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湯守荘の宿帳には、言えなかった人生が綴られる 〜ブラック企業で壊れた僕は、茨城の山奥で名湯の宿を継ぎました〜  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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20/27

第20話 宿を続ける値段

 高森父子を見送った後の湯守荘は、雨上がりの匂いを残していた。


 山吹の部屋には、まだ川の音があった。

 実際には、窓を閉めれば川の音は少し遠くなる。それでも悠真には、あの部屋の畳や座布団の向きの中に、悠斗が双眼鏡を覗いた時間が残っているように思えた。


 晴れたら。


 悠斗が最後に残した言葉。


 約束ではない。けれど、まったくの別れでもない言葉だった。


 悠真はその響きを、しばらく胸の中で転がしていた。


 相沢は、次に来る時まで名刺を預けた。

 真帆は、本名でメモを残した。

 高森父子は、晴れたらという言葉を置いていった。


 湯守荘は、少しずつ客の何かを預かる場所になっている。


 その実感が、嬉しかった。


 嬉しかった、はずだった。


 けれど、その日の午後、帳場の机に置かれた一枚の紙が、悠真を現実へ引き戻した。


 江幡から届いた見積書だった。


 封筒を開けた瞬間、悠真は数字を見て動けなくなった。


 配管の一部交換。

 ボイラー点検。

 脱衣所床補修。

 浴場裏の湿気対策。

 廊下西側の床板補修。

 山吹以外の客室を使うための畳と建具調整。


 項目は、ひとつひとつ納得できるものだった。


 江幡は無駄な工事を盛る人ではない。むしろ、必要最低限を絞ってくれたのだと思う。ところどころに手書きで「急ぎ」「後回し可」「安全優先」と書いてある。


 問題は、合計金額だった。


 悠真は、もう一度見た。


 数字は変わらなかった。


「……そりゃ、そうだよな」


 誰にともなく呟いた。


 古い宿を動かすということは、湯が出ているだけでは済まない。


 客を一人泊めるには、湯と布団と飯があればよかった。

 二人泊めるには、少し準備を増やせばよかった。

 でも宿として続けるには、床が抜けないこと、湯が急に止まらないこと、脱衣所が腐らないこと、廊下で客が怪我をしないことが必要になる。


 当たり前だ。


 当たり前なのに、見積書の数字として目の前に出されると、急に空気が冷えた。


 相沢の名刺も、真帆のメモも、悠斗の「晴れたら」も、その紙の前では少し遠くなる。


 湯守荘を続けたい。


 その気持ちは、ここ数日で確かに育っていた。


 けれど、続けたいだけでは宿は続かない。


 金がいる。


 そのあまりにも単純な事実が、帳場にどっかり座り込んだ。


     *


 灯里が来たのは、夕方前だった。


 彼女は玄関に入るなり、悠真の顔を見て足を止めた。


「うわ」


「うわって何だ」


「顔が見積書」


「どんな顔だ」


「数字に殴られた顔」


 ほぼ正解だったので、悠真は何も言えなかった。


 灯里は靴を脱ぎ、帳場へ来て、机の上の見積書を見た。


 最初は軽い調子だった顔が、数字を追うにつれて少しずつ真面目になる。


「……まあ、するよね」


「するよな」


「江幡さん、かなり削ってこれだね」


「分かる?」


「分かる。江幡さん、ぼったくる人じゃないし。『後回し可』って書いてあるところ、たぶん本当に後回しできる。でも『急ぎ』はやった方がいい」


「だよな」


 悠真は椅子に座ったまま、見積書を見下ろした。


「客を泊めたら、宿になった気がした」


「うん」


「でも、宿になったら、修繕費が来た」


「うん」


「現実って、タイミング悪いな」


「だいたいそうだよ。空気読まないから現実なんだよ」


 灯里はそう言って、帳場の椅子に腰を下ろした。


「でも、これは見ないとだめなやつ」


「分かってる」


「分かってる顔じゃない」


「逃げたい顔?」


「うん。山奥からさらに山奥へ逃げそう」


「熊がいる」


「熊の方が数字より分かりやすいかもね」


「怖いこと言うな」


 灯里は笑ったが、すぐに見積書へ視線を戻した。


「売上、見てる?」


「一応」


 悠真は別のノートを出した。


 祖母の献立控えとは別に、灯里に勧められてつけ始めた収支ノートだ。宿泊料、食材費、灯油、電気、水道、修繕、備品。まだ項目は少ない。客も三組だけだ。


 相沢一名。

 佐伯真帆一名。

 高森父子二名。


 売上の欄は、数字としては小さくないように見えた。


 けれど、費用を書き出すとすぐに心細くなる。食材費、タオル、洗剤、灯油、修繕の一部、交通、備品。そこに今度の見積書が乗る。


 悠真は電卓を叩いた。


 会社員時代、数字は嫌いではなかった。売上目標や達成率は苦しかったが、計算そのものはできた。むしろ得意な方だったかもしれない。


 だからこそ、残酷だった。


 数字は、こちらの情緒を汲んでくれない。


「このペースだと、全然足りない」


 悠真は言った。


 灯里は頷いた。


「うん」


「もっと客を入れれば」


「壊れる」


 即答だった。


 悠真も分かっていた。


 一部屋だけでも、客一組ごとにかなり消耗する。相沢、真帆、高森父子。それぞれ良い宿泊だった。けれど、そのたびに準備と片づけと気疲れがあった。千代も玄造も灯里も手伝ってくれているが、全員が毎日動けるわけではない。


