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湯守荘の宿帳には、言えなかった人生が綴られる 〜ブラック企業で壊れた僕は、茨城の山奥で名湯の宿を継ぎました〜  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第21話 継ぐという言葉

 翌朝、湯はいつもより静かだった。


 出ていないわけではない。湯口からは細く流れ続けている。けれど、昨日まで耳に残っていた客の気配が抜けたせいか、浴場の中はひどく広く感じた。


 悠真は湯船の縁に手をつき、湯に指を沈めた。


 ぬるい。


 ただ、それは悪いぬるさではなかった。これから温めればいい。時間をかければ、人が入れる湯になる。最初から完璧な温度で待ってくれているわけではないが、手を入れれば応えてくれる。


 湯守荘そのものみたいだと思った。


 見積書は、昨夜から帳場の机に置いたままだ。


 配管。

 脱衣所。

 床板。

 ボイラー。

 湿気対策。


 数字は何度見ても減らない。だが、昨日の夜に灯里たちと分けたことで、少なくとも「全部すぐに襲ってくる怪物」ではなくなった。


 急ぐもの。

 後回しにできるもの。

 相談するもの。

 調べるもの。


 それでも、祖父母に話さなければならない。


 宿は祖父母のものだ。譲る予定だと言われているが、まだ正式に自分のものではない。何より、あの二人が守ってきた場所に大きな金を使う話を、自分だけで決めるわけにはいかなかった。


