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湯守荘の宿帳には、言えなかった人生が綴られる 〜ブラック企業で壊れた僕は、茨城の山奥で名湯の宿を継ぎました〜  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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16/27

第16話 祖父の半纏

 翌朝、悠真は黒電話が鳴る夢で目を覚ました。


 じりりりりん、という音が、夢の中では会社の内線に変わっていた。受話器を取ると、相手の顔は見えない。ただ、声だけが次々と重なった。


 まだですか。

 できるでしょう。

 普通はやりますよね。

 聞こえてますか。

 もしもし。


 そこで目が覚めた。


 障子の向こうは、まだ薄暗い。雨は上がっていたが、空気は湿っている。布団の中で息を吸うと、胸の奥が少し痛かった。


 夢だ。


 会社ではない。

 ここは湯守荘だ。

 黒電話は帳場にある。

 今は鳴っていない。


 そう思っても、身体の方はまだ納得していなかった。心臓が速い。指先が冷えている。喉が乾いていた。


 悠真は布団から出た。


 畳に足を下ろす。冷たい。


 この冷たさは、会社の床ではない。湯守荘の朝の畳だ。そうやって一つずつ確かめるように、立ち上がった。


 顔を洗いに行く前に、帳場を覗いた。


 黒電話は黙っていた。


 ただの黒い器物のような顔をして、台の上に置かれている。昨日はあれが鳴るたびに、胸の奥が削られた。今も見るだけで少し嫌な感じがする。


 悠真は黒電話から目を逸らし、壁の時計を見た。


 六時前。


 湯を見る時間だと思った。


 祖父なら、たぶんそうする。


 顔を洗い、祖父の半纏に袖を通した。


 紺色の半纏は、今朝も少し大きかった。袖口が手の甲にかかる。肩も余る。けれど、その余りが不思議と頼もしい。自分だけで立つにはまだ心許ない朝でも、半纏が一枚分、背中を支えてくれるような気がする。


 廊下へ出ると、木の床が小さく鳴った。


 山吹の部屋は空いている。相沢も真帆もいない。今日は予約もない。二週間後の夫婦客まで、宿泊の予定はしばらく空く。


 それでも湯は出ている。


 客がいてもいなくても、湯は見る。


 浴場へ行くと、玄造はまだ来ていなかった。


 珍しい、と思った。


 湯船には、薄く湯気が立っていた。昨日の雨のせいか、浴室の空気が少し重い。窓を開けると、冷たい山の空気が流れ込み、湯気がゆっくり横へ流れた。


 悠真は袖をまくり、湯に手を入れた。


 ぬるい。


 人が入るには少し足りない。けれど、冷めきってはいない。湯口からは、いつものように細く湯が流れている。ちょろちょろという音が、浴室の中に小さく響く。


 湯を見る。


 何を見るのか、最初は分からなかった。


 温度か。

 量か。

 匂いか。

 色か。


 それだけではないのだと、少しずつ思うようになっていた。


 湯は、宿の呼吸に似ている。


 乱れていないか。細くなりすぎていないか。冷えていないか。人を入れられる状態か。あるいは今日は休ませるべきか。


 そんなことを、手で確かめる。


 もちろん、悠真はまだ何も分かっていない。玄造のように足音で客の状態を察することも、祖父のように一瞬で湯の機嫌を見ることもできない。


 でも、見ようとすることはできる。


 湯に手を入れたまま、悠真は深く息を吐いた。


 黒電話の音ではなく、湯の音を聞く。


 昨日、自分でそう決めた。


 実際にやってみると、簡単なようで難しかった。夢の中の電話の声は、まだ頭の奥に残っている。それでも、湯口の音を聞いていると、少しずつ輪郭が薄れていった。


「早いな」


 背後から声がした。


 玄造だった。


 作業着に長靴。片手に古い工具袋を持っている。


「おはようございます」


「おう」


「湯、少しぬるいです」


「昨日雨」


「雨だと変わるんですか」


「変わる日もある」


 玄造は湯口を見て、湯船に手を入れた。


 悠真と同じことをしているのに、手の置き方が違う。玄造は湯の表面ではなく、少し深いところまで指を沈める。それから湯口に近いところ、遠いところを順に確かめた。


「少し上げる」


「はい」


 玄造はボイラーの方へ行きかけて、ふと振り返った。


「半纏」


「あ、祖父のです」


「知ってる」


「まだ似合ってませんか」


 何気なく聞くと、玄造は少しだけ悠真を見た。


「着てりゃ似る」


「そういうものですか」


「そういうものだ」


 そう言って、浴場裏へ行った。


 似合うのではなく、似る。


 その言い方が、妙に残った。


 祖父のようになる、という意味ではないのだろう。背中も、声も、顔も違う。悠真は義一ではない。けれど、毎朝湯を見て、廊下を歩き、客の靴を揃えていれば、半纏と自分の間に少しずつ時間が積もっていく。


