アシェル皇子
ラグニルの乗り心地は思ったより悪くなかった。背中側に乗ったビクターがしっかり支えてくれているのもあるが、揺れも少なく、意外なほど安定している。
そろそろ真夜中とあって、大通りに戻っても店はすっかり閉まり、人影はまばらだった。たまにふらつく酔っぱらいが俺の顔を見てぽかんと口を開けているのが気になるが、同乗するビクターの逞しい腕に刻まれたイカつい入れ墨のおかげか、絡まれることはなかった。
ほどなくして、夜霧の向こうに絵本から抜け出してきたような宮殿が見えてきた。
「ついたぞ」
「ありがとう」
「危ないことはないんだよな、ヘレナ」
「えぇ、大丈夫よ」
しれっと嘘をつくヘレナに、俺たちは顔を見合わせたが、ビクターは満足げにうなずき、ラグニルたちを連れて去っていった。
その後ろ姿が見えなくなるのを確認して、ヘレナは使用人用の扉をノックする。3回、2回、もう一度3回。ほどなくして若い女中がひょこりと顔を出し、ヘレナの姿を見て腰に手を当てた。
「もう! 遅いじゃない!」
「ごめんなさい。アシェル皇子の様子は?」
「もうとっくにお休みの時間のはずだけど、今晩はまだ起きていらっしゃるわ」
「何かあったの?」
ヘレナが小声で問いかけると、女中は背後をちらと振り返ってから声を落とした。
「北方に遠征中だったカイラス殿下がついさっき転移魔法で戻られたの」
「転移魔法で? 座標が不安定だと転移が失敗して大変なことになるから、人間の移動は禁止されているはずよ」
「黄痩病の被害が思っていたよりも深刻だったみたいね。魔法士たちが止めるのを押し切って強行したみたい。有識者を集めて緊急の対策会議をするって、上から下まで大騒ぎよ」
「無茶するわね……」
なにやら聞き覚えのある単語がいくつか聞こえた気がする。が、そんなこと気にしている場合ではない。ヘレナは廊下の向こうを慎重に確認すると、声を潜めて言った。
「思っていたよりも騒がしいけど、むしろ好都合かもしれないわ。この騒ぎに乗じて、アシェル皇子のところに行きましょう」
「いいね、秘密の冒険の始まりだ」
「エイデン」
「大丈夫、僕はいたって真剣さ」
「まったく、もう……」
先導する女中とヘレナの後に続き、長い廊下を進む。ときおり足音と共に、書類を抱えた城の人間が早足で歩いていくのが見えた。
「コリンズ、北方山岳地帯の地図と昨年度の遠征報告書の準備はできたか?」
「まだだよ」
「急げ、あと5分でカイラス殿下が到着される」
「誰かルシアン様を見なかったか?」
「さっき回廊にいたぞ、新人の魔法士が荷物の転移先を間違えたらしく、大層ご立腹だ」
なにやら慌ただしい様子で言葉を交わしながら行き来している。俺たちはその度に柱の陰や空き部屋に身を隠し、やり過ごしながら進んだ。
騒がしさから少し離れた静かな回廊にたどり着くと、ようやく俺たちは息をついた。落ち着きなくエプロンをたぐる女中が、油断なくあたりを見まわしながら小声で囁くように言った。
「その扉の向こうがアシェル様のお部屋よ」
「ありがとう、アリシア」
「いいのよ、くれぐれも気をつけてね」
重厚な扉を叩くと、中から小さな声で返事が聞こえた。
「ヘレナ先生……?」
「こんばんは、アシェル様」
寝台に横になっていたアシェルは、まるで柳の枝のように痩せ細っていた。肌は血色がなく、病的なまでに青白い。十二歳とは思えないほど小柄で、頬はこけ、苦しそうに浅く息を繰り返している。
アシェルは扉から入ってきたヘレナの姿を見て、身体を起こそうとしたが失敗し、力なく枕に沈み込んだ。
「……こんな夜中にどうしたの? なにかあったの?」
「そんなところです。体調はどうですか?」
「昼は少し歩いてみたけど、すぐに息が切れて動けなくなった。明日には治癒魔法士が来るみたい」
全てを諦めた顔で天井を見つめるアシェルは、自嘲するように小さく笑った。
「ねぇヘレナ先生、こんなこと何の意味があるんだろう。僕はいつまで生きていたらいい? 僕のせいで、お父様は教会に多額の寄付を強いられている。お母様も僕が病気でいることが、嫌みたい。僕と一緒にいると、いつも困った顔をしてるんだ……」
静かに震えるアシェルの瞳からぽろり、涙がこぼれ落ちる。ヘレナは何も言わずに近寄り、その小さな手をそっと握った。
「アシェル様、今日は私の友人である治癒魔法の専門家を連れてきました」
「専門家? 治癒魔法士なの……?」
「いいえ、教会の魔法士ではなく、独自で治癒魔法の研究を行っているものです」
「研究……?」
基本的に、この世界で治癒魔法を扱うのは教会に属する治癒魔法士だけだ。いまいちピンときていない様子のアシェルの前に、静かに一歩踏み出す。
「こんばんは、アシェル。まずは身体の状態を診てもいいか?」
さぁ、診察の時間だ。




