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湯守荘の宿帳には、言えなかった人生が綴られる 〜ブラック企業で壊れた僕は、茨城の山奥で名湯の宿を継ぎました〜  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第22話 写真に映らないもの

 湯守荘を外へ出す日が来た。


 そう言うと大げさだが、悠真には本当にそう感じられた。


 朝、帳場の机の上には、灯里が作ってきた資料が並んでいた。


 宿の紹介文。

 料金表の案。

 宿泊時の注意事項。

 岩杜神社への簡単な案内。

 問い合わせ受付時間。

 そして、空白のままの写真欄。


「写真がないと、さすがに寂しい」


 灯里はスマートフォンを手に言った。


「文章だけでもいいんじゃないか」


「だめ。今の人はまず写真を見る」


「写真を見て来る人は、うちと合うかな」


「それは写真次第」


 灯里は、帳場の柱に寄りかかりながら画面を見せた。


「盛りすぎた写真にしたら、盛った宿を求める人が来る。正直に撮れば、正直な宿を見て来る人がいる」


「正直な宿」


「うん。古いけど、掃除してる。豪華じゃないけど、湯がある。派手じゃないけど、ご飯がちゃんとしてる。一日一組だけ。そういうのが分かる写真」


 悠真は、帳場から廊下を見た。


 古い床板。

 磨いた格子戸。

 祖父の半纏。

 黒電話。

 柱の小さな傷。

 庭のつつじ。


 正直に撮れば、傷も写る。


 それが少し怖かった。


「古さって、写真だと汚く見えないか」


「汚いところは撮らない」


「それは正直なのか」


「正直と無防備は違います」


 灯里はきっぱり言った。


「危ない古さは直す。味の古さは残す。写真も同じ。味は撮る。危ないところは直してから」


「玄造さんと千代さんの合作標語みたいになってる」


「湯守荘の方針だからね」


 灯里は、スマートフォンのカメラを起動した。


「まず外観」


「今?」


「今。朝の光がいい」


「光とか分かるのか」


「分かるよ。映える写真はまあまあ撮ってきた女なので」


「急に説得力があるな」


「ギャルをなめないでください」


 灯里は胸を張った。


 その声が少し大きかったのか、厨房から千代が顔を出した。


「うるさい」


「すみません」


「謝るな」


「忙しい!」


 灯里が両手を上げる。


 千代はちらりとスマートフォンを見た。


「何」


「宿の写真を撮ります」


「料理は撮らない」


「撮ります」


「食べるもの」


「食べる前に一枚だけです」


「冷める」


「冷める前に撮ります」


「灯里は遅い」


「今日は早いです」


 千代は疑わしそうな顔をした。


「一枚だけ」


「はい。一枚だけ」


「失敗したら」


「もう一枚」


「一枚じゃない」


「そこは、その、現代写真事情ということで」


 千代は無言で厨房へ戻った。


 許可なのか不許可なのか分からない。


 灯里は小声で言った。


「たぶん許可」


「本当に?」


「千代さんの無言は、八割許可」


「残り二割は?」


「あとで怒られる」


 悠真は少し笑った。


 そんなやり取りすら、もう湯守荘の日常になり始めていた。


     *


 外観の写真は、思ったより難しかった。


 湯守荘は古い。


 真正面から撮ると、建物の傷みがそのまま出る。斜めから撮ると、庭のつつじと格子戸が入り、少しやわらかく見える。提灯は昼間だと少し白っぽく、夜なら雰囲気が出るが、今はまだ明るい。


 灯里は石段の下にしゃがんだり、背伸びしたり、道路の端まで下がったりしていた。


「車、来たら危ないぞ」


「来たら避ける」


「先に避けろ」


「はいはい」


 灯里はカメラを構え、何度か撮った。


 その横で悠真は、落ち葉を拾ったり、石段の端に寄っていた鉢を直したりした。写真に撮るとなると、普段見えていなかったものが急に目につく。


 玄関の格子に蜘蛛の巣がある。

 提灯の紐が少し曲がっている。

 靴脱ぎ石の横に、昨日の泥が残っている。


「写真って、嫌なものも見えるな」


「だから便利なんだよ」


 灯里は撮った写真を確認しながら言った。


「肉眼だと慣れて見逃すところが、画面だと分かる」


「怖いな」


「でも、直せるところなら直せばいい」


 その言い方が、湯守荘で何度も聞いた言葉に似ていた。


 壊れたところは直す。

 危ないところは直す。

 下手なら次はましにする。


 悠真は石段の泥を掃いた。


 灯里がもう一度撮る。


「うん。これはいい」


 画面を見せられた。


 写真の中の湯守荘は、古い。


 けれど、思っていたほど寂れてはいなかった。格子戸の木目が朝の光に少し光り、提灯が控えめに下がっている。石段の脇につつじの赤が少し入っている。派手ではないが、人を拒んでいる感じはしない。