 怖かった。


 修繕費が怖いのではない。


 祖父に問われることが怖かった。


 本当にやるのか。


 その問いが来ることを、悠真は分かっていた。


 湯から手を出すと、指先から水滴が落ちた。


 浴場の外では、玄造がボイラー室の方で何かを見ている。千代はまだ来ていない。灯里も今日は役場の仕事で午前中は来られないと言っていた。


 自分で電話するしかない。


 黒電話の音はまだ苦手だった。

 だが、今日は自分からかける。


 帳場へ戻り、見積書を机の上に広げた。祖父母の番号が書かれた紙を横に置く。深呼吸を一つして、受話器を取った。


 ダイヤルを回す。


 じり、じり、と戻る音がする。


 呼び出し音は三回。


『はい、神崎です』


 祖母の声だった。


「悠真です」


『おはよう。食べた?』


 いつもの問い。


 それだけで、胸のこわばりが少しほどける。


「まだ。湯を見てきたところ」


『そう。おじいちゃんみたいになってきたねえ』


「半纏を着てるからかも」


『着てるの?』


「うん」


『そう。少し大きいでしょう』


「まだ大きい」


『そのうちちょうどよくなるよ』


 祖母も玄造と似たことを言う。


 悠真は見積書に目を落とした。


「おばあちゃん。修繕の見積もりが来た」


 電話の向こうで、祖母の声が少し静かになった。


『そう』


「結構かかる」


『うん』


「江幡さんが、急ぎと後回しを分けてくれてる。昨日、灯里と千代さんと玄造さんとも見た。安全に関わるところは先に直した方がいいって」


『そうね。床とお風呂は、怖いものね』


「おじいちゃん、いる?」


『いるよ。代わるね』


 少しの間、電話の向こうで生活音がした。


 湯呑みを置く音。椅子が少し鳴る音。祖母が「あなた、悠真」と呼ぶ声。


 やがて、祖父の声が出た。


『見積もり、来たか』


「うん」


『いくらだ』


 悠真は金額を言った。


 数字を声に出すと、紙で見るよりさらに重かった。


 祖父はすぐには答えなかった。


 沈黙が続く。


 悠真は見積書の端を指で押さえた。


『全部か』


「全部やると、その金額。急ぎだけならもう少し下がると思う。江幡さんに分けてもらう予定」


『急ぎは何だ』


「脱衣所の床。配管の一部。ボイラー点検。廊下西側の床板。浴場裏の湿気対策は早めだけど、全部すぐじゃなくてもいいって」


『玄造は何と言った』


「床が先。宿を壊してまで客を入れるなって」


『玄造らしい』


 祖父の声に、ほんの少し笑いが混じった。


『千代は』


「安全が先。味の古さは残す。危ない古さは直すって」


『あいつも言うようになったな』


「おじいちゃんも、そう思う?」


『そう思う』


 祖父は短く答えた。


 そこからまた沈黙があった。


 悠真は、いよいよ来ると思った。


『で』


 祖父の声が低くなる。


『お前は、どうしたい』


 やはり来た。


 悠真は受話器を握った。


「直した方がいいと思う」


『そうじゃない』


 祖父は即座に切った。


『宿をどうしたい』


 胸の奥を、まっすぐ掴まれた気がした。


 逃げ場がない。


 修繕の優先順位や、補助金や、料金改定や、問い合わせ時間。そういう具体的な話はできる。だが、その中心にある問いからは、まだ逃げていた。


 宿をどうしたい。


 閉めるのか。

 売るのか。

 貸すのか。

 継ぐのか。


 言葉にしなければならない。


 悠真は帳場を見回した。


 黒電話。

 動き出した時計。

 宿帳。

 相沢の名刺を預かった引き出し。

 真帆のメモ。

 高森父子が使った双眼鏡。

 祖母の献立控え。

 祖父の半纏。


 そして、浴場からは直接聞こえないはずの湯の音が、なぜか耳の奥にあった。


「続けたい」


 声は小さかった。


 けれど、出た。


 電話の向こうで、祖父は黙っている。


 悠真はもう一度言った。


「湯守荘を、続けたいと思ってる」


 言ってしまうと、怖さが遅れて来た。


 続けたいという言葉は、軽くない。


 好きだからやりたい、というだけでは済まない。金もいる。手もいる。責任もいる。客を断る強さもいる。自分がまた壊れないための線もいる。


 それでも、言葉は戻らなかった。


『思ってる、か』


 祖父が言った。


「まだ、継ぎますって胸を張れるほどじゃない」


『胸を張って継ぐやつなんぞ、ろくなもんじゃねえ』


「そうなの?」


『たいてい、後で折れる』


 相変わらず容赦がない。


『宿は、かっこよく継ぐもんじゃねえ。朝起きて湯を見る。飯を食う。客が来たら迎える。帰ったら片づける。床が傷めば直す。金がなけりゃ考える。そうしてるうちに、いつの間にか継いでる』


 玄造の「着てりゃ似る」と似ていた。


 祖父は続けた。


『継ぐと言った日より、継いだ後の朝の方が大事だ』


 悠真は受話器を握り直した。


「でも、金が足りない」


『足りんだろうな』


「簡単に言うな」


『簡単じゃねえから言ってる』


 祖父の声は落ち着いていた。


『宿は湯だけじゃ回らん。情だけでも回らん。金を見ろ。逃げるな』


「うん」


『だが、金だけ見ても宿は死ぬ。客の顔も見ろ。湯も見ろ。千代の飯も見ろ。灯里が倒れそうなら、それも見ろ』


「灯里のことまで?」


『あいつは昔から、騒がしい時ほど危ねえ』


 悠真は少し驚いた。


 祖父も、灯里のそういうところを見ていたのか。


『花江がよく言ってた。灯里ちゃんは笑いながら我慢するから、飯を食わせろ、と』


 千代と同じようなことを、祖母も言っていたらしい。


「みんな、灯里のこと見てるんだな」


『見てねえのは本人だけだ』


 祖父は少し不機嫌そうに言った。


 その言い方に、悠真は少しだけ笑った。


 緊張で固まっていた胸が、ほんの少し緩む。


「補助金とか支援制度も調べる。料金も見直す。まずは急ぎの修繕だけ江幡さんに分けてもらう」


『そうしろ』


「祖父母に全部負担してもらうつもりはない」


『当たり前だ』


「でも、相談はしたい」


『相談しろ』


「借りることも、考えるかもしれない」


『借りるなら、返す道を書け』


「返す道」


『いくら借りて、何年で返す。客を何組入れる。料金はいくら。無理な数を入れるな。数字で書け』


 経営の話になっている。


 祖父がこんなふうに具体的に言うのを、悠真は初めて聞いた気がした。


「おじいちゃん、そういうことも考えてたんだ」


『宿をやってたんだぞ』


「無口で湯ばっかり見てる人かと」


『それで宿が回るか』


「回らない」


『分かればいい』


 祖父は短く言った。


『昔は花江が帳面を見てた。俺は湯と建物。千代は飯。玄造は手伝い。全部一人でやるな』


「うん」


『一人でやろうとするな』


 少し強く、もう一度言われた。


 悠真は黙った。


 その癖を、祖父は見抜いている。


 会社で壊れた後も、湯守荘に来てからも、悠真はどこかで「自分がやらなければ」と思いがちだった。灯里が手伝い、千代が料理し、玄造が床を見てくれ、よねや甚六が支えてくれても、最後には自分一人で背負わなければならない気がしていた。


