22:穏やかな日々
結局その日、アステルが何をしたかといえばロペの観察だった。持ってきていたノートに延々とロペの走る姿や歩く姿を観察して、記録する。リディアも特にアステルにかまうことなく、ずっと彼女の仕事を黙々とやっていた。夕方になれば迎えに来たロアに連れられて、アステルはリディアの家を後にした。塔に戻る前、アステルは本屋へと寄って犬の図鑑を買った。
もちろん、図鑑を運んだのはロアだった。
そうしてアステルとリディアは、ほぼ毎日のようにどちらかの家に滞在するようになっていた。兎に角じっとしていられないアステルは、暇を持て余してリディアの家の道具や近隣の設備の改造をして感謝されたり怒られたりしていた。水汲み用のバケツから足が生えてきた時、リディアの父が驚いて腰を抜かしたのだ。しかし、簡単に水が運べるので最終的に便利な道具として受け入れられた。リディアと言えば気まぐれなアステルの錬金術講座を流し聞きしていたことで、爆発する危険素材や、使える薬草にちょっと詳しくなっていた。
ロペはアステルのみならず、ロアにすらなついていた。ロペとロアって似てるよね、とアステルが言ったとき、ロアは無言でアステルの両頬を引っ張っていた。本当はリディアも同じことを思っていたけれど、彼女は賢いので言わなかった。
そんな、くだらなくも平和な日々が続いていた。
「アステルさん。……あの、ついてきてほしいところがあるんです」
街から家へと帰ってきたリディアの呼びかけに、図鑑を読んでいたアステルは顔を上げた。窓から差し込む光は少しずつ減っており、もうしばらくもすればロアが迎えに来るであろう、夕暮れ時だ。
「……いいよ。どこまで?」
「案内します。ついてきてください」
アステルは名残惜し気に図鑑を閉じる。背を向けたリディアの後をのんびりと追っていった。パタン、と閉じた家の中、ロペだけが取り残される。クゥン、とさみし気な鳴き声が夕暮れの家の中、落ちていった。数分後、ガチャリと開かれた玄関扉にロペは起き上がって尻尾を振ったが、訪問者は主人ではなくロアであった。
「……アステル?」
***
一方そのころ。
二人は馬車の中にいた。正確に言えば馬車の床に転がされていた。
もう少し詳しく説明すると縄でぐるぐるに縛られて布の猿轡を噛まされていた。腕と胴を固定するように巻かれた縄は固く、身じろぎする度に皮膚を擦る。床に耳をつけているせいで馬車の振動や音がダイレクトに伝わってきた。
どうしてこうなったかと言えば、リディアに連れていかれた先に居たガラの悪い男にやられたからだ。
アステルの目線の先には生臭いにおいがこびりついた黒いブーツ。持ち主は2人を攫った人相の悪い男。傭兵崩れだろうか、腰に差したナイフと盛り上がった筋肉から、それなりの場数を踏んでいると見える。
「布の猿轡って、……あれ、全然普通にしゃべれるじゃないか。意味あるのかい?これ」
「……なんでお前さん、攫われてそんな元気なんだよ」
「元気な方がいいと思うけどね、僕は」
「そうか?大人しい方がいいと思うけどな、俺は。大人しけりゃ、殴られねえだろ」
「え」
ごっ、とアステルの腹に男のブーツの先がめり込んだ。痛みと呼吸を奪われるような衝撃に、アステルがヒュウヒュウとかすれた息を吐く。その光景を見ていたリディアは息をのんだ。瞳には薄い涙の幕が張る。
「そうやって静かにしてな、お嬢さん」
ガラガラと進む馬車はリュザナをでて郊外へ続く道をひた走っていた。
「なんで、なんで、ロアさん、ああ、……ごめんなさい、……ごめんなさい、……ごめんなさい…」
すすり泣くリディアの声が聞こえてくる。男はアステルの軽口は許さなかったが、この泣き声は許容範囲らしい。痛みで脂汗を垂しているアステルの耳に、馬車の外から犬の鳴き声が聞こえたような気がした。
そんなこんなで馬車が止るまで、アステルは合計三回男に蹴り飛ばされていた。三回目ともなると、あまりに懲りないアステルに、蹴っていた方の男がドン引きしていた。馬車をおろされた二人の目の前にあるのは、古びた館だ。小さな農村を見下ろす位置にある館は、おそらくこの地域の領主かなにかの物であろう。リュザナからそれほど離れていないことが幸いだった。
御者をしていた男も合流して、四人になった誘拐犯と被害者一行はぞろぞろと館の中へと入っていった。
正面扉の真鍮の装飾はくすみ、錆だらけ。扉の奥に広がる室内はとても暗い。領主の家だというのに明かりがついていないのだ。加えて埃とカビの混ざった臭いがうすらと充満している。廃墟ではない分、行き届いていない手入れが目立つ。碌な掃除もできていないのだろう。
アステルとリディアは御者の男が持つランタンの明かりに黙々とついていく。胴と手が縛られているので、転べばノーガードで顔面ダイブだ。二人は普段よりもやや慎重な足取りで歩みを進めていた。
「あっ」
自分の足に足を引っかけたアステルが盛大に転んだ。板張りの床にしたたかに顔やひざを打ち付ける。
「あだっ!!」
痛みに生理的な涙が浮かぶ中、もぞもともがきながら起き上がろうとするアステルを、先ほど馬車の中にいた男が担ぎ上げた。
「鈍くせぇ……」
「おや、はごんでぐれ、るのがい?」
鼻から鼻血をボトボト落とし、己のシャツを赤く染めながら問いかけたアステルに、男は冷たい声で吐き捨てた。
「これ以上怪我したくなかったら黙ってろ、イカレ野郎」
歩みが速くなった一向に、同じく縛られているリディアも必死についていく。館の外から犬の遠吠えがきこえた。
「今夜は野犬がうるせえな……、なんか出たか?」
御者の男がランタンを窓に掲げるが、夜のとばりが下りた今、窓の外は何も見えやしない。
窓に反射して写るリディアの、ぽたぽたと両目からあふれる涙は先ほどから止まることなく流れ続けていた。
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