理屈じゃない涙
「……ジゼル様、エイデン男爵をお雇いするかどうかは、ルシアン様のご許可が必要です」
「お兄様の?」
「ルシアン様より家庭教師の条件として『ジゼル様に不埒な想いを抱かず、適切な距離を保つことができる子持ちの既婚女性もしくは高齢の教師』をお雇いするよう厳命されております」
「ええぇ……?」
なんだその条件。俺が年頃の娘ならまだ分かるが、ただでさえ希少なアカデミーの人材にそんな制限までかけていたのか。見つかるものも見つからなくなる。
エイデンもそう思ったのか、呆れたように肩をすくめた。
「まったく、君の過保護なお兄様には困ったものだよ。僕が結婚適齢期の独身男性だからって、見境もなく手を出すわけじゃない。ジゼルはたしかに魅力的だけど、彼への感情はあくまで友情だよ」
「レナード、エイデンの人柄は俺も保証する。お兄様が戻られたら俺の方から説明するから」
ルシアンお兄様が帰ってくるのは早くて1ヶ月後だ。結論が同じなら待つ理由はない。しかし、レナードは厳しい顔で首をふった。
「……いけません。ジゼル様はいずれ、やんごとなき高貴なお方に嫁ぐご予定です。その際に貞淑さに疑いがかけられることがあれば、困るのはジゼル様です」
「はぁ?」
いかん、本気の「はぁ?」が出てしまった。
やんごとなきお方?一体誰だそれは。
レナードはまるで決定事項のように言い切るが、同意した覚えもない。
そもそも、俺は生涯結婚しないでカーネリア家のすねを齧って生きていくことはお兄様の許可済みだ。
「そんなの、聞いてない。俺の人生は俺が決める。お兄様だって……」
「ジゼル様、お聞きくださいませ。公爵家次男であるジゼル様の婚姻は、当主であるアレクシス様に決定権がございます。ジゼル様がどのようなお考えをお持ちでも、覆すことはできません」
「え……?」
なんだそれ。俺に決定権はない? 俺の人生なのに?
そもそも、人権とか、そういうの。あるだろ?
たとえ勝手に婚約を結ばれても、俺が首を縦に振らなければ成立しないんじゃないのか?
戸惑う俺に、レナードは表情を和らげ優しく言った。
「ご安心ください。ジゼル様がご結婚なさるのは、この国で最も高貴な家門の方でございます。今の生活……いやそれ以上のものが約束されておりますよ」
「い、いらない、そんなの」
「ジゼル様っ! 本当に素晴らしいお方なんです!あの方であれば、ジゼル様を大切に慈しみ、愛してくださいます!」
「……っ、だから、知らないって!!」
小さな子供に言い聞かせるようなレナードの口調に、思わず声を荒げてしまう。
贅沢な暮らし? そんなの……どうでもいい。
俺は、研究さえ出来ればいいんだ。たまたま貴族の家に生まれただけなのに。
これが貴族の“義務”ってやつなのか?
湯水のごとく金を使って好き放題やってきた、その代償だっていうのか?
それでも、見ず知らずの相手と、一方的に決められた結婚なんて、絶対に嫌だ。
「俺は物じゃない。ちゃんと意志がある、人間なんだ! 金があるとか血筋がいいとか、そんなのどうでもいい……なんで分かってくれないんだよ……!」
言いながら、目の奥がじわりと熱くなる。
――やばい。
そう思った瞬間には、視界が滲み、頬を伝って涙が落ちていた。
慌てて袖口でぬぐうが、一度決壊した涙は止まらない。次から次へと大粒の涙があふれてくる。
まずい。人前で泣くなんて。
でも、もう何年も泣いたことなんてなかったから、涙の止め方がわからない。
胸の奥がぐちゃぐちゃで、どうしようもなく苦しい。
「……っ、ひ、ぐ」
「ジ、ジゼル様……!」
涙で霞む視界の中で、レナードが、おそるおそる手を伸ばしてくるのが見えて、反射的にその手を振り払う。ぱしり、と乾いた音が部屋に響いた。
「……あ」
レナードの瞳が、驚きと悲しみでわずかに揺れる。
傷つけたことへの罪悪感が胸に刺さる。
それでも、なにか言おうとすれば、溢れてくる涙が邪魔をした。
俺が『俺』になった瞬間から、ずっとそばにいてくれた。
厳しいけど忠実なレナード。
一歩外に出れば、残酷な現実が待ち受けるこの世界。
だからこそレナードは、俺にとって一番いい未来を考えてくれているんだろう。
子供みたいに泣いたって何かが変わるわけじゃない。
わかっている。わかっているのに。
溢れ出した感情が理性を押し除けて、冷静に言葉を紡ぐことすらできない。
……もう、いい。
このまま、涙が枯れるまで泣いてやる。
小さく肩を震わせながらすすり泣く俺を、
レナードとエイデンが、途方に暮れた顔で見つめていた。




