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湯守荘の宿帳には、言えなかった人生が綴られる 〜ブラック企業で壊れた僕は、茨城の山奥で名湯の宿を継ぎました〜  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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18/27

第18話 無言の父子

 土曜日の午後、湯守荘の前の道は、いつもより少し車の音が多かった。


 岩杜神社へ向かう観光客だろう。朝から、坂の下を通る車が何台か続いた。普段なら鳥の声と川の音ばかりの山道に、タイヤが濡れた砂利を踏む音が混じる。


 空は曇っていた。


 雨は降っていないが、降りそうな気配がある。山の上に低い雲がかかり、庭のつつじの赤も、いつもより少し沈んで見えた。


 高森亮介と悠斗が来る日だった。


 父子二名。

 魚なし。

 息子は小学五年生。

 食が細い。

 人混みが苦手。

 神社は翌朝、できれば早い時間。

 外へ出たがらない。


 予約帳に書いた文字を、悠真は何度も確認していた。


 相沢や真帆の時と同じように、山吹の部屋は整えてある。布団は二組。父子だからと近すぎないよう、少し間を空けて敷いた。千代が「親子でも距離」とだけ言ったからだ。


 座卓には湯呑みを二つ。

 片方は少し小ぶりのものにした。

 玄造が縁側の板をもう一度確かめた。

 灯里は食事処に、座敷用の低い椅子を一つ用意した。父親が疲れていそうなら使ってもらうためだ。


 厨房では、千代が夕食の下ごしらえをしていた。


 魚はない。


 その代わり、鶏と野菜の小鍋、じゃがいもの煮物、卵焼き、小さなおにぎり用の米、味噌汁。子ども向けだからと甘くしすぎるわけではない。けれど、いつもより少し丸い匂いがしていた。


「子ども用って感じじゃないんですね」


 悠真が言うと、千代は大根を切りながら答えた。


「子ども扱いしすぎると、子どもは嫌がる」


「そういうものですか」


「そういう子もいる」


 そういう子もいる。


 全部を決めつけない言い方だった。


「魚、完全になしですか」


「なし」


「骨を外せば食べられる場合も」


「今回は出さない」


 千代は迷いなく言った。


「食べる練習をしに来るんじゃない」


 その言葉に、悠真は少し黙った。


 魚が苦手な子に、旅館の夕食だからと魚を出し、食べられるか試す必要はない。ここは家庭でも学校でもない。正しく食べさせるための場所ではなく、一晩休むための場所だ。


 悠真は頷いた。


「分かりました」


「分かったなら、湯呑み」


「はい。もう一度見ます」


「子ども用、欠けてないやつ」


「はい」


 湯呑みを確認するのも、もう何度目か分からない。


 けれど、何度も見ればいい。


 客に優しくするために、準備にはうるさくする。


 よねの言葉が、少しずつ体に入ってきていた。


     *


 午後三時前、高森父子の車が湯守荘の前に停まった。


 白いコンパクトカーだった。泥はねが少しついている。運転席から降りてきた男は、予約の電話で聞いた印象よりも若く見えた。四十代前半くらいだろうか。紺色のシャツにベージュの上着。髪は短く整えられ、眼鏡をかけている。


