第51話 水びたしの十二の間
六月の十二の間は、窓を開けても蒸し暑かった。
丸い大机のまわりに、俺を入れて十人。空いた席が二つ。俺の席は、いつもの扉の横だ。
「はーい、今日は水の玉ねー。手のひらの上に浮かべて、十数えるまで保つこと。できた人から休憩ー」
マギー先生は、教卓にほおづえをついたまま言った。名前が長いので、春のうちに、みんなそう呼ぶようになった。やる気は、たぶん机の下に落ちている。
一人に一つずつ、水差しが配られた。水の属性でなくても、魔力をめぐらせる練習にはなるそうだ。
最初に手を上げたのは、セシリアだった。
白い指の上に、水の玉がすっと浮かぶ。まん丸だ。ふちまで静かで、震えもしない。
「十。……次は何をすればよろしいのかしら」
「はい、首席は休憩ー」
セシリアはつまらなそうに席を立った。教室に、小さなため息が広がる。
レオンの番は、早かった。
「よっしゃ、燃えてきた!」
手のひらの水が、しゅわっと音を立てて消えた。湯気だけが、もくもく上がる。
「……おい、なんで消えるんだ」
「火の子が燃えてどうすんのー。はい、やり直しー」
俺も、やってみた。
水差しを傾けて、手のひらに水をためる。へその下のぬるいお湯を、ちょっとだけ流す。
水は、ただの水だった。
指のすき間から、ぽたぽた落ちていく。土しか動かない俺の魔力に、水は一つも興味がないらしい。
「おい、0.3。お前、手を洗ってるのか?」
レオンが笑った。何人かが、くすくす笑う。
(洗ってない。……いや、結果だけ見たら洗ってるな)
問題は、俺の隣だった。
「ぼ、ぼく、やるね……」
ベルントが、両手で水差しをかかえていた。
丸い顔に、汗がびっしり浮いている。商家の息子で、おやつの趣味が合う。魔力の量は、学年一。
そして、制御は学年でいちばん下だ。
「ベルント、ちょっとずつな。ちょっとず――」
俺が言い終わる前に、水差しの口が光った。
どん、と音がした。
水の柱が立った。
大机の真ん中から、天井まで。水差し一つぶんどころの量じゃない。ベルントの魔力が、空気の中から水を引っぱり出している。
「わ、わ、止まって、止まってよぉ!」
止まらない。
柱がぐらりと傾いた。
倒れる先は――俺の席だ。
ざばあっ。
頭の上から、桶を何杯もひっくり返されたみたいだった。息ができない。耳の中まで、水が入ってくる。
気がつくと、俺は椅子ごと床にひっくり返っていた。
十二の間の床が、浅い池になっている。教本が、ぷかぷか浮いていた。
しんとしたのは、一瞬だけだった。
「ぶはっ! 0.3、びしょぬれじゃねえか!」
「また9.6の噴水だ」
「教本、乾くかしら……」
笑い声が、丸い部屋にうずを巻いた。
俺はまだ床に寝たまま、天井を見ていた。しずくが、ぽたりと鼻に落ちる。
「はーい、休憩ー。全員、外ー。床が乾くまで、戻ってこなくていいわよー」
先生は、いつの間にか教卓の上にあぐらをかいていた。先生のまわりだけ、床が乾いている。どうやったのかは、聞かないでおいた。
* * *
廊下に出ると、リルが走ってきた。
従者は、授業中は廊下の控えの長いすで待つ決まりだ。リルの手には、もう手ぬぐいがあった。
「ティオさま。ぬれてます」
「見れば分かる」
「……におい、水くさい」
リルは、上から俺の頭をごしごしふいた。人前なので「ティオさま」だが、手つきは犬を洗うときのそれだ。
「ベルントは?」
リルは、鼻をひくっと動かした。
「あっち。……しょっぱいにおい」
階段の裏の、柱の陰だった。
ベルントが、膝をかかえて座っていた。大きな背中が、小さく震えている。
「……ベルント」
「ティオ、ごめんよぉ」
顔を上げたベルントは、ぐしゃぐしゃに泣いていた。
「やっぱり、だめなんだよぉ。前に話したでしょ。台所の柱の印、また増えちゃう……」
鼻をすする音がした。
「みんな、ぼくのこと、噴水って呼ぶんだよぉ」
俺は、黙ってその隣に座った。
ぬれた服が、背中にはりついて冷たい。
変な気分だった。
前に部屋で聞いた話が、今度は目の前で起きた。樽どころか、池をまるごと腹の中に持っている奴だ。
学年でいちばん少ない奴と、いちばん多い奴が、階段の裏で並んで座っている。
(なんだこれ。笑えない冗談みたいだな)
でも、俺には分かることが一つあった。
ベルントの水は、さっき、ちゃんと出ていた。出すことはできる。止められないだけだ。
足りない燃料を、どうにかうまく使う。俺がずっとやってきたのは、そういうことだった。
あふれる燃料を、どうにかうまく止める。それは、たぶん、同じ道の逆向きだ。
「ベルント」
「……なに」
「お前の魔力、悪くない。量だけなら、俺の三十倍以上ある」
「それ、なぐさめになってないよぉ……」
「なぐさめてない。うらやましいって言ってる」
ベルントが、ぽかんと口を開けた。
俺は立ち上がって、ぬれた前髪をかき上げた。
影の強者は、名乗らない。目立たない。学園では、魔力0.3の変人でいる。
でも、泣いている奴を放っておくのは、作法のどこにも書いていない。
「放課後、空き教室に来い」




