2-17. 排水路の果て、夕陽の旅立ち
排水路の奥へと延びる通路は、相変わらずじっとりとした湿気を孕んでいた。天井は低く、頭上を圧迫するような閉塞感がある。足元の泥は一歩ごとに靴裏へまとわりつき、手放すまいと粘りつく。
カイウスにとっては、迷うことのない一本道だった。そしてこの先に、リアがいる。それを知っていて、なお――いや、知っているからこそ、焦燥がじわじわと背筋を這い上がる。
(……無事だと信じたいが、あれだけの傷だ)
脳裏に浮かぶのは、血と埃にまみれた魔術師との死闘。命を削り、震える腕で自分を庇い、死を覚悟したリアの笑顔が、いまも焼きついたまま離れない。
いつも隣で咲いていた、陽だまりのようなあの笑顔に、もう二度と触れられないとしたら。
唇を噛んでいた。気づいたのは、口内に鉄の苦みが広がってからだった。膨れる喪失の予感を振り払うように、かぶりを振った。
やがて、見知った鉄扉の前に辿り着く。錆びついた蝶番。古びた木板の臭気が鼻を掠める。強張る肩をなんとか動かし、石のように重い腕を扉へと伸ばした。
深く、息を吐く。不安を鎮ませるため、瞼を閉じる。
――ギィィ……。
湿った軋みが通路に響いた。視界の奥に橙の光が広がる。崩れかけた天井の隙間から、穏やかな夕陽が差し込んでいた。
あの日と変わらぬ、孤児たちのアジトが目に入る。傷んだ木の床。壁際に積まれた毛布と食料箱。石壁の一角には、子どもらしいカラフルな落書き。
そして――。
「うぅっと……よいしょぉーっ!! どう? 二人とも!」
「わわっ! す、すごい高いっ……!」
「へへっ、ルカ! お前びびってんのか!? 俺なんか、ぜーんぜん余裕だけどな!」
「リアお姉ちゃん、すごい、すごいよぉ! 次、次はルチアの番だからねぇ!」
はじけるような声が、夕暮れの空間に朗らかに響いた。
その中心にいたのは、両腕にルカとマルコを乗せ、軽々と持ち上げて笑っているリアだった。毛布の上にちょこんと座るルチアが、その様子を星のようにきらめく目で見つめている。
カイウスはしばしその場に立ち尽くした。心奥を灼いていた焦熱が、ふっと緩んでいくのを感じる。
(……良かった。無事だったか……!)
「あっ! カイウスのお兄ちゃんだ!」
最初に気付いたのはルカだった。続いてマルコとルチアもぱっと振り返る。
「お、ヒーローの兄ちゃんじゃん! おかえりなさい!」
「えっ……カ、カイウスさんっ! こ、こんにちはぁっ!」
マルコは満面の笑みで手を振り、ルチアは頬を染めながら前髪を慌てて整える。三人はそれぞれの反応を見せつつ、一斉にカイウスのもとへと駆け寄ってきた。
「ただいま。三人とも、本当にありがとうな。リアのこと、よく見ててくれた」
口の端をひょいと吊り上げ、カイウスは手にしていた布包みを差し出す。
「これ、ヴェルディ広場で買ってきたんだ。少しだけど、みんなの腹の足しになればと思ってな」
布を解くと、香草を練り込んだ焼きたてのパンと、瑞々しい果物が顔を覗かせた。香ばしく甘やかな匂いが、アジトの空気にひときわ濃く満ちていく。
「う、うわぁっ……! こ、これ、本物の香草パンだ!」
「果物もピシアにマルゴだ! 高級品ばっかりじゃん!!」
「カ、カイウスさんっ……! ありがとうございますぅ……! わ、私たち、ほんとにお腹ペコペコでぇ……!」
三人は歓声をあげながら群がった。目を輝かせ、まるで宝物を掘り出すように一つひとつを確かめながら、顔を見合わせては無邪気に笑い合う。見つめるカイウスの表情も、自然と緩んでいた。
「カイウスさん!」
元気な声とともに、リアが駆け寄ってくる。頬には健康的な紅が差し、目元にも澄んだ光が戻っていた。
「だいぶ良くなったみたいだな。体調はどうだ?」
「はいっ! まるまる二日ぐっすり眠って、みんなも優しくしてくれて……この通り、もうすっかり元気です!」
胸の前でぎゅっと握られた拳を見て、ああ、彼女が帰ってきたのだと思った。斬撃を受けて腫れ上がっていた両手も、今や滑らかな皮膚を取り戻している。
(……?)