 でも、祖父は言った。


 全部一人でやるな。


『宿は、一人の美談にしたら終わりだ』


 祖父は低く言った。


『続かん』


 その言葉は、妙に重かった。


「分かった」


『分かってねえ顔してる』


「電話なのに顔分かるの?」


『声で分かる』


 湯守荘の人間は、みんな声や顔や足音で何かを見すぎる。


 悠真は苦笑した。


「分かるように、努力する」


『努力じゃなく、飯を食え』


「そこ?」


『そこだ』


 祖父は真面目だった。


『飯を食わん人間は、金の計算も間違える』


 妙に説得力があった。


     *


 祖母に電話が戻った。


『おじいちゃん、怖かった?』


「少し」


『あの人は、優しいことを怖く言うからねえ』


「それ、損してるよね」


『本人は得する気がないから』


 祖母は笑った。


 その笑い声を聞くと、帳場の空気が少し丸くなる。


『悠真』


「うん」


『続けたいって言えた?』


「言えた」


『そう』


 祖母は短く言って、少し黙った。


『それは、よかった』


 その声が、少し震えていた。


「おばあちゃん」


『ごめんね。嬉しいのと、心配なのと、半分ずつ』


「うん」


『本当はね、閉めてもいいと思ってたの』


 悠真は黙って聞いた。


『湯守荘は大事よ。おじいちゃんも私も、あの宿でずっと生きてきた。でも、悠真の人生を縛ってまで残したいとは思っていなかった』


「うん」


『あなたが苦しくなるなら、閉めてもよかった。売るのは寂しいけれど、それでも、生きている人の方が大事だから』


 宿より人が先。


 千代の言葉と重なる。


『でも、続けたいと思ったなら、応援するよ』


「ありがとう」


『ただし、無理は駄目』


「みんなそれ言う」


『みんなが言うなら、本当に駄目なんだよ』


 祖母はいつもの調子で言った。


 少し笑ってしまう。


『お金のことは、こちらでも少し出せるものを確認します。でも、全部こちらから出すのは違うと思う』


「俺もそう思う」


『悠真が宿を続けるなら、悠真もちゃんと考える。私たちもできる範囲で助ける。千代さんたちにも助けてもらう。そういう形がいいと思う』


「うん」


『それから、料金は安くしすぎないこと』


 灯里と同じことを言われた。


「おばあちゃんもそう思う?」


『思うよ。安さだけで来る人には、湯守荘はたぶん合わないから』


「灯里も同じようなこと言ってた」


『灯里ちゃんは、そういうところ鋭いからねえ』


 祖母は少し嬉しそうだった。


『湯守荘はね、高い宿ではなかったけれど、安売りの宿でもなかったの。豪華ではなくても、手間はかかっているから』


「手間」


『千代さんのご飯も、玄造さんの床も、おじいちゃんの湯も、ただではないのよ。もちろんお金だけの話じゃないけれど、払ってもらうことは、手間を軽んじないということでもあるの』


