第7話 奈落の顎
路地の土を蹴って、走った。
岩猪も、走りだしていた。
向こうの入口から、灰色の岩のかたまりが突っこんでくる。両側の小屋の壁を肩でこすり、板をばりばりとはがしながら。
俺のほうが、ピアに近い。
でも、間に合うかどうかは、ぎりぎりだった。
「ピア、立て!」
ピアの腕をつかむ。引っぱる。立たない。毛布ごと、俺はピアを抱えて横に転がった。
路地の右側に、戸の外れた小屋があった。その戸口のくぼみに、二人で頭から突っこむ。
すぐ目の前を、岩の壁が通りすぎた。
風が、顔を叩いた。牙が、戸口の柱をかすめて、木くずが飛び散った。
岩猪はそのまま路地を駆けぬけ、反対側の入口から、どぶ坂の通りへ飛び出していった。積んであった木箱が、まとめて吹き飛ぶ音がした。
「……ティオ」
腕の中で、ピアが震えていた。
「だいじょぶか」
「……こわかった」
「うん。俺も」
正直に言った。歯が、かちかち鳴っていた。
路地の外で、岩猪が鼻を鳴らしている。通りで大きく回りこんで、また路地の入口のほうへ戻ってこようとしている。
あいつは、まっすぐしか走れない。曲がるときは、大回りするしかない。
だから、何十か数えるくらいの時間はある。
「ティオ! ピア!」
頭の上から、声がした。
ネロだった。市場から、小屋の屋根づたいに走ってきたのだろう。息が上がって、顔が真っ青だ。
「ネロ! ピアを上に!」
「お、おう!」
俺は、ピアを持ち上げた。屋根から身を乗り出したネロが、ピアの両腕をつかんで、低い屋根の上へ引っぱり上げる。
「お前も来い、ティオ!」
「だめだ」
「は?」
「あいつ、また来る。屋根の上でも、小屋ごと突っこまれたら終わりだ」
「じゃあ、どうすんだよ!」
「止める」
「お前が? どうやって!」
答えるかわりに、俺は路地の入口を見た。
岩猪は、一度目も二度目も、この路地を選んだ。たぶん、まっすぐで走りやすいからだ。次も、きっとここを通る。
なら、ここで止めるしかない。
「ネロ。ピアを頼む。何があっても、降りてくるな」
「……ティオ」
屋根の上から、ピアが毛布の端をにぎって俺を見ていた。
「だいじょぶ。ないしょの力を使うだけだ」
「ないしょの?」
「そう。だから、見ても忘れろ」
「……あめ、くれる?」
「生きて帰ったら、二個やる」
ピアが、こくんとうなずいた。
俺は、路地の真ん中に立った。
つま先で、地面を二回叩く。
とんとん。
大地に、聞く。
足の裏に、手ごたえが返ってきた。上のほうは、人が何年も踏み固めた、硬い土。その下は、ぼふぼふとやわらかい。昔の水路を埋めた、ゆるい泥と砂だ。
正面からは、無理だ。
あの岩の皮には、泥玉なんて効かない。大きな穴を掘るのも無理だ。猪が落ちるほどの土をどかすには、お茶わん百杯ぶんの魔力でも足りない。
だったら、掘らなければいい。
砂つぶを、どかすだけだ。
固い表面は、残す。その下にある砂つぶだけを、一粒ずつ、横へ、壁の下へ逃がしていく。すき間を作る。小さな部屋を、たくさん。
冬の池に張った、薄い氷を思い浮かべた。上から見れば、ちゃんとした地面に見える。でも、下が空っぽなら、重いものが乗った瞬間に割れる。
一粒ずつ動かすなら、魔力は一滴ずつで済む。
この三年、毎日やってきたことだ。
俺は、目を閉じた。
ぬるいお湯を、ほんのちょっとずつ流す。足の裏から、地面の下へ。
砂つぶが動く。
一粒。十粒。百粒。
途中で、足の裏に、かちっと硬い手ごたえがあった。土の中に、大きな石が埋まっている。動かせば、魔力をごっそり持っていかれる。
石は、そのまま残した。まわりの砂だけを、ぐるりとよける。石ごと、下へ落ちるようにしておけばいい。
頭の中に、地面の断面が見えてきた。表面の硬い土の皮。その下に、蜂の巣みたいな小さな空っぽの部屋が、びっしりと並んでいく。
路地の幅いっぱいに。猪の体が、ちょうど収まるくらいの長さで。
「ティオ、なにしてんだ……?」
屋根の上から、ネロの声がした。ネロには、ただ俺が目を閉じて突っ立っているようにしか見えないはずだ。
「大地に、聞いてる」
「こんなときにかよ!」
「こんなときだからだ」
自分で言って、ちょっとかっこいいと思った。そう思った分だけ、集中が切れかけた。あわてて、砂つぶに意識を戻す。
(今のは危なかった)
「ティオ、来るぞ!」
ネロの声で、目を開けた。
路地の入口に、岩の背中が戻ってきていた。
岩猪は、頭を下げて、こっちを見ていた。前足で、がりがりと土を掻いている。
路地の真ん中には、俺一人。
足元の地面は、見た目には何も変わっていない。でも、俺にだけは分かる。この先の地面は、もう地面の顔をしているだけだ。
汗が、あごから落ちた。魔力は、もう半分くらい使っている。
残りの半分は、あとのためにとっておく。猪が落ちてからのほうが、たぶん大変だ。そこまでは、なんとなく分かっていた。
なんとなく、だけど。
俺は、穴のこちら側に立って、まっすぐ猪をにらんだ。
ここは、言うところだ。
「名づけて――奈落の顎」
要するに、落とし穴だ。正確には、掘ってすらいない。
「バカ、何言ってんだ! 上がれ!」
屋根の上で、ネロが叫んでいる。
岩猪の後ろ足に、力がこもった。
俺は、震える膝を手で押さえた。
「来いよ、猪。お前の墓は、もう掘ってある」