「本物より良すぎないか」


「本物のいいところを拾ってるだけ」


「そんなものか」


「そんなもの」


 灯里は次に、玄関の内側を撮った。


 靴箱、上がり框、帳場の黒電話、壁の時計。

 黒電話は、悠真にはまだ少し怖いものだった。けれど写真に写ると、古い宿らしい雰囲気を出していた。


「これ、問い合わせ電話の象徴だと思うと嫌だな」


「でも、湯守荘の顔でもあるよ」


「顔」


「相沢さんも、佐伯さんも、高森さんも、この電話から始まったでしょ」


 そう言われると、反論できなかった。


 怖い音。


 でも、客が来る音でもある。


 真帆は、電話に出てくれてありがとうと書いた。


 黒電話は、悠真を削るものでもあり、誰かをつなぐものでもある。


「じゃあ、撮っていい」


「許可制だったんだ」


「俺の中で」


「はいはい」


 灯里は黒電話を撮った。


 黒い受話器に、窓からの光が細く入る。古いけれど、妙に存在感があった。


「これ、いいね」


「怖く見えない?」


「見えない。むしろ、誰かが出てくれそうに見える」


 悠真は、写真の中の黒電話を見た。


 確かに、そう見えた。


 鳴ったら怖い。


 でも、出る人がいる。


 そういう電話に見えた。


     *


 山吹の部屋は、灯里が一番時間をかけた。


 布団は敷かず、座卓と座布団だけを置いた。障子は少し歪んでいる。悠真はそれが気になって仕方なかったが、灯里は「これくらいなら味」と言った。


「味の範囲が広くないか」


「広すぎると危険だけど、これは味」


「本当に?」


「うん。光がやわらかく入ってるから大丈夫」


 彼女は障子越しに庭が見える角度を探した。


 つつじの花は、数日前より少し増えていた。満開ではない。一輪、また一輪と、遠慮がちに咲いている。その少なさが、山吹には合っていた。


「ここ、相沢さんも真帆さんも高森さんたちも座ったんだよね」


「うん」


「写真だと、誰もいない部屋になるけど」


「客がいたことは写らないな」


「でも、いた後の空気は少し写るかも」


「そんなことある?」


「あると信じて撮る」


 灯里は座卓の高さまでスマートフォンを下げ、庭に向かって撮った。


 写真には、座卓と湯呑み、障子、縁側、雨上がりの庭が写った。湯呑みは、相沢に出したものと同じ柄だった。小さな山の絵が入っている。


 悠真は画面を見ながら言った。


「空っぽなのに、誰かが座りそうに見える」


「でしょ」


「不思議だな」


「宿の部屋って、そういうものなんじゃない」


 灯里は少し真面目な声で言った。


「人がいないのに、人を待ってる感じがする」


 悠真は山吹の部屋を見回した。


 この部屋は、少し前までただ古い客室だった。障子が破れ、布団が湿り、埃が積もっていた。


 それが今は、人を待つ部屋になっている。


 相沢が庭を見た。

 真帆が湯呑みを包んだ。

 悠斗が双眼鏡で川を見た。


 その時間があったから、この部屋は前より少し部屋らしくなったのかもしれない。


     *


 浴場の写真は、さらに難しかった。


 湯気でスマートフォンのレンズが曇る。

 床は古い。

 浴槽も新しくはない。

 角度を間違えると、ただの年季の入った風呂に見える。


 いや、実際そうなのだが。


「ここは盛りすぎると嘘になる」


 灯里は言った。


「でも、古すぎるように見えると不安になる」


「どうする?」


「湯を撮る」


「湯」


「浴場全体じゃなくて、湯口と湯面。湯が生きてる感じを撮る」


 湯が生きている。


 その言葉に、悠真は相沢の手紙を思い出した。


 もし湯がまだ生きているなら。


 湯口から細く流れる湯。

 湯船の表面に広がる波紋。

 窓から入る光と湯気。


 灯里は、何枚も撮らずに集中して一枚撮った。


「どう?」


 見せられた写真には、湯口から流れる透明な湯と、かすかな湯気だけが写っていた。浴場の古さは少し見える。けれど、湯の音が聞こえそうだった。


 悠真は、しばらく画面を見ていた。


「これ、いい」


「だよね」


「湯守荘っぽい」


「うん。主役は建物じゃなくて湯だから」


 灯里は満足げに頷いた。


 その時、玄造が脱衣所から顔を出した。


「撮ったのか」


「撮りました。見ます?」


 灯里が画面を見せる。


 玄造はしばらく無言で見た。


 何を言うのか、悠真も灯里も少し緊張した。


「湯は、もっと低く撮れ」


「低く?」


「湯面に近く」


 玄造はそう言って、浴場の縁を指した。


「ここから。湯口が上。窓の光が入る」


 灯里の目が輝いた。


「玄造さん、分かってる人だ」


「分からん」


「いや、今のは完全にカメラ指示です」


「湯の見方だ」


 玄造は嫌そうに言った。


 灯里は言われた通りに、湯船の縁に近い低い位置から撮った。


 湯口、湯面、窓の光。


 さっきより、さらに湯が近かった。


 湯気が薄く入り、まるで見る人がそこにしゃがんで手を伸ばしているような写真になった。


「これだ」


 灯里が言った。


 悠真も頷いた。


 玄造は画面を一瞥し、短く言った。


「湯は写ってる」


 それが最大級の褒め言葉なのだろう。


     *


 問題は、料理だった。


 千代は写真を嫌がった。


「冷める」


「一枚だけです」


「盛る前」


「盛った後じゃないと分からないです」


「分からなくていい」


「分かってほしいんです」


 灯里が珍しく食い下がる。


 千代は無表情で鍋を見ていた。


 昼食用に作ったのは、地元野菜の小さな煮物、味噌汁、小さなおにぎり、卵焼き。客に出す正式な膳ではないが、湯守荘らしい食事だった。


「豪華じゃないから、写真にすると地味」


 千代が言った。


「だから撮るんです」


 灯里は即答した。


「豪華じゃないけど、ちゃんとしてるって伝えたい」


「写真じゃ味は伝わらない」


「でも、手間は少し伝わります」


 千代は黙った。


 悠真は横で聞いていた。


 灯里は続ける。


「千代さんのご飯は、映える料理じゃないです。でも、湯守荘に来る人はたぶん、映えだけを求めてない。真帆さん、うどんをきれいって言いましたよね。相沢さん、粥を懐かしいって言いましたよね。高森くん、おにぎり食べやすいって言いましたよね。そういうのが伝わる写真が必要なんです」