 部屋を増やせば売上は増える。

 でも、人手も修繕も必要になる。

 無理に増やせば、湯守荘らしさが崩れる。


 宿を壊してまで客を入れるな。


 玄造の言葉が戻ってくる。


「じゃあ、値段を上げる?」


 悠真は自分で言ってから、少し嫌な感じがした。


 灯里は見逃さなかった。


「値段上げることに罪悪感ある?」


「ある」


「なんで」


「この宿、まだ整ってないし。サービスも足りないし。豪華でもない」


「でも、安くしすぎても続かない」


「うん」


「続かない宿は、誰も泊まれない」


 灯里は静かに言った。


「相沢さんも、佐伯さんも、高森さんたちも、次に来たくても来られなくなる」


 それは、いちばん分かりやすく胸に刺さった。


 安くして喜ばれることは簡単かもしれない。


 でも、それで宿が潰れたら終わりだ。


 湯守荘を静かに続けるには、誰かにとって払える範囲で、こちらも壊れない値段を決めなければならない。


「値段って、難しいな」


「難しいよ。高すぎれば人が来ない。安すぎれば続かない。あと、安すぎると雑に扱う人も来る」


「雑に扱う人」


「五人で布団敷けばいけるでしょ、みたいな人」


 悠真は黙った。


 あの電話を思い出すと、まだ少し胸がざらつく。


「値段は、客を選ぶ線にもなると思う」


 灯里は言った。


「嫌な言い方かもしれないけど」


「客を選ぶ」


「そう。湯守荘に合う人に来てもらうための線。高級宿にするって意味じゃなくて、ここで過ごす時間をちゃんと大事にしてくれる人に来てもらうための線」


 悠真は収支ノートを見た。


 線。


 今まで、値段は客を遠ざける壁のように感じていた。


 けれど、灯里は線だと言った。


 宿を守るため。客を守るため。

 合わない人同士が無理に出会って、互いに傷つかないための線。


「相沢さんなら、払うと思う」


 灯里は言った。


「真帆さんも、たぶん払う。高森さんも、ちゃんと理由が伝われば払うと思う」


「理由」


「うん。湯守荘は一部屋だけ。食事は地元のもので、無理に豪華にしない。静かに過ごすための宿。だから人数を絞る。だからこの料金です。そう書けばいい」


「書いて、納得してくれるかな」


「全員は無理」


「またそれか」


「全員に好かれる宿を目指したら、湯守荘じゃなくなる」


 その言葉は、少し強かった。


 灯里は続けた。


「ここは、何も解決しない宿なんでしょ」


「うん」


「なら、何でも受ける宿でもない」


 悠真は、しばらく黙っていた。


 何も解決しない宿。


 その言葉を、少し前まで自分は弱さのように思っていた。だが今は、それが湯守荘の形なのかもしれないと思い始めている。


 人生を変えない。

 でも、一晩眠れる場所になる。

 全部を救わない。

 でも、薄い味噌汁や小さなおにぎりを出す。

 目的地を変えてもいいと言う。

 話さない時間をそのまま置いておく。


 それを続けるには、続けるための金がいる。


 身も蓋もない。


 でも、身と蓋がなければ鍋は作れない。


「千代さんみたいなこと考えた」


 悠真が呟くと、灯里が首を傾げた。


「何?」


「身と蓋がなければ鍋は作れない」


「うわ、微妙に名言っぽい」


