第19話 魚の骨
朝、雨は上がっていた。
けれど、空はまだ濡れた灰色をしていた。山の上には雲が低く残り、庭のつつじの葉から、ぽたり、ぽたりと水滴が落ちている。川の音は昨日より大きかった。夜の雨で水量が増えたのだろう。いつもの細い流れではなく、石を噛むような音が、湯守荘の廊下まで届いていた。
悠真は浴場の窓を開け、湯気の向こうで耳を澄ませた。
朝の湯は、少し熱めだった。
玄造がすでに見てくれていた。湯口の横に置かれた温度計を確かめ、悠真も手を入れる。昨夜より湯がしっかりしている気がした。
「川、増えてますね」
悠真が言うと、玄造は浴場の外から短く答えた。
「増えてる」
「近づかない方がいいですね」
「近づくな」
即答だった。
玄造は窓の外を見た。雨上がりの山を眺めるというより、音と風で水の様子を読んでいる顔だった。
「でも、見るだけなら?」
「縁側」
「悠斗くん、昨日も川を見てました」
「知ってる」
玄造はそう言い、手ぬぐいで手を拭いた。
「朝飯の前か後か」
「神社へ行くかどうかで変わると思います」
「神社は、道が濡れてる」
「やっぱり危ないですか」
「危ない所もある」
それだけ言って、玄造は浴場裏へ回った。
悠真は湯船の表面を見た。
昨日、高森父子はほとんど話さなかった。
けれど、まったく話さなかったわけではない。小さなおにぎりを一つ食べた悠斗。言いすぎないように言葉を飲み込んでいた亮介。双眼鏡で川を見た時の、少しだけ子どもらしい声。
あれを、今日どう扱えばいいのか分からない。
無理に続けようとすると壊れる気がする。
けれど、何もなかったことにすると、昨日の小さな声が消えてしまう気もする。
宿は、その間に鍋を置くことくらいならできる。
昨日、宿帳にそう書いた。
今朝なら、何を置けるだろう。
湯と、朝食と、川を見る時間。
それくらいかもしれない。
*
高森亮介が帳場へ来たのは、七時を少し過ぎた頃だった。
昨夜より少し眠れた顔をしていた。目の下の影は消えていないが、肩の張りがほんの少し緩んでいる。髪もきちんと整えてあり、服も畳まれていたのだろう、皺が少なかった。
「おはようございます」
「おはようございます。よくお休みになれましたか」
亮介は苦笑した。
「私は、思ったより眠れました。息子は……どうでしょう。夜中に一度、起きていたようですが」
「そうですか」
「でも、朝方は寝ていました。久しぶりに、ちゃんと寝顔を見た気がします」
そこまで言って、亮介は少し照れたように視線を落とした。
親が子どもの寝顔を見るのに、なぜ照れるのだろう。
そう思いかけて、悠真はすぐに考えを改めた。
きっと、照れではない。
久しぶりに見たことへの痛みなのだ。
「神社のことなのですが」
亮介は話を変えた。
「朝のうちに行こうかと思っていたんですが、道が濡れているようで」
「はい。玄造さんにも聞きましたが、参道の一部は滑りやすいと思います」
「やはり」
「無理に行かず、今日は宿で過ごしてから帰られても大丈夫です。朝食も、お時間を調整できます」
亮介は困ったように笑った。
「せっかく来たのに、何もしないのはどうかと思ってしまって」
「何もしないために来る方もいます」
「何もしないために」
「はい」
亮介はその言葉を、少し不思議そうに受け取った。
「そういう考え方もあるんですね」
「俺も、最近知りました」
悠真がそう言うと、亮介は少しだけ笑った。
その時、廊下の向こうから小さな足音がした。
悠斗だった。
黒いパーカーではなく、今日は少し薄手のグレーの上着を着ている。髪は寝癖で一部だけ跳ねていた。スマートフォンは手に持っていない。代わりに、昨日玄造から借りた双眼鏡を両手で抱えていた。
亮介が少し驚いた顔をする。
「悠斗、それ」
「……借りていいって」
悠斗は小さく言った。
「昨日、返してなかったのか?」
亮介の声に少し焦りが混じる。
悠斗の肩がこわばった。
悠真はすぐに言った。
「玄造さんが、朝も使っていいと言っていました」
本当は、まだ確認していない。
しかし、玄造ならおそらくそう言う。あとで怒られたら自分が謝ればいい。いや、謝るより説明すればいい。
悠斗は双眼鏡を抱えたまま、廊下の外を見た。
「川、増えてる?」
「増えてるよ」