 千代は、少しだけ目を細めた。


「灯里、今日はよく喋る」


「いつもです」


「今日は理由がある喋り」


「いつも理由あります!」


「ない時も多い」


「否定できない」


 灯里は少し肩を落とした。


 千代は鍋の火を弱めた。


「一枚」


「はい」


「湯気があるうち」


「はい」


「撮ったらすぐ食べる」


「はい」


「悠真も食べる」


「俺も?」


「撮るだけ撮って食べないのは駄目」


「はい」


 許可が出た。


 灯里は真剣な顔で膳を整えた。


 千代が小さなおにぎりを置く。

 卵焼きを一切れ。

 大根と人参の煮物。

 薄すぎず濃すぎない味噌汁。

 香の物を少し。


 派手ではない。


 けれど、見ていると腹が減る。


 灯里は真上から撮ろうとして、やめた。


「これは上からじゃないな」


「どう撮るんだ」


「食べる人の目線」


 座卓に置き、少し斜めから撮る。


 湯気が上がる味噌汁。

 小さなおにぎり。

 古い湯呑み。

 奥にぼんやり庭の緑。


 写真を見た千代は、しばらく黙った。


「どうですか」


 灯里が聞く。


「少ない」


「量ですか」


「写真だと少なく見える」


「湯守荘らしいです」


「足りない人もいる」


「おかわりできますって書きましょう」


 千代は少し考えた。


「ならいい」


 灯里は小さくガッツポーズをした。


「勝った」


「勝負してない」


「してました」


 悠真は写真を見た。


 確かに、豪華ではない。


 でも、湯守荘の料理だった。


 誰かを驚かせるためではなく、食べられるように置かれた膳。食べすぎないように、でも足りなければ足せるように。そんな気配が、少しだけ写っている気がした。


     *


 午後は、紹介文を整えた。


 灯里がノートパソコンを持ってきて、帳場で作業することになった。黒電話の横にノートパソコンがある光景は、時代が混ざりすぎて少し変だった。


「湯守荘、令和に接続します」


「大げさ」


「いや、大事件だよ。黒電話とノートパソコンが同じ机にいるんだよ」


「仲悪そうだな」


「たぶん互いに警戒してる」


 灯里はキーボードを打ちながら笑った。


 紹介文は、何度も直した。


 最初、灯里が書いた文章は少し整いすぎていた。


『茨城県山奥の小さな温泉宿・湯守荘。名湯と素朴な食事で、静かな時間をお過ごしいただけます。』


 悪くはない。


 でも、少し足りなかった。


「名湯って、自分で言うの恥ずかしい」


「温泉好きには知られてるんでしょ」


「でも、自分で言うと急に嘘っぽい」


「じゃあ、『温泉好きの方に長く親しまれてきた湯』は?」


「長い」


「長いけど正直」


「それで」


 直す。


『湯守荘は、茨城県山奥にある小さな温泉宿です。温泉好きの方に長く親しまれてきた湯と、地元のものを使った素朴な食事を、静かにご用意しています。』


 次に、一日一組のことを書く。


『現在は、一日一組・一部屋のみの小さな再開です。大人数でのご宿泊、日帰り入浴、急なご利用には対応できない場合があります。』


「対応できない場合があります、じゃなくて日帰り入浴はできませんでいい」


 悠真が言った。


 灯里が少し驚いた顔をする。


「言い切る?」


「曖昧にすると、また電話が来る」


「成長してる」


「昨日の五人電話が効いてる」


「痛みから学ぶタイプ」


「嫌なタイプだな」


 灯里は笑いながら直した。


『日帰り入浴は現在お受けしておりません。』


 その一文を見ると、少しだけ胃が縮んだ。


 でも、必要だった。


「料金表」


 灯里が言う。


 悠真は紙に書いた新しい料金案を見た。


 以前より少し上げた。


 大きくはない。けれど、はっきりと上げた。二食付き、一日一組、地元食材、温泉、静かな環境。修繕費と人手を考えると、本当はもう少し必要かもしれない。だが、最初の線としてはここだと灯里も千代も言った。


