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湯守荘の宿帳には、言えなかった人生が綴られる 〜ブラック企業で壊れた僕は、茨城の山奥で名湯の宿を継ぎました〜  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第17話 献立帳の余白

 祖母の献立控えは、読もうとすると妙に疲れるノートだった。


 字が細かいからではない。

 内容が難しいからでもない。


 そこに書かれているものが、あまりにも人の生活に近かったからだ。


 朝、悠真は帳場の机にノートを広げた。黒電話の横には、灯里と決めた問い合わせ時間の紙が置いてある。昨日より少しだけ、電話が怖くなくなった気がしていた。もちろん、鳴れば肩は跳ねるだろう。それでも、紙があるだけで、逃げ場が一つ増えたような気がする。


 献立控えには、年月日と客の名前、人数、食事内容が淡々と記されていた。


『朝 白飯、味噌汁、焼き鮭、卵焼き、漬物』

『夕 鶏鍋、山菜、こんにゃく、里芋、香の物』


 それだけなら、普通の旅館の記録だ。


 けれど、その横に小さな文字がある。


『ご主人、箸進まず。酒も少なめ。奥様よく話す。朝、飯半分』

『娘さん、魚苦手。骨を外す』

『一人旅。夜、縁側に長くいた。茶を熱くしすぎない』

『仕事帰り。電話多い。夕食急いで食べる。翌朝は粥』


 悠真はその一行一行に目を止めた。


 祖母は、見ていた。


 客が何を食べ、何を残し、どこに座り、どれくらい話し、どんなふうに黙ったか。そこから、次の朝に出すものや、声をかける距離を決めていたのだ。


 優しい人だった、という言葉だけでは足りない。


 祖母の優しさは、観察と記録と手間でできていた。


 悠真はページの端を指で押さえた。


 会社にいた頃、記録は責任を追及するためのものだった。誰が、いつ、何をしたか。数字はいくつか。期限は守られたか。ミスはどこで発生したか。記録をつけるたび、どこかで自分の首に縄をかけているような気がした。