悠真は答えた。
「近くへは行けないけど、縁側から見ることはできる」
悠斗は父親の方を見た。
亮介は少し迷った顔をしてから、頷いた。
「朝ご飯の前に、少しだけ見ようか」
悠斗は何も言わなかった。
けれど、双眼鏡を持つ手に少し力が入った。
*
山吹の縁側から見える川は、木々の隙間に少しだけだった。
それでも、雨上がりの朝は水の白さがはっきり見えた。流れが石に当たり、小さく泡立っている。普段より水音が大きく、庭の静けさの奥で絶えず動いていた。
悠斗は縁側に座り、双眼鏡を覗いた。
亮介はその隣に座るか迷ったようだったが、少し離れた座布団に腰を下ろした。近すぎず、遠すぎず。昨日よりは、距離の取り方が少しだけ柔らかい。
悠真は廊下側に立っていた。
灯里はまだ来ていない。千代は厨房で朝食の支度をしている。玄造は庭の端に立って、川へ近づきすぎないよう見ていた。
「白い」
悠斗が言った。
「昨日より」
亮介が答える。
「雨が降ったからかな」
「石、見えない」
「水が増えたんだね」
「魚、流される?」
亮介は少し返事に困ったようだった。
玄造が庭から言った。
「流されないやつもいる」
悠斗が双眼鏡を外して、玄造を見る。
「いるの?」
「いる」
「どうやって?」
「石の陰」
玄造は短く答えた。
「流れが強い時は、流れの弱いところにいる」
悠斗は、もう一度双眼鏡を覗いた。
「見えない」
「今日は濁ってる」
「晴れたら見える?」
「見える時もある」
「魚、何いる?」
「ハヤ。カワムツ。たまにヤマメ」
玄造の口から魚の名前が出た瞬間、悠斗の背中が少し伸びた。
「ヤマメ?」
「上の方」
「食べる魚?」
「食べる」
そこまで聞いた時、亮介が小さく息を飲んだ。
悠真は気づいた。
魚。
悠斗が苦手だと言われていたもの。
けれど今、悠斗は興味を持って聞いている。
食べるのが苦手なのと、魚そのものが嫌いなのは違うのかもしれない。
玄造は、亮介の反応を気にしていないように続けた。
「でも、今日は取らない」
「なんで?」
「水が強い」
「危ない?」
「危ない」
悠斗は頷いた。
その頷き方は、昨夜より少し素直だった。
しばらく、川の音だけが続いた。
悠斗は双眼鏡を覗きながら、ぽつりと言った。
「お母さん、魚の骨取るの、うまかった」
空気が止まった。
亮介の顔が、はっきり変わった。
声を出す前に、喉が動いた。何か言おうとして、言葉が見つからない。手が膝の上で小さく握られる。
悠真も、何も言えなかった。
お母さん。
その言葉が出たことで、今まで部屋にあった沈黙の形が変わった。
母親を亡くしているのかもしれない。
プロットではそう分かっていたが、この物語の中で、今初めてその輪郭が現れた。
悠斗は双眼鏡を覗いたまま、続けた。
「お父さんは、下手」
亮介は、ようやく息を吐いた。
「……ごめん」
謝罪だった。
悠斗の肩が、また少し固くなる。
その瞬間、玄造が庭から言った。
「骨は、取れば食える」
亮介も悠斗も、玄造を見た。
玄造は川を見ている。
「下手なら、練習すればいい」
それだけだった。
慰めではない。
励ましでもない。
ただ、骨は取れば食える、下手なら練習すればいい、という現実的な言葉。
悠斗はしばらく黙っていた。
それから、小さく言った。
「小骨、残ると痛い」
「痛い」
玄造が頷く。
「だから、ゆっくり取る」
「お父さん、急ぐ」
亮介の顔に、また痛みが走る。
今度は謝らなかった。
ただ、少し震える声で言った。
「今度は、ゆっくり取る」
悠斗は返事をしなかった。
けれど、双眼鏡を覗いたまま、少しだけ頷いたように見えた。
たったそれだけの会話だった。
母の話も、魚の骨の話も、そこで終わった。
だが、亮介は目を伏せ、しばらく動かなかった。
何かが崩れたのではない。
崩れないように固めていたものに、細い隙間ができたようだった。
*
朝食は、神社へ行く前ではなく、川を見た後に出すことになった。
千代は最初からそうなると分かっていたように、小さなおにぎりを二つ、さらに半分の大きさにしていた。味噌汁は湯気が立っているが、熱すぎない。卵焼きは一切れずつ。魚はない。
食事処ではなく、山吹の部屋へ運ぶ。
父子は向かい合わず、庭を横に見る形で並んで座った。千代が「向かい合うと、食べにくい」と言ったからだ。
