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湯守荘の宿帳には、言えなかった人生が綴られる 〜ブラック企業で壊れた僕は、茨城の山奥で名湯の宿を継ぎました〜  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第27話 支える人の椀

 三浦母娘を見送ってから、湯守荘の空気は少し変わった。


 何かが劇的に動いたわけではない。


 玄関の格子戸は相変わらず古い。

 浴場の床はまだ直す順番を待っている。

 山吹以外の部屋は使えない。

 黒電話は鳴る時と鳴らない時の差が激しい。


 それでも、帳場の机の上に置いたノートパソコンの画面には、以前よりも外の気配が増えていた。


 紹介ページの閲覧数。

 問い合わせフォーム。

 観光協会からの確認メール。

 宿泊希望日の相談。

 「母が昔泊まったかもしれない」という別の問い合わせ。

 「静かな宿を探しています」という短い文面。


 数字はまだ小さい。


 だが、湯守荘の名前が、山の中だけに閉じていないことは確かだった。


 悠真は帳場で、問い合わせ一覧を見ながら深く息を吐いた。


 電話よりは楽だ。


 そう思っていた。


 けれど、文章の問い合わせにも別の疲れがあった。


 電話はその場で終わる。もちろん嫌な声は残る。だが、終われば受話器を置ける。文章は残る。何度でも読み返せる。丁寧な文面ほど、こちらも丁寧に返さなければと思う。断るにも、言葉を選ぶ。受けるにも、できることとできないことを分ける。


 それは仕事だった。


 宿を続けたいと思った以上、避けられない仕事。


 悠真は、画面の一件を開いた。


『一人で二泊したいのですが、可能でしょうか。食事は少なめで構いません。できれば、誰ともあまり話さずに過ごしたいです』


 短い問い合わせだった。


 名前は女性名。年齢は分からない。希望日は平日。二泊。


 二泊。


 湯守荘ではまだ受けたことがない。


 一泊なら何とかなる。だが二泊となると、食事も湯も布団も、客との距離も変わってくる。誰ともあまり話さずに過ごしたいという希望は、湯守荘に合っているようにも思える。けれど、完全に放っておく宿ではない。体調や食事の確認は必要だ。


 受けられるのか。


 すぐには決められない。


 悠真は、返信の下書きにこう書いた。


『お問い合わせありがとうございます。二泊でのご滞在について、現在の当館の体制で無理なくお受けできるか確認いたします。静かにお過ごしいただくことは大切にしておりますが、お食事や体調面の確認など、最低限お声がけする場面がございます。その点も含めて、改めてご相談させてください。』


 硬い。


 だが、嘘ではない。


 送信する前に、灯里に見てもらおうと思った。


 そう思ってから、悠真は手を止めた。


 また灯里に頼ろうとしている。


 六・五割。


 昨日、冗談めかして決めた数字を思い出す。


 頼ることは悪くない。

 だが、全部投げてはいけない。


 悠真は文章をもう一度読み、自分で少し直した。


『誰ともあまり話さずに過ごしたい、というお気持ちは大切にお受けします。ただ、湯守荘は一日一組の小さな宿のため、食事や湯の準備の際に必要な確認だけはさせていただきます。静かに過ごせる形を一緒に考えられればと思います。』


