第32話
「陛下には玉座を降りて頂きたいだけだよ」
なんでもないことのように言い放たれた言葉に、フレアもサーシャマリーも息を飲む。フレアに庇われるようになっていたサーシャマリーは、身体を乗り出して声をあげる。
「まさか!謀反など、許されませんわ!それに、お父様がそうやすやすと退位されると思っているの!?」
「どうかなぁ。できれば簡単に降りてもらいたいんだけどねぇ。僕らもあなた達を殺したくなんてないし」
腕を組んでこちらを見下ろすデュークに、サーシャマリーは今にも掴みかかりそうな気がして、フレアは彼女の前に立ちあがり、視界からデュークの姿を隠した。
「…取引の、材料として使うつもり?」
「それも、ある。でも君はちょっと違うけどね」
デュークも自分の力を知っている。そう思うと吐き気がこみ上げてきそうだった。今まで自分が、いや自分達がどれだけ必死になって隠してきたことか。どんな伝手を使ったのかわからないが、こんな奴等が公爵の地位に生まれてしまったことを呪うしかない。悔しさに自然と手を握りしめていた。
デュークの完全に人を見下したその表情には、以前城であった時のような軽薄さはかけらもない。あるのは酷薄な、黒い、いやらしいばかりの笑みだ。
「今ごろオーランジュはどんな顔してるんだろうね。悔やまれるのは、今やつの顔を見れないことくらいかな」
オーランジュという名に、フレアは目を見開く。デュークはそれに満足そうに目を眇める。
「バレてないとでも思ってた?木陰でこそこそ二人で会っていたこと。まあ、無能な他の近衛隊員達は知らないだろうけどね。僕は気付いてたよ、フレア。君が、オーランジュの弱みだろうって、ね」
「なにを…言っているの」
デュークの言葉に声が震えそうになる。
「おやおや、清純ぶりっ子かい?まさかオーランジュが君のことを本当に『幼馴染の妹』みたいにしか思っていないなんて、本気で言わないだろうね?」
デュークのにやけ面が深くなる。
「よかったよ、フレア。君が魔障持ちの『呪い』の娘で。あいつの鼻を明すのに、これ以上の人材はないね」
そういうとデュークはゆっくりとフレアの正面に立つ。睨みつけるフレアの視線を意に介さず、デュークはフレアの髪に手を伸ばした。
「許さないわ」
低い、しかしはっきりとしたフレアの声にデュークは触れる寸前だった手を止める。まっすぐに自分を睨むフレアと目を合わせる。
「あなたが私の髪に触れるなんて、許さないわ。…あなたなんか、がね」
サーシャマリーだけでなく、オーランジュにまで手を伸ばそうとしているデュークに、震えそうだった心が今はピタリと止んでいるのを感じた。あれほど、オーランジュに頭を撫でまわされていても感じなかった不快感が、今は手を伸ばされただけで全身を悪寒が走る。
――――髪が、嫌がってる…触れるなと言っている…
心の中に響き渡る姿なき声に、フレアは従うように口を開いた。
「…許さないわ」
そう言ってデュークから距離を取るように一歩下がる。
さっきまでとは明らかに態度の変わったフレアに、デュークは一瞬呆気にとられたようだが、中に浮いたままの自分の手を見つけると拒否されたことをようやく察知したのか、その手を拳に握り顔から笑みを消し去った。
「…そうやって、お前たちは僕を拒絶するんだ!」
噛み締められた唇から発せられた言葉に、フレアは無言で返す。
だが、何かが切れてしまったかのように、デュークは顔を赤く染めて叫びだした。
「お前も!オーランジュも!お前の兄も!!僕のことを認めようとしない!僕を受け入れない!まるで、何もできないような、弱い人間を見るような目をする!ふざけるなっ!!そうするべきなのは僕なんだ!」
フレアを、次いでサーシャマリーさえも指差し大声を張り上げる。
「僕は公爵家の嫡男だぞ?偉いんだ!生まれながらにして人の上に立つことを許されているんだ!それなのに父上は僕を近衛なんかに勝手に入れて!挙句の果てに第4隊だと!?なんでだ!僕はもっと上にいる人間だ!あんな低能な奴らと僕を一緒にするなんて、ありえない!そのうえオーランジュが副隊長だって!?なんであいつなんだ!そこにいるのは僕のはずなのに!!」
一気に捲くし立てたデュークは、そこでピタリと言葉も動きも止まる。叫んだ表紙に仰向いたままだった顔に表情はなく、目は中を見たまま見開いている。
言葉よりもその姿に寒気を覚えたフレアは、そっとサーシャマリーをかばうように身を屈める。
やがて、ゆっくりと大きな息を一つ吐いたデュークは、乱れた前髪を払うと抱き合うようにしているフレアとサーシャマリーに視点を合わせた。そして大きく口元を歪ませる。
「だからね、こんな王家なくなっちゃえばいいと思ったんだよ」
長年積もったコンプレックスなのだろう。もはやフレアにはデュークの気持ちなどかけらも理解できなかった。だが、デュークはすでに彼女たちの反応など気にもしないようだ。いっそ得意げに腕を組みなおす。
「僕の有能さを理解できないような奴らしかいないんじゃ、このアーデルヴァイドの未来もたかが知れてるよ。だから、僕達が代わってあげようってわけ。あなた方二人には、せいぜい役に立ってもらうよ」
そう告げるとさっと身を翻して扉から出て行った。その後を追って逃げるように部屋を出たネルの表情は、今のできごとに青ざめていた。
ガチャンと一際大きな音がして鍵が閉まる。はぁという溜息とともに、サーシャマリーの身体から力が抜けたので、慌ててフレアは彼女を抱え直す。
「大丈夫ですか?姫様」
「ええ…でもいつまでもこうしてはいられないわね。早くお父様に知らせなくちゃっ」
たしかに彼らが本当に謀反を企んでいるのだとすれば、策はサーシャマリーを誘拐しただけではないはずだ。王城にいる国王一家にも危険が忍び寄っている可能性が高い。
二人は改めて頷き合った。