 着ていれば、似てくる。


 宿主というものも、たぶんそうなのかもしれない。


     *


 朝食は、千代が持ってきた味噌と甚六の葱で作った味噌汁だった。


 千代はいつもより少し遅く来た。手には布の買い物袋を下げている。中には新しい味噌、豆腐、卵、それから小さな紙袋が入っていた。


「味噌」


「買ってきたんですか」


「前のが少ない」


 千代は味噌の容器を棚に置いた。


 その動きに迷いがない。湯守荘の厨房のどこに何を置くか、もう決めているようだった。実際には、彼女にとってここは昔から知っている台所なのだろう。祖母の花江が立っていた時代から、鍋の位置も、味噌の場所も、体に入っているのかもしれない。


「問い合わせが増えるなら、味噌もいる」


 千代は短く言った。


「まだ、そんなに予約は」


「増えるかもしれない」


「はい」


「でも、増えすぎたら困る」


 千代は味噌の蓋を開け、匂いを確かめた。


「味噌も人も、足りない」


 言い方は乱暴だが、正しかった。


 客を増やせばいいというものではない。食材も人手も部屋も、今の湯守荘には限りがある。相沢と真帆を迎えた時は、一人ずつだったからできた。二人組でも、準備すれば何とかなる。だが五人は無理だった。


 無理なものは、無理。


 悠真は昨日の電話を思い出した。


「昨日、五人は断りました」


「聞いた」


「玄造さんから?」


「玄造が言ってた」


「声が震えたって言ってましたか」


「言ってない」


 千代は味噌を小さな器に取った。


「断れたならいい」


「でも、まだ電話が鳴ると」


「嫌?」


「はい」


「嫌でも鳴る」


「そうですね」


「出られない時は、出ない」


 悠真は顔を上げた。


「出ない、ですか」


「火を使ってる時は、出ない」


「ああ」


「手が汚れてる時も、出ない」


「はい」


「倒れそうな時も、出ない」


 千代は淡々と言った。


「宿より人が先」


 その言葉は、あまりにも短くて、少し遅れて胸に届いた。


 宿より人が先。


 会社では、逆だった気がする。


 仕事が先。

 数字が先。

 客先が先。

 納期が先。

 自分は後。


 湯守荘も仕事だ。客を迎える以上、責任はある。でも、宿を守る人間が壊れたら、宿は続かない。祖父が山を下りた理由も、そこにある。宿にしがみついて祖母を倒したら、それは宿ではないと祖父は言った。


