第18話 無言の父子
土曜日の午後、湯守荘の前の道は、いつもより少し車の音が多かった。
岩杜神社へ向かう観光客だろう。朝から、坂の下を通る車が何台か続いた。普段なら鳥の声と川の音ばかりの山道に、タイヤが濡れた砂利を踏む音が混じる。
空は曇っていた。
雨は降っていないが、降りそうな気配がある。山の上に低い雲がかかり、庭のつつじの赤も、いつもより少し沈んで見えた。
高森亮介と悠斗が来る日だった。
父子二名。
魚なし。
息子は小学五年生。
食が細い。
人混みが苦手。
神社は翌朝、できれば早い時間。
外へ出たがらない。
予約帳に書いた文字を、悠真は何度も確認していた。
相沢や真帆の時と同じように、山吹の部屋は整えてある。布団は二組。父子だからと近すぎないよう、少し間を空けて敷いた。千代が「親子でも距離」とだけ言ったからだ。
座卓には湯呑みを二つ。
片方は少し小ぶりのものにした。
玄造が縁側の板をもう一度確かめた。
灯里は食事処に、座敷用の低い椅子を一つ用意した。父親が疲れていそうなら使ってもらうためだ。
厨房では、千代が夕食の下ごしらえをしていた。
魚はない。
その代わり、鶏と野菜の小鍋、じゃがいもの煮物、卵焼き、小さなおにぎり用の米、味噌汁。子ども向けだからと甘くしすぎるわけではない。けれど、いつもより少し丸い匂いがしていた。
「子ども用って感じじゃないんですね」
悠真が言うと、千代は大根を切りながら答えた。
「子ども扱いしすぎると、子どもは嫌がる」
「そういうものですか」
「そういう子もいる」
そういう子もいる。
全部を決めつけない言い方だった。
「魚、完全になしですか」
「なし」
「骨を外せば食べられる場合も」
「今回は出さない」
千代は迷いなく言った。
「食べる練習をしに来るんじゃない」
その言葉に、悠真は少し黙った。
魚が苦手な子に、旅館の夕食だからと魚を出し、食べられるか試す必要はない。ここは家庭でも学校でもない。正しく食べさせるための場所ではなく、一晩休むための場所だ。
悠真は頷いた。
「分かりました」
「分かったなら、湯呑み」
「はい。もう一度見ます」
「子ども用、欠けてないやつ」
「はい」
湯呑みを確認するのも、もう何度目か分からない。
けれど、何度も見ればいい。
客に優しくするために、準備にはうるさくする。
よねの言葉が、少しずつ体に入ってきていた。
*
午後三時前、高森父子の車が湯守荘の前に停まった。
白いコンパクトカーだった。泥はねが少しついている。運転席から降りてきた男は、予約の電話で聞いた印象よりも若く見えた。四十代前半くらいだろうか。紺色のシャツにベージュの上着。髪は短く整えられ、眼鏡をかけている。
痩せていた。
不健康というほどではない。ただ、肩のあたりに疲れが溜まっているように見えた。車のドアを閉める動作も、少し慎重だった。
助手席から、少年が降りてきた。
小柄だった。小学五年生と聞いていたが、少し幼く見える。黒いパーカーにジーンズ。背負ったリュックの肩紐を両手で握っている。前髪が目にかかり、表情は読み取りにくい。
少年は宿を見上げなかった。
スマートフォンを手に持っていたが、画面を見ているわけでもない。ただ、持っている。何かに触れていないと落ち着かないように。
悠真は玄関から外へ出た。
「高森様でしょうか」
男がすぐに頭を下げた。
「はい。高森亮介です。今日はお世話になります」
丁寧すぎるほど丁寧な声だった。
悠真も頭を下げる。
「お待ちしておりました。道中、分かりにくくありませんでしたか」
「大丈夫でした。ナビで近くまでは来られましたので。ただ、最後の坂が少し細くて」
「山道ですので、初めてだと驚かれる方が多いです」
それから悠真は、少年の方を見た。
見すぎないように気をつけながら。
「悠斗さんですね」
少年はわずかに顔を上げた。
目が合ったのは一瞬だった。
「……はい」