「忘れてくれ」


「宿帳に書いときなよ」


「絶対書かない」


     *


 その夜、千代と玄造も交えて、帳場で小さな会議になった。


 会議、と言っても、机の上に見積書と収支ノートと祖母の献立控えが並び、全員が茶を飲みながら話すだけだ。千代は厨房から煮物の小鉢を持ってきた。玄造は壁にもたれて立っていたが、灯里に「座ってください」と言われ、渋々腰を下ろした。


 悠真は見積書を全員に見せた。


 玄造は黙って読んだ。


 千代は金額より先に、項目を見た。


「脱衣所」


「急ぎです」


 悠真が言うと、玄造が頷いた。


「床は先」


「配管は?」


「一部先。全部は後」


 江幡の見立てと同じだった。


 灯里が紙に書き出す。


「優先順位つけよう。安全に関わるもの、営業に必要なもの、後回しでもいいもの」


「安全」


 千代が短く言った。


「最初」


「はい」


 灯里が大きく丸をつける。


 安全。

 湯。

 床。

 食事。

 布団。

 その次に、見た目や快適さ。


 こうして並べると、宿を続けるための順番が少し見えてくる。


 玄造が言った。


「見た目は、後でいい」


「でも、古すぎるとお客さんが不安になるかも」


 悠真が言うと、玄造は首を振った。


「危ない古さと、味の古さは違う」


 灯里がペンを止めた。


「それ、使えますね」


「使うな」


「いや、紹介文に入れたいくらい」


「やめろ」


 玄造は本気で嫌そうな顔をした。


 千代が煮物を小皿に分けながら言った。


「味の古さは残す。危ない古さは直す」


 灯里がすぐに書いた。


「千代さんまで名言」


「名言じゃない」


「今日、名言多いな」


 悠真は少し笑った。


 笑っている場合ではない。


 見積書の数字は重いままだ。


 だが、重いものを四人で見ているだけで、少しだけ違った。自分一人で抱えている時は、数字が壁のようだった。今は、壁ではなく、修繕の順番に見えてくる。


「お金はどうする?」


 灯里が言った。


 場が少し静かになった。


 悠真は通帳の残高を書いた紙を出した。


 退職後の貯金。退職金と呼べるほどではないが、少しまとまった金。祖父母から預かっている宿の維持費。今後の売上見込み。


 全部並べても、十分ではない。


「借りることも考えないといけないかもしれない」


 悠真が言うと、玄造が少し眉を動かした。


「借金は慎重に」


「はい」


「でも、必要ならする」


 千代が言った。


「宿は、金を使わずには直らない」


 当たり前のことを、千代は逃げずに言う。


「祖父母に相談します」


「する」


「あと、観光協会とか、市の補助金とか、空き家改修とか、小規模事業者向けの支援とか、調べてみる」


 灯里が資料を出した。


「役場の人っぽい」


 悠真が言うと、灯里は胸を張った。


「役場の人関係者なので」


「関係者」


「正職員じゃないからね。そこは正確に」


 彼女らしいこだわりだった。


 資料には、補助制度の名前がいくつも並んでいた。古民家改修、地域観光、創業支援。どれが使えるのか、そもそも湯守荘が該当するのかはまだ分からない。手続きも面倒そうだった。