 でも、このノートは違う。


 責めるためではない。


 忘れないためだ。


 その人が次に来た時、同じ失敗をしないため。

 その人が何も言わなくても、前より少し楽に過ごせるようにするため。

 客が置いていった小さな癖や痛みを、宿側がそっと覚えておくため。


 悠真は、宿帳の余白に自分が書いてきたことを思い出した。


 相沢の名刺。

 真帆の薄い味噌汁。

 五人の予約を断ったこと。

 電話の音に震えたこと。

 灯里が少し疲れていたこと。


 あれも、責めるための記録ではない。


 忘れないために書いている。


 そう思うと、少しだけ自分の書いているものが恥ずかしくなくなった。


 ページをめくると、相沢の名前が出てきた。


『相沢誠一様 一名。夕食、粥添え。胃弱。湯長め。話しかけすぎない。翌朝、味噌汁薄め。名刺入れを食事処に置き忘れそうになる。仕事の話は自分から少しだけ。』


 悠真は、思わず息を止めた。


 名刺入れ。


 昔からだったのか。


 祖母の頃から、相沢は名刺入れを持って来ていた。そして、食事処に置き忘れそうになっていた。


 悠真は帳場の引き出しを見た。


 そこには、相沢の名刺一枚を入れた封筒がある。次に来る時まで預かることになったもの。


 同じ人の、同じものが、違う時代の湯守荘に残っている。


 そのことが不思議だった。


 人は変わる。

 けれど、変わらず抱えているものもある。


 相沢にとって名刺入れは、若い頃からずっと、自分を支えるものだったのかもしれない。仕事で失敗した時も、妻を亡くした後も、定年退職した後も。


 それを、今は少しだけ鞄へ移した。


 悠真はノートの端を見つめた。


 祖母が書き残した一行が、何十年も後の相沢につながっている。


 宿の記録とは、こういうものなのかもしれない。


     *


 灯里が来たのは、午前十時を少し過ぎた頃だった。


 問い合わせ時間の紙を貼ってから、最初の受付時間だ。


 彼女は玄関で靴を脱ぎながら、手に持っていた紙袋を掲げた。


「差し入れ。駅前のパン屋のクリームパン」


「どうしたんだ、急に」


「私が食べたかった」


「正直だな」


「差し入れって、自分も食べたいもの買うから成立するんだよ」


 そう言って、灯里は帳場へ入ってきた。


 悠真が献立控えを読んでいるのを見ると、目を細める。


「あ、花江さんノート」


「読めば読むほど、すごい」


「でしょ」


「灯里は前に読んだことあるの?」


「ちょっとだけ。昔、花江さんに見せてもらった。『人のご飯を作るなら、その人の昨日も見なさい』って言われた」


「昨日?」


「うん。今日の顔だけじゃ分からないから、昨日どうだったかも見るんだって」


 灯里は紙袋を机に置き、椅子に座った。


「子どもの頃は意味分かんなかった。昨日は昨日じゃんって思ってた」


「今は?」


「今は、まあ、分かる気がする」


 灯里は宿帳の方を見た。


「真帆さんも、昨日の夜があったから、朝の味噌汁が薄めだったんでしょ」


「うん」


「相沢さんも、昔からの昨日がいっぱいあったから、千代さんが粥を添えた」


 悠真は頷いた。


 昨日。


 一日前のことだけではない。

 その人がここに来るまでに抱えてきた時間。


 それを全部知ることはできない。だが、少しだけ残ったものを見て、少しだけ合わせる。


 宿は、そういう仕事なのかもしれない。


「昨日って、重いな」


 悠真が呟くと、灯里はクリームパンの袋を開けながら言った。


「重いよ。だからクリームパン食べるんだよ」


「どういう理屈だ」


「甘いものは重さに対抗する」


「名言風に言うな」


「名言です」


 灯里は半分に割ったクリームパンを差し出した。


 悠真は受け取った。


 ふわふわのパンに、黄色いクリームが詰まっている。口に入れると、思ったより甘かった。甘さが舌に乗ると、献立控えの重さが少しだけ横にずれた。


「うまい」


「でしょ」


「差し入れありがとう」


「礼を受け取りました」


 灯里は満足げに頷いた。


 黒電話は鳴らなかった。


 十時を過ぎても、十一時になっても、鳴らなかった。


 問い合わせ時間を決めた途端に鳴らないのは皮肉のようでもあり、ありがたくもあった。鳴らない電話を前に、悠真は少しだけ肩の力を抜いて献立控えを読み進めた。


     *


 昼前、千代が来た。


 彼女は帳場の机に広げられた献立控えを見て、少しだけ眉を動かした。


「読んだ?」


「はい」


「分かった?」


「少しだけ」


「少しでいい」


 千代はそう言って、台所へ行きかけた。


 悠真は慌てて声をかける。


「あの、相沢さんの昔の記録に、名刺入れのことがありました」


 千代は足を止めた。


「食事処」


「はい。置き忘れそうになるって」


「あった」


「覚えてますか」


「覚えてる」


 千代は少しの間、遠くを見るような目をした。


