第3話 森の邂逅と小さな温もり
隠れ家の周辺を一通り確認した俺は、今後の生活基盤を整えるためにも、もう少し足を延ばして周囲の地形を調べておくことにした。
拠点として使う以上、水場の位置やガレリアへ続く街道の状況くらいは把握しておきたい。前世の記憶が戻ったとはいえ全てを完璧に覚えているわけでもないし、途方もない年月が経っていれば状況が変わっている可能性も大いに考えられたからだ。
「……よし、身体のキレはバッチリだな。」
軽く跳躍してみる。地球で社畜生活を送っていた頃の鈍重な身体が嘘のように、今の肉体は驚くほど軽やかだ。せっかく二度目の生を得てこの世界に戻ってきたのだから、いつまでも狭い穴ぐらに引きこもっているつもりはなかった。
腰に装着した『リド=ダガー』の感触を確かめ、俺は静かに木々の隙間へ踏み込んだ。
魔の森の中は見通しが悪く、十数メートル進むだけでもガラリと景色が変わってしまう。足元に張り巡らされた凶悪な木の根や露出した岩肌に気を配りつつ、目印になりそうな特徴的な倒木を頭の中のマップに記録していく。
かつて歩き慣れていたはずの場所だが、前世の記憶にある情景とはずいぶん様変わりしていた。木々は太く高く成長し、昔は道だった場所にも鬱鬱とした蔓草が押し寄せている。
(やっぱり、俺が思っている以上に時間が経っているみたいだな……。)
一体どれほどの年月が過ぎ去ったのだろう。だが、今は考えても答えの出ない謎に悩むより、目の前の安全を確保することの方が先決だ。
俺は感覚を研ぎ澄まし、周囲の気配に警戒を配りながら森の深部へと進んでいった。
その時、湿った森の風に乗って、かすかな呻き声が耳を叩いた。
俺は即座に足を止めた。鳥や魔物の咆哮じゃない。人の声だ。それも、何かを苦しそうに耐え忍ぶ少女の声のように聞こえた。
(こんな場所に人が……!? 事故か、それとも……。)
冒険者や狩人が森に入るのは珍しくないが、声の切迫しきった様子からして尋常じゃない事態が起きているのは明らかだった。
索敵を警戒モードに切り替え、声のした方向へ音もなく歩み寄る。少し傾斜した窪地の先、倒れた大木の根本に、小さく蠢く陰が見えた。
慎重に距離を詰めた俺は、息を呑んだ。
そこにいたのは、幼い二人の少女だった。
二人とも小柄で、互いを庇い合うように強く抱き合って震えている。服はボロボロに破れて泥に塗れ、土のついた髪には枯れ葉が絡みついていた。華奢な腕や脚には無数の痛々しい擦り傷があり、裸足に近い足元は泥だらけだ。
人間に近い可憐な容姿をしているが、その頭部にはぴんと立った三角形の獣耳が生えており、腰元からはしなやかな尾が覗いていた。
(狐獣人……!?)
予期せぬ遭遇に驚きつつも、今にも途切れそうな二人の呼吸を感じ取り、種族云々を気にしている場合じゃないと直感した。
前に出る少女は、痩せた身体で妹を守るように覆いかぶさり、恐怖に怯えながらも強い警戒心を宿した瞳で俺を睨みつけている。その背後に隠れた妹の方は顔色が蒼白で、乾いた唇を震わせながら目を開けていることすら辛そうだった。
そっくりな顔立ちと毛並みからして姉妹だろう。気丈に振る舞う姉も、今にも倒れてしまいそうな妹も、限界を超えて逃げてきたのは一目瞭然だった。
俺は二人を刺激しないよう、手前で静かに足を止めた。突然森の中から現れた見知らぬ男に対して警戒するなという方が無理だし、俺の格好もこの世界の住人には珍しい。
俺はダガーの柄からそっと手を離し、ゆっくりと両手を上げて無害さをアピールした。
「大丈夫……。俺は君たちに危害を加えるつもりはないよ。」
だが、少女たちの警戒が解けることはない。姉の方は俺の手元と腰の短剣を油断なく往復させ、妹は姉の服をぎゅっと掴んで小さくなっていた。
俺はその場にゆっくりとしゃがみ込み、二人と目線を合わせた。威圧感を与えないよう距離を保ち、優しく語りかける。
