第58話 あふれた寮
調子に乗っていた。
あとから考えると、それが一つ目だ。
ベルントの水は止まった。ノエルの治癒は変わった。クラウスは雨を当てた。セシリアの指先には、霜の花が咲いた。
俺の修行法は、効く。
前の世界で、ノートに書いていたことが、ここでは本当になる。
うれしかった。うれしすぎた。
「ベルント。今日から、夜も修行するぞ」
「よ、夜も?」
空き教室の放課後だった。俺は黒板に、でかでかと書いた。
『寝る前に、コップ一杯を百回』
「樽から一杯すくって、出して、戻す。それを百回だ。毎晩やれば、ひと月で倍はうまくなる」
「ひゃ、百回……ぼく、無理だよぉ」
「できる。お前ならできる」
ベルントは、泣きそうな顔で、でもうなずいた。
こいつは、いつもそうだ。無理だと言って、それでもやる。
「ティオさま」
窓の外から、リルが言った。
「……それ、多くないですか」
「数は多い。でも、一回はコップ一杯だ。疲れたら、そこでやめていい」
リルは、それならいい、という顔で、耳を前に戻した。
「その百という数字に、根拠はあるのか」
いちばん後ろの席から、クラウスが言った。最近は、ほぼ毎日来ている。
「気合だ」
「……またか」
クラウスは、帳面に何か書きこんで、ため息をついた。ノエルは「ベルントくん、がんばってねえ」とにこにこしている。
二つ目は、俺が知らなかったことだ。
俺の魔力は、お茶わん一杯ぶんしかない。修行の途中で眠ってしまっても、お茶わんが空になって、それで終わりだ。三つのときから、何度もそうやって朝を迎えた。
樽を持った奴が、栓を抜いたまま眠ったらどうなるか。
そんなこと、考えたこともなかった。
* * *
五日目の夜だった。
男子寮「樫の館」の、三階。
俺は自分の部屋で、ぐっすり眠っていた。
ぴちゃ。
顔に、冷たいものが落ちた。
ぴちゃ、ぴちゃ。
目を開ける。天井から、しずくが落ちている。
いや、天井じゃない。壁だ。隣の部屋との壁のすき間から、水がにじみ出していた。
隣の部屋は、ベルントだ。
俺は、寝台から飛び起きた。足をついた床が、びしゃっと鳴った。くるぶしまで、水だった。
「ベルント!」
廊下に飛び出す。
廊下は、川だった。
ベルントの部屋の戸のすき間から、水がどうどうと流れ出している。廊下を走り、階段にたどり着いて、滝みたいに下の階へ落ちていく。
あちこちの部屋の戸が開いた。寝ぼけた顔の上級生たちが、足もとを見て悲鳴を上げる。
「なんだこれ!」
「靴が! 俺の靴が流れてく!」
俺は、ベルントの部屋の戸を開けた。
ベルントは、寝台の上で座ったまま、こっくりこっくり舟をこいでいた。
その両手の上で、水の玉が、ぶくぶくとふくらみ続けていた。
寝ている。
修行の途中で、寝てしまったんだ。栓が抜けたまま。
「ベルント、起きろ! 栓を閉めろ!」
俺が肩をゆさぶると、ベルントがはっと目を開けた。
「ふぇっ……? あ、あれ、ぼく、九十……九十何回目だっけ……」
ベルントは、足もとの水を見た。部屋を見た。開いた戸の外の、川になった廊下を見た。
水の玉が、ぱしゃんとはじけた。
水の勢いが、ようやく止まった。
俺は、廊下にあふれた水を見下ろした。
何もできなかった。
寮の三階の床は、板張りだ。土が、ひとつまみもない。壁を立てて水をせき止めることも、穴を掘って逃がすこともできない。
土魔法使いにとって、ここはいちばん役に立たない場所だった。
階段の上に、寝間着姿のベルントが立ちつくしていた。その足もとを、誰かのスリッパが流れていった。
* * *
次の朝。
寮の食堂に、寮監のじいさんが立っていた。
白いひげの、こわい顔のじいさんだ。昨日の夜から寝ていないらしく、目の下が黒い。
「昨夜の件だ」
じいさんの声は、低かった。
「一年のベルント。部屋で魔法の修行をしていて、眠りこんだ。三階の床が全部ぬれ、二階の天井が三か所しみた。上級生の靴が、十二足流れた」
食堂のあちこちから、ため息がもれた。
「聞けば、放課後に空き教室を勝手に使って、妙な修行の会を開いているそうだな。その会で、夜も修行しろと言われた、と」
じいさんの目が、食堂の中をゆっくり見回した。
「言い出したのは、誰だ」
俺は、立ち上がった。
「俺です」
椅子の音が、やけに大きく響いた。ベルントが、隣で「ティオ……」と小さく言った。
じいさんは、俺の顔をしばらく見ていた。つぎはぎの制服も、たぶん見ていた。
「……正直なのは、けっこうだ。だが、それとこれとは別だ」
じいさんは、咳ばらいを一つした。
「その会は、今日から禁止だ。空き教室も、寮の部屋での修行もだ。学園には、わしから報告しておく」
食堂が、ざわっとした。
俺の後ろの席から、ひそひそ声が聞こえた。
「0.3の変な修行のせいだってさ」
「魔力ないくせに、人に教えるからだろ」
「噴水が、洪水になっただけじゃん」
レオンが、パンをかじりながら、鼻を鳴らした。
「だから言ったろ。魔力0.3に習うことなんか、ねえんだよ」
何も、言い返せなかった。
ベルントは、俺の隣で、うつむいていた。大きな肩が、またちぢんでいる。水びたしの日の、階段の裏と同じ形だった。
朝の食堂を出るとき、廊下の窓の外に、リルがいた。
何も言わなかった。ただ、俺のそばに来て、手の甲を、俺の手の甲に、こつんと当てた。
三つ目は、俺がいちばん知っていたことだ。やめていい、とは言った。でも、ベルントは、言われた数を最後までやる奴だ。
廊下のすみで、ベルントが、ぐしゃぐしゃの顔を上げた。
「ティオ、ぼくのせいで、ごめんよぉ。ぼくが、寝ちゃったから……」
俺は、首を横に振った。
「……いや、俺のせいだ」