「高いかな」


「安くはない。でも、高すぎもしない」


「来なくなるかもしれない」


「来なくなる人もいる」


「うん」


「でも、来てほしい人に伝わる値段にする」


 灯里はそう言って、料金表を打ち込んだ。


 金額が画面に出る。


 逃げられない。


 悠真は深く息を吐いた。


「手間を軽く見ないため」


 自分に言い聞かせるように言う。


 灯里は頷いた。


「花江さんの言葉?」


「うん」


「いいね」


 料金表の下に、灯里が一文を加えた。


『食事は豪華な会席ではありません。季節と仕入れに合わせた、地元の家庭料理に近い膳となります。食べられないものや量については、予約時にご相談ください。』


 悠真はその文を見て、千代の顔を思い出した。


「千代さん、家庭料理って言われるの嫌がるかな」


「どうだろ」


 厨房にいる千代へ確認しに行くと、彼女はしばらく黙って文章を読んだ。


「家庭料理ではない」


「あ、やっぱり」


「宿の飯」


「では、宿の飯って書きますか」


「それも違う」


 難しい。


 千代は少し考えた。


「地のものを使った、普段着の料理」


 灯里が目を輝かせた。


「それ、いいです」


「普段着?」


 悠真が聞くと、千代は頷いた。


「よそゆきすぎない。でも、家の残り物じゃない」


 なるほどと思った。


 湯守荘の料理は、豪華な会席ではない。だが、ただの家庭料理でもない。宿の人間が客のために作る、地に足のついた料理。


 普段着の料理。


 ぴったりだった。


 文章を直した。


『食事は豪華な会席ではありません。季節と仕入れに合わせた、地のものを使う普段着の料理です。食べられないものや量については、予約時にご相談ください。』


 千代はそれを見て、短く言った。


「それでいい」


 灯里が小さく拍手した。


「湯守荘、言葉ができてきた」


     *


 写真と文章がそろったのは、夕方だった。


 簡易ページはまだ仮の状態だ。観光協会の人に確認してもらい、必要なところを直さなければならない。それでも、湯守荘が外へ向けて自分を説明する形が、初めてできた。


 画面には、湯守荘の外観があった。

 山吹の部屋。

 湯口。

 小さな膳。

 黒電話。

 庭のつつじ。


 その横に、紹介文。


『一日一組の、小さな再開です。』


 その一文を見た時、悠真の胸が少し揺れた。


 湯守荘が、外へ出ていく。


 ただし、大きくではない。


 小さく。


 一日一組だけ。


 無理をしない範囲で、しかし閉じこもりすぎずに。


「公開ボタン、押す?」


 灯里が聞いた。


「今?」


「仮ページだけど、限定公開みたいな感じ。観光協会の確認前だから、まだ広くは出ない。でも、形としては外へ出る」


 悠真は画面を見た。


 怖かった。


 公開したら、誰かが見る。

 誰かが電話をかけてくる。

 誰かが期待する。

 誰かに断らなければならない。

 誰かを迎えることになる。


 それは、嬉しいことでもあり、怖いことでもある。


「少し待ってもいい?」


 悠真は言った。


 灯里はすぐに頷いた。


「もちろん」


「逃げてるかな」


「確認してるだけでしょ」


「そうかな」


「そういうことにしよう」


 灯里はノートパソコンを閉じなかった。


 ただ、画面を少し暗くした。


「じゃあ、湯を見てからにする?」


 その提案に、悠真は顔を上げた。


「湯?」


「うん。迷ったら湯を見るのが湯守荘の人っぽい」


 湯守荘の人。


 灯里が以前そう呼んだ言葉。


 宿主よりは、まだ受け取れる。


「行ってくる」


 悠真は立ち上がった。