悠真は膳を置いた。
「朝食です。食べられる分だけで大丈夫です」
悠斗はおにぎりを見た。
昨日の夕食と同じ、小さいおにぎり。今日はさらに小さい。
「ちっちゃい」
初めて、料理に対して自分から言った。
千代が部屋の入口で答えた。
「足りなければ、作る」
悠斗はおにぎりを一つ手に取った。
すぐには食べない。
しばらく見てから、少しかじった。
亮介はその様子を、見すぎないように見ていた。口を挟みたいのを、何度も飲み込んでいるのが分かる。
悠斗はおにぎりを半分食べ、味噌汁を飲んだ。
それから、卵焼きを少し食べる。
亮介は、自分の味噌汁を手に取りながら言った。
「おいしいな」
悠斗は小さく頷いた。
「おにぎり、食べやすい」
その一言で、亮介の目元が少し揺れた。
悠真は、部屋に長居しないよう廊下へ下がった。
廊下には灯里が来ていた。
いつの間にか、玄関から入ってきたらしい。今日は役場の仕事が午後からなのだろう。髪は昨日より少し整っているが、まだ眠そうだ。
「聞こえた?」
悠真が小声で聞くと、灯里は頷いた。
「魚の骨?」
「うん」
「そっか」
それだけだった。
灯里はそれ以上、事情を聞かなかった。
ただ、廊下の窓から庭を見て言った。
「骨って、残ると痛いよね」
「魚の?」
「魚も。それ以外も」
悠真は何も言えなかった。
灯里はすぐに軽い声へ戻した。
「でも、玄造さんの『骨は取れば食える』、強いね。名言じゃん」
「玄造さんは名言製造機なのかもしれない」
「本人に言ったら嫌がりそう」
「絶対嫌がる」
二人は小さく笑った。
笑いすぎないように。
山吹の部屋では、父子がまだ朝食を食べていた。
*
神社へ行くかどうかは、朝食の後に決めることになった。
雨は止んだままだが、参道は濡れている。灯里が役場で作った地図を広げ、滑りやすい場所を説明する。悠斗は黙って聞いていた。亮介は少し迷っている。
「混みますか?」
亮介が聞いた。
「雨上がりなので、午前中は少なめかもしれません。でも土曜なので、昼に近づくほど増えます」
灯里が答える。
「奥まで行かなくても、入口の大杉のところまでで十分雰囲気ありますよ」
悠斗が地図を覗いた。
「杉、大きい?」
「かなり」
「魚いる?」
灯里は少し笑った。
「神社の参道には、魚はいないかな。水のところにはいるかもしれないけど、見えないと思う」
「じゃあ、川の方がいい」
亮介が驚いたように息子を見た。
「悠斗、神社は?」
「人、多いなら、いい」
「でも、せっかく」
言いかけて、亮介は止まった。
せっかく来たのに。
その言葉が、昨日から何度も亮介の中にあるのだろう。けれど、今日は飲み込んだ。
悠斗は地図ではなく、庭の方を見ていた。
「川、もう一回見る」
亮介は少しだけ肩を落とした。
がっかりしたのではない。
予定を手放すことに、慣れていないように見えた。
悠真は言った。
「神社へ行かずに、川を見てから帰るのでも大丈夫です」
亮介は悠真を見た。
「でも、本当にそれで」
「何もしないために来る方もいますし、神社へ行かないで山を見て帰る方もいます。湯守荘では、それも宿泊です」
自分でも、少し言い切りすぎたかと思った。
でも、亮介はゆっくり頷いた。
「そうですね」
彼は息子の方を見た。
「じゃあ、川を見てから帰ろうか」
悠斗は、小さく頷いた。
それだけだった。
でも亮介は、今度は謝らなかった。
*
川は、近くまでは行かなかった。
玄造が「今日は下りるな」と言ったからだ。代わりに、宿の敷地の端にある少し高い場所から、木々の間の流れを見ることになった。足元は濡れていたが、板を敷いてあるので滑りにくい。
悠斗は双眼鏡を持ち、亮介と並んで立った。
悠真と灯里は少し離れて見守る。玄造はさらに少し前で、危ない場所へ行かないよう立っていた。
川の音は大きい。
水は薄く濁り、白く泡立っている。
悠斗は双眼鏡を覗き、しばらく何も言わなかった。
亮介も黙っていた。
その沈黙は、昨日のものとは少し違う。隣にいるのに届かない沈黙ではなく、同じものを見ている沈黙に近かった。
「お母さん」
悠斗が小さく言った。
亮介が息を止める。
「川、好きだったよね」
亮介はすぐに答えなかった。
