第6話 岩猪
足跡のことは、次の朝ネロに話した。
ネロは水路まで見に行ってくれた。でも、夜のうちに雨が降って、泥はすっかり平らになっていた。
「寝ぼけたんだろ」
「寝ぼけてない。俺の頭よりでかかった」
「はいはい。お前の頭がちっちゃいんだよ」
守備隊の噂話も、そのうち聞こえなくなった。
夏が終わって、秋が来た。
俺は六歳のまま、毎日砂つぶを数えていた。足跡のことは、頭のすみに押しこんだままだった。
十月の、よく晴れた朝だった。
空き地で砂つぶを並べていると、ピアが毛布を引きずってやってきた。
「ティオ、ねずみこみち、いってくる」
「なにしに」
「ひなたぼっこ。あそこ、あったかいの」
ねずみ小路は、どぶ坂から一本入った細い路地だ。両側に小屋が並んでいて、風が通らない。朝のうちは日がよく当たるから、ピアのお気に入りの場所になっている。
「毛布、引きずるなよ。また泥だらけになる」
「ティオに言われたくない」
正論だった。俺の服は、どこを見ても泥だらけだ。
ピアは毛布をずるずる引きずったまま、空き地を出ていった。
その日、守備隊は朝早くから森へ出ていた。最近、黒樹海のふちで畑が荒らされる。その犯人を狩りに行くのだと、門番のおじさんが言っていた。
詰所に残ったのは、ほんの何人か。
あとで考えると、その犯人は、もう森にはいなかった。
* * *
最初に気づいたのは、足の裏だった。
空き地で砂つぶを並べていると、地面がかすかに震えた。ずん、ずん、と重い音が、土の中を伝わってくる。
俺は、つま先で二回叩いた。
とんとん。
震えは、どぶ坂の下のほうから来ていた。だんだん、近づいてくる。
そのとき、悲鳴が上がった。
「猪だ! 魔物だぁ!」
「水路の格子が破られた! 逃げろ!」
俺は、塀によじ登った。
どぶ坂の通りを、何かが駆け上がってくる。
猪だった。でも、大きさがおかしい。荷車と同じくらいある。背中は、灰色のごつごつした岩でおおわれている。走るたびに、かちかちと石がぶつかる音がした。口の両側から、白い牙が突き出している。
岩猪。
守備隊の人たちが、酒の席で話していた魔物だ。皮が岩みたいに硬くて、剣がはじかれる。森のふちでは、大人の冒険者が何人もかかって倒すのだと。
岩猪は、まっすぐに走っていた。
露店の台を、まっすぐ跳ね飛ばす。積んであった樽を、まっすぐ粉々にする。曲がり角まで来ると、勢いのまま壁にぶつかって、むりやり向きを変えた。
(まっすぐしか、走れないのか)
頭のどこかで、それだけを覚えた。
大人たちは、戸を閉めて家に逃げこんでいた。窓の板を打ちつける音が、あちこちで響く。
「守備隊はまだか!」
「森に出てる! 詰所の連中だけじゃ無理だ!」
「いいから閉めろ! 入れるな!」
ばたん、ばたん、と戸が閉まっていく。
俺は、塀の上から通りを見回した。
孤児の仲間たちは、どこだ。
何人かは、廃屋の屋根に登っていた。年上の子が、小さい子を引っぱり上げている。よし。
「ティオ! お前も上がれ!」
屋根の上から、八つになるロロが手を振った。
「ロロ、ピアは? ピアはそっちにいるか!」
「ピア?」
ロロは、屋根の上の顔をひとつずつ数えた。それから、首を横に振った。
「いない! 朝から見てない!」
ネロは、いない。朝から市場の仕事だ。
ピアは。
ピアが、いない。
朝の会話を思い出した。
――ねずみこみち、いってくる。
俺は、塀の上で首をのばした。
ねずみ小路。人がやっとすれちがえるくらいの、まっすぐな道。両側には、ぼろの小屋がぎっしり並んでいる。
その路地の真ん中に、毛布のかたまりがあった。
ピアだった。
毛布を胸に抱えて、地面にぺたんと座りこんでいる。足がすくんで、立てないのだ。
そして、路地の向こうの入口に、岩の背中が見えた。
岩猪が、路地の前で止まっていた。
鼻を地面にこすりつけて、ふごふごと鳴らしている。前足で、土をがりがりと掻く。
狭い路地は、猪の体の幅とほとんど同じだった。
まっすぐな道。まっすぐしか走れない猪。その真ん中に、五歳の女の子。
「ピア!」
叫んだ声は、悲鳴と戸の音にかき消された。
大人が一人、俺の塀の下を走りぬけていった。
「おじさん! 路地に子どもが――」
「ガキはいい! お前も早く逃げろ!」
おじさんは振り向かずに、自分の家に飛びこんだ。
俺は、塀の上で自分の手を見た。
六歳の、小さい手。
魔力は、お茶わん一杯。泥玉なら、十二個で倒れる。あの岩の背中に泥玉をぶつけても、たぶん気づかれもしない。
頭の中の冷静な部分が、言っている。
逃げろ。お前に何ができる。守備隊を待て。大人を呼べ。ラノベの主人公だって、六歳で魔物には挑まない。
(いや、挑むやつもいたな。だいたい神様の加護つきだったけど)
俺には、加護も、剣も、大人の味方もない。
あの冬の夜を思い出した。ネロに「お前が飯を出せんのか」と言われて、何も言い返せなかった夜を。
廃屋の壁に刻んだ字が、まぶたの裏に浮かんだ。
『借り パン十二こ』
岩猪が、頭を低く下げた。後ろ足に、ぐっと力がこもるのが見えた。
走りだす。
「……どけ」
自分でも聞いたことのない、低い声が出た。
俺は塀から飛び降りて、路地に飛びこんだ。




