葉が出ていった。


     *


 午後は、館内の確認になった。


 灯里がメモを持ち、悠真が歩き、千代が危ないところを指摘する。玄造も呼ばれ、結局ほぼ全員で館内を回ることになった。


 玄関の段差。

 上がり框の高さ。

 廊下の幅。

 山吹までの距離。

 トイレの位置。

 浴場までの段差。

 脱衣所の床。

 浴槽の縁の高さ。


 普段歩いている場所が、別の目で見える。


「ここ、少し段差あるね」


 灯里が廊下の継ぎ目を指す。


「今まで気づかなかった」


 悠真が言うと、玄造が言った。


「足が弱いと引っかかる」


「直せますか」


「削るか、板を当てる」


「お願いします」


「すぐやる」


 玄造は短く答えた。


 浴場は、やはり問題が多かった。


 床が滑りやすい。

 浴槽の縁が高い。

 手すりが少ない。

 脱衣所から浴場への小さな段差。


 灯里は少し渋い顔をした。


「ここ、ちゃんと説明しないとだね」


「受けるのは難しいかな」


「お母さんの状態による」


 玄造が言った。


「一人で入るなら危ない」


「娘さんが付き添うなら?」


「それでも手すり」


「仮設の手すりってできますか」


「できる場所もある」


 現実的な話が続く。


 悠真は少し落ち込んだ。


 泊まってほしい、と思う。


 昔泊まったかもしれない母親が、もう一度湯守荘へ来たいと言っている。もし本当に過去の宿帳に名前があれば、相沢とはまた違う形で、湯守荘が誰かの記憶に残っていたことになる。


 でも、思い出だけでは人を泊められない。


 安全でなければ、受けてはいけない。


 それは分かっている。


 分かっているから、胸が重い。


 千代が浴場の床を見ながら言った。


「湯に入らなくても泊まれる」


 悠真は顔を上げた。


「温泉宿なのに?」


「温泉に入れない日もある」


「でも、お母様は温泉が好きだと」


「足湯」


 千代は短く言った。


「足湯?」


「部屋で」


 灯里が目を丸くした。


「あ、それいいかも」


「湯を運ぶ」


「山吹の縁側で足湯できたら、入浴が難しくても湯守荘の湯に触れられる」


 悠真の胸に、少し光が差した。


 浴場に入ることが難しいなら、湯に触れる方法を変える。


 目的地を変えてもいい宿。


 高森父子が神社ではなく川を見た朝を思い出した。


 温泉宿だから、必ず浴場に入らなければならないわけではない。湯に足を浸し、山の音を聞く。それだけでも、湯守荘の湯に触れることはできるかもしれない。


 玄造が少し考えた。


「桶がいる」


「大きいやつ?」


「浅くて安定するやつ」


「買います」


「湯温、注意」


「はい」


 千代が頷いた。


「足湯なら、山吹」


「縁側ですね」


「冷えないよう、膝掛け」


 灯里がすぐにメモする。


「これ、返事に書こう。入浴は状態によって相談。でも足湯なら用意できるかもしれませんって」


「まだ確定ではない」


 悠真が言うと、灯里が頷いた。


「だから、かもしれません」


 できないことをできると言わない。

 でも、できる形を探す。


 それが湯守荘らしいと思った。


     *


 夕方、三浦沙織から返信が来た。


 今度は通知音に、悠真はほとんど跳ねなかった。


 いや、少しは跳ねた。


 だが、すぐに画面を開けた。


『早速のお返事、ありがとうございます。母の名前は三浦佳代子です。旧姓は長谷川です。昔、父と一度だけ湯守荘さんに泊まったことがあると言っています。もう三十年以上前のことだと思います。』


 長谷川佳代子。


 悠真はすぐにメモした。


『足腰については、杖を使ってゆっくり歩けますが、長い階段や滑る場所は不安です。温泉は好きですが、浴場が難しいようであれば無理はしません。母は、湯そのものよりも「山の音を聞きたい」と言っております。』


 山の音。


 その言葉で、悠真の手が止まった。


 温泉ではなく、山の音。


 相沢は朝の山の音を聞ければ十分だと手紙に書いていた。真帆は東京の部屋は音が少なくても静かではないと言った。高森父子は川の音に母の話を預けた。


 湯守荘に来たい人は、湯だけではなく、音を求めているのかもしれない。


『宿泊が難しければ、遠慮なくお知らせください。ページの写真の湯口を母に見せたところ、「この音を覚えている気がする」と言っておりました。それだけでも、見つけられてよかったと思っています。』