「急に近づいてごめんね。驚かせてしまったな。」
姉の狐耳が、ピクリと可愛らしく動いた。一瞬その愛らしさに視線を奪われそうになったが、すぐに気を引き締め直す。
「俺の名前はアレン……アレンだ。君たちの名前を聞いてもいいかな。」
返事はない。姉の少女はきゅっと唇を結び、警戒の糸を張り詰めたままだ。
(まあ、そりゃそうか。いきなり信用しろっていう方が無理な話だしな。)
今すぐ事情を聞き出そうとしても逆効果だ。まずは乾きと空腹を満たし、安心して休める場所へ案内するのが最優先だろう。
俺はアイテムボックスから水筒を取り出し、二人に見えるよう差し出した。
「水を持っているんだ。喉が乾いているなら少し飲まないかい。無理にとは言わないよ。」
二人が手を伸ばしやすいよう水筒をそっと地面に置き、圧迫感を与えないように少し後ろへ下がる。
少女たちは地面の水筒を穴が開くほどじっと見つめていた。前に立つ姉は俺の顔と水筒を何度も見比べ、背後の妹はゴクリと喉を鳴らして必死に渇きを耐えている。
(喉から手が出るほど飲みたいはずなのに、毒を警戒しているのか……。)
一体、これまでどんな酷い目に遭ってきたんだ。溢れ出す疑問を胸の奥に押し込め、俺はあえて二人から少し視線を外してやり、水を取りやすくしてあげた。
やがて意を決したように、姉の少女がゆっくりと手を伸ばした。
水筒を固い手つきで掴むと、蓋を開けてほんの少しだけ水を口に含んだ。飲み込んでから、再び俺の目を見つめ返してくる。
「……毒は……入っていない……?」
掠れた、小さな声だった。差し出された水を飲む前に毒を疑わなければならない環境にいたという事実が、俺の胸をチクリと刺す。
「うん、何も入れていない普通の水だよ。安心して飲んでいいからね。」
少女はしばらく沈黙していたが、意を決したようにゴクゴクと水を煽った。そして少し落ち着くと、愛おしそうに妹へ水筒を差し出した。
「ミナ……。少しずつ飲むのよ……。」
「ミナ」という名前が聞こえた。水筒を受け取った妹は、おぼつかない手つきで水分を一口ずつ口に含んでいく。
「……ありがとう……ございます……。」
風に消えそうな声で感謝を口にする妹に、俺は優しく微笑みかけた。
「どういたしまして。ゆっくり飲んでね。一気に飲むと胃が痛くなっちゃうから。」
ミナが水筒を口に含んでいるのを見届け、姉の少女がようやく俺へと向き直った。
「……ナギ。」
「ナギちゃんだね。教えてくれてありがとう。」
ナギは自分の名前を呼ばれたことに少し驚いたのか、微かに眉をひそめた。
名前を教えてくれたからといって警戒が解けたわけじゃないが、会話の第一歩を踏み出せたのは大きな進展だ。
水を飲み終えたミナは、ぐったりとナギの肩に頭を預けた。ナギは愛おしそうに妹を抱きしめるが、自分自身も限界のはずなのに妹を守ろうとする姿には迷いがない。
その時、二人の首元に嵌められた細い鉄の輪が、破れた襟ぐりから覗いた。装飾品じゃない。人間を縛り付けるための『奴隷の首輪』だ。
俺の視線に気づいたナギは、咄嗟に首元を隠すように顎を引いた。
(奴隷狩りか、それとも屋敷から逃げてきたのか……。)
重い背景を感じ取りつつも、俺は気づかないフリをして視線を二人の顔へ戻した。
「二人とも、かなり体力を消耗しているみたいだね。ここで過ごすのは危険だし、俺の隠れ家で休まないかい。暖かくて安全な場所だし、美味しい食べ物もあるよ。」
ナギの表情が途端に険しくなった。
「……どこへ連れていくつもり……?」
「俺が使っている隠れ家だよ。岩山の中にあって外からは絶対に見つからないし、雨風もしのげる。君たちが嫌なら無理に連れて行くつもりはないよ。」
ナギはすぐには答えず、俺の様子を探るように見つめた後、森の奥へ警戒の視線を向けた。ピんと立った狐耳を動かし、周囲の音を拾っている。
「……ここにいたら、追いつかれてしまう……。」
