15:ロアという男
眠たげな眼でロアに問いかけたアステルの片手には分厚い本がある。どうせ飲まず食わずで読書に耽っていたのだろう。リディの存在をアステルに紹介しようとして後ろを振り向いたロアの目に映ったのは、先ほどにも増して険しい顔をしたリディだった。
「さあな。お前の客だとよ」
後ろで怯えたように縮こまっていたリディはどこへやら、彼女は今、両の拳を握りしめてアステルをにらみつけるようにして立っている。
漂う修羅場の予感に、ロアは一歩体をずらして内心で静かにため息を吐いた。
「あんたがアステル?」
「…………」
ギリギリとアステルを睨みつけるリディの顔を無言で眺めるアステルの表情は、まるでネズミや羽虫を眺めているような冷徹な観察者のものだった。じい、と彼女を眺めていたのは10秒程度だろうか。ぷい、と視線を外したアステルはロアを見ると唇を尖らせて不機嫌な顔をした。
「ねぇ、ロア。だから何それ」
ロアは持ってきていた食材の入った紙袋を近くのダイニングテーブルに置くと、肩をすくめる。
「知らん。お前に用事だと」
「僕は忙しい」
おなかすいたな、なんか食べたい。と呟くように言って再びソファに身を沈めようとしたアステルにリディは顔を真っ赤にした。
「わっ、私の!! 私の話を聞いてよ!! 兄さんを返してよ!!」
リディはそう叫んでポケットに手を突っ込んだ。彼女の震える指先に硬い金属と革の――ナイフの温度が伝わる。
「何にも、何にも!! 分かんないんだもん!! 返して!! 返してよ!!」
少女には何が起きているのか分からない。失踪した兄の唯一の手掛かりがここだった。たとえ、手がかりを示したのがどれほど胡散臭い男だったとしても。此処を頼るしかないのだ。悲鳴のような絶叫を喉から迸らせて、ポケットのなかのそれを掴もうとしたその時。ミシリ、と彼女の手首に骨がきしむような痛みが走った。
瞬きの間だ。ナイフを出す暇すらなかった。
先ほどまでアステルのいるソファを見据えていたリディの視界が真っ暗になる。
ギョッと反射的に上を見て、見た瞬間、彼女は後悔した。
ロアが彼女からアステルの姿を遮るように前に立っている。
彼の大きな手が少女の細い手首を掴み、押さえつけていた。
身の丈が2m近くある大男とは思えないほど静かで俊敏な動き。
一切の身動きが出来ぬままロアに封じ込められたリディは驚愕と恐怖で立ちすくむ。
カチ、と震えた歯が耳障りでうるさかった。
見上げた男の顔は逆光になっていてよく見えない。
影が落ちて真っ暗になった顔の中、緑の目だけが爛々と光っているのが分かった。
「ッ……ひッ……」
恐怖で顔が引き攣り、ヒュウヒュウとか細い呼吸を繰り返すリディにロアは静かに声を落とす。
「それをアステルに向けるなら、お前の腕をへし折る」
血管の浮いたロアの手がリディの手首をギリギリと絞めていく。
「それを渡して冷静に話をするなら、手を放してやる。俺はこっちを勧めるが」
目の前の大男が一言を発する度、リディの全身が総毛立った。
きっと、ドラゴンに見下ろされたらこんな気分になるのだろう、と現実逃避のようにリディは考える。そのぐらい、目の前の存在は大きく、恐ろしかった。
「どうする」
尋ねるロアの声はどこまでも平坦なのに、彼女の手首を絞める力はどんどん強くなってきている。両の足は痙攣し、冷たい汗が膝裏を伝うのが気持ち悪い。リディの瞳からとめどなく涙がこぼれ落ちていく。へたりと腰が抜けて、リディが床に座込んでもなお、ロアの手枷は外れない。
リディは恐怖と緊張で張り付く喉を必死に震わせて言った。
「わ、……わた、わたし、…わたしま、す、……わたッ、すから」
力の抜けたリディの手を解放し、彼女のポケットに手を突っ込んだロアはナイフを無造作に引き抜くと、それを見て顔をしかめた。
革製の鞘に納められているのは、よく鍛えられた分厚い刃と、研ぎ澄まされた鋭い切っ先。
滑り止めが巻かれた持ち手には薄らと血の染みが残っている。
年端もいかぬ少女が持つにはずいぶんと血生臭い。
それを腰のベルトに差し込んだロアがソファの方を振り返ると、一部始終を見ていたアステルが驚いたような顔を向けていた。
「……今、僕って殺されかけてた?」
「どうだろうな。少なくとも脅す気はあったみたいだが」
アステルの場違いなほど緩いコメントに、ロアの場を支配する威圧感が、ふ、と掻き消える。それでもリディの体の震えは止まらない。牙を収めたとて、ドラゴンが同じ部屋に居て安心できる人間は果たしているのだろうか。部屋の窓から差し込むあたたかな昼間の光は、リディの震える体を温めるには力不足であった。
「なんで?」
「俺に聞くな、テメェの記憶に聞け」
「身に覚えがないんだもの」
「だろうな。知ってた」
「おお、勿論僕がいい子だからだね」
「お前が人の逆鱗を逆撫でする奴だからだよ」
ええー!!と不満げなアステルに肩をすくめたロアはリディに向き直った。
「で、実際どうなんだ」
ロアは片膝をついて床にへたり込んだリディと目を合わせようとする。
だが、彼女はロアが恐ろしいのか視線をそらし、拳をぎゅっと握りしめて、口を真一文字に結んでいた。カタカタと小刻みに震える体が、先ほどの恐怖の程を雄弁に語っている。今の彼女はロアの視線一つすら脅威に思えるのだろう。
仕方なくロアは立ち上がり、リディから距離をとった。アステルのいるソファの背もたれに軽く尻を乗せてリラックスしたような姿勢を作る。そしてリディから敢えて視線を外しながら彼女に声をかけた。
「わけわかんなくてもいいから話せ。殺意がねぇのはわかってる。これ以上なんかする気もねぇから」
「えー、もう外ポイでいいじゃん」
「よくねぇよ、単独犯ならともかく裏に誰かいたらまた誰か来るだろうが」
「……めんど」
「武器持ち出すレベルだぞ、めんどで済ませんな」
「僕悪くないし」
「それはアイツの話聞いてからだな。お前がやらかしてる可能性も俺は疑ってんだ」
「なんもやってないもん」
ソファでもぞもぞと不満を言う群青の髪を人差し指で弄ぶ。譲らぬ様子のロアに、アステルは渋々と言った様子でソファから身を起こすと、背もたれにだらりと顎を乗せてリディの方を向いた。何もかもを見透かすような、満月の瞳がじとりと少女を射貫く。一つ大きく鼻をすすったリディは意を決したように震える唇を開いた。