 その言葉は、じわりと沁みた。


 料金を上げることへの罪悪感が、少し形を変える。


 客から取るのではない。

 手間を軽んじないために、いただく。


 そう考えれば、少しだけ背筋が伸びる。


『それにね』


 祖母は続けた。


『お金を払って泊まるから、お客さまも遠慮しすぎずにいられるの。何でもただでしてもらうと、人はかえって気を使うでしょう』


「確かに」


『相沢さんも、真帆さんも、高森さんたちも、きっとそういう方よ』


「うん」


『だから、ちゃんといただきなさい。ちゃんと出しなさい。ちゃんと休みなさい』


 祖母の「ちゃんと」は、会社で聞いたものとは違った。


 責めるためではない。


 暮らしを崩さないための、ちゃんと。


「分かった」


『分かったなら、朝ご飯』


「まだだった」


『ほら』


「今から食べる」


『千代さんに叱られるよ』


「もう叱られそう」


 電話を切る前に、祖母が言った。


『悠真』


「うん」


『続けたいと言ってくれて、ありがとう』


 その言葉に、胸が詰まった。


 礼を言われるほどのことをしたのか、自分ではまだ分からない。


 けれど、祖母はそう言った。


「まだ、ちゃんと続けられるか分からない」


『分からないままでいいよ。今日の湯を見て、今日のご飯を食べて、今日の帳面を見る。それを続けてみなさい』


「うん」


『それが、継ぐってことかもしれないから』


     *


 電話を切ったあと、悠真はしばらく帳場に座っていた。


 黒電話は静かだった。


 今の電話は怖くなかった。緊張はした。祖父の問いには胸を掴まれた。でも、電話そのものに怯えるより、話の中身と向き合っていた。


 それは少しだけ進歩なのかもしれない。


 厨房へ行くと、千代がいつの間にか来ていた。


 鍋から味噌汁の匂いがする。今日は、やや濃いめだった。


「電話」


 千代が言った。


「祖父母にしました」


「どうだった」


「続けたいって言いました」


 千代は包丁を止めた。


 一瞬だけ。


 それからまた葱を切る。


「そう」


 それだけだった。


 しかし、その「そう」は、いつもより少し低く、落ち着いていた。


「祖父が、宿は一人の美談にしたら終わりだって」


「義一さんらしい」


「全部一人でやるな、とも」


「当たり前」


「千代さんも、手伝ってくれますか」


 聞いてから、少しだけ怖くなった。


 当たり前のように頼りすぎていないか。千代には千代の暮らしがある。玄造にも、灯里にも、よねにも甚六にも。


 千代は葱を切り終え、包丁を置いた。


「飯は作る」


 短い答えだった。


 でも、はっきりしていた。


「ありがとうございます」


「ただし」


「はい」


「無理な客は断る」


「はい」


「食材を軽く見る客も断る」


「はい」


「灯里を使い潰さない」


「はい」


「自分も潰れない」


「はい」


「なら、作る」


 条件は多かった。


 けれど、どれも湯守荘を守るためのものだった。


 悠真は深く頭を下げた。


「お願いします」


 千代は少しだけ嫌そうな顔をした。


「重い」


「すみ……」


 言いかけて止める。


「ありがとう、ございます」


 千代は味噌汁の鍋を少しだけ混ぜた。


「食べて」


「はい」


 朝食は、白飯と味噌汁と卵焼きだった。


 何でもない朝食。


 けれど、続けたいと言った後の最初の飯だった。


 悠真は手を合わせた。


「いただきます」


 味噌汁を飲む。


 濃いめの味が、腹に落ちた。


 今日の自分には、薄い味噌汁よりこのくらいがよかった。


 千代は分かっていたのだろう。


     *


 昼過ぎ、灯里がやって来た。


 来るなり、帳場の空気を見て言った。


「何か言った顔してる」


「続けたいって言った」


 灯里は一瞬、動きを止めた。


 それから、ふっと笑った。


「そっか」


「反応、それだけ?」


「いや、騒ぐところじゃない気がして」


 灯里は帳場の椅子に腰を下ろした。


「でも、よかった」


「うん」


「怖い?」


「怖い」


「だよね」


 灯里は頷いた。


「続けたいって言うと、続けられなかったらどうしようってなるもんね」


「そう」


「でも、言わないと始まらないし」


「うん」


「じゃあ、始まったね」


 相沢が湯に入った時、灯里は「始まったね」と言った。


 あの時とは少し違う意味で、また始まったのだと思った。


 宿泊を受けること。

