第56話 雨は午後から
体術の授業は、外の演習場でやる。
その日は、雲ひとつない青空だった。六月にしては、からっとしている。
「はい、二人一組で受け身ー。百回ねー」
体術の教官が、のんびり手を叩いた。百回は、のんびり言う数じゃない。
俺の相手は、クラウスだった。
子爵家の跡取りで、眼鏡をかけている。理論の試験は、いつも学年一。風の魔法を使うが、本人いわく「弱い」。体術は、俺と同じくらい苦手だ。
「……論理的に言って、受け身を百回とる意味はない。十回で体は覚える」
「じゃあ、残りの九十回は何だ」
「教官の気分だ」
二人で、草の上にべしゃりと転がった。
空が青い。
まぶしい。
俺は、寝転んだまま、鼻をひくっとさせた。
なんとなく、においがちがう。空気が、どこか重たい。いや、逆だ。軽い。耳の奥が、ふわっとする。
「……雨、来るな」
「は?」
クラウスが、眼鏡を押し上げた。
「この空のどこに雨がある。根拠は何だ」
「空気が軽い」
「……空気に、重い軽いがあると?」
「ある」
俺は、起き上がって、草の上にあぐらをかいた。
「空気にも、重さがある。俺たちの頭の上には、見えない毛布が何枚も積み重なって乗ってるようなもんだ。その毛布が軽くなると、雲ができやすくなる。で、雨が来る」
前の世界の、天気予報で聞いた話だ。低いとか高いとか、毎朝言っていた。くわしい仕組みは、正直うろ覚えだ。
クラウスは、しばらく黙っていた。
それから、眼鏡を外して、目を閉じた。
右手を、空に向けてかざす。
風の魔法を使う奴は、空気の流れを手で感じるという。クラウスの指が、ほんのかすかに動いた。何かを数えているように見えた。
「……軽い」
ぽつりと言った。
「確かに、朝より軽い。今まで、気にしたこともなかった」
クラウスは、眼鏡をかけ直した。
レンズの奥の目が、いつもとちがっていた。授業中に、難しい問題を解いているときの目だ。
「……午後から、雨だ」
* * *
昼休み。
中庭のベンチに、学友が何人か集まっていた。
その中に、一人だけ、傘をさしている奴がいた。
クラウスだった。
雲ひとつない空の下で、黒い傘を、まっすぐ立てている。
「ぶはっ! おいクラウス、何やってんだ!」
レオンが、パンを持ったまま指をさした。
「日傘か? お前、日焼けを気にするたちだったか?」
「雨傘だ」
「晴れてるぞ!」
「午後から降る」
レオンが、腹をかかえて笑った。ほかの学友も、くすくす笑う。
クラウスは、顔色ひとつ変えなかった。傘の下で、静かにパンをかじっている。
俺は、その横でパンをかじった。
「……ティオ。お前が言い出したことだぞ」
「分かってる」
「外れたら、お前のせいにする」
「論理的だな」
「論理的だ」
そこへ、ミレイユがやってきた。
辺境の男爵家の娘で、植物の魔法を使う。いつもふわふわしていて、手には小さな植木鉢をかかえている。
「ティオさん、見て見て。新しい子なの。この子も、根っこがかわいそうなの」
鉢の中の芽が、しおれていた。
「土が、すぐまた固くなるの。ほぐしても、ほぐしても。根っこが下に行けないのよ。ティオさん、どうして?」
俺は、鉢の土に指を入れた。
固い。ぎゅうぎゅうに詰まっている。
「これ、水をやるたびに押し固めてるだろ。根っこは、息をする。すき間がいる。上から指で、ふかふかにしてやれ」
「根っこが、息を……!」
ミレイユの目が、ぱっと輝いた。それから、植物の話を早口で三つくらいしゃべった。三つめあたりから、俺はついていけなくなった。
その次は、ドミニクだった。
「おう、ティオ! 骨の話、ノエルから聞いたぞ! で、骨を太くするには、何を食えばいい!」
「……小魚とか」
「小魚か! がはは、腹いっぱい食う!」
気がつくと、俺のまわりに、人が輪になっていた。
ノエルがいる。ベルントがいる。セシリアは、少し離れたベンチで、本を読むふりをしている。窓ぎわのすみが定位置のイリスまで、輪の外側に立っていた。
第三王女のオリヴィアが、ひょいと首を出した。
「ねえ、なになに? それ、どうなってるの? わたしも聞きたい!」
(俺の秘密の修行会が、中庭の名物になりかけている)
* * *
午後の授業は、魔物学だった。
教室の窓から、外の空が見える。
まだ、青かった。
レオンが、わざわざ振り返って、クラウスににやにやした顔を見せる。クラウスは、窓の外をじっと見ていた。
二つ目の鐘が鳴るころだった。
窓の外が、すっと暗くなった。
西の空から、灰色の雲が、ものすごい速さで流れてくる。
ぽつ。
窓ガラスに、しずくが一つ当たった。
ぽつ、ぽつ。
ざあああ――。
あっという間に、どしゃぶりになった。
教室が、しんとした。
レオンが、口をぱくぱくさせている。
「う、うそだろ……。クラウス、お前、何者だ」
「子爵家の跡取りだ」
クラウスは、窓の外から目を離さずに答えた。
魔物学の先生まで、黒板の前でチョークを止めていた。
「……当たったな」
俺が小声で言うと、クラウスは、ほんのかすかにうなずいた。
放課後、ほかの学友が雨の中を走って寮へ帰っていくなか、クラウスだけが、黒い傘を広げた。
ゆうゆうと、一歩、雨の中に出る。
それから、振り返って、俺を見た。
眼鏡が、ちょっとだけ曇っていた。
「……論理的に言って、偶然ではない」




