第8話 落とし穴の底
岩猪が、走りだした。
地面が揺れる。ずん、ずん、ずん。岩の背中が、路地いっぱいに近づいてくる。牙の先が、きらりと光った。
俺は、動かなかった。
動いたら、猪の向きが変わるかもしれない。俺はまっすぐ、ここに立っていなきゃいけない。
あと十歩。
あと五歩。
前足が、蜂の巣の上に乗った。
ばきん、と音がした。
硬い土の皮が、まとめて割れた。下の空っぽの部屋が、一つ残らずつぶれていく。地面が、猪の重さで真下に抜けた。
岩猪の前半分が、穴の中に消えた。
奈落の顎が、獲物にかみついた。
ぶぎぃっ、と、ものすごい声が路地に響いた。
落ちた。落ちた、けど。
(浅い)
穴の深さは、猪の背の高さくらいしかなかった。前足は底についているのに、後ろ足は、まだ穴のふちに引っかかっている。猪は、その後ろ足で土を蹴って、体をよじっている。
このままだと、出てくる。
「まだだ……!」
俺は、穴のふちにしゃがんで、両手を地面についた。
穴の壁を、すべらせる。
砂つぶを、一粒ずつならす。でこぼこを消す。猪のひづめが引っかかる場所を、全部なくす。濡れた泥の表面を、ぎゅっと押し固めて、つるつるにする。
まず、後ろ足のかかっているふちを崩した。猪の後ろ半分も、ずるりと穴に落ちる。
でも、猪はあきらめなかった。今度は前足を、反対側の壁にかけてくる。そこはまだ、ならしていない。
ひづめが、壁の土をがっちりとつかんだ。
目の前が、ちかちかし始めた。
この感じは、知っている。泥玉を十二個作ったときの、あれだ。お茶わんの底が、見えてきている。
「ティオ!」
頭の上で、ピアの声がした。
次の瞬間、こぶし大の石が飛んできて、猪の鼻先にごつんと当たった。
猪が、ぶふっと鼻を鳴らして、前足をゆるめた。
「当たった!」
「ピア、もう一個だ! 鼻だ、鼻を狙え!」
「はな!」
ピアの投げた石は、猪の耳のあたりにぺちんと当たった。猪は気にもしない。
「ピア、もっと右!」
「みぎって、どっち!」
「お箸を持つほう!」
「おはしって、なに!」
(そうだ、この世界、箸がない)
屋根の上では、ネロとピアが、屋根を押さえる石を片っぱしから外して投げていた。
石が当たるたびに、猪は鼻を振って、壁から足を離す。そのたびに、俺は壁を一つならす。
一面。二面。三面。
壁をならすたびに、お茶わんの底がはっきり見えてくる。指先が、冷たくなっていく。泥の感触が、遠くなる。
最後の一面。
「あと一個! ネロ!」
「もう石がねえ!」
「じゃあ、それ!」
「これ屋根の板だぞ!」
ネロが、屋根の板をはがして投げた。板は猪の頭に当たって、ぱかんといい音を立てた。
その間に、最後の壁を、つるつるにならしきった。
岩猪は、何度も前足をかけようとした。でも、ひづめがすべる。かけるたびに、つるりと落ちる。体が重すぎて、跳び上がることもできない。
穴の底で、岩猪はぐるぐる回るしかなくなった。
俺は、立ち上がった。
ふらりと、体が揺れた。目の前が白くなったり黒くなったりしている。膝が、ぐにゃぐにゃだ。
でも、言わなきゃいけない。
ずっと、言ってみたかった言葉がある。リストの十二番。
俺は、穴のふちで胸を張った。
「……計算通りだ」
(計算は、していない)
「ティオ、白目むいてる」
「立ったまま気絶しかけてんじゃねえよ!」
屋根から飛び降りたネロが、俺の襟首をつかんで支えた。
「計算してねえだろ、絶対」
「……してた」
「目ぇ泳いでんぞ」
ネロの腕の中で、俺はぐったりと笑った。穴の底では、岩猪がまだぶふぶふと鼻を鳴らしている。
ピアが、屋根の上からおそるおそる下をのぞいた。
「ティオ、あめ、二個」
「……覚えてたか」
「おぼえてた」
そのとき、路地の入口に、大きな足音がなだれこんできた。
「下がれ! 子どもは下がれ!」
守備隊だった。森から急いで戻ってきたのか、みんな泥だらけで、息を切らしている。先頭には、熊みたいな大きな体。ブラント隊長だ。
兵たちが穴を囲んで、槍を構えた。
岩猪は、穴の底で後ろ足立ちになっていた。前足を壁にかけようとして、またすべる。そのたびに、やわらかい腹が上を向く。
「腹だ! 腹を狙え!」
何本もの槍が、上から突き出された。
しばらくして、岩猪は動かなくなった。
隊長は、槍を下ろした兵たちの後ろで、黙って穴をのぞきこんでいた。それから一度だけ、ネロに支えられている俺のほうを見た。
俺は、あわてて目を閉じた。気絶しているふりだ。
どぶ坂に、静けさが戻った。閉まっていた戸が、一つ、また一つと開いていく。大人たちが、おそるおそる路地をのぞきこんだ。
孤児の仲間たちが、屋根から降りてきて、口々に叫んだ。
「ティオがやった!」
「ティオが穴にいれたんだ! 見てた!」
大人たちは、顔を見合わせた。
それから、どっと笑った。
「六つのガキが? 岩猪を?」
「道が古くて抜けたんだろ。昔、ここは水路だったからな」
「いやあ、守備隊のお手柄だ。さすがブラント隊長だ」
拍手が起こった。守備隊の人たちは、照れくさそうに頭をかいていた。
俺は、ネロに襟首をつかまれたまま、ぼんやりとそれを見ていた。




