第54話 千人の獣人
修行会は、日に日に人が増えていた。
ベルント。ノエル。ドミニク。
三人とも、放課後になると、勝手に空き教室へやってくる。ベルントはおやつを持って、ノエルはお茶を持って、ドミニクは手ぶらで。
その日の放課後、四人目が来た。
戸が開いた瞬間、教室の空気が、すっと冷えた。
「――ここね」
セシリアだった。
長い髪を、きっちり結い上げている。侯爵家のお嬢さまで、学年首席。入学してから、俺に話しかけてくるのは、問いつめるときだけだ。
「せ、セシリアさん……?」
ベルントが、水の玉をぽちゃんと落とした。
「平民が、許しもなく空き教室を使って、怪しい会を開いていると聞いたわ。監視に来たの」
「監視」
「そうよ。何か問題でも?」
問題しかない。
窓の外で、低いうなり声がした。
リルだ。植えこみの中から、窓わくに両手をかけている。耳は後ろにぺたんと倒れて、尻尾の毛が逆立っていた。
「……ティオさま。あの人、つめたいにおい」
「リル、うなるな」
「うなってません」
うなっている。
セシリアは、リルを一度だけ見た。それから、何も言わずに、いちばん前の椅子に腰を下ろした。
背筋が、定規みたいにまっすぐだった。
* * *
監視というのは、本当に見ているだけだった。
俺がベルントに水の回し方を教える。セシリアは見ている。ノエルが光をめぐらせる練習をする。セシリアは見ている。ドミニクが腹筋をしながら居眠りをする。セシリアは、ちょっとだけ眉をひそめる。
居心地が悪い。
しばらくして、セシリアが口を開いた。
「あなた。ノワールという名前を、知っているかしら」
俺の手の上の砂つぶが、ぴくりと揺れた。
落とさなかった。落とさなかったぞ。
「……知らない」
「最近、王都のギルドで噂になっている冒険者よ。仮面をつけていて、ほとんどしゃべらない。小柄。黙り岩、とか呼ばれているそうね。札の名前はノワ。でも連れの獣人は、受付で『ノワール』だと言い張ったそうよ」
(黙り岩は、やめてほしい)
「へえ」
「それから」
セシリアは、まっすぐ俺を見た。
「ノワールは、獣人を連れている。あなたも、獣人の従者を連れている。……偶然かしら」
教室が、しんとした。
ベルントが、俺とセシリアの顔を、交互に見ている。ドミニクは、居眠りから目を覚ました。
窓の外で、リルのうなり声が止まった。
俺は、砂つぶを床に戻した。ゆっくり。手が震えないように。
「セシリア。王都に、獣人の奴隷が何人いると思う」
「……何人、ですって?」
「千人はいる。市場に行けば、荷物を運んでる獣人が山ほどいる。小柄な奴も、山ほどいる。仮面は、まあ、知らないけど」
セシリアの唇が、きゅっと結ばれた。
「そういえば、ティオ、闇の日はいつも部屋にいないよねぇ」
ベルントだった。
悪気は、一つもない顔だった。
(ベルント。今それを言うな)
「……朝から、市場の外れで土を拾ってる」
「土を?」
「いい土は、朝に落ちてる」
(落ちてない)
セシリアの前の机に、ぱき、と白いものが走った。
霜だった。
机の表面に、白い霜が、葉っぱの筋みたいに広がっていく。セシリアが怒ると、まわりが冷える。入学式の日から、もう三回は見た。
「説明なさい。何のために土を拾うの」
「修行だ」
「……もう、けっこうよ」
霜は、机のふちまで広がって止まった。
「決めたわ。わたくしも、ここに通います」
「は?」
「監視のためよ。あなたが何者なのか、わたくしが確かめるまで。……別に、あなたの修行に興味があるわけではないわ」
「がはは! にぎやかになるな!」
ドミニクが、のんきに笑った。ノエルは「わあ、うれしいねえ」と手を叩いた。ベルントは、おやつの袋をそっとセシリアのほうへ押し出した。
誰も、反対しない。
(俺の秘密の修行場が、どんどん秘密じゃなくなっていく)
窓の外で、うなり声が、さっきより大きくなった。
* * *
その日の終わりごろ、ベルントの水がまた暴れた。
コップ一杯のつもりが、バケツ一杯になる。机の上に、水たまりができる。
俺は、ため息をついた。
「ベルント。水って、何でできてると思う」
「え……水は、水じゃないの?」
「目に見えないくらいの、ちっちゃい粒が集まってできてる。その粒が、元気に暴れ回ってると湯気になる。ゆっくり動いてると水。動くのをやめて、じっとしたら、氷だ」
前の世界の、理科の授業で習ったことだ。たぶん、この世界でも同じだと思う。
「だから、お前の水は粒が暴れすぎなんだ。もっと、ゆっくり動けって言ってやれ」
ベルントは、目を丸くして、水たまりを見下ろした。
「……そんな話、教本には載っていないわ」
セシリアだった。前を向いたまま、こっちを見もせずに言った。
「載ってなくても、そうなんだよ」
「……別に」
それきり、セシリアは何も言わなかった。
* * *
夕方、みんなが帰ったあと。
黒板の前にチョークを置き忘れたのに気づいて、俺は空き教室へ引き返した。
戸の手前で、足が止まった。
廊下の窓ぎわに、セシリアが一人で立っていた。
夕日の中で、右手の人差し指を立てている。目を閉じて、唇を小さく動かしていた。
――止まれ。
そう言ったように見えた。
指先に、白いものが咲いた。
霜の花だった。
六つの花びらが、くっきりと開いている。いつもの、怒ったときに机を走る霜とはちがう。小さくて、きれいで、形がそろっていた。
セシリアは、目を開けた。
自分の指先を見て、しばらく動かなかった。




