ニートのMMORPGのような社会参加の仕方
口頭試験が終わって数日後のある日、この学院こと「とある教育ユートピア」全体が脱力感に包まれていた。1年ないしは半期に1回の口頭試験という山場を越えたからだ。この行事は学生達だけでなく、教員やスタッフなども含めて全力投球するもので、この「とある教育ユートピア」そのものが大変な緊張感に包まれる。
その後はまるで台風が通り抜けた後か、お祭りの後片付けのそれである。熱気が吹き飛んでやや冷ややかな風が通り抜ける、あの空気感である。
主人公は西国の繁華街に勤めていて、そこの地元はお祭りで大変盛り上がるので、お祭りの後の空気感とよく似てるので既視感があった。
図書館の司書も通常通りの業務に戻りつつあった。口頭試験の前の3ヶ月はまともにゲームで遊ぶ気にもなれなない。ゲームにかける以上の熱量が、この「とある教育ユートピア」全体を満たすからだ。
ここに来てからというもの、ひとりでゲームや漫画やアニメなどで遊ぶより熱量がある事が次々と現れるではないか。
割と人の輪に入っていけるようなリア充タイプでない司書ですら、ここに来てからはみんなと取り組む事に、少し離れた射程外から参加する事に意義を感じていたのだった。
司書は、ネトゲをしていた時から思っていたのだが、社会参加の仕方ですらMMORPGのような、そんなベタベタと人と関わらなくても、同じサーバーにいるような、時に黙って協力関係など、そのような関係もアリなのではないかと思っていた。
そんなMMORPGのような関係が「とある教育ユートピア」にて実現されているので、このような関係性ならリア充でなくても息ができるものだと思った。
ゲームで言えば、ボスの攻撃の範囲外から仲間を援護するスタイルである。うっかりボスの攻撃の範囲内に入ると、ボスの攻撃で「こんがり」なので、そこを気をつけながらなのだ。
そのような社会参加の仕方もあればきっと面白く、広がりのあるものになるのだろう。この学院こと「とある教育ユートピア」では、その元ネトゲ廃人の理想がそことなく実現されてるのであった。
これは親の年金にたかるか、生活保護などで消費社会の片隅に埋没するよりかは、充実する事であろうなと。
親の年金にたかるのも、生活保護も生活はできるのだが、「世間一般」が資本主義経済圏なので外に出ると何かと金がかかるようになっており、またニートには共同体がないもので、だからニートなのだが。(元々ニートというのは、イギリスで16-19歳までの学校にも行かず、職業訓練も受けてない、つまり社会的排除された人々を指す言葉だった。)
よっぽどの資産家でもない限り、親の年金にたかるのも、生活保護にしろ、外に出て何かバリバリ活動する程の収入はないもので、資本主義経済圏の中では年金日もしくは生活保護支給日まで、モグラのようにじっとしてるしかないものだ。
司書は常々思っている事は、社会主義の非常に画期的な事は、「社会や公共へのアクセス権に一定の財産や地位などの要件を外したこと」にあると思ってる。
この「とある教育ユートピア」にいる、マルクス経済学や社会主義に詳しい人によると、資本主義が進めば進むほど中間共同体(ギルドや教会、地域などのあらゆる団体)が分解してしまう。となると、「国家」どころか「公共」さえもなくなり、ただの利害関係で結ばれた一定の層だけが、世間一般の中で残るただひとつのものだ。利害関係の対象にならない一般人など、やる気は余りある程あってもお呼びではない。
そこには一般人、特にニートにはアクセスができないし、「公共のために」何かしたいと思っても、まず「成功してから」になってしまう。
この「とある教育ユートピア」では、やる気とアイディアがあれば、何か人のためになる事に取り組む事ができる。この充足感は、親の年金にたかるか、生活保護では決して得ることができない充足感ではないか。
なので、司書はそこの大きな充足感に満たされていたのだった。
ここに来る準備期間の間は、ニート期間中に退化してしまった人間関係力の訓練と、図書館を運営するための図書館学の講義を(動画で)受けた。資格こそないが、市立図書館で働ける位の知識はある。
集中して何かする事が難しいので、遊びながら働くのだが、ひとり遊びの頻度は確実に減っていて、学生達の学習のサポートに血道を上げるのだった。




