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誰にも渡さない

ルシアン・カーネリアは憂鬱だった。今日からひと月ほど、屋敷を離れて第一皇子の遠征に帯同しなければならないからだ。


しかも、てっきり見送りに来ると思っていた大事な弟の姿がない。ルシアンは不満げにレナードにたずねた。


「レナード、ジゼルはどうした」

「まだ眠っておられます」

「珍しいな、いつもはとうに起きている時間だろう」


ジゼルは時計じかけのごとく、朝日が昇る頃に目を覚まして二十二時きっかりに眠りにつく。起きている時間は部屋にこもりきりで机に向かい、休日にルシアンが無理やり連れ出さない限り屋敷の敷地から出ようともしない。


「徹夜していたのか?」

「えぇ、昨晩は遅くまで起きていらしたので」

「仕方のないやつだ。この埋め合わせは帰ったらしてもらうと、ジゼルに伝えておけ」

「かしこまりました」


 職場に泊まり込むのをやめ、屋敷に帰るようになってからというもの、食事の時間はできる限りジゼルと共にし、会話するようにしていた。最初はどこか他人行儀で、慎重にルシアンと接している様子だったジゼルも、次第にルシアンの存在に慣れたのか、ずいぶんと砕けた態度をとるようになった。


 最近では、ルシアンが声をかけても「いま良いとこなんで」「気分じゃないです」など軽くあしらわれることもある。少し前のジゼルなら考えられない態度だが、ルシアンは不思議な喜びを感じていた。


ジゼルのそれが、兄である自分に甘えているだけだと気付いたからだ。意外と寂しがり屋のようで、ルシアンが仕事で遅くなった日など、夕食を食べずに待っていたりもする。ルシアンの長期出張が決まった日も、興味なさそうな顔をして聞いていたくせに、後日になって「どのくらいで帰ってくるんですか」と少しむくれた顔で聞いてきたくらいだ。


美しく愛らしい。大切な弟。

一生どこにも行かせず、閉じこめておきたい。


そのときのことを思い出して、思わず頬を緩ませるルシアンの背後から、聞き慣れた声がかかった。


「おはよう、ルシアン。今日はいい天気だ。幸先がいいな」

「カイラス、うちには近寄るなと言っただろう。何しに来た」

「ちょっと、彼に用事があってね」

「レナードに?」


怪訝そうにするルシアンに、カイラスは機嫌良く笑うと肩をすくめた。


「あぁ、大事な贈り物をね。もう受け取った」

「贈り物? なんのことだ」


意味ありげに懐を指でなぞるカイラスに、ルシアンはレナードを睨むが、レナードはどこ吹く風だった。それどころかカイラスに向かって丁寧に一礼する。


「カイラス殿下、ジゼル様はあいにくまだご就寝中でいらっしゃいます。ご挨拶はいかがなさいますか?」

「レナード、何言ってるんだ! この男をジゼルに近付けるな!」


カイラスと意味深な目線を交わすレナードにルシアンが噛みつくが、カイラスは楽しげに笑うと軽く首を振った。


「いや、いい。昨晩、遠くからだが顔は見られた。噂通りの美人だ」

「……っ、見た目は美しいが、中身がそうとは限らんぞ」


弟可愛さにルシアンが苦し紛れにつく嘘に、カイラスは苦笑した。


「ルシアン、ジゼルから俺を遠ざけたいのは分かるが、無理があるな。俺はもうすでにジゼルとは長く“個人的な付き合い”があるんだ」

「……なんのことだ? ジゼルが文通してるのは“カイル・ペンドラゴン”とかいう四流貴族だ」

「まったく、お前は手厳しいな」


ルシアンとカイラスは幼少の頃からの付き合いだ。互いに遠慮なく意見が言い合える関係だからこそ、信頼も厚い。ルシアンの存在にカイラスも幾度となく助けられていた。


「眠り姫に挨拶するのは別の機会にとっておこう。ルシアン、俺はいちど皇宮に戻る。エイデン教授が言っていた標本採取の準備を確認せねば」

「あぁ、黄痩病(おうそうびょう)の調査か」


 今回の視察は老朽化した砦の改修のための調査だったが、アカデミーのエイデン教授から要請があり、緊急で近隣の村で流行する疫病の調査も兼ねることになった。


黄痩病はその名の通り、皮膚が黄色くなり痩せ細り亡くなっていく病だ。発症すると嘔吐とひどい下痢が続き、食事もとれず衰弱していく。当初は小さな村から発生したようだが、次第に拡大し、今では国境付近の集落全体で死者が出ている。


「それにしても、エイデン教授のやり方も奇妙だな。本当に現地の飲み水や土壌を集めて原因がわかるのか?」


 エイデン教授は、黄痩病の患者がいる土地のありとあらゆる試料を集めるように指示していた。住民の飲み水、畑の土、家畜の餌……極めつけは患者の糞便だ。


採取にあたり長々とした注意事項も伝達された。手袋と口元に防護布の着用、着ていた服は焼却し都度着替えること。現地のものは極力口にせず、飲み水は煮沸してから。必ず流水と石鹸で手指を洗い、純度の高いアルコールで消毒する。


その手順を調査部隊の騎士たちに覚えさせるのは骨だったが、カイラスは徹底して遵守するよう厳命した。


「変わり者だが、アカデミーで最も優秀な学者だ。それに、調査は俺の眠り姫の発案らしい。無視はできないさ」

「それは聞いているが、ジゼルはお前のものにはならない。生涯、未婚のまま我が家で暮らすことを望んでいる」

「そうかな? 俺が欲しいものを諦めたことがあるか、お前なら知っているだろう?」

「…………ジゼルは、渡さん」

「やれやれ、過保護な義兄様だ。ジゼルは温室に咲く花ではない、空を自由に飛び回る蝶だ」


ルシアンが言い返す前に、カイラスは踵を返して去っていった。入れ替わるように、寝巻きにショールを羽織ったジゼルが小走りにやってくる。


「お兄様!!」

「ジゼル! そんな格好で出てくるな、はしたないぞ!」


 口ではそう言いながらもジゼルを抱き止めようと両手を広げるルシアンだったが、ジゼルは少し手前でぴたりと立ち止まり、ルシアンの顔を見上げた。


「お兄様、気をつけてください」

「あぁ、寂しがり屋のお前をひとりにするのは心苦しいが、毎晩兄のことを想っていてくれ。なるべく早く戻れるようにする」

「……さみしくはないですけど。心配ではあります。昨日も言いましたが、黄痩病の患者に接した後は……」

「着替えと手洗いだろう。大丈夫だ。標本の採取は専門の調査隊たちが担当する」


物言いたげなジゼルの頬に、ルシアンはそっと口づけた。いつもならぎょっとした顔で身をすくめるが、今は兄の身が心配なのか大人しく受け入れている。


「……行ってくる」

「……はい、お兄様」


迎えの馬車に乗り込む間も、ジゼルはじっとこちらを見つめていた。その心配そうな瞳に、背筋が震えるほどの喜びを感じた。


 ――カイラスには悪いが、誰にも渡すつもりはない。


走り出した馬車の揺れに身を任せながら、ルシアンは唇に残るジゼルのやわらかな頬の感触を反芻していた。

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