声は小さかった。
高森亮介がすぐに言った。
「すみません。人見知りで」
悠真は、その謝罪に少しだけ胸が引っかかった。
子どもが小さな声で返事をしただけで、父親が先に謝る。その癖は、たぶん一度で身についたものではない。
「いえ。長い道でしたから、お疲れだと思います」
悠真はそう返した。
亮介は一瞬、少しだけ表情を緩めた。
灯里が後ろから出てきた。
「お荷物、こちらでお持ちします」
「あ、いえ、大丈夫です」
亮介が慌てて断る。
灯里はその言葉を押し切らず、代わりに悠斗のリュックを見た。
「それは自分で持つ?」
悠斗はリュックの肩紐を握ったまま、こくりと頷いた。
「了解。大事な荷物は自分で持った方が安心だよね」
灯里はそれだけ言って、亮介のボストンバッグだけを受け取った。
悠斗は少しだけ灯里を見た。
明るい髪とピアスが気になったのかもしれない。けれど、灯里がそれ以上話しかけなかったので、すぐに視線を落とした。
玄関へ案内する。
亮介は靴を脱ぐ前に、車の鍵を何度も確認していた。施錠したか、窓を閉めたか、ライトは消えているか。気にしすぎるほどではないが、細かく確認する人だった。
悠斗は先に靴を脱ぎ、きちんと端に揃えようとした。
子どもにしては、少し丁寧すぎる動きだった。
悠真は、手を出しすぎないように一歩引いて見ていた。靴は少し斜めだったが、そのままにした。直すと、直されたことが悠斗に伝わってしまう気がした。
灯里が小声で言った。
「そのまま?」
「うん」
「いいと思う」
そのやり取りを、亮介は聞いていなかった。
彼は玄関の柱や帳場、廊下を見回し、何度も「いい宿ですね」と言いかけては飲み込んでいるようだった。
悠真は山吹の部屋へ案内した。
*
山吹の部屋に入ると、亮介はまず窓の外を見た。
「庭があるんですね」
「はい。今はつつじが少しだけ咲いています」
「悠斗、見えるか?」
亮介が息子に声をかける。
悠斗は少し遅れて庭を見た。
赤いつつじが数輪、濡れた葉の間に咲いている。派手な景色ではない。子どもが喜ぶようなものでもない。
悠斗は何も言わなかった。
亮介は慌てたように笑った。
「すみません、反応薄くて」
また謝った。
悠真は茶を置く前に、少しだけ言葉を選んだ。
「無理に感想を言わなくても大丈夫です」
亮介がこちらを見る。
悠斗も、一瞬だけ悠真を見た。
「この部屋は、ただ静かにしていただいても大丈夫ですので」
自分で言って、少し変な言い方かもしれないと思った。
でも、亮介の肩がわずかに下がった。
「ありがとうございます」
亮介は小さく言った。
悠斗は座卓の横に腰を下ろした。すぐにスマートフォンを見ようとしたが、亮介が少し眉を動かした。注意しかけたのかもしれない。
その前に、灯里が言った。
「充電、大丈夫?」
悠斗が顔を上げる。
「……五十二」
「じゃあ、まだいけるね。コンセントはそっち。使いたかったら使って」
灯里はそれだけだった。
スマホを見るなとも、見ていいとも言わない。
ただ、充電できる場所を教えた。
亮介は少し戸惑ったようだった。
「あまり、見すぎないようにとは言っているんですが」
「旅先って、逆にいつものものがあると落ち着くこともありますから」
灯里は軽く言った。
「もちろん、ご飯の時は置いてくれた方が嬉しいですけど」
その言い方だと、悠斗も逃げ場を失わない。
悠真は灯里のこういうところを、いつも少し感心して見てしまう。
「お茶をお持ちします。お風呂は夕食前か後、どちらでも大丈夫です。湯は今、少しぬるめに整えています」
「ありがとうございます」
亮介はまた頭を下げた。
悠斗はスマートフォンを膝の上に置いたまま、窓の外を見ていた。
庭を見ているのか、見ていないのかは分からなかった。
*
厨房へ戻ると、千代がすでに湯を用意していた。
「顔」
いつもの問いだった。
悠真は少し考えた。
「お父さんは、ずっと謝りそうな顔です」
