2-19. 朝日に集う、名家の旗
客間の中央には天蓋付きの大きなベッドが据えられていた。
ふくよかな羽毛布団は雪のように白く、分厚いカーテンが夜の冷気を遠ざけている。四隅に置かれた香炉からは仄かひ温かい香が立ち上り、揺れる灯火が壁に影を落としていた。
扉が開く。
湯上がりの子供たち三人が、ふわりとしたリネンの寝間着姿で戻ってきた。
ヴィーザを外した素顔の頬は湯の熱を宿して桜色に染まり、ほどけた髪には香油の甘い香りが広がっている。
ルチアが夢見心地のまま、両手を胸の前で組む。
「わ、私……あんな凄いお風呂、初めて入りましたぁ……! 広くてぇ、天井も高くてぇ、お湯に香りまでついてるなんてぇ……! 本当に、贅沢過ぎですぅ」
茹で上がったようなふやけた笑みがこぼれ、カイウスが片眉をわずかに上げた。
「ここは元々、王都貴族の屋敷だったらしいからな。浴場に限らず何から何まで……まぁ、無駄に豪華だ」
「ってことは……今の俺たち、王都の貴族様と同じ暮らしをしてるってことか!?」
マルコが目を輝かせて布団の端をつかむと、子犬のように飛び込んだ。
「うわっ……! 沈む! こ、これ凄いぞ……! く、雲みたいだぞ!」
「いや……マルコ、雲触ったことないでしょ」
「マルコぉ! 濡れた髪で枕を汚さないでってばぁ!」
ルカが冷ややかな視線を送り、ルチアがタオルを手に慌てて布団の上を転がるマルコを追いかける。
リアがその様子にふっと微笑み、小さく息を洩らした。カイウスも肩越しにその横顔を見やり、口元をわずかに緩める。
「みんな、ほんとうに楽しそう……。よかったですね」
「あぁ。子どもはあれくらい無邪気なのがちょうどいいよ」
くすくすと三人の笑い声が重なり、羽毛布団がふわふわと波打った。
「お風呂もすごかったけどぉ、さっきの食事も、すごかったねぇ」
「あぁ! 肉、特に肉な! 俺、あんな分厚い肉を食べたの初めてだ!しかも柔らかくて、口の中で溶けたぞ!」
「パンだって、焼きたてでぇ……外ほカリカリ、中はふわふわぁ。上のバターがじゅわって溶けてぇ……! あぁあ、また涎が出ちゃうぅ」
「スープの香りも、まだ鼻に残ってる感じするよね……。あんなにいい匂いがする香草、僕は名前すら知らない。セラフィーナ様は毎日あんなものを食べてるのかなぁ……」
はしゃぎ疲れた三人は並んで羽毛布団に身を沈めた。ルチアが天井の梁を見上げ、ゆるやかに呟く。
「……なんだか、本当に夢みたい。今日からここで暮らせるんだよねぇ、私たちぃ」
「地下水路のアジトとは大違いだよな……。確かにヒーローの兄ちゃんが言ってた通り、寝床は落ち着かないくらい柔らかいけど」
マルコの冗談に、小さな笑いが溢れる。
しかしその笑いが収まると、ふっと静けさが降りた。ルカが視線を枕元に落とし、両手をきゅっと握る。
「……二人とも。僕たち、ようやく安心して明日を迎えられるようになったんだね」
マルコとルチアが少し驚いたようにルカを見て、それから静かに頷く。
「でも……僕たちはこれまで、生きるためとはいえ、ヴェルディ広場の人たちに盗みでたくさん迷惑をかけてきた。その事実からは……目を逸らしちゃ、いけない気がするんだ」
「……そう、だよな。ルカ」
「ゆ、許されないよねぇ……」
ルカは小さく頷き、さらに言葉を重ねた。
「……だから僕らみんな、明日からセラフィーナ様にしっかりお仕えしよう。そして一日も早く立派になって、今まで迷惑をかけた人たちに少しでも償いができるよう、頑張るべきなんじゃないかな。……どう思う?」
「おう! もちろん賛成だ! これまでの分、全力でお返ししてやろうぜ!」
「で、でもぉ……受け入れてくれるとは限らないよぉ……。私、やっぱりちょっと怖いぃ」
「大丈夫だよ、ルチア。みんな根は悪い人じゃないんだ。心から償えば許してくれるよ。それに――」
ルカが上体を起こし、ふいに屈託ない笑顔でカイウスを振り返った。
「――いざとなれば、僕らには、“ヒーロー”がついてるからね!」
「た、確かにぃ! カイウスさんはぁ、私っ……たちの、“騎士様”だもんねぇ!」
「……えっ? カイウスさん? ルチアちゃんに自分の事、そんな風に呼ばせてるんですか?」
「その目は止めてくれ、リア。誤解なんだ」
くすり、とまた笑いが咲く。
