第9話 名乗らない理由
岩猪は、守備隊が縄をかけて、穴から引き上げた。
十人がかりだった。荷車に乗せて、詰所まで運んでいく。そのあとを、近所の子どもたちがぞろぞろとついていった。どぶ坂の大人たちは、ずっとその話をしていた。
「さすが守備隊だな」
「あの隊長がいりゃ、安心だ」
「ほら、見たか、あの槍さばき」
守備隊の若い兵が一人、困った顔で手を振っていた。
「いや、俺らが着いたときには、もう落ちてて……」
「謙遜すんなって! 一杯おごるぞ!」
「いや、だから……」
若い兵の声は、大人たちの笑い声に飲みこまれた。
俺は、路地のすみの木箱に座って、それを聞いていた。悔しくない、と言ったらうそになる。
本当は、ちょっとだけ言ってほしかった。「すごいな、坊主」とか。「お前がやったのか」とか。一回くらい、頭をなでてもらってもよかった。
でも。
「……影の強者の作法、その二」
俺は、小さくつぶやいた。
「名乗らない」
となりに座っていたネロが、横目で俺を見た。
「言わなくていいのかよ。ガキどもはみんな見てたぞ」
「いい。影の強者は、名乗らないものだ」
「はいはい」
ネロは、それ以上何も言わなかった。
ただ、俺の頭を、ぐしゃっと一回だけなでた。
「……なに」
「別に。屋根の板、一枚はがしたからな。あとで直せよ」
「俺が?」
「お前の穴のせいだろ」
それは、ちょっとちがう気がする。でも、言い返す元気が残っていなかった。
ピアが、反対側から俺の袖を引っぱった。
「ティオ」
「なんだ」
「ないしょ?」
俺は、少し考えた。
「……ないしょだ」
「わかった。ないしょね」
ピアは、ひとりでうなずいた。それから、俺の手に何かを押しこんだ。
見ると、飴だった。
「おれい」
「……どこで手に入れた」
「ないしょ」
五歳は、交渉だけでなく、お礼のしかたも知っている。
口に入れると、甘かった。
あとで知ったことだが、ピアはこの一個を理由に、俺の約束の二個を三個に値上げしていた。ピアは、交渉で損をしない。
* * *
昼すぎ、廃屋に帰った。
誰もいないのを確かめてから、俺は壁に向かって咳ばらいをした。
練習だ。もし誰かに「お前がやったのか」と聞かれたら、こう答える。
「……名乗るほどの者じゃない」
声を低くする。もう一回。
「名乗るほどの者じゃ、ない」
ちょっと間をあけたほうが、かっこいい。
「名乗るほどの――」
「ティオ、だれとしゃべってるの」
戸口に、ピアが立っていた。
「……誰とも」
「かべと?」
「壁とは、しゃべらない」
「ふーん。ないしょね」
ピアは、なぜかうれしそうに出ていった。俺の秘密は、どんどんピアの手の中にたまっていく。
気をとりなおして、壁の前にしゃがむ。冬に刻んだ字が、まだそこにあった。
『借り パン十二こ』
ピアは、けがひとつしなかった。どぶ坂の誰も、猪に踏まれずにすんだ。
それで借りが全部消えるとは、思わない。あの冬の夜に、俺が何もできなかったことは、変わらない。
でも、パン一個ぶんくらいは、返せたか。
俺は爪を立てて、字の横に、小さな線を一本だけ引いた。
線は細くて、板の古い傷と見分けがつかないくらいだった。でも、俺にはちゃんと分かる。
あと、十一本だ。
十一本ぶん、何をすればいいのかは、まだ分からない。分からないまま、俺は線を指でなぞった。
* * *
夕方、俺はもう一度、あの路地に行った。
なんとなく、穴を見ておきたかった。
路地は、静かだった。小屋の壁には、猪が肩でこすった跡がくっきり残っている。屋根の板は、ネロがはがしたせいで一枚足りない。
そして、穴のそばに、大きな背中があった。
隊長だった。
一人で、穴の中に降りていた。
俺は、小屋の陰で足を止めた。
隊長は、穴の壁に手を当てていた。大きな手のひらで、壁をゆっくりなでている。上から下へ。右から左へ。
夕日が、穴の中に差しこんでいた。壁が、光っていた。
土の壁なのに、まるで鏡みたいに、つるつるだった。でこぼこが一つもない。シャベルの跡も、爪の跡もない。猪がどれだけ足をかけても、すべり落ちた壁だ。
隊長は、しばらくその壁を見ていた。
それから、穴の底の土をひとつかみ取って、指の間からこぼした。細かい砂が、さらさらと落ちていく。
隊長は、穴から上がってきた。
そして、まっすぐに、俺が隠れている小屋の陰を見た。
「出てこい、坊主」
……ばれていた。
俺は、のろのろと陰から出た。
隊長は、何も言わずに俺を見下ろした。俺の泥だらけの手を見た。それから、つるつるの穴の壁を見た。もう一度、俺の手を見た。
前に井戸の桶を見ていたときと、同じ目だった。
「……お前か」
低い声だった。
俺は、目をそらした。足元の小石を、じっと見た。
練習した言葉が、頭の中でぐるぐる回る。名乗るほどの者じゃない。名乗るほどの者じゃ、ない。でも、口が動かなかった。この人の前では、どんな決め台詞も、ただの言い訳になる気がした。
ここで「はい」と言ったら、何かが全部変わってしまう気もした。
隊長は、しばらく黙っていた。風が、路地を通りぬけた。やがて、隊長がひげをなでた。
「腹は減ってないか」
それだけだった。
俺の腹が、返事のかわりに、ぐうと鳴った。