「子どもは」
「言葉が少ない。スマホを持っています。でも、ずっと見てるわけではないです」
灯里が横から言った。
「悠斗くん、スマホは盾みたいな感じかな」
「盾?」
「見るためというより、持ってると安心するもの。たぶん」
千代は頷いた。
「夕食、少なめ」
「はい」
「父親も」
「お父さんも?」
「疲れてる人は、食べる前に謝る」
その言葉に、悠真は少し驚いた。
確かに亮介は、まだ食事をしていないのに、すでに何度も謝っていた。
子どもが小さな声で返事をしたこと。
反応が薄いこと。
スマホを見ること。
荷物を持ってもらうこと。
宿に何かを頼む前から、謝罪が先に出ている。
真帆の「何でも大丈夫」と似ている。
人は、それぞれ違う形で自分を守っているのだろう。
「お茶、俺が持っていきます」
悠真が言うと、千代は急須を指した。
「子ども、薄め」
「はい」
「熱すぎない」
「はい」
「干し芋?」
灯里が聞いた。
千代は少し考えた。
「今日は、出さない」
「どうして?」
「甘いものを出すと、食べなきゃいけない子もいる」
悠真は、なるほどと思った。
好意で添えたものも、相手によっては負担になる。真帆には干し芋がちょうどよかった。だが悠斗には、まだ余計なものかもしれない。
千代は小さな湯呑みを盆に置いた。
「まず茶だけ」
まず茶だけ。
それが今日の高森父子への距離だった。
*
山吹へお茶を運ぶと、父子はほとんど同じ姿勢で座っていた。
亮介は畳に正座に近い形で座り、悠斗は足を崩している。二人とも庭の方を向いているが、会話はない。
沈黙は、相沢の沈黙とも真帆の沈黙とも違った。
相沢の沈黙は、自分の内側を確かめる沈黙だった。
真帆の沈黙は、言葉が出る前に壊れないように守っている沈黙だった。
この父子の沈黙は、隣にいるのに届かない沈黙のように見えた。
「お茶をお持ちしました」
悠真は湯呑みを二つ置いた。
亮介がすぐに礼を言う。
「ありがとうございます」
悠斗は湯呑みを見た。
小ぶりの湯呑み。薄めの茶。湯気は立っているが、熱すぎない。
「熱いので、ゆっくりどうぞ」
悠真が言うと、悠斗は小さく頷いた。
亮介が言った。
「悠斗、ありがとうは」
悠斗の肩が少し動いた。
「……ありがとう、ございます」
声は小さかった。
悠真は、少しだけ胸が痛んだ。
礼を言わせたい父親の気持ちも分かる。
言わなければならないと分かっていて、うまく声が出ない子どもの感じも、少しだけ分かる。
「いえ。どういたしまして」
それだけ返した。
亮介は何か言いたそうだったが、黙った。
悠真は部屋を出る前に言った。
「今日は、夕食までお部屋でゆっくりされますか。それとも、少し館内を見られますか」
亮介は悠斗の方を見る。
「どうする?」
悠斗はスマートフォンを持ったまま、首を横に振った。
亮介の顔に、困ったような影が浮かぶ。
「あ、では部屋で」
「はい。何かありましたら、帳場におります」
悠真はそれ以上言わずに、部屋を出た。
廊下へ出ると、灯里が待っていた。
「どう?」
「難しい」
「うん」
「お父さん、息子に何か言わせようとするたびに、自分が謝りそうな顔になる」
「悠斗くんは?」
「言わなきゃいけないのは分かってるけど、声が出にくい感じ」
灯里は廊下の窓の外を見た。
「親子って、近いから難しいよね」
「灯里にも分かる?」
「そりゃ分かるよ。私にも親いるし」
「そうだった」
「私を山から生えてきたギャルだと思ってる?」
「少し」
「ひど」
灯里は笑ったが、すぐに真面目な顔に戻った。
「無理に仲良くさせようとしない方がいいね」
「うん」
「二人とも、たぶん疲れてる」
それは、悠真も感じた。
父親も、息子も。
ただ疲れ方が違う。
*
夕方前、雨が降り始めた。
細い雨だった。
庭のつつじがまた濡れ、縁側の板が黒くなる。雨の音は強くない。けれど、神社へ行くには少し嫌な降り方だった。