無意識のうちに、カイウスの視線がその肌をたどっていた。
二日前、あれほど深い裂傷と打撲を負っていた腕。決して浅くない傷もあった。それが全て、痣のひとつも残さない、健康そのものの肌に戻っている。無数の傷跡は、まるで最初からなかったかのように消えていた。
(……あまりにも、回復が速すぎる)
胸中で違和感が、ぽとんと波紋を描く。安堵に流れかけた思考を、理性が冷静に引き留めた。
たった二日間の療養。しかも、医療具も衛生管理も満足とは言えないこの環境。にもかかわらず、怪我は回復の緒についたどころではなく、もはや完治しかかっている。しかも彼女はさっきまで、子どもたちを両腕で持ち上げ遊び、自分に小走りで駆け寄ってきた。
もちろん、リアの“特異性”は知っていた。ノルヴィア村で巨狼を殴り飛ばし、カイウス自身を易々と上空に放り上げた腕力。その時点で、人並みの域を超えているのは明白だった。
(……だけど)
カイウスは思い出す。巨狼との死闘の後。自分の身体は、数週間をかけてようやく歩けるようになった。だがリアは、翌朝には何事もなかったように動き出し、豊穣祭の準備や村の手伝いのために走り回っていた。
削られても直ぐ立ち直る、常人では説明のつかぬ回復力。体質や精神力といった言葉では片づけられない。それはまるで――。
(戦いのために、生まれてきたみたいだ……)
喉元まで込み上げた言葉を、ぐっと押し戻す。この無垢な笑顔に水を差すほど、無神経でもなかった。
(まぁ、どうであれリアはリアだ。それでいいだろ)
ひとり得心するように、息を浅く落とした。
一方で、カイウスの視線が自分に注がれているのに、リアも気が付いていた。その先を追うように自身の身体へ目を落とした瞬間、はっと息を呑む。
着ていたのは、魔術師との戦闘で引き裂かれたままの服だった。布は至る所で口を開き、陽に焼けた肌や鎖骨の起伏、太腿の滑らかな曲線が、あるべき庇護を失い無防備にも露わになっていた。
リアの全身が、一瞬で石になる。
「……うぇっ!?」
みるみる顔が朱に染まり、遅れて両腕が正気を取り戻す。気づいた時には、己の身体を隠すようにかき抱いていた。
「え、えぇえ、カ、カイウスさんっ!? な、なんで?! このタイミングで?!」
「? な、なんだ、急に大声を出して……」
「だ、だって! カイウスさんが、わたしの、か、身体を、その……すごく真剣な顔で、じっと見てくるから! びっくりしたというか、ちょ、ちょっと、なんか、変な感じしちゃって……!」
「……は? なっ!? い、いやいや、違う、違うから! 全然そういうんじゃないぞ!」
慌てて顔を逸らしながら、釈明の言葉を並べ立てる。対するリアはといえば、なおも自分を抱えたまま、ジトリと睨むような目を向けていた。
「お、俺はただ、リアの傷の具合がどうなってるかが心配で! 本当にそれだけだ! 誓って言う、変な下心なんてこれっぽっちもない!」
真剣な声音が、リアの視線をわずかに解いた。頬の朱を残したまま小さく唇を尖らせ、拗ねた子どものように呟く。
「……ほんとですか?」
「ああ、本当だ」
「……ほんとぉに? これっぽっちも?」
「これっぽっちも、一切、無い。前にも言ったろ。俺はリアに嘘はつかないって決めてる。だから信じてくれよ」
真っ直ぐで誠実な眼差し。嘘の気配は、微塵にもない。
きっとこれで、誤解は解ける――そんなカイウスの期待とは裏腹に、リアは深いため息を吐いた。拍子抜けするほど予想外の反応に、カイウスも戸惑いの眉を寄せる。
「……それはそれで、なんか……いやです」
「え?」
「なんか、こう……ちょっとくらい、『うおおお!』って
なってくれても、いいじゃないですか……」
「いや……うおおおお、ってお前……」
思わず頭を掻きながら、言葉を詰まらせた。
「それ、一体俺に何を期待してるんだよ」
「し、知りませんっ! というか、どんな理由であれ女の子の身体をじろじろ見るのはよくないです! 誤解をされることをした、カイウスさんが悪いんですからね! わたしがちょっとその気になっちゃってたら、どうするつもりだったんですかっ!」
「……」