 痩せていた。


 不健康というほどではない。ただ、肩のあたりに疲れが溜まっているように見えた。車のドアを閉める動作も、少し慎重だった。


 助手席から、少年が降りてきた。


 小柄だった。小学五年生と聞いていたが、少し幼く見える。黒いパーカーにジーンズ。背負ったリュックの肩紐を両手で握っている。前髪が目にかかり、表情は読み取りにくい。


 少年は宿を見上げなかった。


 スマートフォンを手に持っていたが、画面を見ているわけでもない。ただ、持っている。何かに触れていないと落ち着かないように。


 悠真は玄関から外へ出た。


「高森様でしょうか」


 男がすぐに頭を下げた。


「はい。高森亮介です。今日はお世話になります」


 丁寧すぎるほど丁寧な声だった。


 悠真も頭を下げる。


「お待ちしておりました。道中、分かりにくくありませんでしたか」


「大丈夫でした。ナビで近くまでは来られましたので。ただ、最後の坂が少し細くて」


「山道ですので、初めてだと驚かれる方が多いです」


 それから悠真は、少年の方を見た。


 見すぎないように気をつけながら。


「悠斗さんですね」


 少年はわずかに顔を上げた。


 目が合ったのは一瞬だった。


「……はい」


 声は小さかった。


 高森亮介がすぐに言った。


「すみません。人見知りで」


 悠真は、その謝罪に少しだけ胸が引っかかった。


 子どもが小さな声で返事をしただけで、父親が先に謝る。その癖は、たぶん一度で身についたものではない。


「いえ。長い道でしたから、お疲れだと思います」


 悠真はそう返した。


 亮介は一瞬、少しだけ表情を緩めた。


 灯里が後ろから出てきた。


「お荷物、こちらでお持ちします」


「あ、いえ、大丈夫です」


 亮介が慌てて断る。


 灯里はその言葉を押し切らず、代わりに悠斗のリュックを見た。


「それは自分で持つ?」


 悠斗はリュックの肩紐を握ったまま、こくりと頷いた。


「了解。大事な荷物は自分で持った方が安心だよね」


 灯里はそれだけ言って、亮介のボストンバッグだけを受け取った。


 悠斗は少しだけ灯里を見た。


 明るい髪とピアスが気になったのかもしれない。けれど、灯里がそれ以上話しかけなかったので、すぐに視線を落とした。


 玄関へ案内する。


 亮介は靴を脱ぐ前に、車の鍵を何度も確認していた。施錠したか、窓を閉めたか、ライトは消えているか。気にしすぎるほどではないが、細かく確認する人だった。


 悠斗は先に靴を脱ぎ、きちんと端に揃えようとした。


 子どもにしては、少し丁寧すぎる動きだった。


 悠真は、手を出しすぎないように一歩引いて見ていた。靴は少し斜めだったが、そのままにした。直すと、直されたことが悠斗に伝わってしまう気がした。


 灯里が小声で言った。


「そのまま?」


「うん」


「いいと思う」


 そのやり取りを、亮介は聞いていなかった。


 彼は玄関の柱や帳場、廊下を見回し、何度も「いい宿ですね」と言いかけては飲み込んでいるようだった。


 悠真は山吹の部屋へ案内した。


     *


 山吹の部屋に入ると、亮介はまず窓の外を見た。


「庭があるんですね」


「はい。今はつつじが少しだけ咲いています」


「悠斗、見えるか?」


 亮介が息子に声をかける。


 悠斗は少し遅れて庭を見た。


 赤いつつじが数輪、濡れた葉の間に咲いている。派手な景色ではない。子どもが喜ぶようなものでもない。


 悠斗は何も言わなかった。


 亮介は慌てたように笑った。


「すみません、反応薄くて」


 また謝った。


 悠真は茶を置く前に、少しだけ言葉を選んだ。


「無理に感想を言わなくても大丈夫です」


 亮介がこちらを見る。


 悠斗も、一瞬だけ悠真を見た。


「この部屋は、ただ静かにしていただいても大丈夫ですので」


 自分で言って、少し変な言い方かもしれないと思った。


 でも、亮介の肩がわずかに下がった。


「ありがとうございます」


 亮介は小さく言った。


 悠斗は座卓の横に腰を下ろした。すぐにスマートフォンを見ようとしたが、亮介が少し眉を動かした。注意しかけたのかもしれない。


 その前に、灯里が言った。


「充電、大丈夫?」


 悠斗が顔を上げる。


「……五十二」


「じゃあ、まだいけるね。コンセントはそっち。使いたかったら使って」


 灯里はそれだけだった。


 スマホを見るなとも、見ていいとも言わない。

 ただ、充電できる場所を教えた。


 亮介は少し戸惑ったようだった。


「あまり、見すぎないようにとは言っているんですが」


「旅先って、逆にいつものものがあると落ち着くこともありますから」


 灯里は軽く言った。


「もちろん、ご飯の時は置いてくれた方が嬉しいですけど」


 その言い方だと、悠斗も逃げ場を失わない。


 悠真は灯里のこういうところを、いつも少し感心して見てしまう。


「お茶をお持ちします。お風呂は夕食前か後、どちらでも大丈夫です。湯は今、少しぬるめに整えています」


「ありがとうございます」


 亮介はまた頭を下げた。


 悠斗はスマートフォンを膝の上に置いたまま、窓の外を見ていた。