亮介が帳場へ来た。
少し気まずそうな顔をしている。
「あの、明日の神社なのですが」
「はい」
「雨が残るようなら、どうしようかと思いまして。悠斗が、濡れた道を嫌がるかもしれなくて」
「明日の朝の様子を見てからでも大丈夫です」
「そうですね」
亮介は頷いたが、表情は晴れなかった。
何かを決められないことに疲れているように見えた。
子どもの状態を見て、天気を見て、混雑を考えて、機嫌を考えて、無理をさせないようにしながら、それでも何か思い出になることをさせたい。そんなふうに、いくつものことを同時に抱えている顔だった。
「神社へ行けなくても、湯守荘で過ごすだけでも大丈夫です」
悠真は言った。
亮介は顔を上げた。
「せっかく来たのに、それでは」
「雨の山を見るのも、この宿では過ごし方の一つです」
言ってから、少し宿の宣伝文句のようだと思った。
でも、嘘ではない。
雨の音。
湯気。
畳。
温かい飯。
それだけの日があってもいい。
亮介は少しだけ息を吐いた。
「そう言っていただけると、少し楽です」
「予定は、明日の朝に決めましょう」
「はい」
亮介は頭を下げた。
その時、山吹の方から廊下を歩く小さな足音がした。
悠斗だった。
リュックは背負っていない。スマートフォンを手に持ち、廊下の途中で立ち止まっている。父親を探しに来たのかもしれない。
「悠斗」
亮介がすぐに呼ぶ。
悠斗はびくっとした。
叱られたわけではないのに、肩が跳ねた。
その反応に、亮介自身も少し傷ついたような顔をした。
悠斗は言った。
「……トイレ」
「あ、トイレね。すみません、場所を」
亮介が悠真に向かって謝ろうとした。
悠真は先に言った。
「ご案内します。こちらです」
悠斗は父親ではなく、悠真の後を少し距離を空けて歩いた。
廊下を曲がり、トイレの前まで案内する。
「ここです。電気は中にあります」
悠斗は頷いた。
それから、少し迷うように口を開いた。
「あの」
「うん」
「川、見える?」
声は小さかった。
けれど、自分から出た言葉だった。
悠真は少し驚いた。
「見えるよ。縁側から少しは。近くまで行くなら、雨が止んでからの方がいい」
「魚、いる?」
魚。
夕食で魚を出さないようにしていることを思い出した。
だが、悠斗の声には嫌悪ではなく、興味があった。
「いると思う。玄造さんの方が詳しい」
「玄造さん?」
「風呂とか床を見てくれてる人。あまり喋らないけど、川も見てる」
悠斗は少し考えた。
「……あとで、見てもいい?」
「雨が弱くなったら、玄造さんに聞いてみよう」
悠斗は小さく頷いた。
そして、トイレに入っていった。
悠真は廊下に立ったまま、さっきの千代の言葉を思い出した。
玄造、川。
子ども、見るかもしれない。
千代は、どこまで見えていたのだろう。
*
夕食前、雨は少し弱くなった。
完全には止んでいない。だが、傘を差して庭先に出るくらいならできそうだった。
悠真が玄造に話すと、玄造は「川は危ない」とまず言った。
「近くまでは行かない方がいいですね」
「今日は見るだけ」
「縁側から」
「はい」
それだけかと思ったら、玄造は少し考え、薪置き場の横から古い双眼鏡を持ってきた。
「これ」
「双眼鏡?」
「昔、鳥見る客が置いてった」
「使えるんですか」
「見える」
玄造はそれを悠真に渡した。
悠斗に持っていくと、少年は目を丸くした。
「これ、使っていいの?」
「玄造さんが、見えるって」
「壊れてない?」
「たぶん」
「たぶん?」
少しだけ、悠斗の声に色が出た。
亮介が横で言った。
「悠斗、貸していただくんだから、丁寧に」
「うん」
悠斗は双眼鏡を両手で持ち、縁側に座った。
窓の外、雨に濡れた庭の向こうに、川の流れが少しだけ見える。葉が邪魔をして、はっきりとは見えない。それでも、双眼鏡を覗くと水面の白いところが見えるらしい。
「見える?」
灯里が少し離れて聞く。