「あ、あ! な、なんですかその呆れたような顔! こっちは本気で言ってるんですからねっ!」
ぷいっとそっぽを向くリア。その耳は先まで真っ赤に色づいている。カイウスは苦笑しながら傍らの毛布を手に取ると、その肩にふわりと掛けた。
「あっ……」
「なんにせよ、無事で本当に良かったよ。もし何かあったらと思うと、正直ずっと気が気じゃなかったんだ。またこうやってやり合えて嬉しいよ。おかえり、リア」
その声が、リアの顔をふっと戻した。カイウスの柔らかい表情を見つけると、毛布を胸元へ手繰り寄せ、温もりを確かめるようにきゅっと握りしめる。やがて、照れを隠しきれない笑みを口元に浮かべ、ゆっくりと言葉を返した。
「……はい。ただいま、カイウスさん。心配かけてすみません。色々気に掛けてくれて、ありがとうございます」
「旅の連れとして当然だ。……いや、違うな。俺はまた、リアに命を救われたんだ。本当に頭が上がらないな……あ、そうだ」
思い出したように手元の布袋をがさりと探る。彼が取り出したのは――白緑の艶を帯びた粒が合わさった、一房の果実だった。
「あっ!? そ、それ、緑色のタオラ……っ!」
リアの目がぱっと輝く。
「こ、これ、わたしが食べたかったやつだ!」
「だろ? だから買っておいたんだ。意識が戻ってたら一緒に食べようと思ってさ。無駄にならずに済んでよかったよ」
「わぁ……! 嬉しい、ありがとうございますっ! ……あれ? でもわたし、カイウスさんにこれが食べたいって言いましたっけ……?」
小首を傾げるリアに、カイウスは平然と答える。
「ナヴィレザに着いた初日、ヴェルディ広場で露店を見てた時だ。『これ、食べてみたいな』って言ってただろ? ……あれ? 合ってるよな?」
赤い瞳が、ほんわりと見開かれる。
彼女は思い出した。確かに言っていた。だけどそれは、たくさん並んだ露店に心を躍らせた一瞬、何気なく漏れた独り言にすぎなかった。自分でも忘れかけていたそんな小さな呟きを、カイウスは覚えていた。「リアが喜びそうだ」。彼には、それだけで十分だったのだ。
「……ふふっ」
リアは果実を受け取ると、宝物を扱うように両手で包んだ。
「カイウスさん。いつもわたしのこと大事にしてくれて、ほんとうにありがとうございます」
「え? な、なんだよ突然……」
戸惑いを隠せないカイウスに、リアはどこか眩しそうに目を細め、小さく笑ってみせた。
「なんでもないです。わたしは、カイウスさんはちょっと鈍感なままの方が良いと思ってますから」
いたずらっぽく言い残すと、実の一粒を口に運んだ。しゃくり、と弾けた果汁が、濃い甘さとほのかな酸味を舌の上に連れてくる。
「んんっ、美味しいっ! あのとき独り言、言っといて良かったぁ……!」
その笑顔につられるように、カイウスも黙って一粒口に放った。紫のタオラが持つ夜のような深みとはまた異なる、早朝に似た、爽やかな甘さだった。
果実の甘みが二人の間に余韻を残す中、リアの表情にふと影が差した。口元に触れていた指が、ゆっくりと止まる。
「そういえばあの後、あの黒ローブの人はどうなりましたか? ……セラフィーナさんは、無事ですか?」
「ああ。セラフィーナには何の被害もなかった。ただ、あれから色々と動きがあってな。詳しく話すとなると、少し長くなる」
言葉を切り、彼はアジトの中を見渡した。精一杯用意してくれた毛布。かき集めてくれた食料。雨風をしのぐ屋根にも、少し手直しを入れた形跡がある。三人には、感謝してもしきれない。しかしそれと同じくらい、リアをもう少しいい場所で休ませてやりたかった。
「リア。もう歩けるよな?」
「えっ? あ、はい。全然大丈夫ですよ」
「よし。話の続きはそこでするから、いまからヴァルシェ邸に向かおう。セラフィーナにもリアの無事を報告しなきゃだしな」
頷こうとしたリアの動きが、背後からぽつりと落ちた声に止まった。
「カ、カイウスのお兄ちゃん、もう行っちゃうの……?」
振り返ると、ルカ、マルコ、ルチアが並んで立っていた。三人とも、隠しきれない寂しさを顔に貼りつかせていた。