全員の表情に、安らぎの色が満ちていった。
***
翌朝――。
夜の静けさを抜けたヴァルシェ邸は、まるで別の世界の様に澄みきっていた。
高窓から差し込む陽光が白い大理石の床を優しく照らし、庭では噴水が細やかな水音を奏でている。風に乗って届く鳥の囀りが、邸に新たな一日を告げていた。
その廊下を、カイウスとリアが並んで歩いていた。
「――これが、昨日までに起きた全てだ」
歩を進めながら、カイウスはリアが離脱してからの経緯を簡潔に語り終える。
「流れはこちらに傾きつつはあるが、あのドランベルグを完全に失脚させるには、風の魔術師との繋がりを暴く必要がある。だから今日から俺たちは、……あの魔術師の捕縛に動く」
その結びに、リアは真剣な面持ちで呟いた。
「……じゃあ、またあの“黒ローブ”と戦うことになるんですね」
そういうとリアは少し俯き「これ以上カイウスさんに、危ないことはしてほしく無いのに」と小さく溢した。
カイウスも短く溜息を吐き、軽く肩を落とす。
「あぁ。残念だが、再戦は避けられそうにない。……この前は二人掛かりでも一方的にやられたな。ほんと、魔術師は生半可な相手じゃない」
そう言いながらも、カイウスの声に僅かな自信が混じる。
「だが……どうやら、攻略法が一切無いって訳でもなさそうだ」
「っ! あの“すごく切れるのに見えないなんてズルすぎる風”の防ぎ方、何か思い付いたんですか?!」
リアが目を大きく見開き、勢いよくカイウスの顔を見る。
「……"すごく切れるのに見えないなんてズルすぎる風"……?」
「さっすが、カイウスさん! 戦いながらも、敵の弱点を探してたんですね! それも傭兵としての技量の一つですか? すごいなぁ、尊敬しちゃうなぁ!」
褒め言葉を畳みかけながら、リアは瞳をきらきらと輝かせて一歩近づく。
「いや……その前にその子供みたいな名称はどうにかならないのか……?」
「気付かれないうちに、遠くから弓で射るとかですか? それとも……ものすごく頑丈な盾を作るとか!」
「あ、あぁ、それはな……っと、もう着いたか」
重厚な扉の前にいた従者が恭しく一礼し、静かに扉を開け放った。
――応接間。
淡い金色の光が窓から流れ込み、翡翠の肘掛け椅子に座るセラフィーナの横には、従者セバスが控える。
その隣に立つのは、揃いの従者服と黒いヴィーザを身につけた三人の少年少女――ルカ、マルコ、ルチア。
髪は丁寧に整えられ、衣服に皺ひとつない。
つい昨日まで地下水路で暮らしていたとは思えぬほど、凛然とした立ち姿だった。
「おはようございます、カイウス様。リア様」
セラフィーナの声が、朝の光に溶けるように柔らかく響く。
「昨晩はよくお休みになられたでしょうか。ちょうど今、本日からヴァルシェ家に仕える“優秀な”新人従者たちの支度が整ったところです」
「……あぁ、本当に間違えたぞ。まるでどこぞの貴族の坊ちゃんとお嬢様だ」
カイウスが小声で呟くと、三人は照れたように口元を綻ばせながらも背筋をさらに伸ばした。
セラフィーナが椅子を立ち、三人の前へと歩み寄る。
その姿には、貴族としての威厳と、彼らで三人の保護者としての温もりが同居していた。
「さて。今後について話す前に……ルカ、マルコ、ルチア。今日から貴方たちは、この家の客ではありません。ヴァルシェ家の従者として、この家を……ひいてはナヴィレザを支える者となります。本日は貴方たち三人にとって、新たな人生の門出の日と言えるでしょう」
そこで言葉を切ると、彼女は三人へと向き直る。
「そこで……そのささやかな祝いとして、わたくしから貴方たちに冠名を授けようと思います」
「……冠名?」
聞き慣れぬ言葉にカイウスが片眉を上げる。セラフィーナは彼を一瞥し、説明を続けた。
「はい。冠名はナヴィレザにおける、個人名や家名とは異なる第三の名。家系の後継者だけに与えられる、いわばその理念と歴史を継ぐ証であり、その者の誇りと責務を示すもの。例えば、わたくしは亡き父からエレオノール……"自由と信義"を表す冠名を授かりました。その名は今もなお、わたくしの歩む道を照らし続けてくれています」
視線を三人へ戻し、静かに告げる。