 悠真は、画面を見つめたまま動けなかった。


 湯口の写真。


 玄造が「もっと低く撮れ」と言った写真だ。


 そこに、音は写っていない。


 でも、三浦佳代子は「この音を覚えている気がする」と言った。


 写真に写らなかったものが、届いていた。


「どうした?」


 灯里が横から覗き込む。


 文面を読んで、彼女も黙った。


「……湯口の写真、届いたね」


「うん」


「玄造さんに言わなきゃ」


「うん」


 千代が厨房から出てきた。


 悠真が名前を伝える。


「長谷川佳代子さん。三十年以上前に、ご主人と泊まったかもしれないそうです」


 千代は少し考えた。


「長谷川」


「覚えていますか?」


「名前だけでは」


「献立控え、探します」


 灯里がすでにノートを何冊も持ってきていた。


「三十年以上前なら、この辺かな」


 祖母の献立控えを開く。


 古いページには、年月日と客名が並んでいる。


 長谷川。

 佳代子。

 三浦。


 何冊もめくる。


 紙の匂いがする。古いインクの匂い。祖母が書いた時間の匂い。


 しばらく探して、灯里が「あ」と声を上げた。


「これ」


 ページの真ん中あたり。


『長谷川正明様・佳代子様 二名。新婚旅行帰り。雨。奥様、湯上がりに縁側で山の音を聞く。夕食、鮎少し。朝、粥ではなく白飯。ご主人よく笑う。』


 悠真は、その文字を何度も読んだ。


 長谷川佳代子。


 いた。


 湯守荘に、本当に泊まっていた。


 三十年以上前、新婚旅行帰りに。


 雨の日に。


 湯上がりに縁側で山の音を聞いた。


 千代が静かに言った。


「いたね」


 灯里の声が少し震えていた。


「花江さん、すごいな……」


 悠真はページに触れた。


 祖母が書き残していたから、今、三浦沙織と佳代子に返せるものがある。


 記録は、時間を越える。


 忘れないために書かれたものが、三十年以上後に、誰かの記憶を受け止める。


 悠真は深く息を吸った。


 これは、受けたい。


 だが、無理に受けてはいけない。


 受けるために、整える。


「足湯の準備をしましょう」


 悠真は言った。


 灯里が頷く。


「うん」


「浴場は状態を聞いて相談。無理なら足湯。山吹の縁側で、山の音を聞けるように」


 千代が言った。


「夕食、鮎は出さない」


「昔は鮎を少し食べたと」


「今は骨が面倒」


「確かに」


「白飯」


「朝は白飯だったんですね」


「でも今の体調を聞く」


「はい」


 準備が、少しずつ形になっていく。


 玄造にも湯口の写真のことを伝えると、彼はしばらく黙った。


「音は写ってない」


「でも、覚えている気がするそうです」


「そうか」


 玄造はそれだけ言った。


 しかし、その後すぐに倉庫へ向かい、足湯に使えそうな桶を探し始めた。


 無口な人の返事は、行動に出る。


     *


 夜、悠真は三浦沙織へ二度目の返信を書いた。


 長谷川佳代子の宿泊記録が献立控えに残っていたこと。新婚旅行帰り、雨の日、湯上がりに縁側で山の音を聞いていたと祖母が書いていたこと。現在の浴場は足元に不安があるため、実際の入浴は状態を確認しながら慎重に相談したいこと。代わりに、山吹の縁側で湯守荘の湯を使った足湯を用意できるよう準備していること。


 書きながら、何度も読み直した。


 昔の記録を伝える時、軽くならないように。

 できることとできないことを分けるように。

 期待させすぎず、でも冷たくならないように。


 最後に、こう書いた。


『お母様が覚えていらっしゃる山の音を、今の湯守荘でどこまでご用意できるか分かりません。それでも、無理のない形でお迎えできるよう、こちらでも準備を進めます。』


 送信する。


 画面に「送信しました」と出る。


 その文字を見て、悠真は少しだけ目を閉じた。


 湯守荘が、外へ届き始めている。


 それは予約数が増えるということだけではない。


 三十年以上前の雨の日と、今の紹介ページの湯口の写真がつながること。

 祖母の献立控えと、娘からの問い合わせがつながること。

 山の音を覚えている人が、もう一度その音を探すこと。


 そういう届き方もあるのだ。


 宿帳を開く。


『紹介ページから初めての問い合わせ。三浦沙織様。母・佳代子様が昔泊まったかもしれないとのこと。献立控えに長谷川正明様・佳代子様の記録あり。新婚旅行帰り、雨、湯上がりに縁側で山の音。湯口の写真を見て「この音を覚えている気がする」とのこと。足湯を準備する。』


 最後に、少し考えて書く。


『写真には音は写らない。でも、届くことがある。』


 黒電話は今日も鳴らなかった。


 けれど、湯守荘には外から声が届いた。


 その声は、受話器ではなく画面から来た。

 それでも確かに、宿の中の空気を少し変えた。


 厨房から、千代の声がした。


「明日、桶を洗う」


 廊下の向こうから玄造が答えた。


「見た」


 灯里が帳場で笑った。


「足湯会議、始まってる」


 悠真は宿帳を閉じた。


 次の客は、山の音を覚えている人だ。


 その人を迎えるために、明日もまた湯を見る。

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