35、里帰り
骨折で入院した秋川のことも大事だけれど、放置していた自分の問題と、いよいよ向き合わねばならない。
江夏なつみは、もしかしたら休息を欲しがったのかもしれない。
以前、リュックを背負って家出してから、そのまま家に帰っていない。
男と一緒に駆け落ちした、という正解情報は何故だか広まっているようだというのが春木情報であり、となれば「自分探しの旅に出たくなった」とか「町工場で住み込みで働いている」とか「一人暮らしをはじめた」などという母に送った便りに書かれたことも、嘘まみれだったというのが既に母の知るところとなっているだろう。
そんなわけで、幼い頃より暮らした町に里帰りした江夏なつみは、やはり少しこわかった。
大学受験も失敗して、卒業式直後に男と逃げるなんていうのは、親から見れば耐え難い悪行に他ならないと想像がついたからだ。
それでも、秋川のことを放っておけなかった自分を誇らしくも思ってしまうという複雑な感情。
視界にあるのは、庭で遊ぶ一匹と一人。猫じゃらしでじゃれ合っている。
すっかり歩き方がよろよろになった猫や、すっかり白髪の増えた母を電柱の影から眺めていると、老いた元野良猫がまだ残っていた野生の勘を発揮させて江夏に気付き、電光石火で駆け寄ってきた。
「ああ、ミユちゃん、どこいくの」
母が、猫の名を呼びながら、駆け出てきて、猫が江夏なつみの足にまとわりついた。
「……なつみ?」
信じられない、といった表情だった。その表情は一瞬だけ綻びかけ、すぐに針のように鋭く険しくなり、「やっほー」などとふざけた挨拶をする娘につかつかと早歩きで近寄ると、渾身の平手打ちをかました。
「あ、あはは……」
涙目で申し訳なさそうに笑う江夏だったが、嬉しそうに何条もの涙を流す母親を見て、どうにも動くことができなかった。ただ思考を停止して、その場に立ち尽くしている。雑種の三毛猫が、高級な靴で爪とぎをはじめたことにも気付かずに。
母は、もう一発、反対の頬をバチンと殴ると、今度は娘を抱きしめた。強く、強く。
「く、くるしいよ、おかあさん」
「全部、知ってるんだからね。あんたが知らない男と逃げたことも、全部。全部」
「知らない男じゃ、ないよ」
江夏の母は、秋川あきひとを何度か見たことがある。卓球部だった頃、三度ほど家の前で「じゃあな、また明日」と言いながら手を振る姿を見たことがあり、その際になつみに対して「あの子、誰?」と訊ねたこともあるし、それが娘の好きな人だということも直感的に感じていたはずである。しかし、霊界の連中の手によって秋川あきひとに関する記憶を失っているのだ。
母は言う。
「とにかく、家に入りなさい。あんたが出てった時のまんま、残してあるから」
「うん……ただいま」
「ごめんなさいでしょ、まず。まったく。おかえりなんて優しい言葉もらえるなんて思ってんじゃないわよ」
「あ、ごめんなさい」
「まったく。おかえりなさい」
江夏は小さく、ふっと笑った。
「何笑ってんの」
そして、二人と一匹、家と道路の境界をまたいだ。