 庭を見ているのか、見ていないのかは分からなかった。


     *


 厨房へ戻ると、千代がすでに湯を用意していた。


「顔」


 いつもの問いだった。


 悠真は少し考えた。


「お父さんは、ずっと謝りそうな顔です」


「子どもは」


「言葉が少ない。スマホを持っています。でも、ずっと見てるわけではないです」


 灯里が横から言った。


「悠斗くん、スマホは盾みたいな感じかな」


「盾?」


「見るためというより、持ってると安心するもの。たぶん」


 千代は頷いた。


「夕食、少なめ」


「はい」


「父親も」


「お父さんも?」


「疲れてる人は、食べる前に謝る」


 その言葉に、悠真は少し驚いた。


 確かに亮介は、まだ食事をしていないのに、すでに何度も謝っていた。


 子どもが小さな声で返事をしたこと。

 反応が薄いこと。

 スマホを見ること。

 荷物を持ってもらうこと。

 宿に何かを頼む前から、謝罪が先に出ている。


 真帆の「何でも大丈夫」と似ている。


 人は、それぞれ違う形で自分を守っているのだろう。


「お茶、俺が持っていきます」


 悠真が言うと、千代は急須を指した。


「子ども、薄め」


「はい」


「熱すぎない」


「はい」


「干し芋?」


 灯里が聞いた。


 千代は少し考えた。


「今日は、出さない」


「どうして?」


「甘いものを出すと、食べなきゃいけない子もいる」


 悠真は、なるほどと思った。


 好意で添えたものも、相手によっては負担になる。真帆には干し芋がちょうどよかった。だが悠斗には、まだ余計なものかもしれない。


 千代は小さな湯呑みを盆に置いた。


「まず茶だけ」


 まず茶だけ。


 それが今日の高森父子への距離だった。


     *


 山吹へお茶を運ぶと、父子はほとんど同じ姿勢で座っていた。


 亮介は畳に正座に近い形で座り、悠斗は足を崩している。二人とも庭の方を向いているが、会話はない。


 沈黙は、相沢の沈黙とも真帆の沈黙とも違った。


 相沢の沈黙は、自分の内側を確かめる沈黙だった。

 真帆の沈黙は、言葉が出る前に壊れないように守っている沈黙だった。

 この父子の沈黙は、隣にいるのに届かない沈黙のように見えた。


「お茶をお持ちしました」


 悠真は湯呑みを二つ置いた。


 亮介がすぐに礼を言う。


「ありがとうございます」


 悠斗は湯呑みを見た。


 小ぶりの湯呑み。薄めの茶。湯気は立っているが、熱すぎない。


「熱いので、ゆっくりどうぞ」


 悠真が言うと、悠斗は小さく頷いた。


 亮介が言った。


「悠斗、ありがとうは」


 悠斗の肩が少し動いた。


「……ありがとう、ございます」


 声は小さかった。


 悠真は、少しだけ胸が痛んだ。


 礼を言わせたい父親の気持ちも分かる。

 言わなければならないと分かっていて、うまく声が出ない子どもの感じも、少しだけ分かる。


「いえ。どういたしまして」


 それだけ返した。


 亮介は何か言いたそうだったが、黙った。


 悠真は部屋を出る前に言った。


「今日は、夕食までお部屋でゆっくりされますか。それとも、少し館内を見られますか」


 亮介は悠斗の方を見る。


「どうする?」


 悠斗はスマートフォンを持ったまま、首を横に振った。


 亮介の顔に、困ったような影が浮かぶ。


「あ、では部屋で」


「はい。何かありましたら、帳場におります」


 悠真はそれ以上言わずに、部屋を出た。


 廊下へ出ると、灯里が待っていた。


「どう?」


「難しい」


「うん」


「お父さん、息子に何か言わせようとするたびに、自分が謝りそうな顔になる」


「悠斗くんは?」


「言わなきゃいけないのは分かってるけど、声が出にくい感じ」


 灯里は廊下の窓の外を見た。


「親子って、近いから難しいよね」


「灯里にも分かる?」


「そりゃ分かるよ。私にも親いるし」


「そうだった」


「私を山から生えてきたギャルだと思ってる?」


「少し」


「ひど」


 灯里は笑ったが、すぐに真面目な顔に戻った。


「無理に仲良くさせようとしない方がいいね」


「うん」


「二人とも、たぶん疲れてる」


 それは、悠真も感じた。


 父親も、息子も。


 ただ疲れ方が違う。


     *


 夕方前、雨が降り始めた。


 細い雨だった。


 庭のつつじがまた濡れ、縁側の板が黒くなる。雨の音は強くない。けれど、神社へ行くには少し嫌な降り方だった。


 亮介が帳場へ来た。


 少し気まずそうな顔をしている。


「あの、明日の神社なのですが」


「はい」


「雨が残るようなら、どうしようかと思いまして。悠斗が、濡れた道を嫌がるかもしれなくて」


「明日の朝の様子を見てからでも大丈夫です」


「そうですね」


 亮介は頷いたが、表情は晴れなかった。


 何かを決められないことに疲れているように見えた。


 子どもの状態を見て、天気を見て、混雑を考えて、機嫌を考えて、無理をさせないようにしながら、それでも何か思い出になることをさせたい。そんなふうに、いくつものことを同時に抱えている顔だった。