 修繕費を見ること。

 料金を決めること。

 祖父母に続けたいと言うこと。


 どれも始まりだった。


「補助制度、午後に一緒に見よう」


 灯里は資料を出した。


「役場は?」


「今日は休み。昨日の代休っぽいやつ」


「ぽいやつって」


「ちゃんとしたやつです。たぶん」


「たぶんか」


 灯里は笑った。


「あと、料金表の案も作ってきた」


「仕事が早いな」


「早くやらないと、悠真が見積書に食べられそうだから」


「食べられる前提」


「数字は腹減ってるからね」


 灯里の比喩は相変わらず変だった。


 でも、その変な比喩で少し息ができる。


 資料を広げる前に、悠真は言った。


「灯里」


「何?」


「全部頼らないようにする」


「急にどうした」


「祖父にも千代さんにも言われた。灯里を使い潰すなって」


 灯里は少し困ったような顔をした。


「私、そんなに危なっかしく見える?」


「明るく倒れるらしい」


「またそれ」


 灯里は頬を膨らませた。


 けれど、すぐに力を抜いた。


「まあ、全部頼られたら無理」


「うん」


「でも、頼られないのも寂しい」


「難しいな」


「人間なので」


 灯里は昨日と同じようなことを言った。


「だから、七割……じゃなくて六割?」


「千代さん基準だと六割」


「じゃあ六・五割」


「刻むな」


「妥協点」


 二人で少し笑った。


 笑った後、灯里は資料を広げた。


「じゃあ、宿を続けるための、地味で面倒な話を始めますか」


「はい」


「まず、補助金の書類。たぶん面倒。めちゃくちゃ面倒」


「最初から言うな」


「でも取れたら大きい」


「やる」


「次、料金表。ここはちゃんと決める。安くしすぎない。高くしすぎない。湯守荘に合う人へ届く金額」


「うん」


「あと、紹介文に『現在一日一組』を明記。五人は来ないようにする」


「あの電話はもう嫌だ」


「来ても断れるようにする」


「うん」


 地味な話だった。


 夢も湯気もない。

 書類、料金、修繕、問い合わせ文。


 でも、その地味なものの上に、湯守荘の湯気が立つのだ。


 悠真はペンを持った。


 灯里が言った。


「で、宿主さん」


「やめてくれ」


「まだ早い?」


「早い」


「じゃあ、宿主見習いさん」


「それも恥ずかしい」


「湯守荘の人」


 悠真は少し考えた。


「それなら、まあ」


「湯守荘の人、書類の一枚目から行きます」


「はい」


     *


 夜までに、何枚もの紙に書き込みをした。


 補助制度の対象になるかもしれない修繕。

 自己負担になりそうな部分。

 優先順位。

 料金案。

 予約時に伝える注意事項。

 宿の紹介文。

 今後使える部屋の順番。


 疲れた。


 けれど、会社の時の疲れとは違った。


 あの頃の疲れは、やってもやっても自分が削れていく感じだった。今日は違う。紙の上に、少しずつ宿の形が見えてくる。もちろん問題は山積みだ。金も足りない。申請が通る保証もない。客が来続ける保証もない。


 それでも、進んでいる実感があった。


 夕方、江幡にも電話した。


 怖かったが、かけた。


「急ぎの修繕だけ、見積もりを分けてもらえますか」


 そう言えた。


 江幡は『おう。やっと経営者っぽいこと言うようになったな』と笑った。


 経営者ではない、と言いかけて、やめた。


 まだ胸は張れない。


 でも、湯守荘を続けたいと言った人間として、見積もりを分けてもらう電話くらいはしなければならない。


 夜、帳場に一人残ると、悠真は宿帳を開いた。


『祖父母へ修繕費を相談。祖父に、宿をどうしたいと問われる。続けたいと言った。継ぐと言った日より、継いだ後の朝の方が大事だと言われる。祖母に、ちゃんといただき、ちゃんと出し、ちゃんと休みなさいと言われる。千代さんは飯を作ると言ってくれた。灯里と書類を見る。江幡さんに急ぎの見積もりを分けてもらう電話をした。』


 書いてから、少しだけ手を止めた。


 最後の一行は、すぐに決まった。


『湯守荘を、続けたい。怖いけれど、今日もそう思った。』


 鉛筆を置く。


 帳場の灯りの下で、祖父の半纏の袖が少し影を落としている。


 大きかった半纏は、まだ大きい。


 けれど、今日はその大きさが嫌ではなかった。


 明日の朝も、湯を見る。


 その後で、また数字を見る。


 どちらも、宿を続けるために必要なことだった。

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