答えられなかったのかもしれない。
少しして、低い声で言った。
「うん。好きだった」
「魚、見るのも?」
「好きだったな」
「食べるのも?」
「好きだった」
悠斗は双眼鏡を外した。
「骨、取るの、うまかった」
「うん」
亮介の声が震えていた。
「すごく、うまかった」
悠斗は父を見なかった。
川を見たまま言った。
「お父さん、練習して」
亮介は、両手を握った。
「する」
「急がないで」
「うん」
「小骨、残ると痛いから」
「うん」
それ以上、二人は話さなかった。
けれど、亮介の目から涙が一つ落ちた。
彼はすぐに拭った。
悠斗は見ていないふりをした。
玄造も、灯里も、悠真も、何も言わなかった。
川の音が、全部を隠してくれた。
*
出発前、千代が小さな包みを渡した。
中には、小さなおにぎりが二つ入っていた。
「帰り道」
千代はそれだけ言った。
亮介は受け取り、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
悠斗は包みを見て、小さく言った。
「ちっちゃい」
「足りなければ、次は大きくする」
千代が答えた。
次。
その言葉に、亮介が少しだけ顔を上げた。
また来てもいい、とは誰も言っていない。
でも、次があるかもしれない言い方だった。
玄関で靴を履く時、悠斗は自分の靴を少し斜めに置いた。
悠真は今度も直さなかった。
悠斗が自分で気づき、少しだけ向きを整えた。
亮介は何も言わなかった。
それが、たぶん今日の父親の頑張りだった。
「お世話になりました」
亮介が言った。
「こちらこそ、ありがとうございました」
悠真は頭を下げる。
悠斗は少し遅れて言った。
「……ありがとうございました」
声は小さかったが、父親に促される前だった。
亮介の顔が、少し歪んだ。
でも、彼は何も言わなかった。
車に乗る前、悠斗は玄造に双眼鏡を返した。
「ありがとう」
「おう」
「ヤマメ、今度見える?」
「晴れて、水が澄んでたら」
「ふうん」
悠斗は少しだけ考えた。
「じゃあ、晴れたら」
そこまで言って、車に乗った。
晴れたら。
それは約束ではない。
でも、未来の話だった。
車が坂を下りていく。
助手席ではなく、悠斗は後部座席に座っていた。亮介が運転席から何かを言う。悠斗が小さく頷く。窓越しに見えるだけだったが、二人の間の空気は来た時より少しだけ動いていた。
灯里が隣で言った。
「神社、行かなかったね」
「うん」
「でも、よかった気がする」
「俺も」
玄造がぽつりと言った。
「川でよかった」
それだけだった。
*
山吹の部屋に戻ると、布団は畳まれていなかった。
座卓の上には、空になった湯呑みが二つ。悠斗が見ていた庭側の座布団が、少しだけ川の方へ向いている。隅には、双眼鏡を置いていた跡があった。
悠真は畳に座り、しばらく部屋の空気を覚えることにした。
祖母が言っていた。
客が帰った後の空気を覚えておきなさい。
今日の山吹には、川の音が残っていた。
魚の骨。
母の手。
父の謝罪。
小さなおにぎり。
練習して、という息子の声。
全部を解決したわけではない。
母親は戻らない。
亮介が急に完璧な父親になるわけでもない。
悠斗が明日から何でも話すようになるわけでもない。
でも、小骨が残ると痛いと言えた。
急がないでと言えた。
父親は謝らずに、練習すると言えた。
それだけで、今日は十分なのかもしれない。
帳場へ戻り、宿帳を開いた。
『高森亮介様・悠斗様、出発。神社へは行かず、川を見る。悠斗くん、お母さんは魚の骨を取るのがうまかったと言った。亮介さんは謝らず、練習すると言った。千代さんの小さなおにぎり。玄造さんの双眼鏡。晴れたら、という言葉。』
少し考えて、最後に書く。
『宿は、目的地を変えてもいい場所でありたい。神社へ行けなくても、川を見ればいい朝がある。』
ペンを置いた時、厨房から千代の声がした。
「昼、食べる?」
相沢の時も、真帆の時も、客を見送った後にはその声があった気がする。
客が帰っても、宿の人間は食べる。
湯を見て、飯を食べて、次の朝を迎える。
それが宿を続けるということなのかもしれない。
「食べます」
悠真は答えた。
腹が減っていた。
そのことが、今日も少し嬉しかった。