ぽつりと漏れ出た言葉に、俺は思わず真顔になった。
「追いつかれる……? 誰かに追われているのかい。」
ナギは口を滑らせたとばかりに黙り込み、ミナを強く抱き寄せた。
事情を聞き出すのは後だ。体力が底をついている二人が、このまま森で夜を迎えるわけにはいかない。
「今すぐ決めなくてもいいよ。でも、ここにいたら体調がもっと悪くなる。まずは休める場所へ移動しよう。」
ナギは葛藤するように固まっていたが、やがて腕の中の妹を愛おしそうに見つめた。
「ミナ……歩ける……?」
「……うん……少しなら……。」
妹の健気な返事を聞き、ナギは固く唇を結んだ。己のプライドや警戒心より、妹の命を最優先に考えた決断だった。
「……分かったわ。でも、変な真似をしたらすぐに逃げるから……。」
「うん、それでいいよ。」
俺は温かく頷いた。
「辛くなったら遠慮なく言ってね。無理に急ぐ必要はないんだから。」
立ち上がろうとした二人の膝がガクガクと震え、大きくよろめく。俺は咄嗟に手を伸ばしかけたが、ナギが恐怖で身体を強張らせたのを見て、すぐに手を引っ込めた。
「あ、ごめん。急に触られたら怖いよね。支えが必要ならいつでも言ってくれればいいから。」
ナギは返事をしなかったが、必死にミナを支えて立ち上がった。その歩みはあまりにも痛々しかったが、俺は彼女たちの自尊心を尊重し、二人の歩調に合わせてゆっくりと進み始めた。
◇
隠れ家までの道のりは、衰弱した二人にとって拷問に近いものだっただろう。
俺は足場の悪い場所を先回りして整え、何度も小休止を挟みながら慎重に進んだ。ナギは限界に近い体力でありながら、最後まで隙を見せまいと周囲を警戒し続けていた。
やがて木々の隙間から、見慣れた岩山の斜面が姿を現した。
「もうすぐ着くよ。あの岩山の近くにあるんだ。」
俺が幻影魔道具の効果範囲に入ると、ただの岩肌に見えていた空間が揺らぎ、隠れ家の扉が現れた。その魔法のような光景に、二人は息を呑んで立ち尽くす。
「ここから中に入れるんだ。入ってみよう。」
扉を開けると、ランタンの温かな光が漏れ出してきた。整頓された木製の机や椅子、清潔なベッドを備えた空間は、殺風景だが安らげる隠れ家だ。
俺は二人が圧迫感を感じないよう少し離れた位置に立ち、保存食の中から食べやすそうなパンや干し肉を取り出してテーブルに置いた。
「少しずつでいいから食べてね。足りなければいくらでもあるから。」
ナギは毒がないか慎重に確かめてから、一口かじり、それをミナに渡した。ミナは一口食べるごとに頬を緩ませ、徐々に表情に生気が戻っていく。
静かに食べ物をつまむ二人を眺めながら、俺はそっと壁に背を預けた。
首の鉄輪、追手の存在……抱えている問題は重そうだが、今は二人を安全な場所で眠らせてあげられただけで良しとしよう。
「……お姉ちゃん。」
「どうしたの、ミナ。」
「もう少し……食べてもいい……?」
「もちろん、たくさんあるから食べてね。」
俺が笑いかけると、ミナは嬉しそうに頷いてパンに手を伸ばした。
その微笑ましい光景に、俺の胸の奥にあった緊張もふっとほぐれていく。
「今日はここでゆっくり休むといい。何か必要なものがあったら遠慮なく言ってね。俺はすぐ近くにいるから。」
ナギはまだ完全には警戒を解いていなかったが、ミナを抱きしめる腕の力は柔らかくなっていた。
「……分かったわ。」
ぽつりとこぼれたその一言は、俺という存在をひとまず受け入れてくれた小さな証だった。
前世の記憶を取り戻し、二つの世界を行き来する生活を始めた矢先の出来事。まさかこんな場所で幼い狐獣人の姉妹を保護することになるとは思わなかったが、不思議と悪くない気分だった。
(さて、これからどうなることやら……。)
二人が落ち着いて眠れるようランタンの明かりを小さく絞りながら、俺は頼もしい保護者としての第一歩を踏み出すのだった。