 少しだけ、自分の言葉になった気がした。


 送信は、まだしない。


 千代にも確認したい。二泊の食事は、彼女に負担がかかる。


 悠真はノートに「二泊対応、要相談」と書いた。


 宿が外へ開くということは、こういうことなのだ。


 誰かが来たいと言う。

 そのたびに、湯守荘は自分の形を確かめ直す。


     *


 灯里が来たのは、昼前だった。


 いつもなら玄関に入る前から声がする。


 「おはよー」とか、「今日、風強くない?」とか、「役場で変なチラシ見つけた」とか。特に意味のない一言を携えて入ってくるのが灯里だった。


 だが、その日は静かだった。


 格子戸が開く音がして、少し遅れて靴を脱ぐ音がした。


 悠真が帳場から顔を出すと、灯里は玄関で靴を揃えていた。


 髪はいつも通り明るい。服もいつもの彼女らしい。けれど、動きが少し遅かった。目の下にも薄い影がある。


「おはよう」


 悠真が言うと、灯里は顔を上げ、ぱっと笑った。


「おはよ。今日も山、湿気すごいね。髪が勝手に増殖する」


 いつもの軽口。


 けれど、笑い出すまでに半拍遅れた。


 悠真はそれに気づいた。


「疲れてる?」


「全然」


 即答だった。


 真帆の「何でも大丈夫」と同じ速度だった。


 悠真は黙った。


 灯里はすぐに、まずいと思ったような顔をした。


「……ちょっとだけ」


「うん」


「役場の方が少し忙しいのと、湯守荘のページ確認と、あと家の用事が重なっただけ」


「だけ、が多い」


「三つくらいなら現代人は普通」


「普通でも疲れるだろ」


「まあね」


 灯里は帳場へ入り、椅子に座る前にノートパソコンの画面を覗いた。


「問い合わせ増えてる?」


「少し」


「おお、来たね」


 声は明るい。


 だが、椅子に座った瞬間、肩が少し落ちた。


 悠真は厨房の方を見た。


 千代はまだ来ていない。今日は午後から来る予定だ。玄造は外で床板の材料を見ている。


「味噌汁、温める」


 悠真が言うと、灯里は目を丸くした。


「え、私まだ何もしてない」


「してなくても飲める」


「それ、千代さんみたい」


「影響されてる」


「いい影響だ」


 灯里は笑ったが、断らなかった。


 厨房に行き、朝の残りの味噌汁を温める。


 今日は、豆腐と葱。味は少し濃いめだった。自分用に千代が残してくれたものだが、今の灯里にも合う気がした。


 椀に注いで帳場へ戻ると、灯里は机に肘をつき、画面ではなく黒電話を見ていた。


「どうした?」


「んー、何でもない」


「何でもない、は信用しない方針になった」


「湯守荘、厳しくなってきた」


「灯里が教えた」


「自分の首を絞めたか」


 灯里は椀を受け取り、両手で包んだ。


 ひと口飲む。


 それだけで、顔の力が少し抜けた。


「……濃い」


「疲れてる人用かもしれない」


「千代さん、怖いな。いないのに当ててくる」


「灯里は明るく倒れるらしいから」


「その言葉、禁止にしたい」


「でも便利なんだ」


「便利にしないで」


 灯里は文句を言いながら、味噌汁をもう一口飲んだ。


 その姿を見て、悠真は少しほっとした。


 人は、食べると少し現実に戻る。


 それは千代から何度も教わったことだった。


     *


 問い合わせの確認は、午後からにした。


 灯里にすぐ画面を見せようとした悠真を、灯里本人が止めた。


「先に、山吹見ていい?」


「山吹?」


「うん。昨日の足湯のままになってないか、見たい」


「片づけたけど」


「じゃあ、空気を見たい」


 灯里がそう言ったので、二人で山吹へ向かった。


 部屋は整えてあった。


 木桶は洗って乾かしている。膝掛けは畳んで棚へ。椅子も戻した。ただ、縁側にはまだ昨日の気配が少し残っているように見えた。


 佳代子が座っていた場所。

 沙織が写真を撮った角度。

 灯里が膝掛けをかけた手。

 玄造が桶を押さえていた位置。


 灯里は縁側に座り、外を見た。


「佳代子さん、また来るかな」


「来ると思う」


「半分雨の日に?」


「うん」


「いいな、半分雨の日」


 灯里は庭を眺めたまま、しばらく黙った。


 いつもの彼女なら、ここで冗談を一つ入れる。

 今日は入れなかった。


 悠真は少し離れて座った。


 灯里が、ぽつりと言った。


「私さ」


「うん」


「人が帰った後の部屋、好きなんだよね」


「前も言ってた」


「うん。でも、たまにちょっときつい」


「きつい?」


「客が帰った後って、こっちは残るじゃん」


 灯里は自分の手元を見た。


「相沢さんも、佐伯さんも、高森さんたちも、三浦さんたちも、みんな帰っていく。少し元気になったり、少し話せたり、少し泣けたりして。それはよかったなって思う。でも、こっちはその『少し』を見送って、また次の準備をする」


 悠真は黙って聞いた。


「それが宿なんだって、分かってるんだけどね。分かってるけど、たまに心だけ置いていかれる感じがする」


 灯里の声は明るくなかった。


 でも、暗くもなかった。


 初めて、自分の疲れをそのまま出している声だった。


「灯里は、ずっとそういうのを見てきたのか」


「湯守荘だけじゃないよ。役場でも、地域でも。困ってる人って、意外と来るんだよね。こっちが見つけに行かなくても、道で会ったり、窓口に来たり、電話してきたり」


 灯里は苦笑した。


「私、たぶん、困ってる人の声に気づきやすいんだと思う」


「うん」


「それをさ、昔はちょっと得意技みたいに思ってた。人の気持ちに気づける私、えらい、みたいな。若かったね」


「今も若いだろ」


「そういう意味じゃなくて」


 灯里は少し笑った。


「でも、気づけるって、助けられることとは違うんだよね。気づくだけで、何もできないこともある。気づいたのに助けられなかったこともある。気づいたせいで、自分が疲れることもある」