 千代は、たぶん同じことを言っている。


 宿より人が先。


「覚えておきます」


 悠真が言うと、千代は味噌汁の鍋を火にかけた。


「覚えるだけじゃなく、やる」


「はい」


「今日、紙を書く」


「紙?」


「電話の横」


 黒電話の横に置く案内のことらしい。


 千代は葱を切りながら言った。


「受けられること。受けられないこと。電話に出る時間」


「電話に出る時間も決めるんですか」


「決めないと、ずっと鳴る」


「まだ、そんなに鳴ってないですけど」


「鳴ってから決めると遅い」


 千代は包丁を止めない。


「宿は、先に決めることも仕事」


 それは、昨日灯里が言っていた「仕組み」と同じだった。


 悠真は頷いた。


「今日、灯里と相談します」


「相談しすぎると、灯里が倒れる」


 思わぬ言葉に、悠真は少し驚いた。


「千代さんも、そう思いますか」


「あの子は、明るく倒れる」


 千代は葱を鍋に入れた。


 明るく倒れる。


 妙に怖い言い方だった。


 灯里は何でも軽く言う。面倒なことを笑って引き受ける。泣きそうな人の前では声を落とし、寒そうな人にはブランケットを出し、悠真が固まると変な例えで空気を変える。


 それは助かる。


 けれど、灯里自身の中へどれだけ溜まっているのか、悠真は知らない。


「七割くらい頼って、と言われました」


 悠真が言うと、千代は短く頷いた。


「六割」


「減りましたね」


「残りは、自分で」


「はい」


「それでも駄目なら、三割千代」


 悠真は思わず笑った。


「千代さんも入ってくれるんですか」


「味噌の話なら」


「電話は?」


「嫌」


 即答だった。


 悠真は笑いながら、味噌汁の椀を出した。


 朝の厨房に、湯気が立ちのぼる。


 味噌の匂いがする。


 それだけで、昨日の電話のざらつきが少し薄くなった。


     *


 昼前に、灯里が役場の資料を抱えて来た。


 今日の彼女は、髪を結ばずに下ろしていた。明るい色の髪が肩で跳ねている。寝不足のせいか、目の下に少し影がある。


「おはよ。あ、もう昼か」


「寝不足?」


「ちょっとね。資料作ってたら、いつの間にか動画見てた」


「それは自業自得では」


「違う。資料作りの疲れを動画で癒やしてたら、動画で疲れた」


「悪循環」


「現代人って感じでしょ」


 灯里は帳場に資料を広げた。


 観光協会の簡易ページ案。

 問い合わせ対応用の文章。

 宿泊条件。

 岩杜神社への案内。

 湯守荘の紹介文。

 それから、手書きのメモ。


『湯守荘は現在、一部屋だけの小さな再開です。大人数・日帰り入浴・急な宿泊には対応できない場合があります。』


 灯里の字で、そう書かれていた。


「これ、最初に出しとけば変な問い合わせ少し減ると思う」


「少し」


「うん。全部は無理。減れば勝ち」


「減れば勝ち、か」


「うん」


 灯里は黒電話の横に貼ってある悠真のメモを見た。


『宿を壊してまで客を入れない』

『自分を壊してまで、受けない』


 灯里はそれを見て、少しだけ笑った。


「いいね。標語っぽい」


「標語にするには重くないか」


「重い宿だからいいんじゃない」


「なろう向けなのに?」


 つい口に出してから、悠真は少し変なことを言った気がした。


 灯里は首を傾げる。


「なろう?」


「あ、いや、何でもない」


 悠真はごまかした。


 なぜそんな言葉が出たのか分からない。どこかで誰かが自分たちを物語にしているような感覚が一瞬あった。もちろん、ここは現実の湯守荘だ。電話は鳴るし、味噌は足りなくなるし、布団は湿る。


 灯里は気にしなかったらしく、資料へ戻った。


「とりあえず、問い合わせ時間を決めよう。十時から十六時までとか」


「夜に佐伯さんみたいな電話が来たら?」


 それを言うと、灯里も少し黙った。


「それはね、私も考えた」


「うん」


「全部閉じると、拾えない人がいる。でも全部開けると、悠真が壊れる」


 はっきり言われると、胸が少し痛かった。


 でも、現実だった。


「だから、通常問い合わせは十時から十六時。夜は緊急の場合のみ。ただし、必ず受けられるわけではありません。って書く」


「緊急って、どう判断する?」


「難しいね」


 灯里は腕を組んだ。


「でも、まずはそう書くしかないかな。あと、夜の電話は黒電話じゃなくて、私の携帯か、宿用携帯に転送する方法を考える」


「灯里に負担が」


「だから宿用携帯。いずれね。最初は私も見るけど、ずっとじゃない」


「六割以上頼るなって千代さんに言われた」


「七割から減らされた」


「残り三割は千代さん。ただし味噌の話なら」


 灯里は吹き出した。


「千代さんらしい」


「電話は嫌だって」


「私も好きではないよ」


「灯里も?」


「うん。平気そうにしてるだけ」


 灯里は資料の端を揃えながら言った。


「電話って、相手の顔が見えないから苦手。顔が見えれば、この人は今本当に困ってるのか、ただ急いでるだけなのか、怒ってるのか、恥ずかしがってるのか、少し分かる。でも電話は声だけだから、疲れる」