「そ、そうだよね。お兄ちゃんは、きっと、色んなものを背負ってるんだ。あの黒ローブの悪党も、やっつけなきゃならないんだもんね……」
そう言ったルカは、目元を強ばらせて拳を握りしめる。何かを我慢するように顔を伏せたまま、懸命に言葉を続けた。
「……カイウスのお兄ちゃん! またいつか、ここに遊びに来てよ! 僕、まだまだ、お兄ちゃんに話してほしいこと、教えて欲しいこと、たくさんあるんだ!」
その揺れる声に、マルコとルチアも続く。
「ヒーローの兄ちゃん! リアお姉ちゃんが元気になって、ほんとよかったね! ナヴィレザのどこかでまた会えたら……へへ……そんときは、一緒に遊んでね!」
「カ、カイウスさん……! わ、私ぃ……あの、本当にっ……あ、ありがとうございましたぁ……!」
言葉には明るさを繕っていても、表情には明らかに影があった。どれもが、別れを悟った者の顔だった。
彼らはきっと、分かっていた。
自分たちは盗みで生きる孤児。この都市の表通りを堂々と歩ける日が来ることは、まずない。どこかでカイウスやリアを見かけたとしても、声をかけられず、ただ通り過ぎるしかないかもしれない。それ以前に、無事に明日を迎えられる保証すら、どこにもない。
それでも彼らは、『またね』と笑った。
まだ自分の半分も生きていない子どもたちが、それぞれ何かを飲み込み、きちんと別れの言葉を選んでいる。その小さな思いやりが、痛いほど眩しかった。
あの夜も、そうだった。リアを託すという大きな決断を、迷わず受け入れてくれた。ただ生きることに必死なはずの彼らが見せた、真っ直ぐな矜持。その重さが、じわりと胸の奥に沁みた。
ふと、ある少女の面影が過った。多くの貴族たちが誇りを失うなか、ただ一人、掲げた信念を貫こうとする者。孤独のなかで、それでも自由都市の理想を信じ、今もなお抗い続けている蒼い瞳。
(……セラフィーナ。ナヴィレザには、ちゃんといるぞ。アンタが求める、気高い信念を胸に生きる人間が)
この出会いを終わらせるには、まだ早すぎる。ならば、自分が橋渡しをすればいい。この三人はいつかきっと、ナヴィレザを導く光になるはずだから。
「……そうだな」
カイウスはひとつ息を整え、三人をまっすぐに見据えた。
「俺とリアはいま、ナヴィレザの未来を左右する分岐点に立っている。正直に言えば一刻の猶予も惜しい状況だ。すぐにでも動かなきゃならない。だから――」
そこで言葉を切る。一人ひとりの目を短く見つめると、告げた。
「――お前たちも、一緒に来ないか?」
ルカたちの目が、揃って見開かれる。
「俺とリアを支えてくれた勇敢な恩人として、俺の雇い主であるヴァルシェ家に紹介したい。もしかしたら、状況が落ち着くまで屋敷に身を寄せられるかもしれない。俺の一存じゃ決められないが、セラフィーナなら断らないはずだ」
しん、と沈黙が落ちる。三人の顔には、驚きと信じられないという戸惑いが入り混じっていた。そんな静寂を破り、最初に口を開いたのはルカだった。
「ね、寝るところはあるのかな?」
「ああ。逆に落ち着かないくらい、ふかふかの寝台があるぞ。ちなみに俺は、どちらかと言うと馬車の荷台の方が好きだ」
「ご、ご飯も貰えるのかな……?」
マルコが遠慮がちに訊ねる。
「そりゃあもう。名前も知らないようなよく分からん料理が時々出るけど、味は間違いない。俺が保証するよ」
「ゆ、湯浴みも出来ますかぁ……? わ、わたし、ちょっと……に、においが気になっててぇ……」
最後に、ルチアがそっと手を挙げた。
「もちろん。リアの肌を拭いてくれたのは君だな、ルチア。次はリアに背中を流して貰うといい。……な?」
振り返ると、リアが照れくさそうにこくりと頷いていた。
三人が互いに目を合わせる。まだ言葉にならない何かを、視線だけで探り合うように。
「「「行くっっ!!」」」
勢いよく声を揃えた三人に、カイウスは待ってたと言わんばかりに口角を上げた。
「よし、決まりだな。ルカ、今度は俺が道案内してやる番だ。あまり遅れるなよ?」
「っ……うん、うん……っ! 望むところだよ、カイウスのお兄ちゃん!」
ルカの目尻には、光るものがあった。しかしそれは、悲しみとは無縁の輝きを放っていた。