 悠真は、言葉を探さなかった。


 探すと、たぶん間違える。


 灯里は続けた。


「湯守荘はさ、いい宿だと思う。まだ始まったばかりだけど、いい場所になってると思う。でも、ここに来る人って、みんな何か持ってるじゃん」


「うん」


「その何かを、私が勝手に受け取りすぎる日がある」


 勝手に受け取りすぎる。


 それは、灯里らしい正直な言い方だった。


 誰かが頼んだわけではない。

 でも、彼女は受け取ってしまう。

 寒そうな声、泣く前の礼儀正しさ、食べられない人の即答、笑いながら我慢する顔。


 それが分かるから、動く。


 動けるから、周りも頼る。


 そして疲れる。


 悠真は、千代の言葉を思い出した。


 あの子は、明るく倒れる。


「灯里」


「うん」


「今日は、問い合わせ見なくていい」


「え、でも」


「俺が見る。分からないところだけ、あとで聞く」


「でも、最初の対応」


「六・五割頼るって言った」


「うん」


「今日は、四割くらいにする」


 灯里は、ぽかんとした顔をした。


 それから、少し困ったように笑った。


「悠真が割合を操作してきた」


「学んだから」


「えらい」


「子ども扱い」


「いや、ちゃんとえらい」


 灯里は膝に手を置き、息を吐いた。


「じゃあ、今日は四割で」


「うん」


「でも、完全に休むと落ち着かないから、写真の整理だけする」


「それは休みなのか?」


「私の中では軽作業」


「じゃあ、写真整理まで」


「はい」


 返事は素直だった。


 その素直さが、逆に疲れの深さを示しているようで、悠真は少し心配になった。


 だが、心配しすぎる顔をすると、灯里はまた笑って誤魔化すだろう。


 だから、言葉だけ置いた。


「味噌汁、おかわりある」


 灯里は少し目を丸くした。


 そして、ふっと笑った。


「湯守荘式の優しさだ」


「千代式かもしれない」


「じゃあ、もらう」


     *


 午後、悠真は一人で問い合わせに向き合った。


 二泊希望の女性には、下書きを整えて送った。


 受けられるかどうかは即答しない。静かに過ごしたい気持ちは尊重する。ただし、食事や体調の最低限の確認は必要。二泊の場合、二日目の食事や掃除について相談したい。


 送る時、指が少し震えた。


 それでも送った。


 次の問い合わせは、日帰り入浴希望だった。


 紹介ページには「日帰り入浴は現在お受けしておりません」と明記している。それでも問い合わせは来る。


 以前なら、断ることに胃が痛くなった。


 今も痛い。


 だが、文章はすでに決めてある。


『申し訳ありませんが、湯守荘では現在、日帰り入浴はお受けしておりません。安全面と清掃・湯の管理の都合上、宿泊のお客様のみのご利用とさせていただいております。再開できる時期が来ましたら、紹介ページにてお知らせいたします。』


 送信。


 胸は少しざらつく。


 でも、無理なものは無理だ。


 宿を壊してまで客を入れない。


 自分を壊してまで受けない。


 その次の問い合わせは、少し迷った。


『母と二人で泊まりたいのですが、母は認知症が少しあります。夜に不安になることがあります。小さな宿なら落ち着くかと思い、ご相談です』


 悠真は、すぐに返事をしなかった。


 これは難しい。


 受けたい気持ちはある。

 しかし夜に不安になるということは、宿側の見守りが必要になる可能性がある。湯守荘には夜間スタッフが複数いるわけではない。家族の付き添いがあっても、古い建物で危険がないとは言えない。