「神社へ行けなくても、湯守荘で過ごすだけでも大丈夫です」


 悠真は言った。


 亮介は顔を上げた。


「せっかく来たのに、それでは」


「雨の山を見るのも、この宿では過ごし方の一つです」


 言ってから、少し宿の宣伝文句のようだと思った。


 でも、嘘ではない。


 雨の音。

 湯気。

 畳。

 温かい飯。


 それだけの日があってもいい。


 亮介は少しだけ息を吐いた。


「そう言っていただけると、少し楽です」


「予定は、明日の朝に決めましょう」


「はい」


 亮介は頭を下げた。


 その時、山吹の方から廊下を歩く小さな足音がした。


 悠斗だった。


 リュックは背負っていない。スマートフォンを手に持ち、廊下の途中で立ち止まっている。父親を探しに来たのかもしれない。


「悠斗」


 亮介がすぐに呼ぶ。


 悠斗はびくっとした。


 叱られたわけではないのに、肩が跳ねた。


 その反応に、亮介自身も少し傷ついたような顔をした。


 悠斗は言った。


「……トイレ」


「あ、トイレね。すみません、場所を」


 亮介が悠真に向かって謝ろうとした。


 悠真は先に言った。


「ご案内します。こちらです」


 悠斗は父親ではなく、悠真の後を少し距離を空けて歩いた。


 廊下を曲がり、トイレの前まで案内する。


「ここです。電気は中にあります」


 悠斗は頷いた。


 それから、少し迷うように口を開いた。


「あの」


「うん」


「川、見える?」


 声は小さかった。


 けれど、自分から出た言葉だった。


 悠真は少し驚いた。


「見えるよ。縁側から少しは。近くまで行くなら、雨が止んでからの方がいい」


「魚、いる?」


 魚。


 夕食で魚を出さないようにしていることを思い出した。


 だが、悠斗の声には嫌悪ではなく、興味があった。


「いると思う。玄造さんの方が詳しい」


「玄造さん?」


「風呂とか床を見てくれてる人。あまり喋らないけど、川も見てる」


 悠斗は少し考えた。


「……あとで、見てもいい?」


「雨が弱くなったら、玄造さんに聞いてみよう」


 悠斗は小さく頷いた。


 そして、トイレに入っていった。


 悠真は廊下に立ったまま、さっきの千代の言葉を思い出した。


 玄造、川。

 子ども、見るかもしれない。


 千代は、どこまで見えていたのだろう。


     *


 夕食前、雨は少し弱くなった。


 完全には止んでいない。だが、傘を差して庭先に出るくらいならできそうだった。


 悠真が玄造に話すと、玄造は「川は危ない」とまず言った。


「近くまでは行かない方がいいですね」


「今日は見るだけ」


「縁側から」


「はい」


 それだけかと思ったら、玄造は少し考え、薪置き場の横から古い双眼鏡を持ってきた。


「これ」


「双眼鏡?」


「昔、鳥見る客が置いてった」


「使えるんですか」


「見える」


 玄造はそれを悠真に渡した。


 悠斗に持っていくと、少年は目を丸くした。


「これ、使っていいの?」


「玄造さんが、見えるって」


「壊れてない?」


「たぶん」


「たぶん?」


 少しだけ、悠斗の声に色が出た。


 亮介が横で言った。


「悠斗、貸していただくんだから、丁寧に」


「うん」


 悠斗は双眼鏡を両手で持ち、縁側に座った。


 窓の外、雨に濡れた庭の向こうに、川の流れが少しだけ見える。葉が邪魔をして、はっきりとは見えない。それでも、双眼鏡を覗くと水面の白いところが見えるらしい。


「見える?」


 灯里が少し離れて聞く。


 悠斗は頷いた。


「白いところ」


「流れが速いところかな」


「石もある」


「魚は?」


 悠斗はしばらく探した。


「いない」


「残念」


「でも、水、動いてる」


 その言い方が、少しだけ子どもらしかった。


 亮介は、その横顔を見ていた。


 何か言いたそうだったが、言わなかった。


 言わなかったことが、今はよかったのだと思う。