 悠真は灯里を見た。


「灯里でも、疲れるのか」


「疲れるよ。私を何だと思ってるの」


「強い地元のギャル」


「雑」


「自称してたような」


「自称と他称は違います」


 灯里は少し笑った。


 その笑いはいつもより小さかった。


「悠真だけじゃないよ」


「え?」


「苦手なの」


 灯里は黒電話を指した。


「ただ、悠真は今、電話の音が過去の嫌な場所とつながっちゃってる。だから余計きつい。仕組みで減らせる部分は減らそう」


 悠真は頷いた。


「ありがとう」


「はい、礼を受け取りました」


「珍しく素直だな」


「礼は受け取る方針。謙遜ばっかりしてると、感謝する側が困るから」


 灯里はそう言って、観光ページ案を悠真の前へ置いた。


「で、紹介文。これでどう?」


 そこには、短い文章が書かれていた。


『湯守荘は、茨城県山奥にある小さな温泉宿です。現在は一部屋だけの小さな再開となります。豪華な会席料理や行き届いた大型旅館のサービスはありませんが、山の湯と、地元のものを使った素朴な食事をご用意します。静かに過ごしたい方、岩杜神社へお参りの方に向いた宿です。』


 悠真はゆっくり読んだ。


 派手な宣伝文句はない。


 名湯、秘湯、癒やし、奇跡。


 そういう言葉も入っていない。


 けれど、湯守荘に合っていると思った。


「いいと思う」


「地味すぎる?」


「地味だけど、合ってる」


「よかった。湯守荘を盛りすぎると、違う人が来ちゃう気がして」


「違う人」


「映える料理とか、豪華な部屋とか、最高のサービスとかを求める人。そういう人が悪いんじゃなくて、うちとは合わない」


 うち。


 灯里が自然にそう言ったことに、悠真は気づいた。


 湯守荘を、うち、と。


 灯里自身は気づいていないようだった。


 悠真は何も言わなかった。


 指摘すると、彼女はたぶん照れるか茶化す。


「このまま使いたい」


 悠真は言った。


「じゃあ、簡易ページ作る。写真も必要だね」


「写真?」


「山吹の部屋、外観、湯船、料理。あと、つつじ」


「料理は千代さんに聞かないと」


「聞いたら『撮るものじゃない、食べるもの』って言いそう」


「言いそう」


「でも撮る。食べる前に一枚だけ」


 灯里は資料をまとめた。


 その動きが少しだけ遅い。


 悠真は迷ったが、言った。


「灯里」


「何?」


「少し休んだら」


「大丈夫」


 即答だった。


 その言葉に、昨夜の真帆を思い出した。


 何でも大丈夫。


 大丈夫と即答する人ほど、実は大丈夫ではないことがある。


「千代さんが味噌汁を残してくれてる」


 悠真は言った。


「え」


「灯里が起きたら飲ませろって」


「千代さんが?」


「うん。あと、相談しすぎると灯里が倒れるって」


「何それ」


「明るく倒れるって」


 灯里はしばらく黙っていた。


 それから、やや不満そうな顔をした。


「……言いそう」


「言ってた」


「明るく倒れるって、ひどくない?」


「俺は少し分かる気がした」


「分からないでよ」


 灯里はそう言ったが、立ち上がらなかった。


 その代わり、帳場の椅子に深く座り直した。


「味噌汁、あるの?」


「ある」


「飲む」


「うん」


「あと、十分だけ休む」


「十分でいいのか」


「十五分」


「増えた」


「交渉成立」


 何と交渉したのか分からなかったが、灯里はそのまま机に突っ伏した。


 派手な髪が帳場の台に広がる。


 悠真は厨房へ行き、味噌汁を温めた。


 千代の味噌汁は、今日は少し濃いめだった。灯里用なのかもしれない。疲れている人には薄め、泣いた後には薄め。では、明るく倒れそうな人には少し濃いめなのだろうか。


 椀に注いで帳場へ戻ると、灯里は本当に少し眠っていた。


 十数分だけ。


 けれど、寝息は深かった。


 悠真は椀を少し離れたところに置き、起こさなかった。


     *


 午後、祖母から荷物が届いた。


 宅配便の箱には、古い布に包まれたノートが数冊入っていた。以前も何冊か預かったが、今回はさらに古いものだった。表紙には、祖母の字で「献立控え」と書かれている。


 千代が夕方に来た時、それを見て少しだけ目を細めた。


「姉さんの」


「おばあちゃんから届きました」


 千代は手を拭き、ノートを一冊開いた。


 中には、年月日と客の人数、夕食と朝食の内容が細かく書かれていた。筆跡は祖母らしく、丸みがある。ところどころに小さなメモが添えられている。