 安易に受ければ、客にも宿にも負担が大きい。


 悠真はメモに書いた。


『認知症あり。夜間不安。要相談。現体制では難しい可能性。地域の宿泊支援? 代替案?』


 断るにしても、冷たくしたくない。


 でも、できないことをできると言ってはいけない。


 こういう時に灯里へ投げたくなる。


 悠真は山吹の方を見た。


 灯里は、今、写真整理をしているはずだ。


 今日は四割。


 ここは、聞くべき四割なのか、自分で考えるべき六割なのか。


 迷った末、悠真はまず自分で文章を下書きした。


『お問い合わせありがとうございます。お母様とのご宿泊について、状況を丁寧に教えていただきありがとうございます。湯守荘は小さな宿で静かな環境ではありますが、古い建物で段差があり、夜間に常時見守りができる体制ではありません。そのため、お母様のご不安の程度や夜間のご様子をもう少し伺ったうえで、当館で安全にお迎えできるか慎重に判断させてください。もし当館でのご宿泊が難しい場合も、近隣でより設備の整った宿をご案内できるか確認いたします。』


 ここまで書いてから、灯里に見せることにした。


 これは四割の範囲だ。


 たぶん。


     *


 山吹へ行くと、灯里は縁側でスマートフォンを見ていた。


 写真整理のはずだったが、画面には湯口の写真が映っている。玄造が撮り直しを指示したあの写真だ。


「どうした?」


 悠真が声をかけると、灯里は顔を上げた。


「この写真、強いなって思って」


「湯口?」


「うん。三浦さんに届いたやつ。これ撮った時は、ただいい写真だと思ったけどさ。誰かが昔の音を思い出すとは思わなかった」


「うん」


「写真も怖いね」


「怖い?」


「届いちゃうから」


 その言葉は、問い合わせに向き合っていた悠真にも分かった。


 言葉も写真も、外へ出すと届く。


 届くことは嬉しい。

 でも、届いた先には人がいる。


 その人が何を思い出すか、こちらには分からない。


「問い合わせ、見てもらっていい?」


 悠真が言うと、灯里はすぐに立ち上がりかけた。


 悠真は手で止める。


「ここでいい。文章だけ」


「了解」


 スマートフォンに下書きを表示して見せる。


 灯里は真剣に読んだ。


「いいと思う」


「冷たくない?」


「冷たくない。むしろ、ちゃんと考えてる」


「受けられないかもしれない」


「それを最初に分かってもらうのも優しさだよ」


 灯里は少し考えた。


「ただ、『認知症』って言葉をこちらから強く返さない方がいいかも。相手が使っていても、お母様って書く方が柔らかい」


「ああ」


「あと、近隣で設備の整った宿って書くなら、本当に案内先を探す必要がある」


「そうだな」


「それは私、明日少し調べる」


「今日は?」


「今日はやらない」


「えらい」


「でしょ」


 灯里は少し誇らしげに言った。


 その顔が、少しだけいつもの彼女に戻っていた。


「ありがとう」


「礼を受け取りました」


 灯里はそう言って、また湯口の写真を見た。


「悠真、ちゃんと返事できるようになってきたね」


「まだ怖いけど」


「怖いままでいいんじゃない」


「いいのか?」


「怖くなくなったら、雑になりそう」


 灯里は画面を消した。


「怖いから、ちゃんと確認する。怖いから、できないことをできるって言わない。そういう怖さなら、少し持ってていいと思う」


 その言葉は、今日の悠真にちょうどよかった。


「灯里も、疲れたら言っていい」


 悠真が言うと、灯里は苦笑した。


「練習中」


「何を?」


「疲れたって言う練習」


「難しい?」


「かなり」


 彼女は少しだけ庭を見た。


「私、明るくしてる方が楽な時もあるから。暗くなると、自分で戻れなくなりそうで」


 初めて聞く言葉だった。


 悠真は、すぐには返さなかった。


 灯里は続ける。


「でも、明るくし続けるのも疲れるんだよね。面倒な体質」


「体質なのか」


「たぶん」


「じゃあ、湯守荘では、明るくない日があってもいい」


 言ってから、少し真っ直ぐすぎたかと思った。


 灯里は、こちらを見た。


 それから、少しだけ目を細めた。


「変な言い方」


「真帆さんにも言われた」


「でも、ちょうどいい」


「それも言われた」


「じゃあ、湯守荘名物だ」


 灯里は笑った。


 今度の笑いは、無理に明るくしたものではなかった。


     *


 夕方、千代が来た。


 灯里の顔を見るなり、短く言った。


「寝不足」


「第一声がそれですか」


「顔」


「化粧してるんですけど」


「隠れてない」


「厳しい」