 けれど、道は一つではない。


 そのことが分かるだけで、息が少し楽になった。


「料金も見直そう」


 灯里が言う。


「どのくらい?」


「一部屋一日一組。二食付き。地元食材。温泉。静かな環境。安売りしない方がいい」


 灯里は周辺の宿泊料金を調べた紙を出した。


 近隣の旅館、民宿、ゲストハウス、温泉宿。料金はさまざまだった。湯守荘の今の料金は、やや安い方に入る。


「最初だから安く、って思ってた」


 悠真は言った。


「それも分かる。でも、安いから来る人と、湯守荘が合う人は必ずしも同じじゃない」


「うん」


「ただ、上げすぎると違う宿になる」


「その線を探すんだな」


「そう」


 線。


 またその言葉だった。


 湯守荘と客の間に、必要な線を引く。


 拒絶ではなく、守るための線。


 悠真は収支ノートに新しい料金案を書いた。


 数字が並ぶ。


 やはり、冷たい。


 でもさっきより、少しだけ温度があるように見えた。


 それは、その数字の先に、湯と飯と布団と客の顔が見えるからかもしれない。


     *


 会議が終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。


 千代は最後に、見積書の端を指で叩いた。


「全部は無理」


「はい」


「でも、少しずつ」


「はい」


「少しずつでも、止めない」


 その言葉に、悠真は顔を上げた。


「湯の話ですか」


「宿も」


 千代はそれだけ言った。


 玄造が立ち上がる。


「明日、脱衣所の床をもう一度見る」


「お願いします」


「江幡に、急ぎだけで見積もり分けろと言う」


「はい」


「数字は、分けると怖さが減る」


 玄造がそんなことを言うとは思わず、悠真は少し驚いた。


「玄造さん、数字も見るんですか」


「昔、工務店にいた」


「初耳です」


「言ってない」


「でしょうね」


 灯里が笑った。


「湯守荘、情報が後出しの人多すぎ」


「灯里もだろ」


「私は出してる方です」


「いや、まだ出してないこと多い気がする」


 悠真が言うと、灯里は一瞬だけ目をそらした。


「そのうちね」


 軽い声だった。


 けれど、その奥に少しだけ影があった。


 悠真は追わなかった。


 灯里にも、話す時があるのだろう。

 話さない時間も、必要なのだろう。


 それは客だけではない。


 手伝ってくれる人にも、同じようにある。


     *


 夜、悠真は帳場に一人で残った。


 机の上には、見積書と収支ノート、料金案、補助制度の資料、祖母の献立控えが並んでいる。どれも宿に必要なものだった。


 湯守荘の物語は、湯気と味噌汁だけではできていない。


 床板と配管と見積書と通帳と申請書類でもできている。


 それを、今日ようやく少し受け入れた気がした。


 宿を続けたい。


 その気持ちは、数字を見ても消えなかった。


 むしろ、数字を見てなお消えなかったことで、前より少しだけ確かなものになった。


 悠真は宿帳を開いた。


 今日の余白に書く。


『江幡さんの見積書。数字に殴られる。灯里、千代さん、玄造さんと優先順位を決める。安全が先。味の古さは残す。危ない古さは直す。料金を見直す。補助金や支援制度を調べる。宿を続けるには、湯気だけではなく金がいる。』


 そこまで書いて、鉛筆を止めた。


 最後の一行を、少し迷ってから書く。


『それでも、続けたいと思った。』


 書いた瞬間、胸が少し重くなり、同時に少し軽くなった。


 認めてしまった。


 湯守荘を、続けたい。


 逃げて戻ってきた場所だった。

 帰る場所ではなく、戻ってしまった場所だった。

 それがいつの間にか、続けたい場所になっていた。


 怖い。


 続けたいものができると、失う怖さも生まれる。


 それでも、続けたいと思った。


 黒電話は黙っている。


 浴場の方では、湯が細く流れているはずだった。


 悠真は祖父の半纏を肩にかけ直し、帳場の灯りを落とした。


 明日、まず湯を見よう。


 それから、江幡に電話する。


 怖くても、電話する。


 宿を続ける値段を、少しずつ確かめるために。

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