『山田様二名。奥様、足が悪い。座椅子。朝は粥少し』

『藤井様。仕事疲れ。味噌汁薄め。夜、あまり話しかけない』

『相沢様。胃弱。夕食に粥を添える。湯長め』

『雨。子ども連れ。靴を乾かす新聞紙』

『泣いた後の人。塩控える』


 悠真は息を止めた。


 相沢の名前がある。


 千代が言っていた粥の記録もある。


「すごいですね」


 悠真は言った。


 千代はページをめくりながら答えた。


「姉さんは、忘れないために書いた」


「全部、見てたんですね」


「見てた」


 千代は短く言った。


「でも、見てると言わなかった」


 それが祖母なのだろう。


 客の疲れを見て、食事を変える。座椅子を出す。声をかけない。粥を添える。でも、あなたは疲れていますね、泣きましたね、胃が弱いですね、とは言わない。


 気づいていることを、相手に知らせすぎない。


 それが宿の優しさなのかもしれない。


 灯里もノートを覗き込んだ。


「花江さん、すご……」


 言いかけて、声を落とした。


「これ、ほぼカルテじゃん」


「カルテ?」


「宿のカルテ。お客さんの体と心の記録」


「勝手にそんなことを」


 悠真が少し迷うと、灯里は首を振った。


「悪い意味じゃなくて。ちゃんと見るための記録って感じ」


 千代が頷いた。


「姉さんは、客を忘れなかった」


 その言葉に、ノートの重みが増した。


 悠真はページを見つめた。


 これは単なる献立帳ではない。湯守荘が、客をどう見てきたかの記録だった。


 そして、これから自分も書いている。


 宿帳の余白に。


 相沢の名刺。真帆のメモ。五人の電話。断れたこと。灯里が疲れていること。玄造の言葉。千代の味噌汁。


 自分の記録は、まだ拙い。


 でも、祖母の献立控えと同じ方向を見ているのかもしれない。


「これ、読んでいいですか」


 悠真が聞くと、千代はノートを閉じた。


「読むだけじゃ駄目」


「え?」


「真似る」


 千代はノートを悠真に渡した。


「まず、明日の味噌汁から」


「明日の?」


「灯里、濃いめ」


 灯里が横で声を上げた。


「何で私が献立帳に入るんですか」


「倒れそうだから」


「倒れません」


「明るく倒れる」


「それ言わないでください」


 千代は表情を変えずに言った。


「悠真は薄め」


「俺も?」


「電話の後だから」


 悠真は少し驚いた。


 千代は見ていないようで、見ている。


 灯里が笑った。


「湯守荘スタッフもカルテ対象だ」


「嫌だな」


「でも味噌汁出るならいいじゃん」


「まあ、いいか」


 そう言うと、千代が少しだけ頷いた。


 味噌汁で調整される生活。


 それは、悪くなかった。


     *


 夜、悠真は祖母の献立控えを一冊だけ帳場へ持っていった。


 黒電話の横には、新しく書いた案内紙が置かれている。


『お問い合わせ時間 十時〜十六時』

『夜間は緊急時のみ。必ず対応できるとは限りません』

『現在、一部屋のみの小さな再開です』

『大人数・日帰り入浴はお受けしておりません』

『静かに過ごしたい方のための宿です』


 最後の一文は、灯里が書いたものを少し直した。


 静かに過ごしたい方のための宿。


 それは、湯守荘の今の形をよく表している気がした。


 電話が鳴れば、まだ怖いだろう。


 断るのも、きっと苦手なままだ。


 でも、紙がある。

 時間を決めた。

 受けないことも決めた。

 味噌汁もある。


 それだけで、昨日より少しだけ息がしやすい。


 悠真は宿帳を開いた。


 今日の余白に書く。


『祖父の半纏を着て湯を見た。玄造さんに、着ていれば似ると言われた。千代さんに、宿より人が先と言われた。灯里と問い合わせ時間を決めた。祖母の献立控えが届いた。客を忘れないためのノートだった。』


 少し考えて、最後に書いた。


『宿主らしくなるのではなく、毎朝湯を見ているうちに、少しずつ似ていくのかもしれない。』


 書き終えると、浴場の方から湯の音がした気がした。


 実際には、帳場から浴場の音はほとんど聞こえない。


 それでも、悠真には聞こえたように思えた。


 黒電話の音よりも先に、湯の音を思い出す。


 明日も、朝になれば湯を見る。


 その繰り返しが、自分を少しずつここに留めてくれるのかもしれない。

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