悠斗は頷いた。
「白いところ」
「流れが速いところかな」
「石もある」
「魚は?」
悠斗はしばらく探した。
「いない」
「残念」
「でも、水、動いてる」
その言い方が、少しだけ子どもらしかった。
亮介は、その横顔を見ていた。
何か言いたそうだったが、言わなかった。
言わなかったことが、今はよかったのだと思う。
悠斗はしばらく双眼鏡を覗き続けた。
スマートフォンは、座卓の上に置かれている。
手には、別のものがある。
ただそれだけの変化を、父親も、灯里も、悠真も、誰も大げさにはしなかった。
*
夕食は、食事処ではなく山吹の部屋に運んだ。
雨の日で、父子がまだ部屋の空気に慣れていないことを考えて、千代がそう決めた。
小鍋は二つではなく、一つを父子で分ける形にした。
ただし、取り箸と器は別々。
悠斗の器には、最初から少なめ。
白飯ではなく、小さなおにぎりが二つ。
鶏肉は小さく。
野菜は柔らかめ。
魚はない。
料理を置くと、亮介がすぐに言った。
「こんなにお気遣いいただいて、すみません」
悠真は答えた。
「準備しやすいように、ご希望を伺いましたので」
謝罪ではなく、情報として受け取る。
そういう言い方をしたかった。
亮介は少しだけ黙り、頭を下げた。
「ありがとうございます」
悠斗は、小さなおにぎりを見ていた。
白飯の茶碗ではなく、おにぎり。
千代の判断だった。
「食べられそうな分だけで大丈夫です」
悠真が言うと、悠斗は小さく頷いた。
亮介は何か言いかけたが、飲み込んだ。
それだけで、部屋の空気が少し変わった。
食事中、父子の会話はほとんどなかった。
でも、完全な無言ではなかった。
「熱くないか」
「うん」
「おにぎり、食べられるか」
「一個」
「無理しなくていい」
「うん」
その短いやり取りだけだった。
それでも、亮介の声は最初より少し柔らかくなっていた。悠斗も、スマートフォンを触らずに箸を持っていた。
悠真は廊下で、少し離れて待った。
灯里も隣にいる。
「食べてる?」
「うん。少し」
「よかった」
灯里は小さく言った。
「お父さん、言いすぎないように頑張ってるね」
「うん」
「子どもも、応えようとしてる」
「うん」
「でも、二人とも不器用」
灯里の声は、優しかった。
不器用。
たしかに、そう見えた。
悪い親子ではない。
冷たい親子でもない。
ただ、近づき方が分からなくなっている。
湯守荘にできることは、きっと多くない。
でも、一つの鍋を置くことはできる。
同じ湯に、時間を分けて入ってもらうことはできる。
雨の川を、双眼鏡で見せることはできる。
それが何になるのかは分からない。
分からないまま、準備する。
昨日、宿帳に書いた言葉を思い出した。
*
夜、父子は風呂に入った。
最初に亮介が入り、その後に悠斗が入った。
一緒に入るかと父親が尋ねた時、悠斗が首を横に振ったからだ。亮介は少し寂しそうな顔をしたが、無理に誘わなかった。
玄造が湯を少しぬるめにした。
「子ども、長く入らない」
「そうなんですか」
「のぼせる」
「お父さんは?」
「疲れてる。熱いと余計疲れる」
玄造の判断も、料理と同じだった。
その人に合わせる。
父子がそれぞれ湯に入った後、山吹の部屋は静かになった。
悠真は帳場で宿帳を開いた。
今日の記録を書く。
『高森亮介様・悠斗様、到着。父は丁寧すぎるほど謝る。息子は言葉少なめ。スマホは盾。川を見たいと言った。玄造さんの双眼鏡。夕食は魚なし、小さいおにぎり。父子の会話は少ないが、少しあった。』
そこで一度手を止める。
そして、最後に書いた。
『近い人同士ほど、言葉が届かないことがある。宿は、その間に鍋を置くことくらいならできる。』
書き終えた時、山吹の方から小さな笑い声がした気がした。
少年の声だったのか、父親の声だったのかは分からない。
すぐに静かになった。
でも、確かに何かが少し動いたような気がした。