「あの人、いつも胸を触る」


「胸?」


「名刺入れがあるか見る」


「ああ」


「湯に入る前も、飯の後も」


 悠真は、相沢が昨夜名刺入れを座卓に置いた姿を思い出した。


 胸にあるものを確かめる癖。

 それは昔から続いていた。


「祖母は、何も言わなかったんですか」


「言わない」


「気づいていても?」


「言わない」


 千代は短く答えた。


「客が自分で気づくまで、宿は持たない」


「持たない?」


「代わりに持たない」


 少し考えて、悠真は意味を理解した。


 客の荷物を預かることはある。


 でも、客の人生まで代わりに持つことはできない。名刺入れを胸から鞄へ移すのは、相沢自身がすることだ。宿は、その夜と湯と飯を用意するだけ。


「難しいですね」


「難しい」


 千代はあっさり認めた。


「でも、全部持とうとすると潰れる」


 その言葉は、悠真にも灯里にも向けられているようだった。


 灯里がクリームパンを持ったまま顔を上げる。


「私もですか」


「食べながら聞くな」


「すみません」


「謝るな」


「忙しい」


 灯里は口を尖らせた。


 千代は厨房へ向かいながら言った。


「今日の昼、うどん」


「やった」


「灯里は葱多め」


「なんで私だけ」


「喋るから」


「葱で声を守れと?」


「そう」


 千代の理屈は時々分かりにくい。


 でも、食べればたぶん分かるのだろう。


     *


 黒電話が鳴ったのは、うどんを食べ終えた直後だった。


 じりりりりん。


 悠真の肩は、やはり跳ねた。


 だが、昨日ほどではなかった。帳場に置いた案内紙を見る。問い合わせ時間内だ。出ていい電話。そう思うだけで、少し落ち着く。


 受話器を取る。


「はい、湯守荘です」


 電話の向こうは、男性だった。


 若くはない。四十代か五十代くらいだろうか。声は丁寧だが、少し疲れていた。


『突然すみません。宿泊のことでお伺いしたいのですが』


「はい。ご希望のお日にちはいつ頃でしょうか」


『今週の土曜なのですが、一泊、二名でお願いできるかと思いまして』


 土曜。


 悠真は予約表を見る。


 空いている。だが土曜は問い合わせが増える可能性もある。二名なら受けられるか。山吹に布団二組。食事は千代に確認。風呂は時間を調整すればいい。


「確認いたします。お二人様ですね」


『はい。私と、息子です』


 息子。


 悠真はメモを取る。


「お子様は、おいくつでしょうか」


『小学五年生です』


 声が少しだけ硬くなった。


「お食事は、ご夕食とご朝食どちらもご希望ですか」


『お願いできれば。ただ、息子が少し食が細くて』


 電話の向こうで、少し間があった。


『魚が苦手です』


 それだけ言うのに、男は少しためらったようだった。


 悠真はすぐにメモした。


 息子、小五。食細い。魚苦手。


「承知しました。魚以外でご用意できるよう、厨房に確認いたします」


『助かります。あの、こちらは古い宿で、静かに過ごせると聞きまして』


「はい。大きな宿ではありませんし、現在は一部屋だけの小さな再開です」


『それが、ありがたいです』


 相沢とも、真帆とも、少し違う声だった。


 大きなホテルが苦手なのかもしれない。

 人が多い場所を避けたいのかもしれない。

 あるいは、息子と二人きりで静かに過ごす理由があるのかもしれない。


 だが、まだ聞かない。


「お車でお越しですか」


『はい。車で伺います。近くの神社にも行きたいのですが、土曜は混みますでしょうか』


「岩杜神社ですね。週末は人が多くなることがあります。参道に石段や根の出た場所がありますので、足元にお気をつけください」


『分かりました』


 男は小さく息を吐いた。


『実は、息子があまり人混みが得意ではなくて。できれば、翌朝の早い時間に行こうかと』


「それでしたら、朝食の時間を少し調整できます。神社から戻られてからでも」


『いいんですか』


「はい。確認は必要ですが、できる範囲で」


 言ってから、自分の中で少し警戒した。


 できる範囲で。


 この言葉は大事だ。


 何でもできます、ではない。

 できる範囲で。


『ありがとうございます』


 男性の声が、少しだけ緩んだ。


 名前を聞く。


『高森亮介です。息子は悠斗です』


 高森亮介。

 悠斗。

 父子二名。


 悠真は予約帳に書いた。


「いったん厨房と部屋の確認をいたしまして、折り返しご連絡してもよろしいでしょうか」


『はい。よろしくお願いします』


 電話は丁寧に切れた。


 悠真は受話器を置いた。


 しばらく手を離せなかった。


 今の電話は、取れた。


 途中で固まらなかった。

 確認して折り返すと言えた。

 できる範囲で、と言えた。


 電話の後なのに、昨日のようにぐったりしていない。


 もちろん、緊張はした。