 悠斗はしばらく双眼鏡を覗き続けた。


 スマートフォンは、座卓の上に置かれている。


 手には、別のものがある。


 ただそれだけの変化を、父親も、灯里も、悠真も、誰も大げさにはしなかった。


     *


 夕食は、食事処ではなく山吹の部屋に運んだ。


 雨の日で、父子がまだ部屋の空気に慣れていないことを考えて、千代がそう決めた。


 小鍋は二つではなく、一つを父子で分ける形にした。

 ただし、取り箸と器は別々。

 悠斗の器には、最初から少なめ。

 白飯ではなく、小さなおにぎりが二つ。

 鶏肉は小さく。

 野菜は柔らかめ。

 魚はない。


 料理を置くと、亮介がすぐに言った。


「こんなにお気遣いいただいて、すみません」


 悠真は答えた。


「準備しやすいように、ご希望を伺いましたので」


 謝罪ではなく、情報として受け取る。


 そういう言い方をしたかった。


 亮介は少しだけ黙り、頭を下げた。


「ありがとうございます」


 悠斗は、小さなおにぎりを見ていた。


 白飯の茶碗ではなく、おにぎり。


 千代の判断だった。


「食べられそうな分だけで大丈夫です」


 悠真が言うと、悠斗は小さく頷いた。


 亮介は何か言いかけたが、飲み込んだ。


 それだけで、部屋の空気が少し変わった。


 食事中、父子の会話はほとんどなかった。


 でも、完全な無言ではなかった。


「熱くないか」


「うん」


「おにぎり、食べられるか」


「一個」


「無理しなくていい」


「うん」


 その短いやり取りだけだった。


 それでも、亮介の声は最初より少し柔らかくなっていた。悠斗も、スマートフォンを触らずに箸を持っていた。


 悠真は廊下で、少し離れて待った。


 灯里も隣にいる。


「食べてる?」


「うん。少し」


「よかった」


 灯里は小さく言った。


「お父さん、言いすぎないように頑張ってるね」


「うん」


「子どもも、応えようとしてる」


「うん」


「でも、二人とも不器用」


 灯里の声は、優しかった。


 不器用。


 たしかに、そう見えた。


 悪い親子ではない。

 冷たい親子でもない。

 ただ、近づき方が分からなくなっている。


 湯守荘にできることは、きっと多くない。


 でも、一つの鍋を置くことはできる。


 同じ湯に、時間を分けて入ってもらうことはできる。


 雨の川を、双眼鏡で見せることはできる。


 それが何になるのかは分からない。


 分からないまま、準備する。


 昨日、宿帳に書いた言葉を思い出した。


     *


 夜、父子は風呂に入った。


 最初に亮介が入り、その後に悠斗が入った。


 一緒に入るかと父親が尋ねた時、悠斗が首を横に振ったからだ。亮介は少し寂しそうな顔をしたが、無理に誘わなかった。


 玄造が湯を少しぬるめにした。


「子ども、長く入らない」


「そうなんですか」


「のぼせる」


「お父さんは?」


「疲れてる。熱いと余計疲れる」


 玄造の判断も、料理と同じだった。


 その人に合わせる。


 父子がそれぞれ湯に入った後、山吹の部屋は静かになった。


 悠真は帳場で宿帳を開いた。


 今日の記録を書く。


『高森亮介様・悠斗様、到着。父は丁寧すぎるほど謝る。息子は言葉少なめ。スマホは盾。川を見たいと言った。玄造さんの双眼鏡。夕食は魚なし、小さいおにぎり。父子の会話は少ないが、少しあった。』


 そこで一度手を止める。


 そして、最後に書いた。


『近い人同士ほど、言葉が届かないことがある。宿は、その間に鍋を置くことくらいならできる。』


 書き終えた時、山吹の方から小さな笑い声がした気がした。


 少年の声だったのか、父親の声だったのかは分からない。


 すぐに静かになった。


 でも、確かに何かが少し動いたような気がした。

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