第52話 コップ一杯の修行
空き教室は、東の教室棟のいちばん奥にあった。
一階の角部屋。机と椅子が、壁ぎわに積み上げてある。黒板には、何年も前の落書きが残っていた。窓の外は、手入れされていない植えこみだ。
人が来ない。外から見えにくい。
つまり、修行には最高の場所だ。
「ティオ、ここ、勝手に使っていいの?」
入口では、ベルントがおやつの袋を胸にかかえて、もじもじしていた。
「鍵がかかってなかった。つまり、使っていいってことだ」
「それ、だめなやつだと思うよぉ……」
リルは、窓の外の植えこみに陣取った。見張りだ。窓わくに肘をのせて、耳だけを教室に向けている。
「ティオさま。だれか来たら、言います」
俺は、黒板の前に立った。
ほこりっぽいチョークを拾う。大きく、字を書く。
「今日からここでやるのは――」
チョークを、かつんと置いた。
「――深淵の修行法だ」
要するに、放課後の居残り練習だ。
「か、かっこいい……!」
ベルントの丸い目が、きらきらした。
「その名前、売れそう! 本にしたら、絶対売れるよぉ」
「売らない」
「かっこいい」
窓の外から、リルが言った。リルだけは、いつも本気だ。
名前は大事だ。中身は、これからだ。
* * *
「まず、目を閉じろ」
ベルントは、素直に目を閉じた。
「腹の下に、あったかいものがあるだろ」
「ある。いっぱいある。ごうごういってるよぉ」
(ごうごう。俺のは、ちょろちょろだ)
「それを、ゆっくり体の中で回す。腹から胸。胸から右腕。指先まで行ったら、戻ってくる。左腕も同じ。出さなくていい。回すだけだ」
俺が三つのときから、毎晩やってきたことだ。授業でも「魔力のめぐらせ方」は習う。でも、学園のやり方は速すぎる。ベルントみたいな奴には、なおさらだ。
ベルントの眉間に、しわが寄った。
「むずかしいよぉ。勝手に、手のほうへ行こうとするんだ」
「行かせるな。ゆっくりだ。急がなくていい」
しばらく、教室は静かだった。
窓の外で、リルの尻尾が、ぱた、ぱたと植えこみを叩く音だけがする。
やがて、丸い肩から、ふっと力が抜けた。
「回った。一周、回ったよぉ」
「よし。じゃあ、次だ」
俺は、水差しを机に置いた。
「ベルント。お前の魔力は、樽いっぱいの水だ」
「たる」
「そうだ。でっかい樽。それで、お前はいつも、栓をまるごと抜いてる。だから全部、どばっと出る」
ベルントは、ぽかんとした顔になった。
「コップ一杯ずつ汲め。樽は、そのままでいい。コップに一杯ぶんだけすくって、それだけを外に出すんだ」
「……コップ、一杯」
「そうだ。ほら、見てろ」
俺は床に、つま先を二回、とんとんと落とした。
足もとの床板のすき間から、砂つぶが一つだけ浮いてきた。俺の指先の上で、ぴたりと止まる。
一つだけだ。となりの砂つぶは、動かない。
「これが、俺のコップ一杯だ。お前のコップは、もうちょっと大きくていい」
ごくり、とのどの鳴る音がした。ベルントが、砂つぶをじっと見ていた。
水差しを、両手でつかむ。
「……コップ、一杯」
水差しの口が、ぼこっと鳴った。
水が、どっとふくらんだ。
「わあっ、だめだ、樽ごと来たよぉ!」
ばしゃっ。
俺はまた、頭から水をかぶった。
窓の外で、リルがふき出しかけて、耳を押さえた。
(今日二回目だぞ)
「よし、もう一回だ」
「ご、ごめんよぉ……」
「謝らなくていい。もう一回」
「でも、ティオ、ぬれてばっかりだよぉ」
「ぬれるのは慣れてる。俺は泥の中で育ったんだ」
ベルントは、困った顔のまま笑った。
「ぼくね、家でも、ずっとこうだったんだよぉ。父さんは、うちの魔力は商売の宝だって言うんだ。でも、ぼくが使うと、倉庫の小麦が全部ぬれちゃって……」
「で、どうなった」
「……ぼくだけ、倉庫に入っちゃだめになった」
ベルントは、水差しのふちを指でなぞった。
(宝の持ちぐされ、ってやつか。持ってる本人がいちばん困ってる)
「じゃあ、倉庫に入れるようになるまでやるぞ」
「……うん」
二回目も、三回目も、だめだった。四回目は、水差しが割れた。五回目で、床に大きな水たまりができた。
六回目。
今度は、目を閉じていた。
唇が、小さく動いている。コップ一杯、コップ一杯。何度も、そうつぶやいていた。
水差しの口から、水がひとすじ、のぼってきた。
細い。糸みたいに細い。
それが、ベルントの指先の上で、丸くなった。
ぶどうのつぶくらいの、小さな水の玉だった。
浮いている。
揺れている。
でも、落ちない。はじけない。ふくらまない。
太い指先の上で、ぴたりと止まっていた。
「……ティオ」
目を開けたベルントは、まばたきもしなかった。
「止まってる。ぼくの水、止まってるよぉ」
「ああ。止まってる」
一、二、三。
俺は、声に出さずに数えた。
十まで数えたところで、水の玉は、ぽちゃんと水たまりに落ちた。
ベルントの目から、ぼろぼろと涙がこぼれた。
さっきの階段の裏の涙とは、たぶん、ちがう味だ。
「ティオぉ……」
鼻をすすりながら、ベルントはおやつの袋に手を突っこんだ。
中から出てきたのは、紙に包んだ焼き菓子だった。はちみつのにおいがする。包み紙に、どこかの店の金色の印が押してあった。
「これ、ぼくの、いちばん高いやつなんだよぉ。とっておきなんだよぉ」
泣きながら、それを両手で俺の前に差し出した。