 千代は厨房へ入り、鍋を火にかけた。


「灯里、今日は食べて帰る」


「え、でも家で」


「食べて帰る」


「はい」


 逆らえなかった。


 夕食は、湯守荘のまかないだった。


 白飯。味噌汁。大根と鶏の煮物。卵焼き。漬物。


 客に出す膳ではないが、ちゃんとしている。千代の料理は、まかないでも手を抜かない。ただし、盛り方は少し大胆だった。


 灯里の茶碗には、いつもより多めの白飯がよそわれた。


「多いです」


「減らす?」


「……食べます」


「よし」


 千代は頷いた。


 悠真も一緒に食べる。


 食事中、問い合わせの話をした。二泊希望の女性。日帰り入浴を断ったこと。認知症のある母親との宿泊相談。


 千代は味噌汁を飲みながら聞いていた。


「二泊は、まだ早いかもしれない」


「やっぱり」


「でも、平日なら試す価値はある」


「食事が大変では」


「二日目は軽くする。客にも確認」


「はい」


「認知症の方は、慎重」


「はい」


「家族が疲れている場合もある」


 千代は短く言った。


「宿が受けきれない疲れもある」


「そうですね」


「断るなら、代わりを探す」


 灯里が頷いた。


「明日、近隣でバリアフリー寄りの宿とか、夜間対応できそうなところ調べます」


「今日じゃない」


 千代が言う。


「分かってます。今日は食べてます」


「よし」


 灯里は白飯を口に運んだ。


 千代に見張られているせいか、いつもより素直に食べていた。


 悠真はその光景を見て思った。


 客だけではない。


 湯守荘を支える人たちにも、椀が必要だ。


 相沢に粥を出すように。

 真帆に薄い味噌汁を出すように。

 高森悠斗に小さなおにぎりを出すように。

 佳代子に蒸し芋を出すように。


 灯里にも、濃いめの味噌汁と多めの白飯が必要な日がある。


 自分にも、たぶんある。


     *


 夜、灯里はいつもより早く帰った。


 千代が「帰って寝る」と言い、灯里は「はい」と返した。


 素直すぎて、少し心配になった。


 玄関まで見送ると、灯里は靴を履きながら言った。


「今日、助かった」


「こっちこそ」


「違う。私が」


 彼女は少し照れたように目をそらした。


「味噌汁と、四割対応」


「四割対応」


「そう。助かった」


 悠真は頷いた。


「また必要なら言って」


「言う練習する」


「うん」


「でも、言えなかったら察して」


「難易度高いな」


「湯守荘の人ならできる」


「急に厳しい」


 灯里は少し笑った。


「じゃあ、また明日」


「明日は無理しなくていい」


「はいはい。六割くらいで来ます」


「四割でいい」


「じゃあ五割」


「刻むな」


 いつもの軽口を残して、灯里は帰っていった。


 だが、背中は少し軽く見えた。


 たぶん、気のせいではない。


 厨房では、千代が食器を片づけていた。


「灯里、食べた」


「はい」


「なら、今日はいい」


「千代さん、灯里に甘いですね」


「甘くない」


「そうですか」


「食べない人には厳しい」


 それは甘いのではなく、宿の基本なのかもしれない。


 悠真は笑った。


     *


 帳場に戻り、宿帳を開いた。


 今日の欄に書くことは多かった。


『紹介ページ経由の問い合わせが増える。二泊希望、日帰り入浴、母親との宿泊相談。文章の問い合わせも疲れる。灯里、疲れている。山吹で話す。困っている人の声に気づきやすいこと、気づいても助けられないことがあること。今日は四割頼る。千代さん、灯里に濃い味噌汁と多めの白飯。支える人にも椀が必要。』


 最後の一行を、少し考えて書く。


『宿は客だけを見ていても続かない。宿を支える人が食べて、眠れることも、宿の仕事。』


 鉛筆を置く。


 黒電話は静かだった。


 ノートパソコンの画面も閉じてある。


 今日の問い合わせは、今日できる分だけ返した。できない分は、明日へ回した。それでいい。全部を一日で片づける必要はない。


 湯守荘は、少しずつ外へ開いている。


 その分、内側を守る必要も出てきた。


 客のための宿である前に、ここで働く人が壊れない宿でなければならない。


 それは、祖父が言ったことでもある。


 宿は、一人の美談にしたら終わりだ。


 悠真は帳場の灯りを落とし、浴場の方を見た。


 明日の朝も湯を見る。


 問い合わせも見る。


 でも、その前に飯を食う。


 それが宿を続ける順番なのだと、少しずつ分かってきた。

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