 肩も跳ねた。

 手も少し冷えている。


 でも、息はできている。


 灯里が帳場の入口から親指を立てた。


「よかったじゃん」


「聞いてたのか」


「途中から。声、紐から縄くらいになってた」


「強度評価、続いてたのか」


「そのうち綱になるよ」


「綱か」


「綱になったら、吊り橋も渡れる」


「そこまで求めてない」


 灯里は笑って、メモを覗いた。


「父子か」


「うん。息子さんが小学五年生。食が細くて、魚が苦手。人混みも得意じゃないらしい」


 灯里の顔から、少しだけ笑みが消えた。


「そっか」


「何か気になる?」


「ううん。今のところは分からない」


 灯里は正直に言った。


「でも、静かにしたい父子なのは確かだね」


「千代さんに聞いてくる」


「うん」


     *


 千代は厨房で鍋を洗っていた。


 悠真が高森父子のことを伝えると、すぐに手を止めた。


「魚、だめ」


「はい。息子さんが苦手だそうです」


「骨?」


「そこまでは聞いていません」


「聞かなくていい」


 千代は棚から献立控えを出した。


「子ども、魚が苦手。だいたい骨」


「そうなんですか」


「味の時もある」


「どちらか分からない場合は?」


「出さない」


 明快だった。


「では、夕食は魚なしで」


「鶏。野菜。うどんも少し」


「食が細いそうです」


「白飯、少なめ。おかわりできるように」


「最初から少なめ」


「残すのを怖がる子もいる」


 その言葉に、真帆の朝食を思い出した。


 残すことが怖い人。

 残していいと知って、少し楽になる人。


 子どもでも同じなのだろう。


「朝食は」


「卵。味噌汁。小さいおにぎり」


「おにぎり?」


「茶碗より食べやすい」


 千代はすでに考えている。


「神社、朝行くなら、帰ってから朝食でもいいですか」


「いい」


「父親も食べますかね」


「父親は食べない顔かもしれない」


「まだ見てません」


「声」


「声で分かるんですか」


「少し」


 千代はそう言った。


 少し。


 やはり、この宿は少しで動いている。


「受けられますか」


 悠真が聞くと、千代はすぐに答えた。


「受けるんでしょ」


「はい」


「なら、受ける」


 自分が電話で感じたものを、千代は尊重してくれているのだと分かった。


 悠真は頷いた。


「折り返します」


「椅子」


「食事処に?」


「子どもは座敷でもいい。父親、疲れてそうなら椅子」


「分かりました」


「灯里、神社の朝の道」


「聞いておきます」


「玄造、川」


「川?」


「子ども、見るかもしれない」


 千代はそれだけ言って、また鍋を洗い始めた。


 川を見るかもしれない。


 それが何を意味するのか、悠真にはまだ分からなかった。


     *


 高森亮介に折り返すと、彼はすぐに出た。


 悠真は宿泊可能であること、魚を使わない夕食にできること、神社の時間に合わせて朝食を調整できることを伝えた。


 電話の向こうで、高森は何度も礼を言った。


『すみません、いろいろ注文を』


「ご希望を伺えた方が準備しやすいです」


 これは、少しだけ自然に言えた。


『そう言っていただけると助かります。息子が、最近あまり外へ出たがらなくて』


 高森はそこまで言って、口を閉じた。


 悠真も、黙った。


 続きを促さない。


 電話の向こうで、高森が小さく息を吐く。


『いえ、すみません。当日、よろしくお願いします』


「お待ちしております。道中、お気をつけてお越しください」


 電話を切る。


 新しい予約が入った。


 父と息子。


 人混みが苦手な息子。

 魚が苦手な息子。

 外へ出たがらない息子。

 そして、言葉を途中で止めた父。


 何があるのかは分からない。


 でも、また一晩、湯守荘が誰かを預かることになる。


 悠真は予約帳に書き足した。


『高森亮介様・悠斗様。父子。魚なし。食少なめ。人混み苦手。神社は朝。外へ出たがらない、とのこと。聞きすぎない。』


 聞きすぎない。


 その一行を書いた時、少しだけ祖母の献立控えに近づいた気がした。


     *


 夜、悠真は宿帳の余白に今日のことを書いた。


『献立控えを読む。祖母は客の昨日を見ていた。相沢様の名刺入れは昔からだった。高森亮介様・悠斗様の予約。父子二名。魚なし。朝の神社。電話は固まらずに折り返しまでできた。』


 そこまで書いて、少し迷う。


 最後に、こう足した。


『次に来る人の昨日は、まだ分からない。分からないまま、準備する。』


 黒電話は黙っている。


 外では、雨上がりの川が少し大きな音を立てていた。


 湯守荘は、また次の客を待つ宿になった。

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