「貴方たちは、誇り高きリーヴァ、ティルシス、カレンツィオ家の意志を継ぐ者です。これから大きな困難に直面することもあるでしょう。その時、その名が少しでも貴方達の拠り所となるように……ご両親に代わり、僭越ながらこのわたくしが冠名を授けます」
セラフィーナはまずルカの前に立ち、その澄んだ瞳を見つめる。
「ルカ――“エリアス”・リーヴァ。"決断と勇気"を意味します。貴方の選ぶ道が、常に正義と誇りと共にある事を願います」
ルカは深く頭を垂れ、唇を結んだまま力強く頷いた。
次にセラフィーナはマルコの前へ歩み寄る。マルコはわずかに背伸びして胸を張った。
「マルコ――“オルランド”・ティルシス。"強き守護者"を意味します。弱き者を支え、その道に立ちはだかる者から護る優しき心を、決して手放してはなりませんよ」
その言葉に、マルコは強く頷く。腰元の拳が固く握りしめられ、瞳の奥に小さな炎が灯る。
最後にルチア。小さな手が緊張で震えているのを見て、セラフィーナは微笑を含ませる。
「ルチア――“ミレーナ”・カレンツィオ。"慈愛と希望"を意味します。貴方が灯すその美しい愛は、きっと誰かの命を救う光になるでしょう」
ルチアの瞳が潤み、こくりと小さく頷く。
その横顔はまだ幼さを残しながらも、小さな決意を抱いている様だった。
セラフィーナは三人をゆっくりと見渡し、凛とした声で告げる
「……さて。冠名を授かった今、たとえわたくしの従者であっても、貴方たちはそれぞれが各家を背負う者。その名に恥じぬよう、責務を果たすべき立場となりました」
一呼吸置いて、さらに語気を強める。
「ナヴィレザはいまもなお、動乱のただ中にあります。そしてその命運は全て明後日のナヴィレザ評議院にかかっています。それまで貴方たち三人の、……いえ、"三家"のご助力が不可欠です。ぜひこのヴァルシェを……そして、わたくしを。お支えください」
応接間の温かな明かりが三人の顔を照らした。ルカ、マルコ、ルチアが一斉に力強く頷く。
「……ありがとうございます。これでヴァルシェはさらに盤石でございますね」
セラフィーナは軽く頷き、話を切り替える。
「では、改めて今後の打ち手を整理いたしましょう。これまでの働き掛けで、風はこちらに傾きつつあります。ですが……まだ、決定打には至っておりません」
そこで言葉を区切り、静かに続ける。
「勝利の鍵は……倉庫街を破壊し尽くした魔術師と、マクシミルの繋がりを証明すること。ただ、今のところ魔術師が彼の手先だという確証は得られていません。一方で……カイウス様の見立てでは、牢に捕らえられていた刺客たちの口が封じられたこと。それこそが、背後にマクシミルがいる証左……そういうことでしたね?」
セラフィーナの問いかけに、カイウスは腕を組み頷いた。
「あぁ。そしてその魔術師だが、次に奴が姿を現す場所に心当たりがある。もし俺の読みが当たってるなら、おそらく……今夜には、再び鉢合わせることになるだろう」
静かな宣告にリアが小さく息を呑む。カイウスは全員を見渡し、淡々と続けた。
「たしかに奴は強大な敵だが、実は策もあるんだ。粗削りだしぶっつけ本番にはなるが、やれないことはないと思う。そして――」
ふっと口元を上げ、軽く肩をすくめる。
「――この作戦には、リーヴァ、ティルシス、カレンツィオ家の“ご当主様”の温かいご協力が不可欠になる。いや、むしろ作戦の要と言ってもいいくらいだ。……どうだ、引き受けてもらえるか?」
軽口めいた響きに三人は一瞬ぽかんとしたが、次の瞬間、声を弾ませた。
「の、望むところだよ、カイウスのお兄ちゃん! 全員でリベンジマッチだね!」
「ヒーローの兄ちゃん! 兄ちゃんの背中は、この俺! 『強き守護者』マルコ・オルランド・ティルシス様が護るよ! だから、大船に乗ったつもりでいいよ!!」
「わ、わたしもぉ! 少しでもカイウスさんのお力になりたいですぅ! 出来ることがあれば、何でも言ってくださいぃっ!」
熱のこもった声が立て続けに飛び出し、カイウスは思わず笑みをこぼす。
「……ほんと、頼もしいな。改めて礼を言わせてくれ。ありがとう、三人とも。」
その灰色の瞳が、ひとりひとりをまっすぐ見つめる。
「よし。作戦はこうだーー」
その一言が合図となり、応接間は軍議の場へと早変わりする。既に全員の心が、迫り来る決戦を見据えていた。