 浴場へ向かう。


 夕方の浴場は、朝と違う顔をしていた。窓の外は薄暗く、湯気が少し濃い。湯口から流れる音は、写真に撮った時と同じだった。


 湯に手を入れる。


 温かい。


 今日は客はいない。

 それでも湯は出ている。


 客がいる日も、いない日も。

 問い合わせが来る日も、来ない日も。

 見積書が来る日も、写真を撮る日も。


 湯は、細く流れている。


 悠真はしばらく目を閉じた。


 大きく開く必要はない。


 無理に満室を目指す必要もない。

 誰でも受け入れる宿になる必要もない。

 湯守荘に合う人へ、湯守荘らしく届けばいい。


 一日一組の、小さな再開。


 それなら、今の自分たちにもできるかもしれない。


 帳場へ戻ると、灯里が椅子で待っていた。


 千代も厨房から出てきている。玄造も廊下の端に立っていた。いつの間にか、全員が集まっていた。


「どう?」


 灯里が聞いた。


「押す」


 悠真は言った。


 灯里は、にっと笑った。


「はい」


 ノートパソコンの前に座り、画面を明るくする。


 公開ボタンがある。


 悠真は少しだけ指を止めた。


 それから押した。


 画面が切り替わる。


『公開しました』


 それだけの表示だった。


 派手な音も、祝福もない。


 湯守荘が外へ向けて開いた瞬間は、驚くほど静かだった。


「出た」


 灯里が言った。


「出ましたね」


 悠真は画面を見た。


 千代が短く言った。


「飯、冷める」


「何か作ってたんですか」


「うどん」


「またうどん」


「祝い」


「祝いがうどんなんですね」


「食べやすい」


 玄造がぼそりと言った。


「うどんでいい」


 灯里が笑った。


「湯守荘らしいお祝い」


 その通りだった。


 シャンパンでもケーキでもない。

 千代のうどん。


 小さな再開には、それが一番似合っていた。


     *


 夜、悠真は宿帳を開いた。


 今日のことを書く前に、少しだけ手が止まった。


 湯守荘は公開された。


 それは大きなことのようで、画面上では小さなことだった。けれど、今日撮った写真の一枚一枚には、この宿が少しずつ歩いてきた時間が写っている。


 相沢が覚えていた湯。

 真帆が温かいと言ったお茶。

 高森父子が見た川。

 千代の普段着の料理。

 玄造が見た湯面。

 灯里の言葉。

 祖父の半纏。

 祖母の献立控え。


 写真には全部は写らない。


 それでも、写らないものがあるから、写ったものに意味が出るのだと思った。


 悠真は鉛筆を持った。


『湯守荘の写真を撮った。外観、山吹、湯口、料理、黒電話、つつじ。玄造さんが湯の撮り方を教えた。千代さんの料理は「地のものを使う普段着の料理」と書くことになった。料金表も入れた。日帰り入浴は不可と明記。紹介ページを公開した。』


 少し考え、最後に書く。


『外へ出した。怖い。でも、一日一組の小さな再開なら、湯守荘らしく続けられるかもしれない。』


 黒電話は、今日は鳴らなかった。


 公開したからといって、すぐに誰かが来るわけではない。


 それでよかった。


 明日の朝、また湯を見る。


 その繰り返しの中に、これからの客が少しずつ入ってくるのだろう。


 帳場の奥から、灯里の声がした。


「うどん、のびるよー」


 千代の声が続く。


「灯里が喋るから」


「私のせい!?」


 玄造が低く笑ったような音も聞こえた。


 悠真は宿帳を閉じた。


 今日の祝いは、うどんだ。


 湯守荘らしくて、悪くないと思った。

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